Dr.STONE ―石世界紀行― 作:科学知識に自信が無いのでAIに書かせた
腹が減っていた。
それも、かなり。
「…………」
星は寝床の中で目を開けたまま、じっと天井を見つめていた。
天井といっても、枝と葉を重ねただけの粗末なものだ。ところどころに隙間があり、その向こうには薄曇りの空が覗いている。
石化から目覚めて六日目。
これまでに口にした食事らしい食事は、数匹のサワガニと、昨日まで食べていた柑橘類の果実だけ。
水はどうにか確保できているものの、身体を動かすための栄養は明らかに不足していた。
当然ながら、身体は悲鳴を上げていた。
「……これは、ちょっとまずいかなぁ」
小さく呟く。
昨日までは何とか動けていたものの、今朝は身体が重い。
筋肉痛だけではない。腹に力が入らず、立ち上がるのも億劫だった。
前世では、食料の乏しい土地を旅したことが何度もあった。
数日間、ろくな食事にありつけなかったこともある。
だが、そうした経験があるからこそ、今の状況が危険だということも分かっていた。
食べなければ動けない。
動けなければ食べ物を探せない。
そうなってしまえば、あとは衰弱するばかりだ。
「……うん」
星はゆっくりと身体を起こした。
「今日は、ちゃんと食べないとね」
旅の準備は後回しだ。
道具作りも、記録の整理も、今は必要ない。
まずは、食料。
それが今日の最優先事項だった。
幸い、一つだけ心当たりがある。
「……果樹園、行こうかな」
四日目に発見した、古い果樹園の跡。
そこには、ミカンによく似た柑橘類の木が残っていた。
果実は小さく、随分と酸っぱかったけれど、少なくとも星が知る柑橘類の特徴と一致していた。
それに、まだ実が残っていたはずだ。
もちろん、果物だけで栄養不足を解消することはできない。
けれど、何も食べないよりはずっといい。
「……よし」
星は立ち上がり、背負い籠を手に取った。
今日こそは、少し多めに果実を持ち帰ろう。
そう決めて、寝床を後にした。
◇
果樹園の跡は、以前と変わらず森の中に埋もれていた。
崩れかけた石垣。
木々に覆われた段々畑。
その間に生える、何本もの樹木。
星は特徴的な大岩を目印に、以前果実を採った木へと向かった。
「……あったあった」
枝には、橙色の果実がいくつも実っていた。
どうやら、まだ十分に残っているらしい。
「……よかったぁ」
思わず安堵の息が漏れた。
もしも果実がなくなっていたら、今日も食料探しに苦労するところだった。
星は手の届く高さにある実を一つもぎ取った。
表面に傷みがないことを確かめてから、皮を剥く。
柑橘類特有の香りが広がった。
「……いただきます」
一房を口に運ぶ。
「……っ!」
途端に、顔がしかめられた。
「すっぱぁ……!」
相変わらずの酸味だった。
石化前に食べていたミカンよりも、ずっと酸っぱい。
甘味もあるにはあるが、酸味の方が圧倒的に強かった。
「……でも、美味しい」
星は小さく笑った。
少なくとも、こうして食べられるものがあるのはありがたい。
ゆっくりと果実を食べ終え、二つ目にも手を伸ばす。
果汁が喉を通っていく。
空腹が収まったとは言い難いが、身体を動かすための力が少し戻ってきた気がした。
「……さて」
星は背負い籠を下ろした。
今度は、持ち帰る分を集める。
傷みの少ない果実を選び、籠の底に敷いた葉の上へ並べていった。
ただし、欲張りすぎるつもりはなかった。
果実は水分が多く、意外と重い。今の身体では、荷物が増えるだけでも行動が制限されてしまう。
「……これくらいかな」
いくつかの果実を籠に収め、星は立ち上がった。
これで、ひとまず数回分の食料は確保できた。
もっとも、主食になるようなものや、蛋白質を含む食べ物はまだ足りない。
そこは別の方法を考える必要がある。
「……やっぱり、魚かなぁ」
星は小さく呟いた。
沢には魚がいた。
昨日も一昨日も、魚籠を仕掛けていた。
しかし、一昨日捕まえた魚は種類を識別できず、昨日は一匹も捕まえられなかった。
もっとも、今になって考えれば、魚の名前を正確に言い当てることだけが重要なのではない。
見た目の似た魚でも、どちらも食用になる種類なら、細かく区別する必要はないはずだ。
