これは、そんなふざけた常識が当たり前の世界で、幸運にも出会えたツガイを異常な執念で囲いこみ、病的までに愛し、その身も心も手に入れようとする獣人さんたちの短編集。
※つまり、獣人さんにバチクソにヤンデれられた哀れな方々のお話です。
暑い―――。
額から滴る汗をぬぐいながら、僕はため息をついた。ここ数日は猛暑日で、ただ立っているだけでも滝のように汗が肌から吹きだしていた。
僕は、都内に暮らす独身新卒五年目のサラリーマン。
就活に失敗して、デジタル全盛のこのご時世にコピー機の飛び入り営業をさせられている、さえない営業マンだ。
「はあ……」
ため息がこぼれる。
自分の人生をふりかえってみると、実につまらない人間だと思う。
小中高とラノベとかアニメばかりに熱中して、気がつけばFランギリギリの私立大学。もちろん上場企業などに入れるわけもなく、謎のブラックな中小企業にひっかかるので限界だった。
社会人になっても、ただ家と職場を往復するだけの毎日。
職場では数字が出ないことを上司に怒鳴られ、飛び込み営業で相手先のお客様には煙たがられ、そのストレスで休日はひたすらアニメに現実逃避する。
なんともつまらない人生だ。
「はあ……」
また、ため息がこぼれる。
かわりに、僕は眼前の総ガラス張りの巨大なビルをにらみつけた。東京、丸の内の東京駅の真ん前の一等地に本社を構える大企業、ライオングループ。
わずか三十代半ばの創業者が一代で築いたメガベンチャーで、金融やITなど様々な事業を抱える超グローバル企業。僕とは一生縁のない、キラキラした会社である。
そんな場違いなところになぜ僕がいるのかというと、上司からの嫌がらせだった。
先月のノルマを営業部ぶっちぎりのドベで達成できなかった僕に怒り心頭な部長が、やる気が感じられないと、天下のライオングループにでも飛びこみ営業してこいと言ってきたのだ。
天下のライオングループがまさかどこの馬の骨とも知れない不審な営業マンからコピー機を買う訳なんてない。つまりこれは、失敗前提のノルマ未達の罰ということである。
キュッと唇をひきしめる。
だけど、だからといって逃げたらまた怒鳴られるだけだ。
今月だってまったくノルマに届いていないのだ。さっさとこんな罰ゲームなんて終わらせてほかの企業に営業をかけないと、ほんとうに会社で僕の居場所がなくなる。
覚悟を決めて、警備員から不審な視線をむけられながらもビルの入り口をくぐろうとした、その時だった。
「ここでかまわないよ、降ろしてくれ。あと君、今晩までに相手先からの要件をまとめておいてくれ。君がもってきてくれたここ一番の大商談だ、がんばれ。期待しているよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
黒塗りの高級車がキュッとビルの前につけて、その後部座席から一人の女性が出てきた。
すさまじい長身の、とんでもない美人さんだ。
たぶん、僕より10cmは背が高い。
切れ長の鋭い瞳に、かたちの整った可愛いというよりはカッコいいといった雰囲気の整った顔。短くきりそろえられた金髪は、あれはウルフカットというのだろうか。
すさまじく高そうなブランド物のスーツをぴっちりと着こなし、周りにひかえる部下と思わしき男たちにテキパキと指示を下していく。
僕のところの上司と違って、時折賞賛や期待をこめた言葉をかけて仕事を頼んでいる。だからか、部下なのだろう人たちの目は憧れに染まっていた。
まさにシゴデキのエリートサラリーマンといった姿。僕とはくらべるまでもない。まさにこの世は残酷というやつだ。
「社長、そういえば休暇はとられないのですか? もうここ数年はずっと働き詰めです、ツガイ探しも仕事でできていないようですし」
「……その気持ちは嬉しいけどね、秘書くん。でもツガイ探しはもういいんだ、あんまり誰かを愛するという感覚もわからないしね。それよりは仕事のほうがずっと楽しい」
漏れ聞こえる会話から察するに、もしかしてこの人があの有名なライオングループの創業者にして社長、超やり手のスーパービジネスマンなのだろうか。
