Dr.STONE ―石世界紀行― 作:科学知識に自信が無いのでAIに書かせた
波の音が聞こえる。
ざあ、と。
寄せては返す、規則正しい音。
目を閉じれば、潮の香りが鼻をくすぐる。頬を撫でる風は少し湿っていて、どこか懐かしい。
「……なんてね」
星は目を開けた。
見えるのは、昨日と変わらない森の景色。枝と葉を組み合わせた粗末な寝床に、木々の隙間から差し込む朝日。
波の音も、潮の香りも、今のところは想像の中だけだった。
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれる。
どうやら、随分と楽しみにしているらしい。
石化から目覚めて七日目。
今日はいよいよ、海を探しに行くつもりだった。
昨日、沢の下流で見つけた川。
その周辺を探索していたとき、風に混じって潮の香りを感じたのだ。
海が近いという確証はない。けれど、あの匂いを間違えるとも思えなかった。
「……さて、と」
星は身体を起こし、大きく伸びをした。
腕が痛い。肩も重い。昨日転んだときに擦りむいた手のひらには、薄いかさぶたができていた。
それでも、六日前に目覚めたときと比べれば、身体の動かし方には少しずつ慣れてきている。
もちろん、体力がついたというほどではない。
食事が足りていないのだから、むしろ無理をすれば倒れてしまうだろう。
「……今日は、ほどほどにしないとね」
星はそう呟きながら、背負い籠を手に取った。
竹筒が二本。
石器と火起こし道具。
記録用の木札。
それから、昨日採ってきた柑橘類の果実。
すべてを持っていく必要はない。今日の探索に使うものだけを選び、籠の中へ収めていく。
途中で、木札を一枚取り出した。
昨日の記録が刻まれている。
『潮の香りを感じた。海が近いのかもしれない』
「……うん」
星は小さく頷いた。
今日は、この続きを書けるだろうか。
それを考えるだけで、少し胸が弾んだ。
◇
朝食は、相変わらず果実だった。
「……すっぱぁ」
七日目ともなると、さすがに慣れてきた。
……いや、慣れたと思いたい。
皮を剥くたびに広がる柑橘類の香りは気に入っているのだが、口に入れた瞬間の酸っぱさだけは、どうにもならなかった。
それでも、貴重な食料である。
星は一つずつ房を分け、ゆっくりと食べた。
昨日は久しぶりに魚を食べられたものの、これまでの栄養不足を取り戻すには程遠い。
今日の探索を終えたら、改めて食料の確保について考えなければならないだろう。
「……海に行けば、何か見つかるかな」
魚。
貝。
海藻。
海には、食べられるものがたくさんある。
少なくとも、石化前の日本ではそうだった。
ただし、それらを見分けられるかどうかは別問題だ。
昨日は運よく、カワムツに似た川魚を捕まえることができた。
正確な種類までは分からなかったけれど、食用になる仲間だと判断できたおかげで、久しぶりにまともな食事を取ることができた。
もっとも、いつでも同じように判断できるとは限らない。
「……でも、海なら」
星はふと、昔の食卓を思い出した。
大きな皿に盛りつけられた刺身。
湯気の立つ焼き魚。
殻ごと調理された貝。
家族で外食したときには、普段の食卓ではあまり見かけない料理を食べる機会もあった。
中には、随分と値段の張るものもあったはずだ。
「……アワビとか、食べたっけ」
確か、食べたことがある。
けれど、料理として出されたものと、海に棲んでいる生き物とでは、見た目が随分違うだろう。
それに、貝には似た種類も多い。
「……まあ、見つけてから考えよっか」
星は最後の一房を口に運んだ。
今日の目的は、海を見つけること。
食料調達もできれば嬉しいが、そればかりに気を取られて道に迷っては意味がない。
