黄金の血を継ぐ霹靂 ジュウリョクピエロ 作:Arupaka55
ついに、デビュー戦の日がやってきた。
舞台は、阪神レース場 ダート1,800メートル
レース場に到着してから、瀬那は何度も手元の資料を確認していた。
出走表、当日のコンディション、これまでのトレーニング記録。確認することはもうない。
それでも、つい目を通してしまう。
「瀬那、さっきから同じとこばっか見てへん?」
隣から声がした。
顔を上げると、ピエロが立っていた。
「そうかな?」
「そうやで。もう覚えてるんちゃう?」
「一応、確認しておきたいの」
「ふーん」
ピエロはあまり興味がなさそうに返事をした。
その表情には、緊張した様子はない。
むしろ、早く走りたくて仕方がないようだった。
「ピエちゃん、緊張しないの?」
「なんで?」
「初めてのレースだよ?」
「せやけど、いつも走ってるやん」
「トレーニングと本番は違うでしょ」
「走るんは一緒やろ?」
あっけらかんと言い切る。
瀬那は苦笑した。
(本当にいつも通りなんだから)
もっとも、そのいつも通りの姿に助けられているのかもしれない。
「まあ、ええわ。はよ走りたいし!」
ピエロは軽く身体を動かしながら、ダートコースのほうへ目を向けた。
デビュー戦はダート。
母系にはダートで実績を残した娘が多い。模擬レースでも力強い走りを見せていたことから、まずはダートでデビューすることになった。
芝とダート、どちらが本当に向いているのかは、まだ分からない。
けれど、今は目の前の一戦だ。
「ピエロ、準備できたか?」
チーフトレーナーが声をかけた。
「できてるで!」
「元気やな。まあ、いつも通り走ってこい」
「任せとき!」
ピエロは笑顔で答えた。
瀬那もその背中を見送る。
初めてのレース。
自分が直接育成を担当しているわけではない。
それでも、これまで練習を見てきた娘が本番の舞台に立つとなると、やはり気になる。
(大丈夫。いつも通りでいい)
自分に言い聞かせるように、瀬那はコースへ視線を戻した。
やがて、出走の時間が近づく。
ピエロがゲートへ向かっていく。
大きな身体。長い脚。そして、あの大きなストライド。
模擬レースで見た走りが頭に浮かんだ。
やがて、全員がゲートに収まる。
スタート。
一斉に飛び出したウマ娘たちの中で、ピエロも好スタートを切った。
無理に前へ出ようとはしない。
流れに乗り、落ち着いて位置を取る。
大きな身体を揺らしながら、長い脚でダートを蹴っていく。
その走りには力強さがあった。
序盤から中盤にかけて、ピエロは大きく崩れることなく走り続けた。
そして、最後の直線。
前を走るウマ娘たちとの距離が縮まっていく。
ピエロのストライドが伸びた。
一歩、一歩。
力強く地面を蹴り、前へ進んでいく。
先頭に並び、そして抜け出す。
「おおっ!」
観客席がどよめく。
ピエロはそのまま先頭を譲らなかった。
後続との差を保ったまま、ゴールを駆け抜ける。
初勝利だった。
瀬那は思わず立ち上がった。
勝った。
初めてのレースで、ピエロは勝ったのだ。
「ピエちゃん、おめでとう!」
レースを終えたピエロのもとへ、瀬那は思わず駆け寄った。
「やったよ!」
ピエロは汗だくの顔で笑った。
「うん! おめでとう!」
「ありがとう!」
その声には、勝利の喜びがあふれていた。
瀬那も自然と笑顔になる。
初めての本番。
多少の不安はあったけれど、終わってみれば危なげのない勝利だった。
チーフも近づいてきた。
「初戦としては上出来やな」
「はい!」
「ピエロもよう走った。お疲れさん」
「まだまだ走れるで!」
「今は休んどき」
チーフの言葉に、ピエロは少しだけ不満そうな顔をした。
それでも、すぐに笑顔に戻る。
周囲からも、さまざまな声が聞こえてきた。
「デビュー戦で勝ったのか」
「やっぱりパワーがあるな」
「ダート路線で行けるぞ」
「次も楽しみだな」
「重賞も見えてくるんじゃないか?」
期待の声が少しずつ広がっていく。
周囲が期待を寄せるのも無理はなかった。
瀬那も、これからのことを考えていた。
次のレースはどうするのか。
どんなトレーニングを組むのか。
もっと力を伸ばせる部分はあるのか。
考えることはたくさんある。
けれど、今はまず初勝利を喜びたい。
「ピエちゃん」
「ん?」
「今日は本当にすごかったよ」
「そう?」
「うん。初めてのレースで勝てるなんて」
「走るん、楽しかったで!」