問題は、そこまでの判断ができるかどうか。
「……難しいねぇ」
とはいえ、いつまでも諦めているわけにもいかない。
魚の種類が分からないなら、少しずつ調べていけばいい。
少なくとも、どんな魚が生息しているのか知ることには意味があるはずだ。
それに、沢を下れば、もっと大きな川があるかもしれない。
「……うん」
星は籠を背負い直した。
昨日考えていたことだ。
今日は、沢の下流を少し調べてみよう。
ただし、無理は禁物。
帰り道が分からなくなるほど遠くへ行くつもりはなかった。
星は果樹園の位置を改めて確認してから、拠点へと引き返した。
◇
「……いないねぇ」
沢に仕掛けていた魚籠を引き上げ、星は肩を落とした。
今日も空だった。
昨日に続いて、二日連続である。
「……そんなぁ」
仕掛けが壊れているわけではない。
竹の編み目も崩れていないし、入口が塞がっているわけでもなかった。
単に、魚が入っていないだけだ。
初めて仕掛けたときは、三匹も捕まえられたというのに。
「……場所が悪いのかな」
星は沢を見渡した。
透明な水が、岩の間を流れている。
その中に、小さな魚影が見え隠れしていた。
魚がまったくいないわけではない。
けれど、最初の頃と比べると、姿を見かける機会が減ったような気もする。
実際に数が減ったのか。
それとも、別の場所へ移動しているだけなのか。
そこまでは分からなかった。
「……移動してみようか」
同じ場所に仕掛けを置いていても、状況が改善するとは限らない。
それなら、ほかの場所を探した方がいいかもしれない。
幸い、沢には流れがある。
上流へ向かうこともできるし、下流へ向かうこともできる。
そして、今の星には一つの目的地があった。
海だ。
「……下ってみようかな」
川を下れば、いずれ海へ通じるはずだ。
もちろん、この小さな沢が途中で地中に潜ったり、別の川に合流したりする可能性もある。
それでも、方向を決める目印にはなるだろう。
星は魚籠を背負い籠に収めた。
竹筒には飲み水を用意してある。
石器もある。
火起こし道具も持った。
寝床には、まだ使わない木板を置いていく。
今日の記録を残すための木札だけを持ち、荷物を軽くした。
「……よし」
星は足元を確かめた。
草鞋は、何度か補修しているものの、今のところ問題なく使えている。
それでも、足を保護するには十分とはいえなかった。
特に、濡れた岩や苔の生えた石は滑りやすい。
無理をして転んでしまえば、それだけで動けなくなるかもしれない。
「……慎重に、慎重に」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして、沢の流れに沿って歩き始めた。
◇
森は、思っていた以上に歩きにくかった。
沢沿いには大きな岩が転がり、ところどころに倒木が横たわっている。
水際を歩ける場所もあれば、急な斜面を迂回しなければならない場所もあった。
何より、体力が足りない。
「……はぁ、はぁ……」
星は木の幹に手をつき、息を整えた。
まだ、それほど長い距離を歩いたわけではない。
それなのに、足が重かった。
今朝、果実を食べたおかげで多少はましになったものの、長く続いた栄養不足が簡単に解消されるわけではない。
「……困ったねぇ」
思わず苦笑する。
前世で旅をしていた頃なら、この程度の道は何でもなかった。
むしろ、舗装されていない道を歩くのは日常茶飯事だった。
だが、あの身体はもうない。
今の星は、野外生活に慣れていない十五歳の少年だ。
経験があるからといって、身体の限界がなくなるわけではなかった。
「……もうちょっと、体力つけないとなぁ」
そう呟いてから、星は再び歩き始めた。
途中、何度か食べられそうな植物を見つけた。
細長い葉。
赤い実。
地面から顔を出した茸。
どれも、食べられる可能性はある。
けれど、毒を持っている可能性もあった。
「……うーん」
星は赤い実を見つめた。
艶やかな表面が、いかにも美味しそうに見える。
空腹のせいだろうか。普段なら気にも留めないようなものまで、食べ物に見えてしまう。
けれど、星は手を伸ばさなかった。
「……やめとこ」
食べられるか分からないものを口にして、身体を壊してしまっては意味がない。
