夜勤明けの朝は、監視室の時計だけが妙にゆっくり進む。
壁の時計は八時を少し過ぎていた。窓のない部屋では外が晴れているのか曇っているのかも分からない。昨夜から見続けていた画面を、私はもう一度確認した。
「未対応はありません。経過観察が一件。バックアップ処理の遅延は解消していますが、午前中にもう一度、結果を見てください」
交代に来た担当者が申し送りの画面を開く。
「これ、昨日の夕方にも通知が出ていましたよね」
「ええ。同じ原因かどうかはまだ分からないから、関連ありと決めつけないで。調査の記録はここ」
「分かりました。九時の確認に入れます」
彼がチケット番号を読み上げたので、私はうなずいた。言い残したことはない。……はずだ。
こういうとき、もう一つだけ確認したくなるのは職業病だと思う。でも、いつまでも席を立たないのは、次の担当者にとっても迷惑だ。
「では、お願いします」
「お疲れさまでした」
端末をロックして立ち上がる。長時間同じ姿勢でいたせいで、肩が少し鳴った。誰にも聞こえなかったことにして、椅子を机の下に戻す。
働き始めてから、もう三十年近くになる。
だからといって夜勤に強くなるわけではない。眠いときは眠い。むしろ、眠いまま帰っていい時刻を、昔より正確に見極められるようになった気がする。
更衣室で上着を整え、首から下げた社員証を外す。会社を出る前に、一本だけコーヒーを買っていこう。
そう決めた途端、足取りが少し軽くなった。
*
給湯スペースの自動販売機の前には、先客がいた。
「あら」
声をかけると、男性がこちらを向いた。
「おはようございます。夜勤明けですか」
「ええ。そちらはずいぶん早いわね」
「今日は引き継ぎの資料を片付けようと思いまして」
見知った顔だが、会うのは久しぶりだった。いまは別の部署にいる人だ。髪に白いものが増えたな、と思う。
彼がこの会社に入ってきた頃、私は新人研修を担当していた。新卒ではなく、ほかの仕事を経験してからの入社だったから、まったくの社会人一年生というわけではない。それでも、サーバー監視の画面を前に、最初の数日はずいぶん真剣な顔をしていたのを覚えている。
「引き継ぎって、担当が変わるの?」
「ええ、私の分を全部。思ったより量がありましてね」
「異動?」
「いえ、定年です。今月いっぱいで」
言われて、私は彼の顔を見直した。
目元の皺が、以前より深くなっている。
初めて会った頃の彼は、質問するたびに手元のノートを確かめていた。今では、私の知らない仕事をいくつも任されている。
「……そうだったの」
「知らなかったでしょう。お互い、最近は顔を合わせませんから」
彼は笑って、抱えていた薄いファイルを持ち直した。
「お疲れさま。長かったでしょう」
「長かったですねえ。でも、最後の一週間がいちばん忙しくなりそうです。私にしか分からないことが出てきて」
「そういうのは、もっと早く書いておくものよ」
「耳が痛いです」
「本当に痛くなる前に片付けなさい」
彼は昔から、私のこういう言い方をいちいち気にしない。
「そういえば、昔、先輩に同じことを言われましたよ」
「何を?」
「分からないことをメモにため込むなって。あのときは質問するのも怖くて」
そんなことを言っただろうか。いや、たぶん言った。彼は研修の最後に、見事なくらい細かな質問をまとめて持ってきたことがあった。
何年か前には、私の方が彼に手順を尋ねたこともある。
「後任の人には、もう引き継げたの?」
「だいたいは。でも、説明していると書き忘れが出てきまして」
「それで朝から資料を?」
「ええ。昨日も二か所、書き足しました」
私がコーヒーを買うと、缶が取り出し口に落ちて大きな音を立てた。思った以上の音に、二人で少し肩をすくめる。
「先輩は、まだしばらくこちらで?」
「もちろん。私はまだまだ現役だから」
「頼もしいですね」
「今朝の私を見ても、そう言える?」
彼は改めて私の顔を見た。顔立ちは三十年前とたいして変わらないはずだが、今朝の疲れまではごまかせない。細長い耳の先にも力が入らず、まぶたも重い。髪だって、きっと乱れている。
