Dr.STONE ―石世界紀行― 作:科学知識に自信が無いのでAIに書かせた
ぐうううう。
「…………」
腹の虫が鳴いた。
それも、随分と盛大に。
「……お腹空いた」
朝露に濡れた草の上で、星は自分の腹を押さえていた。
石化から目覚めて三日目。最後にまともな食事をしたのがいつだったのか、もはや思い出せない。
いや、正確には覚えている。石化する直前の食事だ。何を食べたのかは曖昧だが、少なくとも現世の自分は、それ以来何も口にしていない。
昨日ようやく飲み水を確保できたものの、食料については完全に後回しになっていた。
「……そりゃ、お腹も空くよねぇ」
そんなことを言っても、食べ物が出てくるわけではない。
幸い、今のところ立って歩けないほど衰弱してはいなかった。それでも、このまま食事を取らずに活動を続ければ、いずれ動けなくなるだろう。
特に、今の身体は前世の旅人と違って体力がない。空腹のまま無理をすれば、怪我をする可能性も高くなる。
星は近くに置いていた竹筒を手に取った。
昨日、苦労して煮沸した水だ。すっかり冷めてしまっているが、飲むにはちょうどいい。
「……ぷはぁ」
喉を潤し、息を吐く。
水があるだけ、まだ恵まれている。
そう思うことにした。
もっとも、身体は正直だった。
ぐうううう。
「……分かったってば」
自分の腹に返事をしてから、星は立ち上がった。
今日の最優先事項は決まった。
食料の確保である。
◇
食料を探すにあたって、星は最初に一つの方針を決めた。
知らないものは、食べない。
前世では、何十年も旅を続けてきた。
その間には、食料の調達に苦労したこともあれば、山野で採集したものだけで数日を過ごしたこともある。
けれど、それはあくまで前世の世界での話だった。
あちらの森で食べられた木の実が、日本の森にもあるとは限らない。植物の姿が似ているからといって、同じ性質を持つとも限らなかった。
それに、現世の星は植物学者でもなければ、山菜採りの名人でもない。
学校で習った知識や、普段の生活で見聞きしたことは覚えているものの、それだけで野生植物を正確に見分けられる自信はなかった。
「……こういうとき、図鑑が欲しいよねぇ」
石化前なら、スマートフォンで調べることもできただろう。
しかし、今はそれもできない。
食べ物を見つけること。
それが安全に食べられるか判断すること。
この二つは、別の問題なのだ。
「……となると、何を探そうかな」
星はしばらく考えた。
知らない野草や木の実は避けたい。
かといって、大きな獣を狩るための武器もない。今の身体では、小動物を追いかけるのも難しいだろう。
そこで思い浮かんだのが、昨日見つけた沢だった。
「……魚とか、いるかな」
もちろん、魚なら何でも食べられるというわけではない。
けれど、現世で見知った生き物が見つかれば、食料にできる可能性はある。
何より、水辺には魚以外の生き物もいるはずだった。
星は竹筒を手に取り、沢へ向かうことにした。
岩の間を流れる小さな沢。
水は透明で、川底の小石までよく見える。周囲には湿った落ち葉が積もり、ところどころに苔が生えていた。
星は岸辺にしゃがみ込み、水中を覗き込んだ。
「……あ、いるいる」
小さな魚影が、石の間を泳いでいる。
しかし、種類までは分からなかった。
そもそも、今の星には釣り針も網もない。
素手で捕まえようとしても、簡単に逃げられてしまうだろう。
「……うーん」
しばらく水面を眺めていた星は、ふと川底の石に目を向けた。
大きめの石が、いくつも沈んでいる。
その隙間には、何かが潜んでいるかもしれない。
星は沢の縁にある石を一つ、慎重に持ち上げた。
「……あ」
小さな影が動いた。
丸みを帯びた甲羅。
左右に伸びる脚。
そして、小さな鋏。
「……サワガニ?」
思わず声が弾んだ。
それは、星が現世の日本で見知っていた姿によく似ていた。