今は、食べられると判断できた柑橘類がある。
それだけでも、随分と恵まれている方だろう。
星は実から目を逸らし、再び歩き始めた。
そうして、しばらく進んだ頃。
「……あれ?」
沢の音が変わった。
これまでは、岩の間を流れる細い水音だった。
しかし、今はもっと大きい。
ざあああ、と。
まとまった水が流れる音が聞こえてくる。
「……川?」
星は足を止め、耳を澄ませた。
音のする方角へ向かってみる。
途中で倒木に阻まれ、何度か引き返すことになった。
沢が岩の下へ潜り込んでいる場所もあり、流れを見失いそうになった。
「……ああ、もう」
小さくぼやきながら、斜面を迂回する。
結局、自分がどれほど下流へ進んだのか、よく分からなくなってしまった。
けれど。
「……おお」
木々の間に、水面が見えた。
これまで歩いてきた沢よりも、ずっと幅の広い流れだった。
◇
川、と呼ぶには少し小さいかもしれない。
それでも、沢よりは明らかに水量が多かった。
川幅は場所によって違うものの、広いところでは簡単に渡れないほどの幅がある。
水の流れも場所によって異なり、浅瀬では小石の間を勢いよく流れ、深いところではゆっくりと水面が揺れていた。
「……へぇ」
星は岸辺にしゃがみ込んだ。
水は澄んでいる。
川底には丸い石が転がり、水草らしきものも揺れていた。
そして。
「……あ」
水中で、何かが動いた。
一つではない。
二つ、三つ。
小さな影が、川底の石の間を泳いでいる。
「……魚!」
思わず声を上げかけ、慌てて口を閉じる。
魚を驚かせてしまう。
星は身を低くし、ゆっくりと水面を観察した。
小魚が何匹か泳いでいる。
それに混じって、少し大きな影も見えた。
昨日までの沢より、明らかに魚が多い。
「……いいねぇ」
自然と笑みが浮かぶ。
魚がいる。
それだけでも、嬉しい発見だった。
ただし、問題もある。
今までと同じく、種類が分からなければ食料にできるとは限らない。
「……まずは、捕まえてみようかな」
少なくとも、詳しく観察するためには魚を捕まえる必要がある。
水中を泳いでいる姿だけでは、確認できる特徴が限られているからだ。
星は周囲の地形を観察した。
川の流れ。
岩の配置。
浅瀬の形。
何か、使えそうな場所はないだろうか。
しばらく眺めていると、一か所だけ気になる場所があった。
「……あそこかな」
川の端に、大きな岩が二つ並んでいる。
その間を水が流れ込み、奥には浅い窪みができていた。
流れは緩やかだ。
しかも、窪みの出口は狭くなっている。
星は立ち上がった。
「……これ、使えるかも」
前世で見た漁の方法を思い出す。
川の流れを石で誘導し、魚の通り道を狭める。
そこへ罠を仕掛ければ、魚を捕まえやすくなる。
立派な漁具がなくても、地形を利用すればできるはずだった。
「……よしっ」
星は背負い籠を下ろした。
今日の探索で、何か新しいことが分かるかもしれない。
◇
作業は、思った以上に大変だった。
「……っ、よいしょ!」
星は両手で石を持ち上げ、川の浅い場所へ運んだ。
水の流れを完全に塞ぐわけではない。
川の端にできた小さな流れを利用し、魚が通りやすい場所を限定する。その先に魚籠を設置するための石の堰を作るのだ。
大きな岩を動かす必要はない。
小さな石を積み重ねるだけでも、ある程度の流れは変えられる。
とはいえ、今の星にとっては十分な重労働だった。
石を運ぶ。
並べる。
流れを確かめる。
思うように水が流れなければ、配置を変える。
隙間が大きければ、小石を詰める。
それを何度も繰り返した。
「……はぁ……」
途中、何度も休憩を挟んだ。
川に入ると足元が滑りやすく、慎重に動かなければならない。
草鞋は濡れると滑りやすくなるし、流れの強い場所に足を踏み入れるわけにもいかなかった。
それでも、少しずつ形になっていく。
やがて、川の一部に細い水路ができた。
「……うん」
星は水の流れを眺めた。悪くない。
あとは、魚籠を仕掛ければいい。
そう考えて足を踏み出した、そのときだった。
「……わっ!」
足元の石が滑った。
身体が傾く。
咄嗟に手を伸ばしたものの、近くには掴まるものがない。
ばしゃんっ!
