もしも奈々華の部屋を千紗が見てしまったら…

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ぐらんぶる歴15日です。よろしくお願いします。


第1話

千紗視点

いつもの私なら、用事があってもドア越しに声をかけるだけで済ませていた。それが姉である奈々華からのお願いで我が家のルールだった。しかし、今日の姉の様子は明らかにおかしかった。返事のない木目の扉を前に、私は数秒間ためらった後、ついにその禁を破ることにした。

 

 

「…なに…この部屋?」

 

そこは異様な世界だった。

 

奈々華の部屋は、足の踏み場を失いかけていた。部屋の左側にあるベッドの半分は巨大な推し(千紗)の抱き枕の領土になっていた。机、床には手作りされたぬいぐるみ(千紗)にアクリルスタンド(千紗)が置かれており、天井と壁一面には幼少期か今現在のポスター(千紗)が貼られていた。この時気付いていなかったが、抱き枕にはかすかにだが千紗が使っているシャンプーの匂いと奈々華の匂いが混じり合っていた。

 

 

見てはいけないものを見てしまったという恐怖を感じていた千紗の背後からーーー

 

「……千紗、ちゃん?」

突然囁かれ、心臓が大きく跳ね上がる。背筋を冷たいものが走り、慌てて身を翻すと、姉である奈々華がすぐ後ろに立っていた。

 

「お姉……ちゃん…?」

 

この部屋は何って言葉が喉元まで出かかったが、言葉を押しとどめる。それを口にしてしまえば、 二人の関係が壊れてしまうのではないかという恐怖から言葉を発することが出来なかった。

 

「違うの千紗ちゃん!これには理由があって、えーと…」

奈々華は何か答えなくてはと焦るほど、適切な言葉は水に溶けたように輪郭を失っていった。

 

 

二人の間に、張り詰めた沈黙が流れた。

痛いほどの静寂が、部屋の空気を重く支配する。

 

どちらからともなく視線を逸らし、会話の糸口は完全に途切れていた。気まずさという目に見えない泥の中に、二人して肩まで浸かっているような息苦しさ。

 

「…ごめん、少し1人にさせて」

 

千紗は短くそれだけを告げて、相手が引き留める言葉を口にする前に自分の部屋へ向かう。

背中に刺さる視線を振り払うようにして部屋に入ると、容赦なくドアを閉めた。私はその場にへたり込んで深く息を吐き出した。

 

 

 

奈々華は相手が去った後も、その場に棒立ちのまま動けないでいた。

「どうしよう。嫌われちゃったかな…」

 

静まり返った部屋に、ポツリと言葉が漏れた。

 

 

 

 

 

暫くすると奈々華が廊下を歩く足音が聞こえてきた。階段を下りる音だけで心臓がバクバクしている。

『私の部屋に来るかもしれない』と、部屋で息を潜めていた。

 

夕飯の時間が近付いて来ており、千紗も1階へ降りる。

いつもの席とは違う、離れたソファー腰を下ろした。目の前に珈琲が出されたがここまで奈々華との会話はなかった。

 

私はただ冷めていく珈琲を見つめていた。何かを言わなければ修復できないと分かっているのに、喉の奥で渋滞した感情はどれも正解とは思えなかった。必死に手繰り寄せようとした適切な言葉は水に溶けたように輪郭を失っていった。 差し出されることのなかった言葉たちは、ただ二人の間の気まずい沈黙と流れていく。

 

 

 

 

そこへ伊織が帰ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊織視点

どういうわけか、今日の俺は冴え渡っていた。視界に入るものすべてに『答え』のタグがついているような、奇妙な全能感。野生の勘、とでも言うべきか。

 

そんな状態の伊織がグランブルーに入るなり、肌をなでる空気のわずかな温度差に違和感を覚えた。

 

(……千紗と奈々華さんの様子がおかしい?)

