朝の教室では、窓から差す光が机の脚のあいだに細い線を引いていた。
セリアは背中の膜翼が椅子に触れないよう、机のあいだを抜けて自分の席へ向かった。
その途中で、窓際から莉央の声が聞こえてくる。
「これ、本当に学校の近くなの?」
桐谷莉央は、高瀬悠真のスマートフォンを覗き込んでいる。
黒い長髪が肩の前へ流れ、背後では尻尾の先がゆらりと揺れていた。
「坂の下の階段だよ。昨日の夕方に撮ったんだ」
「えっ、私、毎日通るのに」
「いつも足元ばかり見てるからじゃない?」
「階段でよそ見してたら危ないでしょ。高瀬くんこそ、写真に夢中で転びそう」
「撮るときは立ち止まるよ」
「そこは抜かりないんだ」
莉央はいたずらっぽく笑い、高瀬も小さく笑い返した。
セリアは歩みを緩めた。
莉央が誰かに軽口を返すのは見慣れている。けれど高瀬が、それをあんなふうにさらりと受け止めて言い返すところは、初めて見た。
「おはよう、莉央。高瀬さんも」
「セリア、おはよう。ねえ、見て。これ、あの階段なんだって」
「おはようございます」
高瀬がスマートフォンをセリアの方へ傾けた。
画面には、見慣れた階段が写っていた。
手すりの影が幾段も斜めに横切り、奥へ続く道がいつもより長く見える。
「いつも通る道なのに。光の向きで、こんなに違って見えるのね」
「昨日は手すりの影がきれいだったので、少し下から撮ってみたんです」
セリアは画面をもう一度見た。普段は足元を確かめながら上る階段だ。
「なるほど。あの位置から眺めたことは、あまりないわね」
「でしょ? 私もびっくりした」
莉央が得意そうに頷いた。撮ったのは高瀬なのに。
その様子に、セリアは目を細めた。
「高瀬さんは、こういう場所をよく撮るの?」
「はい。帰り道なんかで、気になった場所を」
「そうなのね」
もう少し聞いてみたかったが、予鈴が鳴った。
高瀬が画面を消し、莉央が「またあとで」と手を振る。セリアも頷いて席へ戻った。
今度あの階段を通るときは、少し立ち止まってみよう。
昼休み、セリアは莉央と向かい合って食事をしていた。
「今朝の写真、ほかにもあるのかしら」
セリアが尋ねると、莉央は箸を置いて笑った。
「気になってたんだ。高瀬くんが送ってくれたの、いくつかあるよ」
莉央がスマートフォンを取り出す。
画面には、同じ階段を別の位置から撮った写真や、雨上がりの舗道が並んでいた。
「これ、私のお気に入り」
今朝見たものとは違い、階段を斜めから捉えた一枚だった。
長く伸びる手すりの影の端に、濡れた葉が一枚だけ写っている。
「葉っぱまで写っているのね」
「そうなの。私、最初は全然気づかなかった」
「私は、この影の線も好きだわ。段ごとに少しずつずれているところが」
「そっちを見るんだ」
莉央が画面を見直して、「あ、本当だ」と笑った。
セリアも影の線を辿って、画面の隅まで目を向けた。
「そういえばね、今日の放課後、高瀬くんに私の写真を撮ってもらうんだ」
「莉央の?」
「うん。この前約束したの。面白そうだし」
セリアは画面の階段に目を戻した。
風景をあんなふうに撮る人が、莉央を撮ったらどうなるのだろう。
「……よかったら、見学させてもらえないかしら」
「いいよ。あ、高瀬くんにも聞かないとね」
莉央はメッセージを送った。
二人が食事に戻り、しばらくしたところでスマートフォンが震えた。
「いいって。見てても大丈夫だって」
「ありがとう。高瀬さんにも、あとでお礼を言うわ」
「うん。あ、変な顔の写真があっても笑わないでよ」
「それは、見てから考えるわ」
「えー、そこは約束してよ」
セリアは笑った。莉央も笑いながら箸を取り直した。
放課後の中庭には、校舎の影が長く伸びていた。
高瀬はミラーレスカメラを構え、莉央とその背後の窓を見比べていた。
セリアは少し離れたところで、二人の邪魔にならないよう見守る。
「後ろの窓枠が、翼に重なりそうだな。僕が少し動くね」
「私じゃなくて、高瀬くんが動くの?」
「その方が早いから」
「相変わらず細かいね」
「あとで気になるんだよ」
莉央はくすりと笑った。
高瀬は数歩横へ移動し、カメラを構え直した。
莉央はそのままの位置で、少しだけ顔を向ける。
「そのままで。今、横から光が入ってる」
莉央はまだ笑みを残していた。
高瀬の言葉に耳を傾けるうち、目元だけが静かに落ち着いた。
小さくシャッターが鳴った。
撮影はそのあとも続いた。
莉央が自分から向きを変えると、高瀬はカメラを下ろして背景を確かめ、また構える。
セリアが見ているかぎり、莉央の姿勢を細かく直させることはなかった。
朝、階段の写真を少し下から撮ったと、高瀬は言っていた。
人を撮るときにも、立つ位置を気にするらしい。