盛大な水音とともに、星は尻餅をついた。
「…………」
冷たい。
服も濡れた。
背中まで水が跳ね、身体が一気に冷えていく。
「……うぅ」
星は顔をしかめた。
「……最悪」
幸い、水深は浅かった。
流されることもなく、怪我も手のひらを少し擦りむいた程度で済んでいる。
けれど、今の星にとって濡れることは、決して小さな問題ではなかった。
まともな着替えなどない。
身体を拭く布もない。
このまま冷えてしまえば、体調を崩す可能性がある。
「……気をつけないと」
星は慎重に立ち上がり、岸辺へ戻った。
衣服の水を絞り、できるだけ風の当たりにくい場所へ移動する。
幸い、雨は降っていない。
けれど、身体は冷えていた。
「……火、起こそうかな」
星は周囲を見渡した。
川岸には、礫の多い場所があった。
周囲の枯れ草から十分に離れているので、火を起こすならそこがよさそうだった。
星は小さな石を並べ、火床を作る。
乾いた枝を集め、火起こし道具を使って火をつけた。
ぱちぱちと、枝が燃え始める。
「……あったかい」
星は手をかざし、安堵の息を吐いた。
濡れた衣服も、火から適度に距離を取って乾かしていく。
火傷をしないように。
服を焦がさないように。
何より、今の衣服を失えば替えがない。
「……もうちょっと、まともな服が欲しいなぁ」
思わず苦笑する。
前世では、旅先で服が濡れることなど珍しくなかった。
けれど、あの頃は替えの服を持っていたし、宿屋で乾かすこともできた。
……今は、それすらできない。
「……やっぱり、文明って偉大だねぇ」
星は小さく呟いた。
そんなことを考えながら、しばらく焚き火の前で身体を休めた。
そして、ある程度衣服が乾いた頃。
「……さて」
星は立ち上がった。
せっかくここまで作ったのだ。
仕掛けだけは完成させておこう。
ただし、これ以上無理をするつもりはない。
今日の探索は、これで最後にすることにした。
◇
石の堰が完成したのは、作業を始めてから二時間ほどが経った頃だった。
「……できたぁ」
星は岸辺に座り込み、完成した仕掛けを眺めた。
川の一部に、石を並べて作った細い水路。
その先には、竹製の魚籠。
単純な仕組みだ。
しかし、水の流れは狙った場所へ向かっている。
あとは、魚が通ってくれるのを待つだけだった。
「……お願いします」
星は両手を合わせた。
昨日から、魚籠にお願いするのが癖になりつつある。
もちろん、お願いしたところで魚が増えるわけではない。
それでも、願わずにはいられなかった。
何しろ、今度こそ食べられる魚を見つけたいのだから。
星は少し離れた場所に腰を下ろした。
川の流れを眺めながら、身体を休める。
水面が揺れる。
小さな魚影が行き交う。
やがて。
「……ん?」
魚籠の近くで、水が動いた。
星は身を乗り出しかけ、慌てて止まる。
ここで近づいては、魚を驚かせてしまうかもしれない。
しばらく待つ。
すると、また水面が揺れた。
「…………」
星はじっと見つめた。
そして数分後。
「……よし」
ゆっくりと立ち上がる。
魚籠に近づき、出口を塞いでから慎重に持ち上げた。
ちゃぷっ。
水が流れ落ちる。
その中で。
びちびちっ!
