人が倒れている。そう理解した時、まず考えたのは救急車と警察への連絡だった。
すぐにスマートフォンの電話アプリを立ち上げたものの、そこで手が止まる。
――この男、どこから現れたのだろう。
そう考えたら急に頭が冷えてきて、僕は改めて白髪の男を観察した。
年齢は二十代前後だろうか。どうかすると僕と同年代に見える。服装はパーカーとスウェットパンツにサンダルという、ちょっと近所のコンビニまで行くようなスタイル。
胸がゆっくりと上下しているのがわからなかったら、人形だと思うところだった。
それくらい、やたらと綺麗な顔をしていた。
髪には艶があり、衣服も新しいので、ここを根城に決めた路上生活者というわけではなさそうだ。
それからもう一つ思い出す。さっきここを通った時には、ゴミ置き場に異常はなかった。いくら豚汁をこぼさないように気をつけていたとて、人が横たわっていたらさすがに気付く。
となるとやっぱりこの男は、先ほどのズドンという音とともに現れたと見るべきだ。
でも普通にゴミ袋にダイブしたくらいで、あんな大きな音は鳴らない。ということは。
「上から、降ってきた……?」
星が瞬き始めた空を見上げ、僕は思わず眉をひそめた。
まず上から降ってくる時点でおかしいというのは大前提として、大きな音が鳴るような高さから落ちたとしたら、目立った怪我が見当たらないのは更におかしい。
ゴミ袋がクッションになったって、骨の一つくらい折れるものではないだろうか。
しかし骨が折れていたら、安らかに寝息を立てていられないはずだ。
――常識では考えられないことが起きたら異能者の仕業と思え。それがこの、浮草市の常識だった。
「警報の位置は動いてるな……」
ならば彼が騒ぎの中心というわけではない。でもこのタイミングで近いところに現れた時点で、無関係とも思えない。
警察や病院を呼んだら、巻き添えを食うのは確実だ。どういった経緯で彼を見つけて通報するに至ったのか、事細かに聞かれることになるだろう。
まだこの後洗い物と洗濯と学校の課題が残っている僕としては、正直に言って、あまり関わりたくはなかった。
かと言って、このまま見捨てて部屋に戻るのも寝覚めが悪い。
どうしたものかと逡巡し、
「そうだ、レイコさんに相談しに――」
思い出したのは、『困ったことがあったらいつでも相談してね』と言ってくれた、優しい微笑みだった。
今まで遠慮して自分で何とか解決してきたけど、今こそ頼る時なんじゃないか。
「うう……」
さっそく来た道を引き返そうとしたのも束の間、ゴミ袋ベッドで寝ていた男が身じろぎした。
「起きた? ねえアンタ、どっか具合悪いの? 大丈夫?」
無事に目を覚まして、自分の住処に自分の足で帰ってくれれば、誰の手も煩わせずに済む。慌てて側に寄って声をかけた。
しかし男は寝返りを打ち、安らかな顔でまた寝息を立て始める。
「寝るな起きろ! なんでこんなとこで寝れんの!?」
どれだけ図太いんだ。心配は怒りに変わり、僕は思わず激しめに揺さぶった。
「あ……?」
耳元で大声を出したことで、男は眉をひそめながらようやく目を開けた。
その瞳を見た途端、僕の背中に冷たいものが走った。
ゆっくりと瞬きをしながらうろうろと彷徨う目の色は、外灯のぼんやりとした明かりの下でもはっきりわかるくらい赤かった。
――異能者の中には、力が発現すると外見にも変化が現れる者がいる。そんな話を思い出した。
その変化は、強力な異能を持つ者ほど大きいという噂もある。
「そういえば、今暴れてる異能者ってレベル三だったっけ……」
異能者の能力は、危険度に応じて一から十までのレベルが設定されている。専門機関での検査によって決まるため、異能が発現したばかりだったり、ずっと隠していたりすればわからない。しかし、その場合でも『何レベル相当』と表示される。
ちなみに安全と言われるのは一だけで、二は人に何らかの危害を加えられる。三は人に重傷を負わせられるレベルになる。使い方次第で死人が出る強さだ。外見に変化が現れるのも、それくらいからだと聞いたことがあった。
そして異能者が多く集まる浮草市でさえ、レベル三以上の異能者を見かけることはほとんどない。
やっぱり警報はこの男に対するものだったのではと、声をかけてしまったことを今更後悔し、逃げようかと思った時だった。
「お腹空いたあ……」
掠れた情けない声で呟きながら、男が起き上がろうとした。が、ふらついてゴミ袋ベッドから滑り落ちそうになる。
「ちょっ」
やっぱりどこか悪いのか。恐怖心も警戒心も霧散して、思わず支えてしまった。服の下に感じる身体の線はガリガリだった。
対応を考える暇もなく、今度は一旦収まっていた騒音がそこそこ近くで聞こえ、警報の通知も再開する。
このまま外にいたら、この白髪の男もろとも事件に巻き込まれてしまう。
レイコさんに相談しに行こうにも、自分より背の高い男を担いで三軒隣まで走っていけるほど強靱じゃない。
あんまり近所に住んでいるせいで、未だに連絡先の一つも交換していないのが、こんな時に仇になるなんて。
そんなことを考えている間にも、警報の間隔がどんどん狭くなっていく。
「……ああ、もう! 一旦ウチ来て!」
とにかく、まずは屋内に避難するべきだ。僕にできるのは、男に肩を貸して、半ば引きずりながらアパートの外階段を上ることだけだった。