少なくとも、空腹に負けて正体の分からないものを口にするつもりはなかった。
◇
川へたどり着くまでは、昨日の記憶を頼りに進めばよかった。
目印にした倒木。
特徴的な形の岩。
沢が大きく曲がる場所。
それらを一つずつ確認しながら、星は森の中を歩いていく。
問題が起きたのは、昨日発見した護岸設備を通り過ぎてからだった。
「……あれ?」
星は足を止めた。
目の前にあるのは、二つに分かれた地形だった。
片方には川が流れ、もう片方には緩やかな斜面が続いている。
川沿いを進むなら、当然前者を選ぶべきだ。
しかし、その先には倒木が折り重なっていた。
しかも、岸の一部が大きく崩れている。
「……これは、通れないかなぁ」
近づいてみたものの、足場はかなり悪そうだった。
無理に進めば、川へ滑り落ちる可能性もある。
昨日の転倒を思い出し、星は小さく溜息をついた。
「……迂回しよっか」
そう決めて斜面へ向かう。
これが、思いのほか大変だった。
最初は歩きやすかった地面も、進むにつれて木々が密集し始める。
倒木を回り込み、藪を避け、足元の悪い斜面を横切る。
気づけば、川の音が聞こえなくなっていた。
「…………」
星は立ち止まった。
「……あれ?」
もう一度、周囲を見渡す。
木。
木。
木。
似たような景色ばかりだった。
「……ちょっと待って」
確か、さっきまでは川の音が聞こえていた。
斜面を回り込んで、それから倒木を避けて……。
「……あー」
星は額に手を当てた。
「……やっちゃったかな」
道を見失った。
正確には、どちらへ進めば川に戻れるのか、分からなくなってしまったのだ。
もちろん、完全に遭難したわけではない。
太陽は見えているし、歩いてきた大まかな方角も覚えている。
けれど、地形は想像以上に複雑だった。
地図もない場所で、方角だけを頼りに歩くのは危険だ。
「……うーん」
星は木陰に腰を下ろした。
前世で旅をしていた頃にも、道を見失ったことは何度もある。
そんなときは、焦って歩き回らないことが大切だった。
まず、現在の状況を整理する。
最後に確実に覚えている場所を思い出す。
それから、どう動くかを決める。
今の自分が確実に知っているのは、川沿いから斜面へ入ったということだけだ。
迂回した回数までは覚えているが、それぞれの方向を正確に把握できているわけではない。
「……戻った方がいいかな」
そう考えて、星は耳を澄ませた。
風が木々を揺らす音。
鳥の鳴き声。
遠くで枝が折れる音。
そして。
「…………ん?」
何かが聞こえた。
ざあ、と。
風とは違う、低く連続した音。
星は顔を上げた。
「……もしかして」
もう一度、耳を澄ませる。
ざああ。
音は、森の向こうから聞こえていた。
川の流れとは違う。
もっと大きく、ゆっくりとした響き。
「……波?」
心臓が跳ねた。
星は立ち上がり、音のする方角を見つめた。
それでも、すぐには歩き出さない。
ここで無闇に進めば、ますます帰り道が分からなくなるかもしれない。
だから、周囲の地形を確認することにした。
目印になりそうな大きな岩。
特徴的な枝の曲がり方。
そして、自分が歩いてきた方向。
それらを覚え、必要なところには小石を積んだ目印を残していく。
「……よし」
準備を整えてから、星は慎重に歩き始めた。
音は、少しずつ大きくなっていった。
◇
最初に変わったのは、風だった。
木々の間を抜ける風に、これまでとは違う湿り気が混じる。
鼻をくすぐる、懐かしい香り。
潮の匂いだ。
「……あ」
星は思わず足を止めた。
昨日嗅いだ匂いより、ずっと濃い。
そして、音。
ざああ。
ざああ。
規則正しく響くそれは、もう聞き間違えようがなかった。
「……ほんとに、海?」
星は歩調を少し速めた。
木々の密度が薄くなる。
