でっか
4月。高度育成高等学校への入学式当日。
都内を走るバスの車内は、新学期らしい妙な緊張感と、朝の通勤時間特有の息苦しさが混ざっていた。制服姿の生徒も何人かいる。まだ互いの名前すら知らない以上、同じ学校へ向かっていると分かっていても、積極的に話しかける者はいない。
来栖彰は座席に腰掛け、窓の外をぼんやり眺めていた。
長い髪はいつものように後ろで一つに纏めてある。これから始まる高校生活に胸を躍らせている――というほどでもない。むしろ頭の片隅に浮かんでいるのは、授業だの試験だのという面倒な単語ばかりだった。
(勉強少なめで卒業できる高校だったら神なんだけどな)
そんな都合のいい学校があるはずもない。
次の停留所でバスが止まる。乗り込んできたのは、杖をついた高齢の女性だった。彰の視線が自然とそちらへ向く。
車内に空席はない。そして、優先席の一つには足を組んだ男子生徒が座っていた。背筋を伸ばし、金髪を整えた、やたらと目立つ男だ。
その少し離れた場所から、一人の女子生徒が声をかける。
「すみません。お婆さんに席を譲ってあげてもらえませんか?」
明るく、人当たりのいい声。声をかけられた金髪男は、女性と女子生徒を一瞥しただけだった。
「断る」
即答だった。彰の眉がわずかに上がる。女子生徒は少し困ったような表情を浮かべながらも、笑顔を崩さなかった。
「でも、その……ずっと立っているのは大変そうですし」
「それは私が立ったとしても同じことだねぇ」
金髪男はまるで悪びれない。
「私がこの席を確保した。それだけのことだよ。老人だからという理由だけで、私が自分の快適さを犠牲にする義務はないだろう?」
車内の何人かが気まずそうに視線を逸らす。彰はそういう金髪男を数秒見る。
(すげえなこいつ)
善悪以前に、ここまで堂々と言える精神力には妙な感心すら覚える。同時に、女子生徒の方にも目が向いた。
誰かが助け舟を出すのを待っている――というより、本当に老人を座らせようとしているように見える。ただ、周囲からどう見られるかを理解した立ち回りでもある。
自然にそこまで考えてしまい、
(……いや、朝っぱらから知らん奴の性格分析してどうすんだよ)
彰は自分で自分に呆れた。そのまま立ち上がる。
「お婆さん、ここどうぞ」
老人が驚いて彰を見る。
「え?でも、あなた学生さんでしょう?」
「学生は立ってても死なないんで」
軽いブラックジョーク。ただ、表情に嫌そうな色はなかった。彰は通路側へ出ると、席を空けた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
それだけ答える。女子生徒がほっとしたように彰を見る。
「ありがとう、助かったよ」
「俺に礼言うことじゃなくね?」
彰は軽く返した。彼女は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「それもそうかも。でも、ありがとう」
随分と人懐っこい。彰は「どうも」とだけ返す。
その少し後方。無表情に近い顔で一連のやり取りを見ていた男子生徒がいた。その隣には、端正な顔立ちの黒髪の女子生徒が座っている。女子生徒は一瞬だけ彰へ視線を向け、その後すぐ窓の外へ戻した。
対して隣の男子生徒は、ごく短時間だけ彰を見る。長い髪型が目立ったから、という程度の理由。少なくともこの時点では、それ以上でも以下でもなかった。
彰もまた男子生徒にはほとんど注意を払っていない。特に目立つところのない男子。それが最初の印象だった。
むしろ彰の興味は、さっきの金髪男に向いている。金髪男は何事もなかったように鏡を取り出し、自分の前髪を確認していた。
(高校って、ああいうのもいるのか)
退屈だけはしないかもしれない。
やがて車内アナウンスが流れる。
「まもなく、高度育成高等学校前」
彰は吊り革を掴みながら、窓の向こうへ現れ始めた巨大な校舎を見た。想像していたより遥かに立派だった。
「……でっか」
その一言だけが、素直に口から漏れた。