黄金の血を継ぐ霹靂 ジュウリョクピエロ 作:Arupaka55
クラシック級 1月開幕週
京都レース場 芝2000メートル
ジュウリョクピエロにとって、初めての芝。
そして、初めての2000メートル。
何より、このレースで結果を残さなければ、春のローテーションが苦しくなる。正念場の一戦。
「緊張しとる?」
パドックへ向かう前、瀬那が聞く。
「してへん」
即答だった。
「ほんま?」
「ほんま」
だが――。
冬だというのに、額から汗が流れている。
首筋にも。
背中にも。
瀬那はじっと見る。
「……嘘ですね」
「バレた?」
「バレるね」
ピエロは苦笑した。
「なんか知らんけど、毎回こうなるんや」
「緊張してないって言ってる人の汗じゃないよ」
「でも、緊張してへん」
「じゃあ、その汗は何?」
「知らん」
瀬那はため息をついた。
パドックに出る。
観客の視線が集まる。
そして――。
「あの子、すごい汗やな」
「大丈夫か?」
「めっちゃ、入れ込んでる」
周囲から声が聞こえてくる。
瀬那は心配そうにピエロを見る。
しかし、チーフは平然としていた。
「いつものことだ」
「慣れませんよ」
「俺も最初は驚いた」
ピエロは苦笑する。
「毎回こんなんや」
本人だけは、もう慣れていた。
やがて本馬場入場。
ピエロが芝コースへ入る。
初めて踏む、京都の芝。
一歩。
二歩。
足元を確かめるように進む。
「へぇ……」
ほんの少し、目が輝いた。
トレセン学園で走った芝とは違う。
観客がいる。
広い。
そして、これから本番が始まる。
「どう?」
瀬那が声をかける。
「やっぱり変な感じ」
「嫌?」
「いや」
ピエロは芝を見ながら笑った。
「なんか、おもろい」
そしてゲート前。
そこで――。
突然だった。
「なんか、いやや!」
「え?」
ピエロがゲートへ進まない。
首を振る。
その場でぐるぐる回り始める。
係員たちが慌てた。
「何してるの!?」
瀬那が叫ぶ。
「知らん!」
「知らんって何!?」
本人にも分からない。
初めての芝。
初めての2000メートル。
いろんなものが重なった結果なのかもしれない。
ようやくゲートへ入る。
「頼むから普通にしてよ……」
瀬那が呟く。
ゲートが開いた。
スタート。
ピエロは――やや後方。
「もう……」
瀬那がため息をつく。
チーフは腕を組んだままだった。
「まだ始まったばかりだ」
向こう正面。
ピエロは走りながら、芝を感じていた。
(芝って、こんな感じなんやな)
軽い。足が前へ出る。
思ったより息も楽だ。
距離は2000メートル。
いつもより長い。
それなのに、不思議と苦しさを感じない。
コーナーを回る。
まだ後方。瀬那が双眼鏡を握る。
「大丈夫かな……」
だが――。
ピエロは慌てていなかった。
むしろ、いつもより落ち着いている。
前との距離を測る。
周りの動きを見る。
そして、じっと待つ。
第4コーナー。
まだ後方。
瀬那の手に力が入る。
「ピエちゃん……」
直線。
残り300メートル。
ピエロが動いた。
スッ。
本当に、それだけだった。
大きく外へ膨れるわけでもない。
力いっぱい地面を蹴るわけでもない。
ただ、前にある隙間へ入る。
一頭。
二頭。
三頭。
周囲のウマ娘たちが必死に脚を使う。
それなのに――。
ピエロだけが、自然に前へ進んでいく。
「……え?」
瀬那が声を漏らした。
「何ですか、あれ……」
チーフも、初めて少しだけ目を細めた。
残り100メートル。
先頭に並ぶ。
そして――。
そのまま抜いていく。
まるで練習のようだった。
必死さがない。
苦しそうでもない。
ただ前へ出た。
ゴール。
一着。圧勝だった。
一瞬、スタンドが静かになる。
そして――。
ざわめきが広がった。
「何や今の」
「追ってないぞ」
「まだ余裕あったやろ」
「芝、初めてやぞ?」
誰も理解できない。
瀬那も理解できなかった。
模擬レースで感じた違和感。
