「セリア、シャワー交代してもいい?」
「ええ。……莉央さん、足元」
後ろへ下がりかけた足を止めた。
かかとのすぐそばに、セリアの太い尻尾が伸びている。
「ごめん。踏むところだった」
「こちらこそ。少し寄せますね」
セリアが尻尾を引いてくれたので、シャワーを受け取った。
セリアの翼は私のものよりずっと大きい。ぶつからないよう、少し離れて立つ。
片方の翼を少し開き、折り目までお湯を流す。
指先で膜を洗い、翼を畳んでから反対側も同じように済ませた。
シャワーを止めると、水滴が翼の縁からぽたぽたと落ちる。
濡れた膜に使う乳液を手に取り、自分で届くところへなじませた。ひんやりした感触が、翼の付け根まで伝わってくる。
「乳液、冷たかったですか?」
セリアの声がした。
「え、分かった?」
「ふふ。翼が少し震えていましたから」
「あー、冷たいのって、なかなか慣れないんだもん」
私は一歩脇へ寄り、セリアにシャワーを渡した。
セリアは翼を畳んだまま、腕を洗い終えると、脚にもスポンジを滑らせる。
鱗と肌の境目では、スポンジの当て方を変えていた。濡れた銀色の鱗が、浴室の明かりを受けてつやめいている。
「セリアって、何やるにも丁寧だよね」
「そうでもありませんよ。急ぐと二度手間になることが多いだけです」
「……私に言ってる?」
「手早いのは長所だと思いますよ」
セリアは揺れる尾に合わせてスポンジを滑らせた。鱗から水滴が床に落ちる。
私は足元を確かめてから、少し位置をずらした。
セリアが洗い終わるのを待ち、私たちは体の水気を拭いた。
翼をぶつけないように気をつけながら、浴室を出る。
部屋着に着替えて戻ると、セリアはクッションに座り、オイルの容器を手元に置いていた。
自分で届くところは済ませたらしい。
「ごめん、待った?」
「いいえ。ちょうどお願いしようと思っていたところです」
「じゃあ、後ろに回るね」
セリアの背後に腰を下ろした。
「右の翼、少し上げられる?」
「このくらいですか?」
「うん。そこで止めて」
指先にオイルを取り、翼の付け根に近い膜へ伸ばした。
自分の翼を手入れするときは、つい急いでしまう。
でもセリアの大きな翼を預かると、自然と手つきが慎重になる。
指先が膜と肌の境目に触れた瞬間、セリアの翼がぴくりと跳ねた。
「大丈夫?」
「……大丈夫です。少しくすぐったかっただけです」
「ごめん、気をつけるね」
私は指の位置を少し変えて、残りの膜にもオイルを伸ばした。
「莉央さん」
「ん?」
「先ほどのこと、あまり人のことは言えませんね」
「でしょ? セリアの翼だって動いたし」
「……お互い様ですね」
セリアの尻尾が横へ揺れ、鱗が小さくじゃらりと鳴った。
「笑ってるでしょ」
「後ろにいるのに、よく分かりますね」
「音で分かるの」
「それは隠せませんね」
少し得意になりながら、私は翼膜の手入れを終えた。
次にセリアが手に取ったのは、鱗の隙間に使うワックスだ。
自分で塗れるところはセリアが済ませ、背中の届きにくい部分だけ私が手伝う。
手入れを終えて指先をタオルで拭き取ると、セリアがオイルの小瓶を傾けた。
「そろそろ買い足しておきたいですね」
「あ、私も。お風呂で使ってるやつ、だいぶ減ってた」
「では、明日買いに行きましょうか」
「いいね。行く店は朝決めよ」
机の上には、書きかけの学校のプリントが一枚残っていた。
続きをやろうと思ったけれど、もう眠い。
「それも明日に?」
セリアが机から私へ視線を移した。
(……やっぱり見てたか)
私は返事をせず、そのままベッドに潜り込んだ。
やがて明かりが消え、向かいのベッドから衣擦れの音が聞こえてくる。
セリアが大きな翼の位置を整えているのだろう。
「おやすみ、セリア」
「おやすみなさい、莉央さん」
買い物の話も、プリントも。とりあえず明日だ。
翌朝、身支度を終えてセリアの机に近づくと、彼女はスマートフォンで店を調べていた。
「今日、どこに行く?」
「ちょうどよさそうなお店を見つけました」
「見せて」
セリアがスマートフォンをこちらに向けた。
画面には服飾店と、その近くにあるケア用品店が表示されている。