地面には小石が増え、湿った土の匂いが次第に弱くなっていく。
やがて、視界の向こうに明るい空間が見えた。
青い。
空とは違う、もう一つの青。
「…………!」
最後の木々を抜けた瞬間。
星の目の前に、海が広がった。
◇
「…………わぁ」
声が漏れた。
それ以上、言葉が出てこなかった。
視界いっぱいに広がる青い水面。
陽光を受け、細かな光の粒が無数に煌めいている。
遠くには低い岬が伸び、その向こうには、空と海とが溶け合うような水平線が見えた。
湾の内側は比較的穏やかで、波はゆっくりと岸へ寄せている。
空には鳥が舞い、潮風が髪を揺らした。
「……すごい」
星は呟いた。
石化前にも、海を見たことはある。
家族旅行で訪れたこともあれば、前世の旅で何度も海辺の街を歩いたこともあった。
だから、海を見るのは初めてではない。
それなのに。
「……綺麗だなぁ」
胸の奥から、そんな言葉が自然と溢れてきた。
人間がいない。
船がない。
港の建物も、防波堤に並ぶ街灯も、どこにも見当たらない。
ただ、海がある。
波が寄せては返し、風が吹き、鳥が空を飛んでいる。
その光景は、星が知っている日本の海とは少し違っていた。
けれど、確かに同じ海だった。
「……そっか」
星はゆっくりと息を吐いた。
「……残ってるんだね」
世界は変わってしまった。
人間の文明は失われ、街は森に飲み込まれていた。
それでも、海はそこにあった。
何も知らずに目覚めたあの日から、星はずっと森の中を歩いてきた。
水を探し、火を起こし、食べ物を探す。
生きるために必要なことを一つずつ覚え直しながら、ようやくここまで来た。
その先に、こんな景色が待っていた。
「……ふふ」
笑みがこぼれた。
ただの海だ。
地球のどこにでもある、ありふれた景色。
けれど、今の星にとっては違う。
自分の足で歩き、ようやく見つけた最初の目的地。
それが、目の前に広がっている。
「……来てよかった」
星は小さく呟いた。
風が吹いた。
潮の香りが、頬を撫でる。
そして、どこか遠くから聞こえてくる波の音が、静かに耳へ届いた。
◇
海岸へ降りる道を探すのには、もう少し時間がかかった。
星が海を見つけた場所は、海岸より少し高い斜面だった。
そこから下を覗くと、岩場が広がっている。
砂浜は、ほとんど見当たらない。
代わりに、大きな岩や小石が積み重なり、その間を波が洗っていた。
「……岩場かぁ」
星は少しだけ残念そうに呟いた。
砂浜を歩いてみたいと思っていたのだ。
けれど、目の前にあるのは岩ばかり。
もっとも、それはそれで面白そうだった。
「……まあ、これはこれで」
星は周囲を見渡した。
少し離れた場所に、緩やかに海へ続く斜面がある。
木々がまばらで、岩も比較的少ない。
あそこなら、安全に下りられるかもしれない。
星は慎重に斜面を進み始めた。
新しく作った草鞋は、ここでも役に立っている。
ただし、滑りやすい岩の上では油断できない。
それに、今の身体は疲れていた。
森の中で遠回りをしたこともあって、足にはかなりの負担がかかっている。
「……無理しない、無理しない」
自分に言い聞かせながら、ゆっくりと進む。
やがて、足元の土が小石へと変わった。
潮の香りが、さらに強くなる。
「……着いた」
星は海岸に立った。
目の前では、小さな波が岩を洗っている。
砕けた泡が白く広がり、すぐに引いていった。
星は背負い籠を下ろし、近くの岩に腰を下ろした。
「……ふぅ」
疲れた。
けれど、気分は悪くない。
むしろ、今すぐ立ち上がって、海岸の端から端まで歩いてみたいくらいだった。
「……でも、その前に」
星は竹筒を取り出した。
中身は飲み水だ。
昨日、加熱して用意しておいたものを持ってきている。
少しずつ口に含み、喉を潤す。