図鑑などで目にしたことのある、沢に棲む小型のカニだ。
星はすぐに捕まえようとはせず、しばらくその姿を観察した。
甲羅の形。
鋏の付き方。
脚の様子。
少なくとも、記憶にあるサワガニの特徴とはよく一致している。
「……うん。これは分かる」
ようやく、食料になりそうな生き物を見つけられた。
ただし、注意しなければならないこともある。
サワガニには寄生虫がいる場合があり、生で食べるのは危険だ。
石化前の日本でも、加熱が不十分なサワガニを食べて病気になることがあると聞いた覚えがあった。
「……ちゃんと火を通さないとね」
星は慎重に手を伸ばした。
逃げようとするカニを追い、石の隙間へ指を差し込む。
「いたたたっ!」
鋏に挟まれた。
「……っ、もう!」
痛みに顔をしかめながらも、どうにか一匹を捕まえる。
その後も周囲の石を一つずつ調べ、同じ特徴を持つカニだけを集めていった。
もちろん、見つけたものを片っ端から捕まえたわけではない。
小さすぎるものは見送り、種類に迷うものにも手を出さなかった。
そうして、竹で作った容器の中に、数匹のサワガニが収まった。
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれる。
大きな獲物ではない。
これだけで腹が満たされるとは思えなかった。
それでも、何も食べられないよりはずっといい。
さらに沢の周囲を調べていると、星は見覚えのある植物を発見した。
「……ん?」
細長い葉が、地面から何本も伸びている。
どこかで見たような姿だった。
「……これ、ノビル?」
石化前の日本でも食べられていた野草だ。
名前くらいは知っているし、写真を見たこともある。
星は一本を慎重に掘り起こした。
根元には、小さな球根のようなものがついている。
葉を傷つけると、ネギに似た匂いもした。
「……それっぽい、けど」
そこで、星は手を止めた。
ノビルに似た植物。
食べられるものと、食べられないもの。
そんな話を、以前どこかで聞いた覚えがあった。
「……スイセン、だっけ」
確か、野草と間違えて食べてしまう事故があったはずだ。
詳しい見分け方までは覚えていない。
目の前の植物は、記憶にあるノビルの姿に似ている。
匂いも、それらしい。
けれど、それだけで確実に食べられると判断できるだろうか。
「…………」
星はしばらく植物を眺めていた。
腹は減っている。
食べ物が欲しい。
それも、できれば今すぐに。
しかし、だからこそ慎重にならなければならなかった。
もし毒があったら。
もし間違えていたら。
今の世界には病院もなければ、助けを呼べる相手もいない。
「……やめとこ」
星は植物を地面に戻した。
確信が持てないものを、無理に食べる必要はない。
それに、前世ではこういう状況を何度も経験していた。
空腹に負けて危険なものに手を出すより、食べられると分かっているものを探した方がいい。
「……まあ、カニが捕れただけでも上出来かな」
星は竹筒を持ち上げた。
ひとまず、今日の食事は確保できた。
量については、少々心許ないけれど。
◇
ぱちぱちと、焚き火が燃えていた。
星は集めたサワガニを前に、調理の準備を進めていた。
まずは、沢の水を汲む。
それから、昨日と同じように石を熱し、竹筒の中の水を加熱する準備を整えた。
もっとも、今回は単に水を沸かせばいいわけではない。
サワガニを食べるなら、十分に火を通す必要がある。
生焼けになれば寄生虫の危険があるし、調理に使った手や道具にも注意しなければならない。
「……こういうとき、鍋が欲しいよねぇ」
星は小さく溜息をついた。
竹筒では容量も限られる。
石を使って加熱するのも手間がかかるし、温度の管理だって難しい。
それでも、今は手元にある道具で何とかするしかない。
星は洗ったカニを竹筒に入れ、加熱した石を使って水を沸かした。