「……っ!」
魚が跳ねた。
「やった!」
思わず声が弾んだ。
籠の中には、小魚が二匹。
そして、それより一回り以上大きな魚が一匹入っていた。
「……おお!」
星は目を輝かせた。
これまで捕まえた魚とは、明らかに大きさが違う。
手のひらを優に超えるほどの魚だった。
何より、魚籠がきちんと機能したことが嬉しかった。
「……ふふっ」
自然と笑みが浮かぶ。
しかし、その笑顔はすぐに真剣なものへ変わった。
「……問題は、ここからなんだよねぇ」
星は魚を、川の水を汲んだ竹の容器へ移した。
まずは、大きな魚から観察する。
身体は細長く、鱗がある。
口先は丸みを帯びていて、体側には一本の濃い線が走っていた。
「……あれ?」
星は目を細めた。
何か、見覚えがある。
石化前、日本の川魚について調べたときに見たものだっただろうか。
それとも、テレビで紹介されていたのだろうか。
記憶を辿る。
細長い身体。
体側にある黒っぽい縦帯。
丸みのある口先。
「……カワムツ?」
名前が浮かんだ。
確か、日本の川に広く生息している魚だったはずだ。
それに、似た魚としてオイカワという名前も聞いたことがある。
「……ああ、そうか」
星は小さく頷いた。
どちらも、食用として利用されることのある魚だ。
カワムツだったか、あるいはよく似た仲間だったか。
少なくとも、目の前の魚は、その辺りの特徴によく一致している。
星はもう一度、魚を観察した。
鰭の形。
鱗の並び。
頭部の様子。
記憶にある特徴を、一つずつ確かめていく。
「……うん」
何となく似ている、というだけではない。
今度は、食用として知られる川魚の仲間だと判断できるだけの特徴が揃っていた。
続いて、小さな二匹も調べてみる。
こちらも体形や鰭の付き方はよく似ており、同じ仲間の小型個体らしかった。
ただし、それぞれの正確な種名までは分からない。
「……でも、そこまで分からなくてもいいんだよね」
星は呟いた。
例えば、アジとサバ。
どちらも魚で、どちらも食べられる。
もちろん、種類によって注意すべきことは違うし、すべての魚を同じように扱っていいわけではない。
それでも、食用になると分かっている仲間まで識別できたなら、名前を完全に言い当てる必要はないはずだった。
今回は、少なくともその段階まで判断できている。
「……よし」
星は小さく頷いた。
「……食べよう」
ようやく、そう決めることができた。
◇
魚を食べると決めたものの、調理は簡単ではなかった。
「……うーん」
星は魚を前に、少し考え込んだ。
川魚は、生で食べるべきではない。
寄生虫の危険があるからだ。
前世でも、川で捕まえた魚はしっかり火を通していた。
現世の日本でも、それは同じだったはずだ。
問題は、今の自分が持っている調理道具だった。
包丁はない。
鍋もない。
塩もない。
あるのは、石器と竹、それから先ほど起こした焚き火くらいだ。
「……まあ、焼くしかないよねぇ」
星は石器の中から、比較的薄く鋭いものを選んだ。
まず、魚を処理する。
石の刃を使って腹を開き、内臓を取り除く。
金属製の包丁と比べれば、作業は随分とやりにくかった。
それでも、前世で魚を捌いた経験はある。
時間をかければ、何とかできそうだった。
魚を処理し終えた星は、手と道具を洗い、竹を使って焼く準備を始めた。
ただ、ここでも注意が必要だった。
表面だけ焦がしても、中まで火が通ったとは限らない。
特に川魚は、十分な加熱が必要だ。
「……じっくり焼こうかな」
星は魚の腹を開いた状態で、竹製の串に固定した。
焚き火の炎が落ち着くのを待ち、熾火の熱を利用して焼いていく。
直接強い炎に当てると、外側だけが焦げてしまう。
だから、少し離して。
時折向きを変えながら。
ゆっくりと熱を通していく。
ぱちぱち。
小さな音が響いた。
そして。
「……あ」
魚の焼ける匂いが漂ってきた。
「…………」
星は、思わず息を呑んだ。
久しぶりだった。
果物の甘酸っぱい香りでも、焚き火の煙の匂いでもない。
食事の匂い。
それも、魚が焼ける匂いだ。
「……うわぁ」
星は小さく声を漏らした。
石化前の日本では、当たり前だった。
家で魚を焼けば、台所から漂ってくる匂い。
旅先の食堂でも、何度も嗅いだことのある匂い。
それが、今はこんなにも嬉しい。
「……早く食べたいなぁ」
思わず呟く。
けれど、焦ってはいけない。
生焼けの魚を食べてしまえば、何のために慎重に識別したのか分からなくなる。