目の前には、これほど大量の水がある。
けれど、海水はそのまま飲み水にはできない。
「……不思議なものだよねぇ」
海を眺めながら、星は小さく笑った。
水はいくらでもあるのに、飲むことはできない。
けれど、塩を作るための材料にはなる。
「……塩かぁ」
そういえば、それも海へ来たかった理由の一つだった。
食事に塩があれば、随分と助かるだろう。
保存食を作る際にも、利用できる可能性がある。
ただし、実際に塩を取り出すには、海水を蒸発させる必要がある。
今の星が持っているのは、竹筒と石器くらいだ。
海水を大量に加熱するための丈夫な容器はない。
「……土器とか、作った方がいいのかな」
前世では、旅先で陶器の工房を見学したことがあった。
粘土をこね、形を整え、乾燥させてから焼く。
大まかな工程は覚えている。
けれど、具体的な材料の選び方や、焼成に必要な温度の管理までは詳しく知らなかった。
それに、燃料も大量に必要になるだろう。
「……うーん」
星は腕を組んだ。
少なくとも、今日中に塩が作れるとは思えない。
「……まあ、海は逃げないしね」
そう呟いて、星は再び立ち上がった。
まずは周囲を調べてみよう。
◇
岩場には、小さな生き物がたくさんいた。
「……おお」
星は岩の間にできた潮だまりを覗き込んだ。
浅い水の中を、小さな魚が泳いでいる。
岩の表面には貝が張りつき、隙間からは小さなカニが姿を現していた。
水面の下には、緑色や褐色の海藻も揺れている。
「……すごいねぇ」
思わず感心してしまう。
森の沢にも、さまざまな生き物がいた。
けれど、こちらはまた違う。
波が運んでくる海水。
潮の満ち引き。
岩の隙間にできた小さな水たまり。
そんな場所に、これほど多くの生き物が暮らしている。
星はしゃがみ込み、水中を観察した。
小さなカニが、岩陰から顔を出す。
それを追うように、別の生き物が動いた。
「……ふふ」
何だか、小さな水族館みたいだった。
石化前に行った水族館を思い出す。
大きな水槽の前で、弟や妹と一緒に魚を眺めたことがあった。
確か、妹はクラゲが好きだった。
弟はサメの水槽からなかなか離れようとしなかった。
そして自分は。
「……何見てたっけ」
星は少し考えた。
色々なものを見た気がする。
熱帯魚も、ペンギンも、アザラシも。
けれど、何が一番好きだったのかまでは思い出せなかった。
「……まあ、全部好きだったのかな」
そう言って、小さく笑う。
ふと、岩の側面に何かが張りついていることに気づいた。
「……ん?」
平たい貝だった。
楕円形の殻が岩に密着しており、表面は海藻のようなものに覆われている。
星は顔を近づけた。
「……アワビ?」
思わず呟く。
形は、以前見たことのあるアワビに似ていた。
けれど、正確な種類までは分からない。
大きさも、それほど立派ではなかった。
「……トコブシ、だったりするのかな」
確か、アワビとよく似た貝だったはずだ。
食べたことがあるような気もするが、殻の特徴までは覚えていない。
星はしばらく観察していた。
殻の輪郭。
表面の凹凸。
岩への張りつき方。
そして、殻の片側に並んだ小さな穴。
「……ああ、これ」
星は目を細めた。
どこかで見たことがある。
確か、アワビの殻にも、こうした穴が並んでいたはずだ。
今目の前にある貝も、同じような構造をしている。
殻の形も、大きさも、記憶にあるものとよく似ていた。
「……でも、どっちだろ」
星は首を傾げた。
アワビなのか。
それとも、トコブシなのか。
正確な違いまでは、どうにも思い出せなかった。
しばらく考えていた星は、ふと気づいた。
「……あれ?」
そもそも。
「……どっちも食べられるよね?」
そうだった。
アワビもトコブシも、昔から食用として利用されてきた貝だ。