そういえば、と社名の由来にもなっているケモ耳がその金髪からチラチラと見え隠れしている。
ライオングループのトップは、ライオンの獣人だと聞く。ツガイというワードからも、あの人が獣人なのは確定だろう。
獣人というのは、動物の要素を体のどこかにもった人種のことで、身体能力や知能に優れ、ビジネスや学問、スポーツなど、ありとあらゆる分野で大活躍している。
そんな獣人は生まれた時から一目見ただけで恋に落ちるほど相性のよいツガイというのが一人決まっていて、そんなツガイと添い遂げるのが獣人にとって一番の幸福なのだとか。
あんなカッコいい人なんだし、きっとツガイも隣にたって見劣りのしないような超絶イケメンに決まってるんだろうな。
どの道僕には関係のない話だ、そう思って目をそらそうとしたその時だった。
「そんな話よりもだ、先日の会議の議題について、だが」
となりの秘書と話しこんでいたその社長さんと、ふと目が合う。
「…………ぁ」
「社長? どうかなされましたか?」
信じられないものを目にしたかのように、社長さんの唇が震えた。
バサリ、と音をたててその手から書類がこぼれ落ちていく。いきなり黙りこんだ社長を不審に思っただろう秘書が声をかけているけど、まったく反応していない。
僕は、怖くなった。なにか失礼なことをしてしまっただろうか。
秘書の人が社長の視線をたどって僕にむいていることを知り、目を丸くしている。凝視されて居心地が悪くなった僕は、さっと顔をそらした。
面倒ごとに巻きこまれるより先に、さっさとここから逃げてしまおう。
あの天下のライオングループの社長とトラブルを起こすぐらいだったら、部長から怒鳴られたほうが百倍マシだ。
そう、足早に去ろうとする。
「ま、まってくれ……!」
それは、一瞬の出来事だった。
正しくライオンの獣人と言うべきか、気がついた時にはその人は僕のすぐそばに迫っていた。恐怖のあまりぎゅっと目を閉じると、ふわりと爽やかな香りと柔らかな温もりにつつまれる。
「逃がすものか」
僕はその人に、息がつまりそうなほどに強く抱きしめられながらそう耳もとで呟かれた。
◆◆◆◆◆
「その、それで獅子王さん……」
「レオンと呼んでくれないかな。そんなに他人行儀だと、悲しくなるんだ」
「いや、それは恐れ多いといいますか……」
「一生のお願いだ、頼むから下の名前で呼んでくれ。そうでないと、わたしはどうなってしまうかわからない」
まるで懇願するように瞳をうるわせ、切なげに唇を結んでいる獅子王さん。あのライオングループの総帥とは思えない獅子王さんの姿に、折れたのは僕だった。
「……わかりました。そ、その、レオンさん」
「どうしたのかな、わたしにできることならなんでも叶えてあげよう!」
ちょっと照れながら口にしたその名前に、獅子王さんがパアッと顔を輝かせる。その勢いに若干ひきつつも、僕はそっと距離をとろうとした。
「その、近いというか、もう少し遠ざかってくださると……」
「いやいや、君はわたしのツガイじゃないか。これぐらい普通だよ」
それだけで僕のワンルームアパートを埋めつくすのではないかと思えるほどの巨大なソファ。そこに獅子王さんと二人で座っているだけのはずなのに、全然落ち着かない。
なぜなら、僕が獅子王さんにもたれかかられ、腕を腰に回されているからだ。
現に今だって、僕が離れようとすると獅子王さんはぐっと腕に力をこめて密着してくる。互いの吐息すら聞こえてきそうなほどの至近距離に、僕は息がつまりそうだった。
「そ、その」
「ああ、コピー機のことかい? そんなものならわたしが百でも千でも買ってあげよう。なんなら、今ここで契約をとってもいいよ?」
「え、あ」
「そういえば、料理で好き嫌いはあるかい? 今晩は銀座のいきつけの寿司屋のほうから出張を願いしようと思ってるんだけど、どうかな?」
ぐいぐいと迫られる。
僕はいったいどうしてこんなことになったのだろうと、頭を抱えた。
◆◆◆◆◆