 

いつもなら見落とすはずの千紗の本を読む速さ、辛そうな表情、近くには冷めた珈琲が置いてある。

 

ん?もう一度千紗の手元の珈琲カップを見て、飲みかけであることを確認した。

 

――まさか。

 

喉の奥がカラカラに乾き、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

シスコンである奈々華が飲みかけを回収していない。これはただごとではない…古手川家崩壊の危機だと察した。

 

親指と人差し指で目頭をきつく押し込みながら、天井を仰いだ。

この状況はまるで最初から一本の線で繋がっていたかのように、脳裏に一本の回路を結んだ。考えるより先に、身体が『答え』を理解していた。

 

奈々華さんの部屋をたまたま見た千紗が、『お姉ちゃんってシスコンだったの?!』ってバレたに違いない。

 

今日の伊織はやはり冴えていた。

 

 

 

 

実の姉がシスコンなのは千紗にとって許し難いことだろう。

以前は何も言わずに通じ合えたのに、今は相手の一挙手一投足に過剰に気を遣っている。

 

『本当のことを言って拒絶されるのが怖い』『本当のことを知ることが怖い』ってお互に思っているに違いない。

 

俺は奈々華さんが好きで好きで譲れないもの、千紗の大切にしている何気ない日常を守りたい。

『俺は無力だった』なんて自己憐憫に浸るのはごめんだ。

 

何食わぬ顔で席に座り「奈々華さん、千紗と何かありました?」と本質を突く。

 

「ッ……ど、どうしてそう思ったの?」

奈々華の肩がびくりと不自然に跳ね、そのまま全身の血の巡りが止まったかのように硬直する。

 

「いやーいつもと雰囲気が違う気がして…てっきり俺達の秘密がバレちゃったのかと思いましたよ」

天気の話をするくらいのテンションで、ありもしない嘘を口にしていた。

 

「…え?……えっ??」

 

千紗は珈琲をすすろうとしていた湯呑みが唇の手前でピタリと止まり、駆け足でこちらに向かい机を叩いて身を乗り出した。

「…伊織、お姉ちゃんとの秘密ってなに?もしかして……お姉ちゃんの部屋に関係してあることなの…?」

 

(よし食いついた)

「……何のことか分からないな」

 

「私に言えないことなの…?」

千紗の細い眉が、わずかに中央に寄せられる。

その瞳は俺の顔から寸分も逸らされず、まるで心の内幕を覗き込もうとしているかのようだった。小さく開かれた唇から漏れる呼吸の静けさが、部屋の空気をぴんと張り詰めさせる。

 

「…はぁ。奈々華さんの部屋バレてるなら隠し通すことは出来ないよな。奈々華さんの部屋がああなっているのは俺が原因だ」

実際に見たことはないので、適当に濁しておく。

 

 

 

伊織が取った行動は自分が身代わりになって、奈々華の立場を守ることだ。付き合いは短いが、軽い目配せを行いその意図を「俺の話に合わせてください」だと瞬時に理解させる。

 

千紗が「そうなの?」と奈々華に視線を向ける。

一瞬だけ目を合わせ、すぐに逸らして小さく首を縦に振る。

 

「お姉ちゃんの部屋にあった私の写真やぬいぐるみは伊織が原因だってこと…?」

 

「そうだ。あのグッズは俺が原因で置いてあるんだ」

 

「…じゃあベッドに置いてあった抱き枕も…?」

 

「だき?!あ、当たり前だ。あの抱き枕がなかったら大惨事になっていたところだ!」

 

「……待って。本当に理解できない。どうしてお姉ちゃんの部屋に私のグッズが置いてあって、抱き枕がないと大惨事になるの!?」

俺だってなぜ大惨事になるのか分からない!

でも、ここは答えないと…ッ仕方がない!!

 

 

 

「……実は俺、奈々華さんのことエロい目で見てるんだ」

 

「…は?」

 

「言い方が悪かった。千紗と比べて奈々華さんのことをエロい目で見てしまう」

 

「いやいや、余計に意味わからないって…」

 

「奈々華さんは優しい、綺麗でスタイルも良くて女らしい。男にとって魅力的なんだ。そんな人と一緒に暮らしていると『今夜だけは、誰かに甘えたい』って過ちが起きてしまうかもしれない。でも、千紗の顔を見ると何故か心が落ち着くことに気付いた。だから千紗がいない時は奈々華さんは襲われないように…、身内から犯罪者(俺)出さないために千紗グッズを用意してくれていたんだ!」