星は辛抱強く魚を焼き続けた。
途中で身の厚い部分を開き、内部の状態も確かめる。
まだ加熱が足りないと感じたものは、さらに火にかけた。
そうして、十分に時間をかけた後。
「……できた」
星は串を持ち上げた。
魚の表面には、焼き色がついている。
身は白っぽく変化し、内部までしっかり熱が通ったようだった。
もちろん、今の道具では温度を正確に測れない。
だからこそ、加熱が不十分にならないよう慎重に調理した。
星は少し冷ましてから、魚を口へ運んだ。
「……いただきます」
一口。
「…………」
しばらく、何も言えなかった。
白身の、淡白な味。
特別な調味料は何も使っていない。
塩すら振っていないのだから、味気ないと感じてもおかしくなかった。
それなのに。
「……おいしい」
星は小さく呟いた。
もう一口。
噛む。
飲み込む。
それだけのことが、たまらなく嬉しかった。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれた。
「……やっと、ちゃんとしたご飯だ」
もちろん、魚三匹で十分な栄養が得られるわけではない。
ましてや、これまでの栄養不足が一度の食事で解消されるはずもなかった。
それでも、果物だけを食べていた昨日までとは違う。
自分の力で仕掛けを作り、魚を捕まえ、食料として利用できた。
それが、嬉しかった。
「……もうちょっと、欲しいなぁ」
魚を食べ終え、星は小さく笑った。
腹が満たされたとは言い難い。
けれど、身体の奥にあった空虚な感覚が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
星は川を見つめた。
水面の下では、相変わらず小さな魚影が行き交っている。
「……ここ、いい場所だね」
これまで利用していた沢よりも魚が多い。
しかも、今回のように仕掛けを設置できる地形もある。
食料を確保するための場所として、覚えておく価値がありそうだった。
もっとも、今すぐもう一度漁をするつもりはない。
今日は随分と身体を動かした。
これ以上無理をすれば、帰り道で動けなくなるかもしれない。
それに、やるべきことはまだ残っている。
「……火の始末もしないとね」
星は焚き火の燃え残りを確認し、川の水を使って消火した。
灰をかき混ぜ、熱が残っていないことを確かめる。
それから、魚を処理した場所も片付けた。
野営地を離れるときは、できるだけ余計なものを残さない。
それも、前世の旅で身につけた習慣の一つだった。
「……よし」
星は背負い籠を持ち上げた。
今日は、なかなかいい収穫だった。
◇
食事を終え、十分に休んだ後。
星は川の周囲をもう少しだけ調べることにした。
ただし、無理はしない。
身体は疲れているし、すでに一度転んでいる。
今から遠くへ行くつもりはなかった。
あくまでも、帰り道の確認を兼ねた短い探索だ。
「……川、どこまで続いてるんだろ」
星は流れの向こうを見つめた。
川は木々の間を抜け、緩やかに曲がっている。
その先は、ここからでは見えなかった。
星は岸辺を歩き始めた。
足元が悪い場所には近づかず、歩きやすい場所だけを選んで進む。
しばらくすると、周囲の景色が少しずつ変わってきた。
木々の間に、灰色のものが見える。
「……ん?」
星は足を止めた。
自然の岩にしては、形が整いすぎている。
近づいてみると、それはコンクリートの塊だった。
「……人工物?」
表面には無数の亀裂が走り、苔が生えている。
ところどころが崩れ、木の根が内部まで入り込んでいた。
それでも、人工的に造られたものだということは分かった。
星は周囲を見渡した。
同じような構造物が、川沿いにいくつか残っている。
どうやら、かつての護岸設備らしかった。
「……へぇ」
思わず声が漏れる。
どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。
けれど、人間が造ったものは完全には消えていなかった。
星はコンクリートの表面に手を触れた。
ざらついた感触。
苔の湿り気。
深く走った亀裂。
「……昔は、ここにも人がいたんだね」
道路があり、建物があり、人々の生活があった。
今は、その痕跡しか残されていない。
それでも、こうして人工物を見つけるたびに、星は少しだけ安心するようになっていた。
誰かが、確かにここで暮らしていた。
それだけでも、今の自分にはありがたかった。
「……何だか、嬉しいな」