「いいね。……ね、服も見ていい?」
「そのつもりでした」
「えっ、セリアも?」
「前から気になっていた色の服があるんです。実物を見てみたくて」
「何色?」
「少しくすんだ青緑です」
「へえ、セリアにすごく似合いそう!」
「似合うかどうかは、実際に合わせてみないと分かりませんよ」
「じゃあ、まず服を見て、そのあとケア用品ね」
「服に夢中になって、ケア用品を忘れないでくださいね」
「忘れないってば」
セリアがスマートフォンをしまうのを待ち、私は部屋の扉を開けた。
服飾店の入り口で、私は足を止めた。
翼のついたマネキンが二体並んでいる。
一体は翼を開いた姿、もう一体は畳んだ姿だ。
それぞれの台座がゆっくり回り、服の背中から翼がどう出ているのか、よく分かる。
「へえ。あれ、分かりやすいね」
「ええ。でも、私の翼だとどうでしょうね」
「セリアの翼、大きいもんね」
後ろから別の客が来たので、私たちは売り場の中へ進んだ。
鏡の前で袖丈を確かめていた獣人の女性は、別の服を手に取って鏡に当て直している。
私はその横を通り、ラックに並ぶ色とりどりの服へ目を向けた。
「……あ、これ好き」
淡いラベンダーのカーディガンだった。
手に取ると、柔らかな生地がすとんと垂れた。軽くて、肌触りもいい。
鏡の前で体に当ててみると、思ったより落ち着いた色だった。
「セリア、どう?」
「似合うと思います。少し雰囲気が変わりますね」
「そうなの。それがいいんだよね」
嬉しくてもう一度鏡を見た。
けれど、カーディガンを持ち直して背中側を確かめると、手が止まる。
翼を通す開口部はある。
でも、翼の付け根の位置より少し高い気がした。
縁を指で確かめていると、値札に添えられた小さな案内が目に入った。
翼の位置に合わせて、開口部を調整してくれるサービスがあるようだ。
「ここ、直してもらえるんだ。色も気に入ったし、あとで相談してみようかな」
カーディガンを腕に掛けて歩き出そうとすると、セリアがラックから一着取り出した。
「そのカーディガンに、こちらはどうでしょう」
私の腕に掛けたカーディガンの横へ、落ち着いたチャコールのワイドパンツを並べて見せてくれた。
「あ、いいじゃん! その色なら合いそう」
「すっきり見えると思って」
鏡の前で並べてみると、ラベンダーの柔らかさが引き立つ。
私はパンツの後ろ側に目をやった。
「尻尾のところも、ちゃんと見なきゃ」
「試着しますか?」
「うん。これ、履いて決めたい」
試着室で、パンツの後ろにある開きから尻尾を通した。
腰の位置を整えてから軽く体をひねってみても、布が引っ張られる感じはない。
鏡に映った自分を見ながら裾を軽く揺らし、それから尻尾の先もくるりと動かしてみた。
(……うん。好きだ、これ)
試着室のカーテンを開けると、セリアが待っていた。
「どうですか?」
「買うよ。セリアが見つけたの、当たりだった」
「それなら安心しました」
ふと見ると、セリアの腕にはすでに二着の服が掛けられている。
「……さては、自分の服も見つけた?」
「ええ。こちらです」
セリアが広げて見せたのは、くすんだ青緑のニットだった。
「いい色。セリアが休日に選ぶ服って、寮の部屋着とも学校の制服とも違うから、見てると面白い」
「莉央さんは、もう少し明るい色を想像していました?」
「どうだろ。でもこれ、好きだな」
セリアは布地の質感を確かめ、背中の開きを見つめた。
大きな翼を畳んだときの布の余り方が気になるのか、手を添えたまま真剣に考え込んでいる。
「気になるところ、ある?」
「少し。着てみないと分からないですね」
その返事が、なんだかセリアらしかった。
私は彼女の腕に残るもう一着へ視線を向けた。
「そっちは?」
セリアは濃紺のロングスカートを広げた。
「うん。合いそう」
私たちはニットとスカートを並べてみた。
青緑と濃紺は、落ち着いた綺麗な組み合わせだ。
セリアはスカートを裏返し、太い尻尾を通すスリットの開き具合を確かめた。
こちらも実際に履いて動かしてみなければ、付け根の収まりは分からない。
「いいと思う。セリアが着たいなら、なおさら」
「ええ。試してみます」