種類によって味や大きさは違うかもしれないが、どちらも料理として食べたことがある。
もちろん、似ているだけの別の貝だったら話は変わる。
けれど、目の前にあるものは、殻に並ぶ穴をはじめ、星が知るアワビの仲間の特徴を備えていた。
「……なるほどねぇ」
星は小さく頷いた。
昨日の魚と同じだ。
正確な名前を知ることよりも、何の仲間なのかを判断すること。
その方が、今の自分には大切だった。
ただし、それで危険がすべてなくなるわけではない。
アワビの仲間も、食べる部位や時期には注意が必要だったはずだ。
「……確か、内臓は気をつけた方がいいんだよね」
詳しい話までは覚えていない。
それなら、今回は内臓を食べず、身の部分だけを利用することにしよう。
生食も避けて、十分に火を通す。
そこまで考えたところで、星の視線が再び貝へ向かった。
「……よし」
食料にできるかもしれない。
そう思うと、何だか急に貝が美味しそうに見えてきた。
「……いただこうかな」
星は慎重に手を伸ばした。
◇
「…………硬い」
貝は、まったく動かなかった。
いや、正確には動いていないわけではない。
星が手を触れた瞬間、岩へさらに強く張りついたのだ。
「……うわぁ」
指を差し込もうとしても、隙間がない。
無理に引き剥がそうとすれば、殻が割れるか、指を痛めてしまいそうだった。
「……なるほど、これは大変だ」
星は小さく唸った。
アワビが岩に強く張りつくことは知っている。
けれど、実際に触ってみると、想像以上だった。
前世でも貝を採った経験はある。
ただ、こうした種類の貝を、素手で引き剥がそうとした覚えはなかった。
「……道具がいるかな」
星は周囲を見渡した。
手元には石器がある。
けれど、今使っている石器は、刃が厚くて貝の下へ差し込みにくい。
それなら。
「……ちょっと作ってみようか」
星は岩場から少し離れた場所へ移動した。
足元には、小石がいくつも転がっている。
その中から、比較的薄く割れそうな石を探してみる。
いくつかを手に取り、形を確かめる。
「……これかな」
星は石を二つ選び、慎重に打ち合わせた。
かつん。
硬い音が響く。
一度では上手く割れなかった。
けれど、打つ位置を変えてみると、石の端が薄く欠けた。
「……おっ」
星は欠けた石片を拾い上げた。
薄い。
先端も、ある程度平らになっている。
これなら、貝を岩から剥がすための道具として使えるかもしれない。
星は端の鋭すぎる部分を少し整え、指を傷つけないよう持ち方を確かめた。
「……よし」
即席の石製のへら。
見た目はあまりよくないが、今はこれで十分だろう。
星は先ほどの貝のところへ戻った。
そして、もう一度だけ周囲を確認する。
足場は安定している。
波も、今のところここまでは届いていない。
ただし、潮が満ちてくれば状況は変わるだろう。
長居するつもりはなかった。
「……さて」
星はしゃがみ込み、石のへらを貝の縁へ差し込んだ。
力を加える。
動かない。
「……んっ」
少し角度を変える。
今度は、わずかに隙間ができた。
「……あ」
星は目を輝かせた。
急いで力を加えたいところだが、ここで無理をすれば道具が折れるかもしれない。
だから、ゆっくりと。
少しずつ、石のへらを差し込んでいく。
そして。
べりっ。
「……っ!」
貝が、岩から外れた。
「……やった!」
星は思わず声を上げた。
掌に収まるほどの、小さな貝。
けれど、確かな重みがあった。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれる。
昨日は川魚。
今日は海の貝。
少しずつ、食べられるものが増えている。
もっとも、まだ食事の準備が終わったわけではない。
「……よし、調理しようかな」