 

途中から何を言っているか分からなくなった。

 

奈々華さんはなんか泣きそうな顔しているけど、泣きたいのは俺の方だよ!マジで腕組みしながら何言ってるの俺?誰か助けて。

 

 

 

 

 

 

千紗視点

絶対にありえない言い訳だったが、千紗は信じようとしていた。

(そういえば伊織も前に私の写真を壁一面を埋め尽くしていた。あの時はバカが奇行に走っていたくらいにしか思ってもいなかった。でも、実際はお姉ちゃんを傷付けない為に自分で準備をしていたってこと?)

 

私には全く理解ができない感情だと思っていたけど、それもこれもお姉ちゃんの安全を守るためだとしたら説明がつく。

 

事前に想定できており準備していたはず…なのに、なにも知らないで私はそれらを取り上げてしまった。

そのせいでお姉ちゃんの部屋がああなって…。

 

 

「そうだったんだ…お姉ちゃん疑ってしまってごめんなさい」

今の話信じたの?! と、伊織と奈々華は心の中で叫んだ。

 

「え?い、いいのよ千紗ちゃん!私こそ勘違いさせてごめんなさい?」

相手の信じ込み方がガチすぎて、逆に奈々華が動揺してしまう。

 

「お姉ちゃんは悪くないよ?そんなことより伊織に変なことされてない?」

 

「変なこと…あ、一回だけ服を脱がされそうに……あっ」

(あぁ〜厚着で素麺を茹でていて時の話か。あの時は暑そうだから脱がそうと…ってえぇー?!)

 

「な、奈々華さん!?あれは「伊織!お姉ちゃんに何してるの!?」は、お願いだから話を聞いてくれ!」

 

「千紗ちゃんさっきのは「……お姉ちゃんもう大丈夫だから!」…えっ?」

 

千紗は奈々華の手を取り、席から立ち上がらせた。

 

その様子を見た伊織は2人の距離感が戻ったことに安堵する。

ひとまず姉妹が分裂する最悪の事態は避けられたらしい。

あれ?予想以上に丸くおさまったんじゃね?

ひょっとして俺みんなの悩みを解決するのに向いてたりする?なんて自分の考えがあまかったことを後悔することになる。

 

「伊織、今度お姉ちゃんに近づいたらぶっ飛ばすから。とりあえず5万回死ね」

 

(なぜ俺がぶっ飛ばされる流れに…?)

と思ったけど、考えたら当たり前だ。

嘘の彼女とはいえ、その姉に発情するなんて明らかにやばいだろう。俺だってそんなやつはぶっ飛ばした方がいいと思う。

 

「2階に逃げるよ!」

千紗が振り返りざまに奈々華の手を掴んだ。

 

その様子から1秒でもこのヤバいやつと関わりたくないって意志を感じる。

 

奈々華は引っ張られるままに走り出したが、視線は彼女の手元に釘付けだった。もう繋いでくれないと覚悟していたんだろう。

 

頑張ったかいはあったが、千紗の表情を見た瞬間俺はすべてを悟った。

 

ああ、これは確実に嫌われたな、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊織視点

あれからしばらくビールを飲んでいると、階段を一段ずつ静かに降りてくる足音がした。見上げると、2階から降りてきた奈々華が立っていた。お気に入りのワンピースの裾がふわりと揺れ、シャンプーの甘い香りがかすかに漂ってきた。お風呂に入ってきたのならいつもはパジャマなのに、今日に限ってワンピースなのは少し気になる。

 

「伊織君さっきはありがとう」

 

「いいんですよ。無事仲直り出来たみたいで良かっです」

 

「でも、私のせいで伊織君が…」

 

「気にしないでください。元々は偽りの彼氏だったんで…はぁ…」

 

伊織は小さく息を吐くと、自分の爪先を見つめたまま動かなくなった。

「どうかしたの?」

 