石を交換しながら沸騰を保ち、十分に時間をかけて火を通す。
その間にも、火が消えないように薪を追加しなければならなかった。
「……料理って、大変だなぁ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
前世では、野営中に料理をすることも珍しくなかった。
けれど、あの頃は鍋も包丁も持っていたし、必要なら魔法で火を起こすこともできた。
今は違う。
何をするにも、一つずつ準備が必要だった。
そして、随分と時間が経った頃。
「……そろそろ、いいかな」
星は火から離れた場所へ竹筒を移し、少し冷ましてから中身を確かめた。
カニはしっかりと加熱されているようだった。
それでも、念のため慎重に状態を確認する。
加熱が足りないと感じたものは、もう一度火にかけた。
ようやく食べる準備が整う。
「……いただきます」
星は両手を合わせた。
誰もいない森の中で、食事の挨拶だけが響く。
殻を割り、中の身を口に運ぶ。
「…………」
しばらく噛んでから、星は小さく頷いた。
「……おいしい」
調味料はない。
特別な料理というわけでもない。
それでも、久しぶりに口にした食事はひどく美味しく感じられた。
もっとも、サワガニは小さい。
食べられる部分も、決して多くはなかった。
数匹を食べ終えても、腹が満たされたとは言い難い。
「……うーん」
星は自分の腹を押さえた。
「……まだ足りないねぇ」
当然だった。
これまでまともに食べられていなかったのだから、数匹のカニで十分な栄養を得られるはずがない。
それでも、今日は食料を確保できた。
少なくとも、一歩前進したことには違いない。
「……明日も探さないとなぁ」
星は焚き火を見つめながら呟いた。
前世でも、食料の確保は旅の基本だった。
けれど、あの世界には街があり、村があり、市場があった。
必要な食べ物を買うこともできたし、旅先で分けてもらうこともできた。
今の世界には、それがない。
だから、自分で何とかするしかない。
「……魚を捕まえる道具とか、作った方がいいかな」
沢で見かけた小魚を思い出す。
ただし、捕まえられたとしても、種類が分からなければ食べるかどうかは慎重に考えなければならない。
まずは、食べられる生き物について知識を増やす必要がありそうだった。
前世の経験だけでは、どうにもならないこともある。
それを、星は改めて実感していた。
◇
食事を終えた星は、次に履物を作ることにした。
昨日からずっと裸足で歩いているせいで、足の裏は小さな傷だらけになっている。
このまま旅を続けるのは、あまりにも危険だった。
「……草鞋、かな」
現代日本の知識では、草鞋は藁で作る履物という印象が強い。
だが、前世では植物の繊維や革を利用した簡易的な履物を何度も作っていた。
必要なのは、足の裏を保護する底と、それを固定するための紐だ。
材料さえあれば、今の環境でも作れるはずだった。
星は周囲の植物を調べ、丈夫な繊維を取り出せそうなものを集め始めた。
柔らかい樹皮。
丈夫な蔓。
細長い草。
それらを裂き、撚り合わせ、編んでいく。
ただし、作業は思った以上に難航した。
前世で慣れ親しんだ材料とは性質が違ううえ、今の手は細かい作業にまだ慣れていない。
それでも、作り方自体は覚えていた。
だから、一つずつ確かめながら進めていけばいい。
「……んー、ここをこうして……」
編んだ繊維を重ね、足の形に合わせて整える。
底を厚くし、足首を固定する紐を通す。
途中で何度も手を休めた。
空腹は少し和らいだものの、身体の疲労はまだ残っている。
結局、履物が完成したのは、作業を始めてから四時間ほど経った頃だった。
「……できた!」
星は完成した履物を両手で持ち上げた。
見た目は、お世辞にも立派とはいえない。
しかし、足の裏を守るという目的は十分に果たせそうだった。