とどのつまり、僕は獅子王さんのツガイだったらしい。目が合って驚いた顔をしていたのも、その一瞬で本能で僕に惚れたからだとかなんとか。
本社の前で僕を抱きしめてからの獅子王さんの手際は正しく神速というほかなかった。
僕がコピー機の営業マンだと知るや否や、契約を餌に車に乗せられ、あれよあれよという間に東京のどこかにあるのだろう獅子王さんの豪邸まで連れてこられたのである。
そばにいた秘書の人は、止めるどころかにっこりと笑顔だった。なんなら今後一週間の獅子王さんの予定を無理やりにでも空けるなんて言ってたし。
それだけではない。
車の後部座席で獅子王さんに抱きしめられながら、ダラダラと冷や汗をかいているその時だった。
部長から電話がかかってきたかと思えば、理解不能な命令をされたのである。
「いいか、これからは出社もしてこなくていい。そのかわり、獅子王社長の家に泊まりこんで、なにがなんでも機嫌を損ねるな」
「は、はい?」
「うちの会社にライオングループからとんでもない大きな商談が入ってきた。モノにできれば、後十年は安定してすさまじい利益を上げられる、そんな商談だ」
スマホのむこうの部長の声は喜びで弾んでいた。
「そのかわりとして、むこうはお前をご所望だ。よかったじゃねえか、トンデモない玉の輿だ、あっちさんのツガイなんだろ」
「い、いや、そんなことを言われても困りますって! だいだい僕をご所望って、いったい……」
「ああもう黙れ! いいか、今からお前の勤務地は獅子王社長の家だ。とにかく朝から晩まで接待して機嫌をとる、それが最低限のノルマすら達成できないお前の仕事だ、わかったな!」
ガチャンと、強引に電話をきられる。
僕は恐る恐る、獅子王さんの顔を見上げた。そんな僕に、獅子王さんはにっこりと笑ってささやいてくる。
「これで、君はずっとわたしの家にいてくれるかな?」
その顔を、どこかゾッとするほど恐ろしく感じたのは僕だけの秘密だった。
◆◆◆◆◆
獅子王さんの邸宅での暮らしは、快適どころの話ではなかった。
家事のほとんどはお手伝いさんがやってくれる。
ジャグジーにサウナ、大の大人が十人ぐらいは入れそうなぐらいに大きい浴槽のついたお風呂。リビングにはいくらするか考えたくもない大インチのテレビ、シアタールームだって完備だ。
正しく、人生の成功者の豪邸。
「実を言うと、君がくるまでは持て余していたんだ。わたしはずっと仕事一筋で生活していたから、作ったはいいもののろくに使っていなくてね」
獅子王さんが苦笑する。
「すごいですね」
「だから、君には思う存分使って欲しい。君と一緒なら、これまであまり魅力を感じなかったなにもかもが、楽しく思えるんだ」
獅子王さんは、というと、とても良い人だった。
初めは強引に家に連れこまれたことを警戒していたけれど、そんなものは三日もすればなくなってしまっていた。
とにかく、僕に尽くしてくれるのだ。
たとえば夜、テレビのバラエティ番組で一流ホテルのフレンチ料理の特集をみていた僕が美味しそう、とぼそりと呟いたことがあった。
僕にとってそれはなんの気なしに口にした独り言だったのだけど、獅子王さんはその翌晩にはそのレストランのディナーにつれていってくれた。
ドレスコードもきっかりとしているような高級なところだったのだが、獅子王さんがそばで手取り足取りマナーを教えてくれたし、なによりこれまでで一番美味しい料理だった。
あるいは、アニメ。
僕が好きな作品が劇場アニメになったことを、どうやったのかわからないけど獅子王さんは知っていて、なんと先行上映会の最前列にいくことができたのだ。
原作のラノベの作者さんは僕が中学生の時から作品を知っている人だったのだけど、そんな人のサインまでもらえた。ほんとうに、獅子王さんにどう感謝を伝えていいかわからない。
ハッキリ言って、あまりにももらいすぎだと僕でも思う。
たとえツガイだからといって、こんなに獅子王さんに貢がれる理由がない。
だから、毎回僕は遠慮しようとするのだけど、獅子王さんは話も上手いのだ。言葉巧みに僕を誘いこんで、気がつけば獅子王さんのとなりで楽しんでいる自分がいる。