「いや、千紗に嫌われたんで別れ話があるのかと…それが野郎どもにバレたら…『おやおやぁ?古手川さんにフラれた北原君じゃないですかぁ?』や、『これはこれは惨めですなぁ』ってバカにされ、しまいには『一生童貞(友達)だ』ってトドメを刺されるに決まってるんですよ。なのでどうやって殺そうか悩んでました」

 

自嘲気味に笑って、ビールを口に運ぶ。

奈々華はその横顔を見つめながら、胸の奥がチクリと痛むのを隠せなかった。

 

「随分ユニークなお友達なのね…。伊織君、もし千紗ちゃんにフラれたら……」

 

「ん?」

 

「こっ、今度は私と付き合いましょう」

 

唐突な告白の言葉を受け止めきれず、俺の脳が差し出してきたのは、「冷蔵庫の牛乳の賞味期限が今日までだったな」と考えた記憶だった。

 

「……え?」

 

「どう…かな?」

目の前の彼女は真剣な眼差しで俺の返答を待っている。

 

「ちょっ、奈々華さん?!付き合うだなんて冗談でも言ってはダメですよ。 他の人が聞いたら誤解してしまいますし、俺だって変に期待しちゃうじゃないですか」

 

 

 

 

 

 

 

「――伊織君。私は貴方が好きです」

 

 

 

 

 

 

今度は脳が言葉の意味を理解するより早く、心臓が跳ね上がった。何を言われた? 好き? 誰が? 奈々華さんが俺を?思考がぐちゃぐちゃに絡まり、まともな言葉が出てこない。

 

少し震えている唇に強く握りしめられた手を見て、本気の告白だと確信する。

 

「い、いやいや?!こんな裸で酒を飲むような男ですよ?!好きになったらダメですって!!」

 

「伊織君は良い人だよ?それは関わってきたみんなが知っているわ。今回だって千紗ちゃんと仲直り出来たのは伊織君のおかげだから…だから……」

 

話の途中で奈々華がふっと一歩、俺の目の前に踏み込んできた。

驚くほど近い距離。見上げる彼女のまっすぐな瞳に射抜かれ、俺は声もなく硬直する。彼女の小さな肩が少しだけ上がったと思った次の瞬間柔らかくて、ひどく熱いものが、俺の唇に触れていた。

 

頭の中が真っ白になり、心臓が爆発しそうなほどの音を立て始める。目の前にある彼女の長いまつ毛がかすかに震えている。それが口づけだと理解したときには、彼女の身体はもう、ふわりと後ろへ遠ざかっていた。

 

 

「……あ」と、呟くと奈々華の顔は真っ赤になって俯いた。

 

「私、異性にキスしたの初めてだから…それじゃおやすみなさい」

 

彼女は脱兎のごとく2階へ逃げ出した。バタバタバタ、と階段を上り、廊下を走り、自室のドアがバタンと閉まるまでのスピードは一瞬だった。

指先でそっと触れた唇だけが、信じられないほど熱く脈打っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千紗視点

奈々華と分かれたあと自室のベッドに倒れ込み、天井を仰ぐ。目を閉じると、先程までのやり取りが鮮明にフラッシュバックしていた。

 

そこで伊織の言葉のなかに致命的ではない、けれど無視できない「歪み」があることに気付いた。

何が違和感だったのか、すぐに言葉にできた。

 

千紗の部屋で女子だけの飲み会の時の梓の『伊織をエッチに誘ったかな』って発言していたこと。その誘いに伊織は…

 

「梓さんからの誘いを断った…?」

 

 

『私の写真がないと過ちが起きる。でも二人っきりの状況で梓さんの誘いを断った』って、終わった会話を何度も何度も頭の中で再生してもわからない。こんな風にモヤモヤして時間を無駄にするくらいなら、いっそ直接本人に聞いて、白黒はっきりつけたい。

 

部屋を出るためにドアノブに手をかけた瞬間、先に隣の部屋のドアが開く音が聞こえて、思わず手を止めた。

タイミングが悪くて、なんとなく出るのをためらってしまう。

 

耳を澄ませると、どうやら1階に降りているようだ。

千紗も後を追うように、タイミングを見計らいながら音を立てないように部屋を出る。

足音を立てないように階段の近くで立ち止まり、1階から漏れ聞こえる2人の会話をじっと聞いていた。

 

 

 

 

私が別れ話をする?確かに考えているけど…

 

伊織は童貞…ってことはあの人(毒島桜子)ともエッチしていないってことだよね…良かった。

 

お姉ちゃんが伊織に告白した…?