星は小さく笑った。
そして、さらに周囲を見渡した。
護岸の一部には、古い排水路のような穴が残っていた。
土砂に埋もれているため、内部までは見えない。
近くには崩れた石積みもあった。
何のための設備だったのかまでは分からない。
けれど、川沿いに人間の生活圏が広がっていたことは間違いなさそうだった。
「……記録しておこう」
星は背負い籠から木札を取り出した。
石器の先端を使い、簡単な文字を刻んでいく。
『六日目。沢の下流に川を発見』
『石の堰と魚籠を使い、魚三匹を捕獲』
『カワムツに似た魚を確認。十分に加熱して食べた』
『川沿いに人工物を確認。護岸設備と思われる』
そこまで書いて、星は手を止めた。
「……ふふ」
自分の記録を眺め、少しだけ笑う。
今日の一番の収穫は、やはり魚だろうか。
これで、食料を確保するための手段が一つ増えた。
それに、漁の仕掛けはまだ使える。
今後も川を訪れる機会があれば、同じように魚を捕まえられるかもしれない。
もっとも、川の魚をすべて食べられると考えるのは危険だ。
これからも、捕まえるたびに特徴を確認する必要があるだろう。
「……うん」
星は木札を膝の上に置いた。
そして、ふと考え込んだ。
自分が目覚めた理由。
あの日、世界を覆った光。
石になった人々。
そして、目を覚ました自分。
何もかもが、分からないことだらけだった。
けれど、一つだけ気になることがある。
石化している間に見た、あの長い夢。
剣と魔法の異世界を旅した、一人の人間の人生。
あれは、何だったのだろう。
「……前世、なんだよね」
そう考えるのが、一番しっくりくる。
ただの夢にしては、あまりにも鮮明だった。
知らない言葉も、見知らぬ土地も、そこで出会った人々の名前も覚えている。
それに、あの人生を生きていたときの感情まで残っていた。
嬉しかったこと。
悲しかったこと。
大切だった人。
失ってしまったもの。
そのすべてが、確かに自分のものだった。
では、なぜ今になって、その記憶を思い出したのだろう。
「……石になってたから?」
星は小さく呟いた。
石化している間、身体は動かなかった。
声も出せなかった。
周囲を見ることも、聞くこともできなかった。
けれど、あの異世界の人生を夢として経験していたのなら。
少なくとも、自分の意識は何らかの形で活動していたことになる。
「……うーん」
星は腕を組んだ。
意識が活動していたから、復活できたのだろうか。
それとも、復活する過程で前世の記憶を思い出したのだろうか。
あるいは、まったく関係のない二つの現象なのかもしれない。
考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
「……まあ、そう簡単には分かんないよね」
星は苦笑した。
そもそも、石化がどういう仕組みなのかも分かっていない。
自分がどうして元に戻ったのかも分からない。
そんな状態で、原因を一つに決めつけるのは早すぎるだろう。
それに。
「……ほかにも、目覚めた人がいるかもしれないし」
自分だけが特別な条件で復活したとは限らない。
もしかすると、別の理由で目覚めた人がいるかもしれない。
あるいは、自分よりずっと前に復活した人がいる可能性だってある。
今のところ、誰にも出会えていないけれど。
「……会ってみたいなぁ」
星は小さく呟いた。
もしも自分と同じように目覚めた人がいるのなら、その人に色々と聞いてみたい。
どうして復活できたのか。
どれほどの時間が過ぎたのか。
ほかに人間はいるのか。
それに、もしも困っている人がいるのなら、力になりたいとも思う。
自分だって、目覚めた直後は何も持っていなかったのだから。
「……うん」
星は木札を持ち直した。
そして、最後に一文だけ刻み加えた。
『前世の記憶と復活には、何か関係があるのかもしれない』
少し考えてから、もう一つ。
『ただし、確証なし』
「……ふふ」
星は小さく笑った。
分からないことは、分からないまま記録しておこう。
いつか、答えが見つかるかもしれない。
それに、旅の記録とは、本来そういうものだ。
見たこと。
知ったこと。
そして、まだ知らないこと。
それらを残しておけば、いつか振り返ったときに、何かが分かるかもしれない。
星は木札を背負い籠へしまった。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
◇
帰り道。
星は、ふと足を止めた。