早速履いて、近くを歩いてみる。
ざく、ざく。
足裏に伝わる地面の感触が、明らかに柔らかくなっていた。
小石を踏んでも、直接肌に食い込まない。
「……おお!」
思わず声が弾んだ。
「いいね、これ!」
自分で作ったものが、きちんと役に立つ。
その感覚は、なかなか嬉しいものだった。
星はその場で数歩歩き、軽く足踏みをしてみた。
問題はなさそうだ。
「……ふふ」
これで、少しは遠くまで歩ける。
もっとも、今日はそこまで遠出をするつもりはない。
行きたい場所は、すでに決まっていたからだ。
昨日見つけた、あの石段。
その先を調べてみよう。
◇
石段は、森の中にひっそりと残されていた。
昨日置いた目印の石を確認し、星は斜面を見上げた。
「……さて」
苔むした石段。
その隙間から伸びる木の根。
落ち葉に埋もれた参道らしきもの。
見た目以上に歩きにくそうだった。
星は足元を確かめながら、一段ずつ登り始めた。
新しく作った履物が、早速役に立っている。
もっとも、苔で滑りやすくなった石には注意が必要だった。
手近な木の枝を杖代わりに使い、身体を支えながら進んでいく。
「……結構、長いなぁ」
しばらく登ったところで、星は息を整えた。
石段の先はまだ見えない。
それでも、途中から周囲の様子が少しずつ変わり始めていた。
石段の両脇には、明らかに人の手で配置されたと思われる石が残っている。
苔に覆われた石垣のようなものもあった。
そして、その先。
「……あ」
木々の間に、開けた場所が見えた。
星は足を速めかけ、慌てて歩調を落とした。
ここで転んでは元も子もない。
慎重に最後の石段を登りきる。
そこには、森に飲み込まれた小さな広場があった。
「…………」
星は、思わず足を止めた。
かつて、建物があったのだろう。
平らに整えられた土地には、石の基礎らしきものが残っていた。
しかし、建物そのものは見当たらない。
木造だったのなら、長い年月の間に朽ち果ててしまったのかもしれない。
広場の中央には、大きな木が立っていた。
その根元には崩れた石がいくつも転がっている。
さらに奥には、横倒しになった石灯籠のようなものが見えた。
「……やっぱり、神社?」
星はゆっくりと歩き始めた。
倒れた石灯籠のそばにしゃがみ、表面の苔を払い落とす。
石には何かが刻まれていた。
文字だ。
「……えーっと……」
指先で溝をなぞる。
風化が進んでいるものの、いくつかの文字はまだ読み取れそうだった。
「……奉、納?」
その下にも文字が続いている。
しかし、途中からは大きく欠けていて、判読できなかった。
奉納。
その言葉を見て、星は小さく頷いた。
「……神社っぽいね」
周囲には、ほかにも人工的な石造物が残っていた。
手水鉢らしき石の器。
崩れた石垣。
そして、何かを安置していたと思われる小さな台座。
それらを一つずつ見て回るうちに、星はここがかつて小さな神社だったのだろうと考えるようになった。
大きな神社ではない。
石化前の日本にも、町や村の片隅にひっそりと建っている神社は数多くあった。
ここも、そうした場所の一つだったのかもしれない。
「……誰もいないんだね」
ぽつりと呟く。
当たり前だ。
ここまで来る間、人の姿は一度も見ていない。
それでも、どこか寂しかった。
かつて、この場所には人が訪れていたはずだ。
石段を登り、手を清め、社殿の前で手を合わせていたのだろう。
初詣に来た人もいたかもしれない。
子供の成長を願った人も。
家族の健康や、試験の合格を祈った人も。
けれど、今は誰もいない。
社殿は朽ち、参道は森に埋もれ、神社の名前すら分からなくなっていた。
それなのに。
「……不思議だなぁ」
星は周囲を見渡した。
森は静かだった。
風が吹き、木々が揺れ、鳥が鳴く。
ただそれだけの場所。
にもかかわらず、どこか落ち着く。
異世界を旅していた頃にも、似たような場所を訪れたことがあった。