「……今日は、少しお疲れのようです」
「正解」
彼がまた笑う。
「それじゃ、私はそろそろ」
「ええ。最後まで無理しないでね」
「先輩こそ。帰ったらちゃんと休んでください」
軽く手を振ると、彼は廊下の向こうへ歩いていった。
その背中が角を曲がるまで、私はしばらくそこに立っていた。
手元の缶が温かい。
もう一言くらい何か言えばよかった気もする。でも、考えてみても、ちょうどいい言葉は浮かばなかった。
まあ、今月中なら、また顔を合わせる機会もあるだろう。
私は缶を持ち直し、出口へ向かった。
*
建物を出ると、朝の空気が頬に触れた。
世の中はすっかり動き始めている。駅に向かう人とすれ違いながら、私は反対方向へ歩いた。通勤する人の靴音が、妙に元気に聞こえる。
帰りに洗剤を買うつもりだった。
たしか、もうほとんど残っていなかったはずだ。駅前の店なら開いている。ついでに夕飯の材料も――。
そこで、昨夜から一度もきちんと座り直していないような腰の重さを思い出した。
洗剤は、明日でもいい。
その判断に異論を唱える人は、今ここにはいない。
部屋に着いたときには、買ったコーヒーは空になっていた。靴を脱ぎ、鞄をいつもの場所へ置く。社員証を入れた小さなケースだけは、鞄の外ポケットから取り出して机の端に置いた。これを忘れると次の出勤で困る。
ジャケットを脱いでハンガーに掛け、まとめていた髪をほどく。
長い髪が肩に落ちた。尖った耳の先に引っかかった数本を指で払う。ようやく頭のあたりが軽くなった気がした。
シャワーを浴びて、部屋着に着替える。
洗濯物の山が目に入った。
「……明日」
もう一度眺めたところで、洗濯物が減るわけではない。
私はそのまま冷蔵庫へ向かった。
冷蔵庫を開け、何か食べられそうなものを探す。作り置きのスープを温めたが、椅子に座った途端、湯気を眺める時間の方が長くなった。あまり食欲もない。半分ほど食べて、残りはきちんと冷蔵庫にしまった。
そこまで済ませた自分を、少しくらい褒めてもいいと思う。
ベッドに横になると、足の先がじんわり温まっていく。
何か忘れているような気がした。
洗剤、洗濯物、それから――。
続きは、眠ってから考えることにした。
次に目を覚ましたとき、窓の外は夕方だった。
数時間眠ったらしい。枕元の時計を確かめて、少し水を飲む。指先で目元を押さえると、まだまぶたが重たかった。
台所に置いたままの食器を洗い、冷蔵庫のスープを食べ切った。ついでに何か片付けようと思ったが、床に座っているうちに、その気はなくなった。
私は洗濯物の山から目をそらして、もう一度ベッドへ戻った。
*
翌朝、目覚めた瞬間に嫌な予感がした。
部屋が明るい。
いつもの出勤時刻より、ずいぶん遅いのではないだろうか。
勢いよく起き上がり、枕元の時計を見る。頭の中で勤務表を思い浮かべ、それからスマートフォンを手に取った。
今日は公休。
画面に表示された文字をしばらく見つめる。
「……そうだった」
誰も見ていないのに、少し恥ずかしい。
布団に戻ろうかと思ったが、もう目が覚めてしまった。窓を開けると、外から車の走る音と、どこかで話す声が入ってくる。
今日は、何をしよう。
昨日見送った彼のことは、少し頭に浮かんだ。ちゃんと引き継ぎを終えられるだろうか。いや、あの人なら自分でどうにかするだろう。
それより洗濯だ。
ボトルの底に残っていた洗剤を使い切り、洗濯機を回している間に朝食を済ませる。干し終えたところで、私はようやく休日らしい気分になった。
せっかく晴れている。家にずっといるのも惜しい。
近所の公園へ行くことにした。
出かける準備は、仕事の日よりずっと簡単だ。財布と鍵を確かめ、薄い上着を羽織る。髪は後ろでゆるくまとめた。きっちり留める必要はない。歩いている間に少しほどけても、誰も困らない。
途中のパン屋で、昼に食べるものを買う。どれにするか迷って、結局、いつも気になるのに選ばない少し固そうなパンを一つ。それと、甘いものも一つ。
公園の入り口まで来ると、遊歩道の脇に木々が並んでいた。葉の影が地面に揺れている。広場では子どもたちが走り、散歩をする人たちがゆっくり歩いている。小さな角のある子が、親に呼ばれて振り返った。