ピエロは屈託なく笑った。
勝ったことも嬉しいのだろう。
でも、それ以上に走ることそのものが楽しかったようだった。
その笑顔を見て、瀬那も嬉しくなる。
ジュニア期の最初の一歩。
それは、期待に満ちたスタートだった
11月 2戦目
初戦の走りは力強く、最後まで余裕を感じさせるものだった。瀬那も、次のレースが楽しみで仕方なかった。
けれど、2戦目は思うようにはいかなかった。
スタートから流れに乗り、道中も大きく崩れることなく走っていた。ところが、最後の直線に入ってから、思ったほど前との差を詰められない。
ゴール。
結果は7着だった。
「……あれ?」
レースを見届けた瀬那は、思わず声を漏らした。
初戦のような伸びが見られなかった。決して走れていないわけではない。だが、勝ったときの勢いは感じられなかった。
レース後、ピエロは汗を拭いながら戻ってきた。
「お疲れさま、ピエちゃん」
「うーん……あかんかったなあ」
いつもの明るい声だったが、少しだけ不満そうだった。
「ちょっと惜しかったね」
「せやな。でも、もうちょい走れると思ったんやけどな」
「大丈夫よ。まだ2戦目だし」
「せやな! 次はもっと頑張るわ!」
ピエロはすぐに顔を上げた。
瀬那も、今回の結果だけで判断するつもりはなかった。
初めての敗戦。何かがうまくいかなかったのかもしれない。
次のレースで取り返せばいい。
そう考えていた。
12月 3戦目
舞台は阪神のダート1800メートル。
デビュー戦と同じ競馬場、同じ距離。
瀬那にとっても、期待の持てる条件だった。
ただ、今回は瀬那が別のウマ娘サポートで地方にいて、ピエロに付き添うことができなかった。
いつもなら、出走前に顔を合わせて、少し話をする。特別なことをするわけではない。
しかし、今日は違った。
「ピエロ、落ち着いていこうな」
チーフが声をかける。
「うん!」
返事はいつもどおりだった。
けれど、ピエロの様子はどこか違っていた。
何度も周囲を見回し、じっとしていられない。
もう冬なのに身体からはいつも以上に汗が流れていた。
「……ちょっと入れ込んどるな」
チーフはその様子を見て、小さくつぶやいた。
ピエロ自身も落ち着かないことは分かっていた。
瀬那はどこにいるんだろう。
いつもなら、そろそろ声をかけてくれる頃なのに。
そんなことが頭から離れなかった。
やがてレースが始まる。
ピエロは走り出した。
身体を大きく使い、いつものように脚を伸ばそうとする。
しかし、何かが違う。
砂を蹴っている感覚はある。力も入っている。
なのに、思うように前へ進まない。
(あれ……?)
もう少し脚を伸ばしたい。
もっと前へ行きたい。
そう思って力を込めるが、いつものような走りにならなかった。
年末の荒れたダートは、ピエロにとって走りにくいものだった。直線が伸びず先頭に追いつけない。
それでも最後まで走り切った。
ゴール。
結果は7着。
デビュー戦と同じ阪神の1800メートル。
それなのに、今回はまるで違う結果だった。
レースを終えたピエロは、いつもより静かだった。
身体は汗でびっしょり濡れている。
いつもなら、走り終えた後も元気に話し続けるのに、今日はなかなか口を開かなかった。
「ピエロ、お疲れさん」
チーフが近づく。
「よう頑張ったな」
「うち、もっと走れると思ってたんやけどな」
ピエロはうつむいた。
「デビュー戦では勝てたやん。なのに、今日は7着や。この前もあかんかったし……」
「そうやな」
チーフは否定しなかった。
「うち、弱いんかな」
いつもの元気な声ではなかった。
チーフは少し考えてから、ゆっくりと答えた。
「一つの結果だけで、強い弱いが決まるわけやない。今日の結果には、今日の理由がある」
「理由……?」
「それを考えるんが、ワシらの仕事や。ピエロが一人で背負い込む必要はない」
ピエロは黙ってチーフを見た。
「今日は瀬那もおらんかったし、いつもと違うこともあったやろ。次はまた一緒に考えたらええ」
「……うん」
「焦らんでええ。まだ始まったばかりや」
チーフの言葉に、ピエロは小さくうなずいた。
「ほな、次は勝てるように頑張るわ」
「ああ。その気持ちは大事にしとき」
ピエロは少しだけ笑った。
けれど、その表情にはまだ悔しさが残っていた。
デビュー戦の勝利から、わずか三戦。
一度勝って、二度負けた。
ピエロにとって、初めて思いどおりに走れないという経験だった。