「ねえ、撮ったの見せて」
撮影がひと区切りつくと、莉央は高瀬に歩み寄った。
高瀬がカメラの背面画面を向け、何枚かの写真を順に見せる。セリアも隣から覗き込んだ。
「あ、これ、いいね」
莉央が指した一枚には、少し斜めから撮られた彼女の腰から上が写っていた。
淡い校舎の壁を背に、横からの光を受けた黒髪と畳んだ翼の輪郭がきれいに浮かび上がっている。
腰の後ろから伸びる尻尾も、画面の端に緩やかな曲線を描いていた。
口元には笑みの名残があり、目元は静かに落ち着いていた。
ついさっき、目の前で見ていたはずの莉央だ。
軽口を言って笑い、次の言葉を聞く。会話のなかでは、すぐに通り過ぎてしまう途中の表情。
写真の中では、その一瞬がまだ続いていた。
「セリアはどう?」
「……ええ。とてもいい写真ね」
「変な顔、してない?」
「いいえ。いつもの莉央よ」
「それ、褒めてる?」
「もちろんよ」
莉央が笑う。セリアも口元を緩めた。
高瀬が次の写真に切り替える。
セリアはそれにも目を通したが、さっきの一枚が頭に残っていた。
高瀬が窓枠を気にして横へ動いたこと、莉央の表情が変わるころにシャッターを切ったこと。
撮影中は何気なく見ていたその動きが、写真を見たあとでは、少し違って思い出された。
高瀬がカメラを下ろすと、莉央はセリアの方を振り返った。
「ねえ、せっかくだし、セリアとも撮ろうよ」
セリアは顔を上げた。
見学に来たのだから、撮ってもらうつもりはなかった。
けれど、莉央と並んだ一枚なら、自分も残しておきたい。
「ええ。私も、莉央と一枚残したいわ」
「じゃあ決まり。高瀬くん、お願いしていい?」
「もちろん。少し広めに撮るね」
高瀬が少し下がった。
セリアは莉央の隣へ進み、互いの膜翼や尾が窮屈にならない位置を選んだ。
莉央もそれに合わせて立つ。
「そこなら大丈夫。何枚か撮るよ」
セリアはカメラへ顔を向け、いつもどおり背筋を伸ばした。
一度、シャッターが鳴った。
ふと、尾の先が小さく揺れる。
「あ」
すぐ横で莉央が小さく声を上げた。
「今、尾が動いたよ」
「……よく見ているのね」
「だって、すぐ横にいるもん」
「それもそうね」
莉央がセリアの方を向いて、得意げに笑った。
セリアもつられて口元を緩め、莉央へ顔を向ける。
もう一度、シャッターが鳴った。
「今の、よかったと思う」
最初の一枚では、セリアは翼を折り畳み、背筋を伸ばしてまっすぐカメラを見ていた。
次の写真では、莉央がセリアの方を向いて笑っている。
セリアの翼は少し開き、尾も緩やかな弧を描いていた。
その隣で、セリア自身も笑っていた。
楽しかったことは分かっている。
それでも、自分がこんなに柔らかな顔をしていたとは思わなかった。
最初の写真も悪くない。けれど、セリアはもう一度、二枚目に目を戻した。
「どっちがいい?」
莉央に尋ねられ、セリアは画面を指さした。
「……こちらを残したいわ」
莉央と笑い合っている方だった。
「私も、そっち」
莉央が頷く。
高瀬も「わかった」と言って、カメラの画面を戻した。
帰り際、高瀬が小さな封筒を差し出した。
中には、セリアが選んだ写真が一枚入っていた。
そっと取り出し、紙の縁を指で確かめる。
さきほど画面で見た笑顔が、今は手の中にあった。
「ありがとう、高瀬さん」
「気に入ってもらえたなら、よかった」
「ええ。大切にするわ」
「私の分も、ちゃんとよろしくね」
莉央が横から言うと、高瀬は「分かってるよ」と答えた。
セリアは写真をもう一度眺めてから封筒に戻し、鞄へしまった。
夜、寮の自室へ戻ったセリアは、着替えを済ませて部屋の明かりを少し落とした。
窓際の低い棚には、形のよい石や小さな硝子の飾りが並んでいる。
どれも気に入って、ここに置いてきたものだ。
その前には、いつもの敷物がある。
セリアは腰を下ろし、背中の膜翼と尾が窮屈にならない位置に落ち着いた。
ここなら、周りを気にせずくつろげる。
しばらくして、鞄から封筒を取り出した。
今日の写真。
紙を傷めないように抜き出すと、夕方の光のなかで、莉央と自分が並んで笑っていた。
セリアは写真を手に、棚へ目を向けた。
しまっておくよりも、ここから見える場所に置いておきたい。
棚にあった小さな木製のスタンドに立てると、写真の縁が硝子の飾りに触れそうだった。
セリアはその飾りを、指先で少しだけ横へ寄せる。
これでいい。
敷物へ戻ると、写真はそこからよく見えた。
いつもの石と硝子の飾りのあいだに、新しい一枚が加わっている。
莉央の笑い声を思い出して、セリアは口元を緩めた。
背中の膜翼の力をふっと抜き、敷物の上で尾がゆるく伸びるのに任せて、セリアはしばらくその写真を眺めていた。