見知らぬ空の下で
――潮の匂いがする。
最初に感じたのは、それだった。
鼻をくすぐる濃い潮風。遠くから聞こえる波の音。石畳を踏み鳴らす無数の足音。
そして、聞き慣れない人々の喧騒。
「……ん、んん……」
ゼタは小さく呻き、ゆっくりと瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは、青い空だった。
建物と建物の間から覗く、雲ひとつない空。
「……あれ?」
妙な違和感を覚えた。
身体を起こすと、背中に冷たい石畳の感触が伝わる。
どうやら、どこかの路地裏で眠っていたらしい。
「いったた……どこよ、ここ……」
片手で頭を押さえながら周囲を見回す。
見知らぬ建物。
見知らぬ町並み。
そして、見知らぬ空気。
「……いやどこよ、ここ」
ゼタは眉をひそめた。
最後に覚えているのは、いつものようにアルベスの槍を携えていたこと。
だが、その先の記憶が妙に曖昧だった。
何かが起きた。
それだけは確かだ。
けれど、何が起きたのか思い出せない。
「まったく……冗談じゃないわよ…」
悪態をつきながら立ち上がる。
身体に異常はない。
手足も動くし、怪我をした様子もない。
そして――
「……あった」
傍らには、見慣れた長槍が立てかけられていた。
封印武器、アルベスの槍。
ゼタはその柄を握り、軽く持ち上げる。
手に伝わる馴染み深い重量。
長年使い続けてきた相棒の感触に、ようやく少し安心した。
「よかった。あんたまでなくなってたら、さすがに笑えないものね」
槍を肩に担ぎ、路地の出口へ歩き出す。
そのとき、ふと足を止めた。
「……ん?」
何かがおかしい。
ゼタはゆっくりと空を見上げた。
青い。
ただ、ひたすらに青い。
どこまでも広がる空。
それ自体は珍しいものではない。
彼女が生きてきた世界も、空に満ちていた。
だが――
「……島が、ない?」
ゼタの瞳が細められる。
見渡す限り、空に浮かぶ島影が一つもない。
騎空艇の姿もない。
空を渡る船の航路も見当たらない。
代わりに、町の向こうには見慣れないほど広大な水面が広がっていた。
「……海?」
ゼタは思わず呟いた。
もちろん、海というものを知らないわけではない。
だが、これほど果てしなく続く海を、彼女は見たことがなかった。
地平線の向こうまで続く青。
まるで、空が地上に落ちてきたかのようだった。
「何よ、これ……」
思わず、言葉を失う。
しかし、それもほんの数秒。
ゼタはすぐに首を振った。
「……落ち着きなさい、あたし。まずは情報収集よ」
どんな異常事態でも、立ち止まっているだけでは何も始まらない。
それが彼女の流儀だった。
路地を抜けると、そこには活気に満ちた港町が広がっていた。
露店に並ぶ果物。
酒場から聞こえる笑い声。
荷物を運ぶ男たち。
そして、港に停泊する無数の船。
「へぇ……」
ゼタは思わず感心した。
「随分賑やかな町じゃない」
見知らぬ場所であることに変わりはないが、少なくとも人の暮らす町らしい。
それなら話は早い。
誰かに事情を聞けばいい。
そう考えて歩き出したところで、背後から声がかかった。
「おい、そこの姉ちゃん!」
「……あたし?」
振り返ると、恰幅のいい商人らしき男が、ゼタの槍を見つめていた。
「ずいぶん立派な槍を持ってるな。どこの鍛冶屋の品だい?」
「これ? 売り物じゃないわよ」
「いやいや、別に買おうってんじゃねェ。ただ珍しい形だと思ってな」
「ふーん。ま、見る目はあるじゃない」
ゼタは少し得意げに笑った。
男は肩をすくめる。
「それにしても、見ない顔だな。
「……
聞き慣れない言葉だった。
「何よ、それ」
「はあ?
男は呆れたように笑った。
「おいおい、冗談だろ。ここはローグタウンだぜ?