そもそも、こんなに獅子王さんの家にお世話になっていること自体もおかしいのだ。
初めのうちは一日ぐらい泊まったら理由をつけてお暇しようと思っていた。けど、獅子王さんの口車に乗って二日、三日、四日とダラダラと泊まり続けて、今や居候ぐらいになってしまっている。
こんな生活に慣れてはいけない、断らなければいけないと思いつつも、踏みだそうとしたその一歩を獅子王さんは容易くぬるま湯へと逆戻りさせる。
最近は正気に戻った時には顔が青くなるようなものばかりをもらっていた。
たとえばひとつで数億円するような腕時計に、超高級ブランドの衣服。必死に抵抗しようとしたけれど、気がつけば獅子王さんが支払いを終えている。
どうしよう、と思う。
いつまでもこんな生活をしていられない、と。獅子王さんから離れないといけない、と。
獅子王さんはいい人だ。いい人だからこそ好意を断ることができなくて、ずぶずぶと獅子王さんのくれる贅沢に溺れていく。
こんな暮らしは健全じゃない、そんな危機感ばかりが頭の中で鈍く鳴っていた。
そんな風に僕が悩んでいた、ある日のことだった。
◆◆◆◆◆
「ご、ごべんなさいぃ。も、もう無理……」
その晩は珍しく、僕はベロベロに酔っぱらっていた。
獅子王さんが美味しいお酒をどんどんすすめてくれるものだから、言われるがままに飲んでいるうちにアルコールがまわって、ろくにたてないぐらいに泥酔していたのだ。
「おやおや、大丈夫かい。ごめんね、君の飲みっぷりがみていて気持ちのいいものだから、つい」
ソファから立とうとしてよろめいた僕を支え、またソファに座らせる。座らせたその手でそのまま僕の頭を獅子王さんの頭にもたれかからせた。
ぼんやりとした頭で、相変わらずにっこりと笑っている獅子王さんの笑顔をみつめる。
僕の酒盛りにつきあった獅子王さんは、僕なんかよりもずっとお酒を飲んでいるはずだ。なのに、顔色ひとつかえやしない。
そんな獅子王さんに、気がつけば僕はここ最近悩んでいることを打ち明けていた。
ずっと獅子王さんに尽くされるだけの生活が申し訳ないこと、獅子王さんのツガイということはわかっているがもとの自立した暮らしに戻りたいこと……。
ところどころ支離滅裂になる僕の話を、獅子王さんはうんうんと頷いて聞いてくれる。
「べつにそんなに気に負わなくてもいいのに。ぜんぶ、わたしがやりたくてやっていることなんだから。君のことで、わたしが損得とか釣り合いとか考えたことないよ」
「しぃしおうさんはいい人だぁ……」
「レオン、だよ。レオン」
わずかに語気を強めて、獅子王さんが僕をみつめる。その目が笑っていないような気がして、僕は顔をうつむかせた。
「ししぉ、いや、れおんさんに、僕がなにかできますかぁ? 申し訳ないんですぅ、もらってばかりなのはぁ……」
「ふむ、そうだね」
獅子王さんが、なにか考えるように顎に手をあてる。かと思うと、懐からなにやら書類のようなものをとりだした。
「ここに名前を書いてくれるかな。それだけで、わたしは幸せだから」
「わかりましたぁ、名前ならいくらでも書きますぅ……」
酒で回らない頭で、なんとか指定された枠に自分の名前を書く。ろくに思考もできない酔った自分は、もはや獅子王さんの操り人形だった。
「……うん、これでよし」
「はぇ?」
どこか満足げに、獅子王さんが呟く。その書類の一番上に、婚姻届と書いてあるのを目にして、それでも酔った僕にはその意味を解することができていなかった。
◆◆◆◆◆
「こ、婚姻届け!?」
朝、ベットから飛び起きる。
二日酔いで頭がズキズキと痛むが、そんなことはもうどうでもいい。僕が昨晩署名してしまったもののことを考えれば、些事だ。
僕は、恐る恐るリビングへと降りていった。
「レオンさん、昨晩の婚姻届けのことなんですが……」
「ああ、うん。とっても嬉しかったよ。ようやく君がわたしのことを受け入れてくれたんだって」
獅子王さんが、心の底から嬉しそうな顔で、ニヘラと笑う。