古い神殿。
忘れられた祭壇。
誰も参拝しなくなった聖域。
もっとも、あちらの世界とこちらの世界では事情が違う。
少なくとも、日本の神様が実在するという証拠を、星は持っていない。
けれど、実在しないという証拠もなかった。
「……神様って、どうしてるんだろ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
人間がいなくなったら、神様もいなくなるのだろうか。
それとも、人間が来なくなっても、ずっとここにいるのだろうか。
分からない。
そもそも、神様が存在するかどうかさえ分からないのだから、考えても仕方がない。
それでも。
「……まあ、せっかくだし」
星は、かつて社殿があったと思われる場所へ向き直った。
足元を整え、姿勢を正す。
そして、静かに手を合わせた。
何かを願ったわけではない。
誰かに助けを求めたわけでもない。
ただ、ここがかつて大切にされていた場所なのだと思うと、何もしないで立ち去るのは少し違う気がしたのだ。
しばらくして、星はゆっくりと手を下ろした。
「……お邪魔しました」
小さく頭を下げる。
返事はなかった。
けれど、それでいい。
◇
神社の跡を離れる前に、星はもう一度だけ広場を見渡した。
石段。
石灯籠。
手水鉢。
建物の基礎。
そして、中央に立つ大きな木。
目にしたものを、忘れないように頭の中で整理していく。
「……記録、残したいな」
昨日も考えたことだった。
旅の記録。
前世では時折、日記をつけていた。
訪れた街の名前や、見たことのない景色、旅先で出会った人々について書き残していた。
長い旅を終え、村で暮らすようになってからは、昔の日記を読み返すことも楽しみの一つだった。
あのときは、紙も筆記具も当たり前に手に入った。
けれど、今は違う。
「……紙、かぁ」
星は小さく唸った。
紙の作り方なんて知らない。
学校で習ったことといえば、古代エジプトではパピルスという植物から紙のようなものを作っていた、という程度だ。
そもそも、パピルスがこの辺りに生えているとも思えない。
それに、パピルスの詳しい加工方法も覚えていなかった。
「……和紙って、どうやって作るんだっけ?」
楮。
三椏。
雁皮。
名前くらいは聞いたことがある。
けれど、それらを使って実際に紙を作れと言われても、何から始めればいいのか分からない。
前世の記憶を探ってみても、状況はあまり変わらなかった。
旅先で紙を買ったことは何度もある。
しかし、製紙職人の仕事を詳しく見学した覚えはなかった。
「……うーん、無理かぁ」
いや。
そこで星は、ふと思い直した。
紙がないからといって、記録が残せないわけではない。
昔の人間は、石に文字を刻んだり、木の板に書いたりしていた。
ならば、自分にもできるはずだ。
星は周囲を見回した。
倒れた木の近くに、比較的平らな樹皮が落ちている。
それを拾い上げ、指で表面を確かめる。
「……これなら」
長期間保存できるかどうかは分からない。
雨に濡れれば傷むだろうし、虫に食われる可能性もある。
それでも、何も残さないよりはいい。
星は樹皮を持ち帰ることにした。
そして、もう一度だけ振り返る。
森に埋もれた小さな神社。
かつての名前も、祀られていた神様も、今は分からない。
けれど、確かにここには人間の営みがあった。
それを覚えておきたかった。
「……石世界紀行」
ぽつりと呟く。
昨日、思いついた名前だ。
少し格好をつけすぎかもしれない。
けれど、今の自分が旅の記録を書くなら、この名前がいい気がした。
失われた世界を歩き、その景色を書き残す。
いつか誰かが読むかもしれない。
あるいは、誰にも読まれないまま朽ち果てるかもしれない。
それでも、構わなかった。
前世でも、旅の記録を残していたのは、誰かに褒めてもらうためではなかったのだから。