星は貝を背負い籠に入れ、海岸の少し高い場所へ移動した。
◇
火を起こす場所を探すのには、それほど時間がかからなかった。
海岸の端に、乾いた小石が集まっている場所があった。
周囲には燃えやすい草木も少ない。
星はそこを選び、小さな焚き火を用意した。
燃料には、森の縁で集めた乾いた枝を使う。
濡れた流木は燃えにくいし、煙も多くなるため避けることにした。
火がつくと、ぱちぱちと枝が燃え始めた。
「……さて」
星は採ってきた貝を取り出した。
岩から剥がしたときにはよく見えなかったが、裏側には大きな足のような部分が広がっていた。
「……へぇ」
それを眺めながら、星は小さく感心した。
貝というと、二枚貝のように殻が開くものを想像しがちだ。
けれど、アワビやトコブシは巻貝の仲間である。
殻の形も、身体の構造も、二枚貝とは随分違う。
「……こうなってるんだねぇ」
星はしばらく観察してから、調理を始めた。
石器を使い、殻と身を慎重に分ける。
慣れない作業だったが、前世で貝を捌いた経験を思い出しながら、少しずつ進めていった。
内臓は取り除く。
食べられる部位とそうでない部位を分け、身の部分だけを残した。
そして、十分に火を通すため、身を薄く切り分ける。
「……これなら、焼けるかな」
星は小さな木の串を用意し、貝の身を固定した。
焚き火の炎が落ち着くまで待つ。
それから、熾火の熱を利用してじっくりと焼いていった。
ぱちぱち。
火の音が響く。
やがて、貝の身から水分が抜け、表面に焼き色がつき始めた。
「……おお」
星は目を細めた。
少しずつ漂ってくる、磯の香り。
昨日の川魚とは、また違う匂いだった。
「……美味しそう」
思わず呟く。
けれど、焦る必要はない。
生焼けにならないよう、もう少し加熱を続けることにした。
そして、十分に火を通した後。
「……できた!」
星は串を持ち上げた。
小さな貝の身。
調味料はない。
塩すら振っていない。
それでも、今の星には立派なご馳走に見えた。
「……いただきます」
一口。
「…………」
星はゆっくりと噛んだ。
弾力がある。
少し硬いけれど、噛むほどに旨味が広がっていく。
「……おいしい」
思わず笑みがこぼれた。
昨日の魚とは違う。
独特の歯応えと、ほのかな磯の風味。
石化前に食べたアワビの料理を、少しだけ思い出した。
「……ふふ」
星は小さく笑った。
「……贅沢だねぇ」
もちろん、量は少ない。
一匹の貝だけでは、腹が満たされるはずもなかった。
それでも、今の星にとっては貴重な食事だった。
食べられるものがある。
それも、自分で見つけて、自分で採って、自分で調理したものだ。
その事実が、何より嬉しかった。
「……ここにも、食べ物があるんだね」
星は海を見つめた。
岩の間には、まだ多くの生き物が暮らしている。
これからも少しずつ調べていけば、食料として利用できるものが見つかるかもしれない。
ただし、今日の一匹だけで安定した食料供給ができると考えるのは早い。
潮の満ち引きもあるし、いつでも同じ場所で採れるとは限らない。
それに、貝を採るには道具も必要だった。
「……まあ、少しずつかな」
星は小さく頷いた。
そして、焚き火の始末を始めた。
火に水をかけ、残った灰をかき混ぜる。
十分に冷えたことを確認してから、使った道具を片付けた。
「……よし」
星は背負い籠を担ぎ直した。
さて、次は何を見ようか。
◇
「……っと!」
足元が滑った。
岩の上を歩いていた星は、咄嗟に身体を傾けた。
しかし、草鞋の底が濡れた岩を捉えきれず、そのまま膝をついてしまう。
「……いたた」
幸い、大きな怪我にはならなかった。
ただ、脛を少し擦りむいてしまったらしい。
「……またやっちゃった」