その、あまりにも幸せそうな顔に僕はグッと思わず言葉につまる。あの時は酔っていて正気じゃなかった、なんて言おうとしている自分がひどく悪いやつに思えた。
「それについてなんですが、あの時酔っていたのもありまして……」
「そんなことよりも、だよ」
朝ごはんの焼きたてのパンなどならべていたお手伝いさんが目を丸くするのもかまわず、獅子王さんはテーブルの上に大量の紙束をばっさりとばら撒いた。
僕が理解できないでいると、獅子王さんがにっこりと笑う。
「結婚式はどこでしようか? ヨーロッパの歴史ある教会で永遠を誓うのもよし、日本の神社で神さまにお願いするのもいいね。なんなら両方しようか?」
「え、あの、獅子王さん……?」
「新婚旅行は、そうだね、昔ヨットに興味があると言ってなかったかな? わたしの仕事も落ちついてきたから、プライベートヨットでも借りて一月ゆったり世界を航海するなんてどうかな」
「婚姻届けについてなんですが」
「ああ、それなら昨晩のうちに秘書に預けてね。今ごろは区役所に届けられていると思う。だからなにも心配しなくていいとも」
ああ、いつも通りだ。
獅子王さんの話に飲まれていく。
婚姻届けに署名したことは既成事実化されて、どんどんと先へ先へと意識をそらされていく。獅子王さんのいつもの手口だった。
「そうじゃなくてですね……」
「おっと、いけない。そろそろわたしは会社にいかなければならないな。君は結婚式とか新婚旅行とか、どうしたいか考えておいてくれるかい? ちょうどコンサルタントを呼んでいたんだ」
まるで有無を言わせないといわんばかりに会話をうちきられる。久しぶりだった、こんなに強引な獅子王さんは。
あっというまに身支度を整え、玄関に消えていく獅子王さん。
過去の経験則からすれば、あと数分もすればこの家には結婚式のプランナーとかコンサルタントとか、その道の人が山のように押し寄せてくる。そして、流れで押し切られるのだ。
グッと歯を食いしばる。
それは、駄目だろう。
結婚というのは、二人の今後の人生を左右するようなものだ。それを、今までのように獅子王さんに流されて頷く訳にはいかない。
クローゼットの奥から、昔の通勤鞄を取り出す。
これと着の身着のままでこの家に連れこまれてからもう一月も経ってしまった。流石に、もうこんな生活は終わりにしないといけない。
リビングの机の上に、獅子王さんあての書置きを残しておく。
昨晩は酔った勢いで婚姻届けに名前を書いてしまったこと。
これまで獅子王さんに甘えてきてしまったが、その生活はこれでもう終わりにしたいこと。
僕は自立した一人の人間として、獅子王さんに向き合いたいこと。
それだけはっきりと文面で表明しておいて、玄関先を飛びだす。その時、ちょうど扉をたたこうとしていた秘書の人とぶつかってしまった。
「おや、ちょうどよいところに。ご結婚、おめでとうございます。婚姻届けならきちんと区役所のほうに届けさせていただきましたよ。それで、どちらにいかれるんです?」
にこやかな秘書の人に、僕は唇をきゅっと結ぶ。
「ちょっと、獅子王さんに甘えすぎていたんです。なのでもとの生活に帰ります。あと、婚姻届けのことは忘れてください、あれは僕の間違いなんです」
「はぁ……?」
目を丸くした秘書の人を残して、僕は豪邸を後にする。そんな僕の背に、ぼそりと呟かれた言葉がやけに耳に残った。
「……無理だと思いますけどね。社長は、ひとたび牙で噛みついた獲物は逃しませんから」
◆◆◆◆◆
「は? な、なんで……」
つい先月まで僕が住んでいたはずのアパート。その一室は空っぽになっていた。
自分がひとつひとつ買いそろえていったはずの家具も、残したままだったはずの洗濯物も、跡形もなくなっている。かわりに、不動産屋の空室というはり紙がされていた。
もちろん、僕から解約などした覚えはない。そして、僕はこんな芸当ができるかもしれない人間に一人心当たりがあった。
「……獅子王さん」
ゾッとする。
すでにクリーニングが入ったのだろう壁紙からは、僕が暮らしていたという痕跡がみな拭いとられていた。椅子でつけてしまったフローリングのくぼみも消えている。