ただ、自分が見たものを忘れたくなかった。
それだけだ。
◇
夕暮れが近づく頃、星は新しい寝床を作っていた。
今度は、獣道から十分に離れた場所だ。
水場にも近すぎず、増水した際に流される危険が少ない高所を選んだ。
周囲には倒木や崩れそうな斜面がないことも確認してある。
最初の夜の失敗を繰り返すつもりはなかった。
「……よいしょっと」
枝を組み、屋根を作る。
地面には乾いた葉や細い枝を敷き、直接冷たい土に触れないようにした。
昨日の経験がある分、作業は少しだけ手際よく進んだ。
とはいえ、疲労は隠せない。
食事はできたが、十分な量ではなかった。
そのうえ、履物を作り、石段を登り、神社を探索している。
十五歳の身体には、なかなか厳しい一日だった。
「……ふぅ」
寝床が完成すると、星はその場に腰を下ろした。
空を見上げる。
木々の間から、夕焼けが見えた。
「……今日も、色々あったなぁ」
食べ物を見つけた。
履物を作った。
神社の跡を発見した。
たった一日で、それだけのことがあった。
現代日本で暮らしていた頃なら、どれも大した出来事ではなかったかもしれない。
けれど、今は違う。
火を起こせたことも。
水を飲めたことも。
食べ物を口にできたことも。
すべてが、自分の力で掴み取ったものだった。
「……なんか、楽しいかも」
思わず、そんな言葉が漏れた。
もちろん、不便だ。
危険も多い。
人間が誰もいないという状況には、不安だってある。
それでも。
知らない場所を歩き、知らない景色を見つける。
その楽しさだけは、世界が変わっても変わらないらしい。
星は手元に置いていた樹皮を拾い上げた。
焚き火から取り出した木炭の、十分に冷えた小片を手に取る。
試しに、樹皮の表面をなぞってみた。
黒い線が残った。
「……おっ」
もう一度、線を引く。
文字を書くには少し扱いにくいが、何もないよりはずっといい。
星はしばらく考えてから、樹皮の表面にゆっくりと文字を書き始めた。
石世界紀行。
その下に、今日見たものを簡単に記していく。
森。
沢。
石段。
小さな神社の跡。
そして、少しだけ迷ってから、もう一つ。
『食用らしい植物を発見。種類を確認できず、採集を断念』
「……うん」
星は小さく頷いた。
見つけたものだけでなく、分からなかったことも記録しておこう。
いつか知識が増えたとき、役に立つかもしれない。
それに、旅の記録とは、本来そういうものだったはずだ。
見たこと。
知ったこと。
そして、まだ知らないこと。
何もかもが、旅の一部なのだから。
星は樹皮を眺め、満足げに微笑んだ。
たったそれだけの記録。
日付も分からないし、現在地も分からない。
だから、正確な旅の記録と呼ぶには、あまりにも情報が少なかった。
「……まあ、最初はこんなものかな」
炭で書いた文字は、指で擦れば簡単に滲んでしまう。
雨に濡れれば、読めなくなるかもしれない。
いずれ、もっと丈夫な記録媒体を作る必要があるだろう。
けれど、それは明日以降の課題だ。
星は樹皮を雨の当たらない場所に置き、寝床へ身体を滑り込ませた。
そして、目を閉じる。
明日は何をしよう。
もう少し食料を探そうか。
道具を増やそうか。
それとも、あの石段の先から見えた森を、もう少し歩いてみようか。
考えたいことは山ほどあった。
けれど、今は眠い。
「……おやすみなさい」
誰に向けたわけでもない挨拶が、夜の森に溶けていく。
こうして、石の世界での三日目が終わった。
少年はまだ知らない。
自分が目覚めたこの土地が、かつて三重県と呼ばれていたことを。
そして、ほんの少し足を延ばした先に、人々が長い年月にわたって神聖な場所として守り続けてきた土地があることも。
今はただ、名も分からぬ神社の跡を訪れた一日を、小さな樹皮に書き残しただけだった。
それが、星の『石世界紀行』の最初の一頁となった。