「綾香さん、今夜、まっすぐ帰るのはもったいないですね」
取引先のビルを出てしばらく歩いたところで、隣の鬼塚葵が言った。
「奇遇だな。私もそう思ってた」
葵と何度も打ち合わせを重ねてきた案件が、ようやくまとまった。
最後に難しい質問が飛んできたときは肝を冷やしたが、先方から契約の返事をもらった瞬間、思わず顔を見合わせてしまった。
それなら、今夜は祝杯だ。
「いつもの店にします?」
「ああ。席が空いてればな」
人混みの向こうへ、葵がひょいと視線を向ける。黒髪の上に伸びた二本の赤い角が、通行人の頭より一段高いところを動いた。
「あ、暖簾が出ています」
「早いな。私にはまだ見えん」
「もう少しですよ」
葵と並んで歩き、店先まで来てようやく暖簾が見えた。
葵は角を引っかけないように頭を下げる。私は身をかがめず、その下を通り抜けた。
炭火の匂いがした。
金曜の夜の店内は、仕事帰りの客で賑わっている。カウンターには背の高い丸椅子が並んでいたが、店員は奥のテーブル席へ案内してくれた。あの丸椅子だと私の足は床から浮いてしまう。ここの椅子なら、腰を下ろしても踵がつく。
「よかった。いつもの席ですね」
「私も助かるよ」
葵は長い脚をテーブルの下に収め、私はパンツスーツの上着を脱いで背もたれに掛けた。襟元に挟まった赤茶色の編み髪を引っ張り出す。
私が上着を整えている間に、葵はもうお品書きを開いていた。
「まずは生ビールを二つ。それから枝豆と唐揚げをお願いします」
「串も頼もう。私はタレ」
「私は塩にします。両方いただきましょう」
注文を済ませても葵はまだお品書きを眺めている。
「何を探してるんだ?」
「だし巻き玉子です。前に食べ損ねたので」
「葵、それは後だ。まず来た分を食べよう」
「覚えておいてくださいね」
「なんで私が」
「どうせ一緒に食べるでしょう?」
私は笑って、運ばれてきたジョッキに手を伸ばした。
大きな持ち手に、短く幅のある指を掛ける。冷えたガラスの感触が気持ちいい。
「それじゃ、今日の成功に」
「お疲れさまでした」
「乾杯!」
カン、とグラスが鳴った。
冷たいビールが喉を通る。麦の香りと苦味が広がり、思わずもう一口飲んだ。
「ああ……うまい」
葵もジョッキを下ろし、満足そうに息をつく。
「本当に。今日は格別ですね」
「どっちのおかげだ? 仕事か、ビールか」
「両方です。でも、今はビールの方を褒めたいです」
「まったくだ」
二人で笑った。
枝豆をつまんでいると、唐揚げが運ばれてきた。大皿に盛られた衣はこんがりと色づき、湯気が立ち上っている。
私はひとつ取り、さっそくかじりついた。
「熱っ」
「少し冷ましてからにすればいいのに」
「分かってる」
「分かっていて食べたんですね」
葵は笑いながら、自分の唐揚げを箸で割って冷ましている。
私はビールを一口飲み、もう一度唐揚げをかじった。今度はさくさくした衣と肉汁をゆっくり味わえた。
「……やっぱりうまい」
「でしょう? 私もここの唐揚げ、好きなんです」
葵もひと口食べる。しばらく二人とも料理に夢中になった。
やがて、ぽつりと言った。
「そういえば、今日の商談、綾香さん、少し怖い顔をしてましたよ」
「難しい質問が来たからな」
「長い説明を始める前の顔でした」
「……そんな顔してたか?」
「してましたよ。何度も見てますもの」
否定できないのが悔しい。
「あそこでお前が話を引き取ってくれて助かった」
「綾香さんが先に条件を整理してくれたからですよ」
「じゃあ、二人ともいい仕事をした」
「ええ。それでいいと思います」
葵はにっこりしてビールを飲んだ。
これ以上仕事の話をする気にはならなかった。ちょうど串焼きが届いたところだったからだ。
私の皿にはタレ、葵の皿には塩。焼けた肉の匂いがたまらない。
葵は塩の串を味わってから、私の皿へ目を向けた。
「タレもおいしそうですね」
「一本やろうか」
「では塩と交換で」
「交渉成立だな」
「せっかく仕事が終わったのに、また交渉ですか?」
「言い出したのはお前だろ」
葵が吹き出した。
串を取り替え、私は塩の方をひと口食べた。焼けた脂の甘みが、舌にじんわり広がる。