まるで、さえない営業マンという過去の僕の存在が、消し去られたようだった。
なぜか焦燥感が胸の奥からこみあげてくる。自分の帰属するところ、戻るべき自分の暮らし、帰るべき過去。もしもそれを失ってしまえば、僕はどうすればよいのだろう。
「……会社なら」
営業部の部長、僕の上司に電話をかける。数コールもしないうちにつながって、僕は胸をなで下ろした。
「なんだ、藪から棒に電話かけてきて」
「あ、部長。実は話があってですね、これまでのようにまた営業部で働かせてもらえないかと……」
これまでずっと恐怖の象徴だった部長のめんどくさそうな声が、今日だけはまるで福音のように聞こえる。そのまま僕はまた飛び込み営業マンになれないかとお願いした。
「んなこと言ってもなあ……」
スマホのむこうから、部長のあきれたような声が聞こえてくる。
「おまえ、もう会社辞めてるだろ。ひと月前に寿退社したやつが営業やりたいなんて言っても頷けるかよ」
「は? 辞めた?」
「おう、だいたいおまえが獅子王社長の家にいってから三日後ぐらいか? 獅子王社長のほうから、結婚することになったからこっちは辞めるって話を」
部長の話を最後まで聞くことなく、僕は通話を終了した。
ジワジワと手先の感覚がなくなっていく、そんな気分になる。あれだけ嫌だった仕事であっても、それは己の手で己の食い扶持を稼ぐ、ある種自立した生活の象徴でもあった。
それが、もうない。
それから、僕は半狂乱であちこちに電話をかけた。休日に劇場版アニメをよく一緒に見に行っていた大学時代の友人、職場の同僚、地元の小学校の時の幼馴染。
みな、口をそろえて言った。
結婚おめでとう、と。あのライオングループの獅子王社長に婿入りなんて、羨ましい、と。
それは間違いなんだ、と言っても真剣にとりあってくれない。冗談だとか、のろけるのはやめろよとか、そんな風にあしらわれてしまう。
最後の一縷の望みをかけたのは、親だった。
「もしもし、どうしたの」
懐かしい声だ。
胸の奥がズキリと鳴る。ここ一年、ろくに帰省もしていないし、連絡も取っていない。僕は実に親不孝な息子だった。
それでも、流石に親なら僕の味方に―――。
「駄目じゃない、獅子王さんと結婚しないなんて今さら。あんないい人、この先あんたに捕まえられると思う?」
「母、さん?」
「まさか、獅子王さんと喧嘩でもしたの? だったら母さんが間とりもってあげるから、きちんと謝って……」
もう、限界だった。
スマホを放り投げて、あてもなく昼の住宅街を歩きまわる。やがて日も沈み、僕は電灯のついた公園で一人、途方に暮れていた。
昼間、銀行口座からお金を引き出そうとしたらすでに解約されていて、口座そのものがなくなっていた。だから今の僕は文字通りお金も頼れる人もない、詰んでいる状態だ。
……これから先、どうしよう。
日雇いの仕事でも探して働く? ホームレス?
どの道も、現実味がなさそうだった。どん臭くてお世辞にも有能とはいえない僕が、どれを選んでも上手く生きていけるとは思えない。
木枯らしが吹いて、体がブルリと震える。
もう酷暑日は終わり、秋に入っている。肌寒いのも、当然だった。
「ほら、そんな服装をしていたら風邪をひいてしまうよ」
いきなり、肩にばさりとコートがかけられた。
慌てて後ろをふりむくと、いつもの笑顔の獅子王さんが立っている。その姿が、今晩は心の底から恐ろしく思えた。
「……その、アパートの解約とか、会社の退職とか、口座の解約とかは」
「わたしがやったよ? だって、もう君には必要のないものだからね」
あっさりと自白した獅子王さんは、甘い笑顔で僕に笑いかけてくる。
「君には、わたしがいるじゃないか。わたしを頼ってくれればいい。わたしに甘えて、わたしに流されてくれればいいんだ」
「……ふざけないでください!」
思いのほか、大きな声が口から飛びだす。
「僕は自立したひとりの人間だ! レオンさんに愛情をそそがれ、管理されるペットかなにかと勘違いしないでください!」