それが、本番でさらに大きくなっていた。
ウイナーズエリア。
ピエロは首を傾げていた。
「瀬那」
「何?」
「芝って楽なん?」
「知らないわよ!?そんなの」
「なんか最後、みんな苦しそうやった」
瀬那は絶句した。
本人に自覚がない。
チーフが小さく笑う。
「面白くなってきたな」
「何がです?」
「芝がだよ」
チーフはピエロを見る。
「こいつ、もしかしたら――」
そこから先は言わなかった。
ダート向きだと思われていたウマ娘。
その初めての芝は、苦戦でも激戦でもなかった。
ただ、勝った。
しかも――余力を残したまま。
そして翌日。
学園に戻ると、掲示板の前に人だかりができていた。
瀬那が近づく。
「何これ……」
掲示板には、大きな文字。
『ジュウリョクピエロ、実は芝の怪物説』
「……早すぎへん?」
瀬那が呟く。
その横からピエロが顔を出した。
「何これ?」
「昨日のレースの話」
「ふーん」
ピエロは掲示板を眺める。
そして首を傾げた。
「怪物って何?」
「……そこから?」
瀬那は頭を抱えた。
本人だけが、この一勝の意味を理解していなかった。
数日後
トレセン学園は、少しだけ騒がしかった。
「初の芝で勝ったらしいよ」
「しかも、かなり余裕があったとか」
「ダートじゃなかったの?」
そんな噂が、少しずつ広がっていた。
当の本人はというと――。
「へぇ」
売店のパンを食べていた。
「へぇ〜。じゃない!」
瀬那が机を叩く。
「今後の予定ですよ!」
「予定?」
「次のレース!どうするの?」
ピエロは首を傾げた。
「まだ終わったばっかじゃん」
「こっからが肝心なの!」
チーフも資料を広げる。
「さて、次を考えるか」
ダートで一勝。
芝で一勝。
問題は、この先どちらへ進むのか。
「ダート?」
瀬那が聞く。
「それとも芝?」
ピエロは黙り込んだ。
珍しく、本当に悩んでいる。
「……分かんない」
それが正直な答えだった。
ダートも嫌いじゃない。
初勝利を挙げた阪神ダート1800メートル。
あの時の嬉しさは、今でも覚えている。
でも――。
京都の芝も忘れられない。
足元の感触。
走っている時の軽さ。
そして、最後の直線。
「あれは気持ちよかったなぁ」
ピエロが、ぽつりと漏らした。
チーフは頷いた。
「まあ、焦る必要はない」
「え?」
「冬の間は走らない」
ピエロが顔を上げる。
「春まで?」
「ああ」
チーフは一枚の資料を机に置いた。
冬季強化合宿計画
ピエロは目を丸くした。
「……長いな」
「三カ月だ」
「三カ月!?」
瀬那も驚いた。
「そんなに?」
チーフは平然としている。
「デビュー以来、走りっぱなしだったからな」
「疲労も溜まっとる」
「今はレースより、身体作りだ」
クラシック級一月。
身体はまだまだ成長の途中。
だったら、無理にレースへ使うより、今のうちに身体を作る。
その方が、この先につながる。
「三カ月かぁ……」
ピエロは窓の外を見る。
冬の空。
「長いな」
「逃げたらあかんよ」
「逃げへんわ」
「ゲート前で暴れたけど」
「それは言うたらあかんやつ」
「あはは」
瀬那が笑う。
久しぶりに、心から笑った。
レースに出られない。
賞金が足りない。
そんなところから始まった年明けだった。
けれど今は――。
芝でも勝った。
春までの時間もある。
焦る理由は、少しずつなくなっていた。
その夜。
寮の屋上。
ピエロは一人、夜空を見上げていた。
ダートか。
芝か。
どちらを目指すのかは、まだ分からない。
でも――。
一つだけ分かることがあった。
もっと強くなりたい。
もっと速くなりたい。
もっと遠くへ行きたい。
そこへ、瀬那がやってくる。
「考え事?」
「ちょっとな」
「次の目標?」
ピエロは少し考えた。
「……分からん」
瀬那は呆れた顔をする。
「またそれ」
「せやけど」
ピエロは夜空を見上げたまま言った。
「大きいレースに出たい」
その言葉だけは――。
迷いがなかった。