セリアが試着している間、私はラベンダーのカーディガンをもう一度眺めた。
隣の鏡では、私と同じサキュバスの女性が、二枚のトップスを交互に体へ当てている。
やがて試着室からセリアが出てきた。
青緑のニットは、手に持っていたときより少し柔らかな印象だった。
濃紺のスカートも、長さがちょうどいい。
セリアは翼を大きく広げずに肩と背中を動かし、布の当たり方を確かめた。
それから尻尾を軽く左右に動かしてみる。
「どう?」
「好きな色ですし、着心地も悪くありません。もう少しだけ確かめますね」
セリアは裾を整え、鏡の前で体を横に向けた。
私は少し離れて、その様子を眺める。
「うん、似合ってる」
「ありがとうございます。……私も、これがいいです」
セリアは鏡の中の自分をもう一度見て、小さく頷いた。
着替えて戻ってきたセリアの腕には、ニットとスカートが掛かっている。
最後に残ったのは、私のカーディガンだ。
「すみません。これ、翼穴を合わせてもらうことってできますか?」
店員に声をかけると、服の開口部と私の翼の位置を測りながら丁寧に説明してくれた。
いつもどおり翼を畳んで見せ、開口部が翼の付け根より少し高いことを伝える。
相談の結果、カーディガンは補正をお願いして、店に預けることにした。
「今日、持って帰れないのはちょっと残念だな」
店を出てから私がこぼすと、セリアは小さく頷いた。
「気に入っていましたものね」
「うん。でも、着るたびに擦れるよりはずっといいか」
「そう思います」
「出来上がったら、また一緒に見に来てくれる?」
「もちろん」
それだけ聞けたら十分だ。
私の紙袋にはチャコールのパンツ。
セリアの袋には青緑のニットと濃紺のスカートが入っている。
カーディガンはまだ店にあるけれど、袖を通せる日が今から待ち遠しかった。
その足で、予定どおりケア用品の専門店へ向かった。
私が浴室で使う翼膜用の乳液と、翼の縁に塗るバーム。
セリアは翼膜用のオイルと、鱗の隙間に使うワックス。
必要なものをそれぞれ棚から手に取り、かごへ入れていく。
会計を済ませると、手元の荷物がずっしりと重くなっていた。
「持ちましょうか?」
セリアが私の袋へ手を伸ばしてくれたけれど、私は笑って首を横に振った。
「ううん、大丈夫。まだ持てるよ」
「そうですか」
私は袋を持ち直し、セリアの隣に並んだ。
「今日は結構、歩いたね」
「ええ。でも、いいものが見つかりました」
「でしょ!」
そんなことを話しながら、私たちは寮へ向かった。
部屋に戻ると、私は買い物袋を床に置き、まずケア用品を棚へしまった。
昨夜は残りが気になっていた容器の隣に、新しいものが並ぶ。
セリアも自分の分を確かめ、元の場所へ並べていった。
「これで、しばらく安心だね」
「ええ」
セリアは青緑のニットを広げ、丁寧に畳み直してからクローゼットへしまった。
濃紺のスカートはハンガーに掛けた。
私はチャコールのパンツを取り出した。
店でも気に入っていたけれど、部屋で見ると、もうずっと前から持っていたようにしっくりくる。
「何度見ても気に入っていますね」
「うん。明日も着たいくらい」
「明日は学校ですよ」
「分かってるって」
パンツをしまい、机に向かう。
明日の時間割を確かめてから、教科書を鞄へ入れた。
セリアは自分の机で手帳を開き、ときどきページをめくってはペンを走らせている。
――そういえば、昨夜のプリント。
机の端へ視線をやると、案の定、置き去りにされた一枚がまだそこにあった。
「……あった」
「何がですか?」
「昨日のやつ。まだ終わってなかったプリント」
セリアがペンを止め、こちらを振り返る。
「覚えていたんですね」
「今、思い出したんだけどね」
「間に合ってよかったです」
その言い方が妙に優しくて、かえって悔しい。
私はプリントを広げ、残っていた作業を終わらせた。
「よし。これで終わり」
「お疲れさまです」
私はプリントを教科書に挟み、鞄へしまった。
セリアも手帳を閉じた。その尻尾が小さく揺れ、鱗がじゃらりと鳴る。
「ね、今笑った?」
「さあ、どうでしょう」
「絶対笑ったでしょ」
返事の代わりに、尻尾の先が床をぽんと鳴らした。