まるで、人間扱いしてくれない獅子王さんに僕は己のうちの怒りを爆発させた。それでも、獅子王さんの笑顔は崩れない。
それどころか、その笑みが深まっているようにすら思えた。
「君が、自立? 面白いね」
獅子王さんが、抵抗する僕の手を無理やりつかむ。そのまま背後から僕を抱きしめて、頭上から見下ろしてきた。
「コピー機の飛び込み営業なんかすることが自立なのかい? いや、そもそも君はその最低限のノルマすら達成できていないんだったよね」
「そ、それは……」
黄金の瞳ににらまれて、僕は指ひとつ動かせなかった。
「家と職場を行き来するだけ、上司には怒鳴られ、営業先には煙たがられ、貴重な休日にはアニメで現実逃避。それのどこが自立した健全な生活だというんだい?」
「っ!」
僕を抱きしめる獅子王さんの腕の力が、どんどんと強くなっていく。獣人にとってはほんのわずかの力でも、とうの僕にとっては痛みを感じるほどだった。
でも、そんなものよりもはるかに痛いのは、獅子王さんの鋭利な言葉だった。
「わたしの家で飼われていた時のほうがずっと幸せそうだったじゃないか。わたしが散歩につれていって、美味しいご飯をあげて、遊んであげて。楽しかっただろう?」
「あ、う……」
もう、なにも言い返せなかった。僕は顔をうつむける。
そうだ、僕は獅子王さんにものをもらい続けた。口では嫌がりながらも、その誘惑に負けて、ただひたすらに楽なほうへと流れていってしまった。
「なにも責めているわけじゃない」
どこか優し気な獅子王さんの声が降ってくる。
「君はただ、わたしに愛され続ければいいんだ。わたしの手のひらの上で、なにも考えないで、ひたすら楽しいことばかりに夢中になって。それが、君にとっての幸福なんだよ」
胸が苦しい。獅子王さんが、その目をランランと輝かせ、僕に問いかけた。
「わかったかな?」
反論を探そうとして、もうなにも言えないことに気がつく。
「…………」
僕はただ、静かに頷くことしかできなかった。
◆◆◆◆◆
「君もきちんとわかってくれたようでうれしいよ!」
獅子王さんが、ニコニコと笑っている。
「さあ、わたしの愛しいツガイ。もうなにもかもわたしにまかせて、二人の愛の巣へ帰ろう」
甘い、勝利宣言が耳を犯した。
ようやく悟る。
初めから、僕は獅子王さんの箱庭に囚われていたのだ。ビルの前でコピー機の契約を餌にされて車に連れ込まれたその時から、ずっと。
甘い、優しい、柔らかい、どうあがいても、抗っても、逃れられない牢獄。
そもそも、なにも考えずひょいひょいと獅子王さんの言われるがままになっていた僕が馬鹿だったのだ。そうではないか。獅子王さんはいったいなんの獣人だ? ライオンだろう?
「ようやくだ、ようやくありつける。極上の肉を眼前にしてこんなに長くお預けをさせるなんて、君はほんとうにひどいやつだ。いくど衝動にまかせて襲いそうになったか、気が狂いそうだった」
獅子王さんの荒い鼻息が、僕の首筋をなでる。その手が、僕の顎をくいっと持ち上げ、獅子王さんの目と視線をあわせさせた。
初めて目にした、笑顔だった。
獰猛で、僕への欲情で危うい光をこぼす、瞳。ゆるく開けられた口からはひどく鋭い牙がのびている。
「ところでわたしはね、さっき君に怒鳴りつけられて非常にいらだっている。そのお礼がわりにちょっと乱暴になっても、文句は言わないでおくれよ」
そのまま、唇をむさぼられる。
それはもはやキスなどではなかった。捕食だった。
続いて、頬を紅潮させた獅子王さんは僕のあちこちに噛みついて歯形を残していく。一般の人の目もある公園だというのに、そのマーキングは十数分にも渡って続いた。
まるで、宣言しているようだった。
このヒトは、獅子王さんの獲物なのだと。僕は、獅子王さんの所有物なのだと。
「ライオンは、ひとたび牙で噛みついた獲物はけっして逃さないんだ」
その晩、僕は獅子王さんに骨一つ残さず、
◆◆◆◆◆
「~♪ ~~~♪」
……ああ、実に幸せだ。
わたしは、ライオングループ社長の獅子王レオンは、今、人生の絶頂期にあった。
「あいかわらずですな、いつになったら新婚生活の熱がおさまるのやら」