「……こっちもいいな」
葵は返事の代わりに、タレの串をもうひと口食べた。
ビールをもう一杯頼むと、葵は冷酒に替えた。前から気になっていた酒だという。
小さなグラスを手にして香りを確かめ、それからゆっくり口をつける。
「……あ、好きです。これ」
「当たりか」
「ええ。後からいい香りが残ります」
勧められて少し味をみると、確かにすっきりしていた。これなら塩の串にも合いそうだ。
「焼き椎茸が欲しくなるな」
「それ、頼みましょう」
葵はすぐ店員を呼んだ。
運ばれてきた椎茸に醤油を少し垂らす。熱い汁と香ばしさが口に広がり、冷えたビールがよく合った。
しばらくは二人で椎茸や残りの串をつまんだ。
店の奥から笑い声が上がる。隣の卓では新しいジョッキが運ばれてきた。
「明日は何か予定あります?」
葵がグラスを置いて聞いてきた。
「洗濯と掃除だな。後は寝る」
「私も洗濯です。シーツまで洗ってしまいたいんですけど」
「金曜の晩に聞く話か、それ」
「明日は土曜日ですから」
「そりゃそうだが」
「綾香さんは洗濯を後回しにして、昼まで寝てそうですね」
「よく分かってるな」
葵は笑って、残った椎茸を口に運んだ。
だし巻き玉子が来るころには、話は駅前にできたパン屋へ移っていた。
「そこのパン、午前中には売り切れてしまうそうなんです。洗濯もしたいのに」
「どっちが大事だ?」
「……難しいですね」
商談のときより真剣な顔をするので、私は笑ってしまった。
「そんなに食べたいなら、買ってから洗えばいいだろ」
「それもそうですね。でも朝はもう少し寝ていたいですし」
「注文が多いな」
「休日くらい、いいでしょう?」
葵も笑った。
私はだし巻きを箸で切り分ける。出汁をたっぷり含んだ玉子はふんわり柔らかく、ひと口食べるとまた酒が欲しくなった。
「……次は焼き魚にするか」
「いいですね。何があります?」
壁の高い位置に並ぶ短冊を見上げた。手前の客の肩に少し隠れるので、私は椅子から身を乗り出して文字を確かめた。
「塩焼きがあるな。あれにしよう」
葵も振り返って頷いた。
魚を頼み、温かいお茶も二つ注文する。
待つ間、彼女はふと思い出したように言った。
「そういえば、この前、隣の高校生に情けないところを見られまして」
「何をしたんだ?」
「飲んで帰ったら、自分の部屋の前に座り込んでたんです。鍵は持っていたのに」
「鍵を持って、玄関の前で?」
「はい。結局、あの子が管理人さんを呼んでくれて……」
私は思わず笑った。
「あと鍵を回すだけだったのに」
「そうなんですよ。でも、それだけじゃなくて」
葵は困ったように眉を下げた。
「酔って、あの子の頭を撫でたり抱き寄せたりまでしてしまって。嫌な思いをさせてしまったので、翌朝きちんと謝りました」
「そりゃ驚いただろうな」
「ええ。次からはやめてくださいって、はっきり言われました。謝ったあとも、酔っていたからって許されることじゃないなと思って。それ以来、気をつけています」
「管理人さんにも世話になったんだろ?」
「はい。そちらにも謝りました。飲み過ぎないようにしないと」
葵はグラスの水を飲み、少し肩をすくめた。
そこへ焼き魚が運ばれてきた。
皿の上には皮が香ばしく焼けた魚と、大根おろしが添えられている。私は身をほぐしてひと口食べた。
「……うん。これはいい」
葵も箸を伸ばす。
「脂がのってますね」
「塩加減もちょうどいい」
私たちは魚の身をほぐしながら、残った話をぽつぽつ続けた。葵が明日の洗濯物のことをまた思い出し、私はパン屋の方が先だろうとからかった。
最後には骨だけがきれいに残った。
会計を済ませて店を出る。
暖簾をくぐって外へ出ると、涼しい夜風が編み髪を揺らした。
「最後の魚、もう一皿いけましたね」
「さっきは十分だって顔してたくせに」
「今なら、という話です」
「帰る前に言えよ」
「また来ればいいじゃないですか」
「それもそうか」
並んで歩き出す。人通りの減った夜道を、私はいつもの歩幅で葵と並んで歩いた。
「次は何のお祝いにしましょう?」
「祝い事がなくてもいいだろ」
「あら、そうですね」
「じゃあ、今度は普通に飲みに来ましょう」
「ああ」