夜の肌寒さが薄れてきた、過ごしやすい夕方のことだった。
「しまった……。安売りの大根、全部使うんじゃなかった……」
ワンルームの狭いキッチンで、僕はもう何度目かもわからない反省会をしていた。
コンロの上には、蓋が閉まらないほど具だくさんになっている鍋。
学校帰りに無性に豚汁が食べたくなってスーパーに寄って、ついでに冷蔵庫の中で傷みかけている野菜を消費するためにまとめて煮込み散らかしたらこれだ。
「うん、どう考えても一人で食べきれる量じゃない」
自分が小食なことをすっかり忘れていたのが何よりの敗因だった。空腹時には無限に食べられる気がしたのにと、後悔してももう遅い。
ひとまず現実的な一人前をよそって食べ終わったところで、改めて考える。
ここ数日の暖かさを考えるに、いつまでも常温で置きっぱなしにはできない。
しかし単身学生向け安アパートの冷蔵庫に入れるには、小分けにしたとしてもまだ量が多かった。
「とりあえず、レイコさんにお裾分けしよう」
まず思い浮かぶのは、近所に一人で住んでいる女性の顔だ。今ならちょうど、彼女も夕食を作っている最中のはず。
さっそく小鍋に半分ほど移し、ラップをかけて持ち出した。
外に出た途端、遠くでドンという鈍い音がした。重い物がぶつかったような、何かが爆発したような、空気が震えるほどの大きな音だ。続けてパトカーの警報音も聞こえてくる。
「おお、またやってる」
浮草市で聞こえるこの手の音は、大体異能者の仕業だ。引っ越してきたばかりの頃は妙な音がする度に怖がっていたけど、あまりにも多いのでもう慣れてしまった。
「今日はいつもより派手だなあ……」
薄藍色の空をちらりと見て、アパートから三軒隣に佇む小さな古民家を目指す。
インターホンも慣らさず庭に踏み入り、玄関――ではなく、裏手にある勝手口に回ってノックした。
「レイコさん、こんばんは」
「あら、シノくん? ちょっと待っててねえ、今開けるから」
歌うような艶のある声がして、すぐにドアが開いた。ウェーブのかかった長い黒髪を一つにまとめた女性が出てくる。
「いらっしゃい。どうしたの?」
声と同じくおっとりとした印象の垂れ目が、僕を見るなりかまぼこ型に細められた。
「豚汁食べない? 作り過ぎちゃって」
古民家の主である園宮レイコさんは、僕が浮草市に引っ越してきて以来のおかず分け合い友達だ。
軽く聞いた話だと、旦那さんを亡くして以来、ここで独り暮らしをしているとか。
「食べる食べる。いつもありがとう」
本人は『ただのアラサーよ』と謙遜するけど、レイコさんは近所でも評判の美人だ。気の良いお姉さんくらいにしか思っていない僕ですら、時々色っぽいなと思うことがある。
「ちょうど良かった。私もね、炊き込みご飯いっぱい作ったの。持ってって」
「いいの? 豚汁と炊き込みご飯って、最高のディナーじゃん」
「でしょー? 私も汁物に何か作ろっかなって思ってたところだから、以心伝心ってやつね」
レイコさんは、勝手口から見えるキッチンのコンロに、僕から受け取った小鍋を置いた。
炊飯器を開けて、速やかに炊き込みご飯をおにぎりにし始める。
「いくつ持っていく?」
「んー、明日の昼の分まで欲しいから、三つかな」
「一食一個ってこと? 相変わらず小食ねえ。ウチの旦那なんか、シノくんくらいの頃は毎回一合は食べてたのに」
綺麗な三角形になったおにぎりをラップで包みながら、レイコさんはくすくすと笑った。
「鍋、持って帰っていい?」
「もちろん。適当なのに移しておいて」
「はぁい」
靴を脱いで上がり込んだ僕は、勝手にシンク下を開ける。同じくらいの小鍋を取り出して中身を移した。しょっちゅうこんなことをしているものだから、最近は遠慮もしなくなった。
「はい。四つ持っていきなさい。余ったら冷凍しておけばいいんだから」
本当の母親みたいな調子で、レイコさんはおにぎりが詰まった小さな紙袋を差し出す。
「ありがと……」
僕には馴染みがない、駅前のお高い洋菓子店の袋だった。
庭先まで見送りにきてくれたレイコさんに、もう一度礼を言って踵を返す。
途端にまた爆発音が聞こえた。
思わず振り向いて、レイコさんと顔を見合わせる。
「なんだか、さっきより近づいてきてない?」
「レイコさんもそう思う?」
言っている間に、スマートフォンの通知が二人同時に鳴った。
「ああ、やっぱり。異能者警戒情報出たね」
数年前に整備された新しい災害情報の通知は、かなり正確にその場所を伝えてくる。
どうやら覚醒したばかりの異能者が、ほんの数ブロック向こうで暴れているらしい。
「うわ、レベル三か。早く帰ろう」
「気をつけてね」
「うん、レイコさんも」
心配そうなレイコさんにわざと明るく手を振り、僕は小走りでアパートへの道を急いだ。
「強い異能を持ってると、やっぱり見せびらかしたくなるものなのかな……」
次々に舞い込むスマートフォンの通知に辟易しながら、僕は小さくぼやいた。
異能者というのは、現代の科学や物理の常識を超越した力を操れる人間のことを指す。
古くからあちこちにその痕跡が残っているにもかかわらず、各国の政府が彼らの存在を公式に認めたのは、ここ二十年くらいのことらしい。
原因は未だ不明なものの、世界中で急激に異能者が増加し、彼らによる犯罪が現行法で裁けなくなってきたからだとか。
それでも、全体の人口からすればマイノリティな存在だ。
でも僕が暮らす浮草市は、とある事情で異能者の数が多い。おかげで毎日のように異能犯罪がニュースに取り上げられていた。
「大した異能を持ってなくて良かったなー、僕」
何しろ僕は、普通なのが取り柄だ。高校生男子として大きくも小さくもない身長と体重に、どこにでもいる焦げ茶の髪と目。成績も運動神経も並み。
辛うじて異能者だということでアイデンティティを保てているような有様だ。それすら、浮草市では特筆することでもない。
そんな一般市民は、警報が出たらとにかく家に籠もって外に出ないに限る。
内容をよく見ずに通知をスワイプで消しながら、アパートの駐車場脇に設置されたゴミ置き場の前を通り過ぎた時だった。
ズドン、という尋常ではない音が、真横から聞こえた。
「ひっ」
遠くで鳴る音は気にならなくても、さすがに間近で起きれば警戒する。
慌てて最寄りの屏の陰に身を隠し、そっと様子を窺った。何度指導を受けても前日の夜に出す輩が絶えないゴミ袋の山が崩れ、砂埃が舞っていた。
「何? 例の異能者?」
でも警報の対象がこんなに近くまで来ていれば、スマートフォンが消しても消えない大音量で鳴り出す。それに、武装した警備隊が即座に駆けつけて、辺り一帯が封鎖されるはずだ。
「瓦礫か何か、吹っ飛ばされてきただけかな……?」
薄暗い中で目を凝らすと、ゴミ袋の中に人の足のようなものが見えた。
「……人間? いや、まさかねえ」
きっとマネキンだ。粗大ゴミの日じゃないけど、誰かが適当に捨てたに違いない。
そう思いながら恐る恐る近寄ると――ゴミ山に埋もれていたのは、真っ白な髪の若い男だった。
読んでいただきありがとうございます。
現代が舞台の話を久しぶりに書きます。
お楽しみいただけますと幸いです。