「ふふ、残念なことにその日は一生こないだろうね」
運転手の言葉に、軽口をたたく。
がらんどうだったあの家で、ツガイが、あの人間がわたしの帰りを待ってくれている。その姿を想像するだけで、胸の奥から愛おしさがあふれてきた。
◆◆◆◆◆
昔のわたしは、ツガイなんてものに熱を上げるほかの獣人たちが理解できなかった。
愛だの結婚だのよりも、己の能力を発揮し、事業を展開し、社会の強者にのし上がっていくほうが百倍楽しい。それがわたしの考えだった。
周りがうるさく言ってくるからツガイ探しを形だけはしているものの、やる気など皆無だ。わたしは、わたしさえいればいい。一生独身でもなんら問題はない。そう、考えていた。
間違っていた。
ひどく、大きな間違いだった。
本社のビル、その前で心細そうに脅えているその姿を目にした時、胸の奥からすさまじい衝動が、愛おしさがこみあげてきた。
あの人間をわたしのものにしたい。
あの人間の視界を、わたしで埋めつくしたい。
身も心も、なにもかもを手に入れたい。
その人間を抱きしめた時の幸福といったら、わたしがこれまで味わったどんな成功や名声よりもはるかに大きく、まるで麻薬のように中毒性があった。
この人間を手に入れる。そのためなら、いかなる手段をも問わない。
わたしはライオンの獣人だ。狙った獲物は逃さないし、逃すつもりもない。
多少強引であっても人間を己のテリトリーへ、わたしの家へと連れ込む。ありとあらゆるプレゼントを贈り、どんな願いであっても叶え、とにかく人間に尽くしてやる。
ほんの数日すごしただけで、わたしは人間のだいたいの性格を読みきっていた。
あの手の人間は、与えれば与えるほど、それが縛りとなって本人を縛り付ける、そういう類だ。わたしならプレゼントはもらって当然とばかりにもらうだけもらうが、あの人間には不可能だろう。
そのあたりも、いじらしくて愛おしい。
後は、人間の帰るべき場所を絶ってやるだけだ。
家、職場、友人、家族……。
孤立した人間は脆い。あとは指先でちょんと押してやれば、すぐわたしの手のひらの上へと転がりこんできた。
その過程で多少鋭い言葉も口にしたし、そのせいでしばらくは脅えられたが、だがなんのことはない、半年かけて甘い言葉を耳もとにささやいてやればすぐに懐いてきた。
ああ、幸せだ。
◆◆◆◆◆
夕食の席。
わたしが大阪から出張させてきた料理人の鉄板焼き。
その肉を美味しそうに食べるツガイの姿を目にしていると、心の底から幸福感に満ち溢れてくる。
愛しいツガイが、わたしの稼いできた金で手に入れた肉を口にしている。やがてそれはその血肉となり、ツガイの一部となる。
そう考えるだけで、絶頂しそうだった。
「レオンさん? どうしたんですか?」
「あ、ああ、ちょっと考えごとをしてしまっていた。すまない」
意識を頭の奥深くから浮上させると、返事のないわたしを心配したのか、ツガイがわたしの顔をのぞきこんでいた。
ツガイの顔が、わたしの目と鼻先にある。
わたしのことを、心配そうにみつめる、その瞳。
ひどく細くて、今すぐにでも噛みつきたくなる白い首。
わたしの肩に触れる、ツガイの温かな手のひらの感触。
「……」
「そ、そのレオンさん?」
もう、限界だった。
「ところで、このコース料理はあとどれほど続くのかな」
「はっ? ああ、あと数品ほど考えておりますが」
長すぎる、我慢できない。
「すまないが、今晩はここまでにさせてもらえるかな。明日があるから早めに寝なければならないんだ」
遠路はるばる大阪からきてもらった上で申し訳ないが、夕食はここで終わりとしよう。わたしはツガイの腕をつかみ、リビングを後にする。
二人の寝室へと続く廊下を歩くたび、背後のツガイが脅えた様子になるのが伝わってくる。
「……あ、あの、レオンさん。お願いです、優しくしてください。お願いですから」
ベッドに乱暴に押し倒したツガイの目は、恐怖でうるんでいた。ああ、実にそそる、旨そうな獲物だ。
悲鳴を上げる愛しいツガイを、その上から抱き潰す。
さあ、食事の時間だ。