私は広場を横切り、池の近くまで歩いた。
いつも座るあたりは日差しが強かったので、少し奥の木陰にあるベンチを選ぶ。腰を下ろすと、風が首筋を抜けて気持ちがよかった。
鞄から本を取り出す。
仕事とは関係のない、読みかけの文庫本だ。前にどこまで読んだかを探すのに少し時間がかかった。しおりは挟んであるのに、どうやら最後の数ページの内容をほとんど覚えていない。
読み直せばいい。
二、三ページ読んだところで、近くを歩く犬に目が移った。小さな犬で、飼い主よりもずっと熱心に落ち葉の匂いを嗅いでいる。飼い主が立ち止まると犬も止まり、飼い主が歩き始めても犬はなかなか動かない。
あれだけ気になるなら、何かいい匂いがするのだろうか。
しばらく見ていると、犬がようやく歩き出した。
私は本に視線を戻す。
また少し読み、パンの袋を開けた。買うときに固そうだと思ったパンは、予想どおり固かった。ひと口目に少し苦労したが、噛むほど香ばしい。
おいしい。
選んでよかった、と思った。
池の水面には、ときどき風が筋を作っている。遠くで何かの球が跳ねる音がした。木陰にいると少し肌寒く、日向に移るほどでもない。私は上着の前を合わせ、もうひと口パンを食べた。
今日は帰る時刻も決めていない。昼食を済ませたら帰ってもいいし、もう少し本を読んでもいい。
そう思っていたら、なんとなく立ち上がるのが惜しくなった。
パンを食べ終え、袋を小さく畳んで鞄に入れる。続いて甘いものを取り出した。
こちらは、あとで食べるつもりだった。
でも、あとでなくてもいい。
私は包みを開けた。
少しして、向かいのベンチが空いた。今度はあちらの方が日当たりがよさそうだ。移ろうかと考え、やめた。ここも悪くない。
本を膝に置いたまま、しばらく池を眺める。
こういうとき、眠くなるまで座っていてもいいのが休日のいいところだ。
結局、本は数ページしか進まなかった。
それでも、帰り道の気分は軽かった。
パンの分だけ軽くなった鞄を揺らしながら、今夜は何を食べようかと考える。昨日のスープはもうない。冷蔵庫には卵があったはずだ。
家に戻ってから、洗剤を買い忘れたことに気づいた。
しばらく考えた末、私は近くの店まで行って買ってきた。さすがに、空になったままもう一日延ばすと次の洗濯ができない。
夜には明日の勤務を確認し、必要なものを鞄に戻した。
髪を乾かして、明かりを消す。
休みは、これでおしまい。
少し残念だったけれど、悪い一日ではなかった。
*
翌朝、職場に着くと、上司に声をかけられた。
「ちょっといい? 今日から入る新人の研修、最初のところをお願いできるかな」
「今日からですか」
「初日用の資料は共有フォルダに置いてある。午後は別の担当に引き継ぐから、午前中だけ」
「分かりました。先に内容を確認します」
人手が足りないのは、今に始まったことではない。
自席で資料を開いて、少し古くなっている画面の説明を一か所直す。これなら、いきなり見せても混乱しないだろう。
新人がやってきたのは、それから間もなくだった。
「初めまして。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げたあと、相手は緊張した様子で手元のノートを開いた。
その一瞬、先日会った彼の新人時代を思い出した。あの人も最初は、何を書けばいいのか分からない顔でノートを広げていた。
もっとも、目の前の新人は、こちらが口を開く前に顔を上げた。
「あの、研修の前に一つ聞いてもいいですか」
「ええ」
「事前にもらった資料を読んだんですけど、監視画面に通知が出ても、すぐに対応しなくていい場合があるんでしょうか」
「あります。ただ、放っておいていいという意味ではないの」
私は椅子を一つ引いて、隣に座るよう勧めた。
「まず、何が起きたのかを確かめます。発生した時刻と、影響が出ている範囲。そこから見ていきましょう」
新人がうなずき、ノートに何かを書き始める。
「画面を一緒に見た方が早いわね」
私は監視画面を開き、最初の項目を指した。