星は小さく溜息をついた。
昨日は川で転び、今日は海岸で滑る。
どうやら、水辺との相性はあまりよくないらしい。
「……もうちょっと慎重にならないとね」
傷の状態を確認する。
深くはないが、土や砂が付着していた。
星は安全な場所へ移動し、持参した飲み水を少し使って汚れを洗い流した。
消毒液も包帯もない。
だからこそ、できるだけ傷を清潔に保つ必要がある。
ひとまず、これ以上岩場を歩き回るのはやめておこう。
「……残念」
星は海を見つめた。
まだ、調べてみたい場所はたくさんある。
岩の向こうに続く海岸。
少し離れた場所に見える、大きな石積み。
特に、あの石積みは気になっていた。
自然にできたものにしては、形が整いすぎているのだ。
「……防波堤、かな」
星は目を細めた。
波に削られ、ところどころ崩れているものの、直線的に並んだ石の構造物が見える。
かつて、ここに港があったのかもしれない。
もしそうなら、近くには集落があった可能性もある。
「……行ってみたいなぁ」
しかし、今から向かうには少し距離があった。
それに、帰り道のことも考えなければならない。
ここまで来る途中、森の中で一度道を見失っているのだ。
日が暮れる前に拠点へ戻れるかどうかも、慎重に判断する必要がある。
「……うん。今日はここまで」
星はそう決めた。
急ぐ必要はない。
海は、明日もここにある。
それに、今日見つけたものだけでも、記録に残したいことが山ほどあった。
◇
帰り道では、行きよりも慎重に歩いた。
来る途中に残した目印を一つずつ確認し、周囲の地形を覚え直していく。
幸い、大きく道を外れることはなかった。
途中で何度か立ち止まり、休憩を挟みながら進んだものの、どうにか川まで戻ることができた。
「……ふぅ」
星は木陰に腰を下ろした。
疲れた。
それも、かなり。
けれど、心地よい疲労でもあった。
今日、自分は海を見つけた。
それだけで、随分と遠くまで来たような気がする。
もちろん、実際の距離はそれほどでもないのかもしれない。
現在地が分からない以上、正確なことは何も言えなかった。
それでも。
「……楽しかったなぁ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
海を見た。
波の音を聞いた。
潮だまりに棲む生き物を観察した。
それから、久しぶりに海の幸を食べることもできた。
そうして今日の出来事を振り返っていると、昔の家族のことが頭に浮かんだ。
石化する前の日本。
家族で出かけた旅行。
何気ない休日。
あの頃は、そんな時間がずっと続くものだと思っていた。
けれど、今は違う。
家族がどこにいるのかも分からない。
そもそも、今も同じように石化しているのかさえ分からなかった。
「……みんな、どうしてるんだろ」
星は空を見上げた。
青い空が広がっている。
兄。
姉。
弟。
妹。
そして、父と母。
二組の祖父母。
全部で十人。
自分にとって、大切な家族だった。
喧嘩したこともある。
くだらないことで笑い合ったこともある。
姉と妹に、妙に可愛らしい服を着せられたことだってあった。
「……ふふ」
思い出して、少しだけ笑ってしまう。
確か、姉が新しい服を見つけてくるたびに、自分のところへ持ってきたのだ。
妹もそれに便乗して、あれを着てみて、これを着てみてと騒いでいた。
別に、星自身は嫌ではなかった。
可愛い服は可愛いし、自分に似合うなら着るのも悪くない。
ただ、二人とも妙に張り切るものだから、最後には少し疲れてしまった覚えがある。
「……懐かしいなぁ」
そんな日常も、今は遠い。
けれど、忘れたわけではない。
家族の顔も、声も。
一緒に過ごした時間も。
全部、ちゃんと覚えている。
「……会いたいね」
星は小さく呟いた。