目指す海賊なら、誰だって知ってる町だ」
「ローグタウン……」
ゼタはその名前を小さく繰り返した。
まったく聞き覚えがない。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」
「何だ?」
「ここって、どの空域なの?」
男が目を丸くした。
「……空域?」
「そう。どこの島の近く? 騎空艇の発着場は?」
「キクウテイ……?」
今度は男の方が困惑する番だった。
「姉ちゃん、何言ってんだ? 船なら港にいくらでもあるだろ」
「だから、空を飛ぶ船のことよ!」
「空を飛ぶ船?」
男はしばらくゼタを見つめていたが、やがて大声で笑い出した。
「ハッハッハ! 面白ェ冗談だな! 船が空を飛ぶわけねェだろ!」
「…………は?」
ゼタの笑顔が消えた。
男はまだ笑っている。
だが、ゼタには笑えなかった。
騎空艇を知らない。
空に浮かぶ島も知らない。
それどころか、空を飛ぶ船の存在自体を冗談だと思っている。
「……ちょっと待って」
背筋に、冷たいものが走った。
ゼタはもう一度、空を見上げる。
そこには、どこまでも続く青空があった。
そして、空の下には広大な海。
「……まさか」
そんなはずはない。
けれど。
自分が知っている世界とは、あまりにも違いすぎる。
「ねえ。もう一つだけ聞いていい?」
「お、おう」
「この世界に……空に浮かぶ島って、ないの?」
男は首を傾げた。
「空島? そんなもん、おとぎ話だろ」
その言葉を聞いた瞬間。
ゼタは、完全に黙り込んだ。
しばらくして。
ゼタは港を見下ろせる石段に腰を下ろしていた。
アルベスの槍を隣に置き、膝に肘をつく。
「……どうなってんのよ、これ」
何度考えても、答えは出ない。
ここは知らない町。
知らない海。
知らない世界。
そして何より、空に島がない。
「……あたし、いったいどこに来ちゃったわけ?」
普段なら、こんな状況でも強気に振る舞える自信があった。
だが、さすがに今回は勝手が違う。
帰るべき場所がどちらにあるのかすら分からないのだ。
ゼタは小さく息を吐いた。
「……バザラガたち、心配してるかしら」
ふと、仲間たちの顔が浮かぶ。
自分が突然いなくなれば、きっと騒ぎになるだろう。
特に、あの無愛想な相棒は。
「ま、あいつなら『ゼタなら問題ない』とか言いそうだけど」
少しだけ笑みがこぼれた。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
「……帰らなきゃ」
ぽつりと呟く。
「あたしの居場所は、あっちなんだから」
ゼタは立ち上がり、アルベスの槍を握った。
今は何も分からない。
それでも、このまま座り込んでいるつもりはなかった。
「よしっ!」
自分を奮い立たせるように、頬を軽く叩く。
「まずはこの世界のことを調べる! それから帰る方法を探す! それで決まり!」
そう宣言して歩き出した、そのときだった。
「おい! 聞いたか!?」
通りの向こうから、男たちの声が聞こえてきた。
「東の海に三千万ベリーの賞金首が現れたらしいぞ!」
「三千万!? そりゃとんでもねェな!」
「名前は確か……麦わらのルフィとかいう小僧だ!」
ゼタは足を止めた。
「……三千万ベリー?」
聞き慣れない通貨。
聞き慣れない名前。
だが、その話題に興奮する人々の様子は、どこか見慣れた冒険者たちの姿に似ていた。
「ふーん……」
ゼタは口元に笑みを浮かべる。
「なかなか面白そうな奴がいるじゃない」
まだ彼女は知らない。
その「麦わらのルフィ」という少年が、自分の運命を大きく変えることになるとは。
そして、この広大な海の世界で、かけがえのない仲間たちと出会うことになるとは。
ゼタはアルベスの槍を肩に担ぎ、賑やかな町の中心へと歩き出した。