嘘でしょ、と呟いたつもりだったが声は出なかった。なんでお姉ちゃんが…。

「……いや、聞き間違えに決まっている」

私は小さく首を振ったが、背中には冷たい汗が伝わるのを感じた。

 

聞き間違えではなかったとしても、梓さんや毒島さんのお誘いを断った伊織ならきっと…。

 

目に飛び込んできた光景は、店の真ん中で唇が重なっている2人の姿だった。

 

 

 

ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ねる。自分の呼吸の音がやけに大きく響いていた。見たくない、逃げ出さなければいけないのに、床に足の裏が張り付いたように一歩も動けなかった。

 

見つからないように息を潜め、二人が離れるまで隠れてやり過ごす。

 

奈々華は2階へ逃げ出すように駆け上がる。隠れていた私には気付かなかったようだ。

 

恐る恐る視線を1階の奥へ巡らせると、伊織の満更でもない態度…ちょっと嬉しそうな表情を見せた。

 

 

(……あぁ?)

その表情に千紗はブチギレた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊織視点

奈々華にキスされて、さっきほどまで生暖かかった部屋の空気が急激に冷えていく。背中から凍てつくような冷気が這い上がってきた。

耳鳴りがするほどの静寂。まるで世界から音が消えたようだ。ただ一つ、ゴゴゴ、と地鳴りのような低い響きが自分の真後ろから聞こえる気がする。

 

見なくても分かった。生存本能が『後ろを振り返るな』と脳内で警報を鳴らし続けている。

 

 

突如、右肩にじっとりとした重みが加わる。骨に響くような強い力に全身が震える。

 

「ひ、人違いです」

 

「……あぁ?」

 

振り返ると、満面の笑みを浮かべた鬼神が立っていた。

 

「ずみまぜん…」

 

 

そして何故か俺は正座をさせられている。

すでに痺れは限界を迎え、足首から下の感覚はとうに消え失せていた。少しでも体重を移動させようものなら、数万本の針で一突きの刑に処されるだろう。

 

「――で? 何か言うことは?」

 

目の前で腕を組んだ千紗が冷徹な声を響かせる。

私は感覚のない膝を震わせながら、脳細胞をフル回転させて出てきた答えが「変態ですいません」だった。

 

「はぁ、伊織はバカでどうしようもない変態だったよね」

 

「…ハイ」

 

「変態、変態、変態…ばか…」

 

「……それを言いに来たのか?」

 

「……。」

千紗は目を逸らし答えなかった。

 

たった数秒の空白が、まるで永遠のように長く感じられた。

なぜ黙り込んでいる?てっきり奈々華さんの件で怒られると思っていたのだが…。

 

もしや別れ話を切り出そうとしているのでは!!?

 

おそらく千紗は男女交際の経験がない(俺もだが)

だからこそ切り出せずに困っているのだろう。

…だが、まぁ仕方がない。千紗がそう望むのなら俺はーー

 

 

 

「伊織、唇汚れてる」

 

千紗は吐き捨てるように言いながら、親指の腹で伊織の唇を強く拭った。

 

「ぅぐ…」

 

唇を痛がっている伊織の胸元を掴む。突然引き寄せたかと思うと柔らかい唇が乱暴に押し付けられた。息が詰まるほどの強さに、前歯が裏唇に当たって小さな痛みが走る。

不意に唇を奪われ、思考がフリーズした。

 

 

数秒の後、ようやく解放された伊織は、溺れた人が水面に顔を出したように勢いよく息を吐き出した。

 

「ぷはっ…な、なにするんだよ千紗!」

 

「…上書きしただけ。あと…」

 

伊織に近づいた千紗は耳元に唇を寄せ、「私絶対に別れないから」と低い声で囁いた。

 

唇に残る微かな体温だけが、今の出来事が夢ではなかったと証明していた。

 


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