「……ん?」
風が吹いた。
森の中を抜けてきた、少し強い風だった。
けれど、何かが違う。
これまで感じていた湿った土や草木の匂いとは、どこか異なる香りが混じっていた。
「…………」
星は鼻をひくつかせた。
もう一度、風が吹く。
その匂いを嗅いだ瞬間。
「……あ」
胸の奥で、何かが弾けた。
懐かしい匂いだった。
石化する前にも、何度も嗅いだことがある。
前世でも、海辺の街を訪れるたびに感じていた。
潮の香り。
「……海?」
星は顔を上げた。
木々の向こう。
川が流れていく、その先。
風は、そちらから吹いてきているようだった。
「……もしかして」
心臓が少しだけ速くなる。
星は周囲を見渡した。
今いる場所から海は見えない。
木々が視界を遮り、遠くの景色は分からなかった。
けれど、風に混じる、あの匂い。
間違いなく、覚えのある香りだった。
「……近いのかな」
ぽつりと呟く。
昨日決めた、最初の目的地。
海。
その存在が、急に現実味を帯びてきた。
星は思わず歩き出しかけた。
けれど、すぐに足を止める。
空を見上げる。
太陽は、すでに随分と傾いている。
今から知らない場所へ進むのは危険だった。
それに、今日の身体は疲れ切っている。
魚を食べられたおかげで空腹は少し和らいだものの、栄養不足が解消されたわけではない。
「……うーん」
少しだけ迷う。
今すぐ確かめたい。
けれど、ここで無理をして倒れてしまっては意味がない。
そもそも、あの匂いが本当に海から届いているのかどうかも、まだ分からない。
ならば。
「……明日、かな」
星は小さく笑った。
焦る必要はない。
海は逃げないのだから。
星は木々の向こうをもう一度だけ見つめた。
「……楽しみだね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
そして、来た道を引き返した。
◇
その夜。
星は焚き火の前で、今日の出来事を思い返していた。
果樹園へ行った。
沢を下って、川を見つけた。
魚を捕まえて、久しぶりにまともな食事を取ることができた。
古い護岸設備も発見した。
そして、潮の香りを嗅いだ。
「……ふふ」
自然と笑みが浮かぶ。
たった六日。
まだ、たった六日しか経っていない。
けれど、少しずつ世界が広がっている。
最初は、目覚めた場所の周囲を歩くだけで精一杯だった。
水場を見つけ、火を起こし、寝床を作る。
それだけで一日が終わっていた。
今は、少しだけ違う。
道具がある。
荷物を運ぶ手段がある。
食料を確保できる場所も、一つ見つけた。
そして、行きたい場所がある。
「……海、かぁ」
星は夜空を見上げた。
雲の切れ間に、いくつかの星が輝いている。
前世でも、旅先で海を見るのは好きだった。
砂浜。
港町。
波の音。
潮風に揺れる帆。
世界が違っても、海はどこか似ていた。
もちろん、今の世界に港町が残っているとは思えない。
船も、建物も、きっと失われているだろう。
それでも、海そのものは残っているはずだった。
何百年経とうと、何千年経とうと。
少なくとも、人間がいなくなった程度で消えるものではない。
「……どんな景色なんだろ」
星は小さく呟いた。
きっと、綺麗なのだろう。
石化前に見ていた海とは、少し違っているかもしれない。
それでも、波は寄せては返し、潮風は吹いているはずだ。
そんなことを考えていると、胸が少しだけ弾んだ。
星は木札を取り出した。
今日の記録の最後に、もう一文だけ刻む。
『潮の香りを感じた。海が近いのかもしれない』
「……よし」
完成した木札を背負い籠へしまう。
そして、焚き火の始末を確かめてから、寝床へ潜り込んだ。
明日は、もう少し川を下ってみよう。
もしも海が見つかったら、砂浜を歩いてみたい。
貝殻だって拾いたい。
できれば、塩も作りたい。
やりたいことは、いくらでもあった。
ただし、今度こそ無理はしない。
食料も、体力も、まだ十分とはいえないのだから。
「……ふふ」
星は目を閉じた。
「おやすみなさい」
誰もいない森に、小さな声が溶けていく。
石の世界で迎える、六度目の夜。
少年はまだ知らない。
自分が歩いているこの土地が、かつて伊勢志摩と呼ばれていたことを。
そして、この先に広がる海が、どのような姿になっているのかも。
今はただ、明日出会う景色を楽しみにしていた。
――石世界紀行、第六日。
川を下った先で、潮の香りを感じた。
最初の目的地は、もう遠くないのかもしれない。