もしも家族が、今もどこかで石化しているのなら。
もしも、自分と同じように目覚める方法があるのなら。
いつか、また会えるかもしれない。
もちろん、確証はない。
自分がどうして復活できたのかさえ、分からないのだから。
それでも。
「……探してみよう」
星はゆっくりと立ち上がった。
旅を続ければ、何か分かるかもしれない。
ほかの復活者に会えるかもしれない。
あるいは、石化そのものについての手掛かりが見つかるかもしれない。
そして、何より。
まだ見たことのない景色が、この先にもたくさんある。
「……うん」
星は微笑んだ。
きっと、旅はまだ始まったばかりなのだ。
◇
夕暮れ。
拠点へ戻った星は、焚き火のそばで木札を取り出していた。
今日の記録を残すためだ。
まずは、日付代わりの数字。
『七日目』
続いて、今日の出来事。
『川の下流を探索。途中で道を見失う』
『潮の香りと波音を頼りに進み、海を発見』
『海岸は岩場が中心。潮だまりに魚、カニ、貝類を確認』
『アワビの仲間と思われる貝を採集。加熱して食べた』
『石積みの構造物を確認。旧港湾施設の可能性あり』
そこまで刻んで、星は手を止めた。
「……うーん」
随分と色々なことがあった。
けれど、今日の記録には、まだ何か足りない気がする。
星はしばらく考えた。
海を見つけたこと。
そこにいた生き物たち。
かつての港らしきもの。
どれも、記録に残しておきたい発見だった。
しかし、今日一番印象に残っているのは、別のことだった。
「……ああ、そっか」
星は小さく笑った。
目を閉じる。
青い海が浮かぶ。
光を反射する水面。
遠くへ続く水平線。
そして、潮風の匂い。
星は木札を持ち直した。
そこへ、ゆっくりと文字を刻む。
『海は、とても綺麗だった』
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれた。
随分と単純な感想だ。
もっと気の利いた言葉を使ってもよかったかもしれない。
けれど、今の自分には、これが一番しっくりくる。
前世で旅の記録をつけていた頃も、似たようなことがあった。
どれだけ言葉を尽くしても、目の前の景色を十分に表現できないことがある。
そんなときは、無理に飾らない方がいい。
綺麗だった。
楽しかった。
また行きたい。
それだけでも、十分に思い出になるのだから。
星は木札を眺めた。
石世界紀行。
まだ、ほんの数枚しかない記録。
けれど、少しずつ増えている。
最初は、何も持っていなかった。
服も、道具も、食料も。
今では、少しだけ違う。
寝床がある。
水を確保する方法がある。
旅の道具も、少しずつ増えている。
そして、今日。
最初の目的地だった海へ、たどり着くことができた。
「……さて」
星は木札を重ね、紐を通した。
これで、今日の記録は終わりだ。
あとは、明日のことを考えよう。
海岸沿いを歩いてみたい。
あの石積みの向こうも気になる。
それに、まともな食料の確保も急がなければならない。
やりたいことは山ほどあった。
けれど、それが嬉しかった。
「……明日も、楽しみだね」
星は小さく笑った。
焚き火の始末を済ませ、寝床へ潜り込む。
今日は随分と歩いた。
身体は疲れ切っているし、空腹も相変わらずだった。
それでも、目を閉じると、あの海の景色が浮かんでくる。
青い水面。
煌めく光。
遠くへ続く水平線。
そして、潮風。
「……おやすみなさい」
星は静かに目を閉じた。
石の世界で迎える、七度目の夜。
文明が失われても、海はそこにあった。
人間がいなくなっても、波は寄せては返していた。
その景色を見つけたことが、ただ嬉しかった。
――石世界紀行、第七日。
最初の目的地、海へ到達。
旅は、まだ始まったばかり。