翌朝。彰は寮を出ると、まだ少し眠そうに片手で口元を覆った。
「……眠ぃ」
昨夜は夜更かしをしてしまった。ただ坂柳は関係ない、チェスが楽しみすぎただけ、それだけだ。
「まあ朝が苦手なのもあるけど」
誰に向けたわけでもない言い訳をこぼしながら、髪を後ろでまとめ直し、校舎へ向かう。周囲には同じ制服の生徒が何人もいる。入学してまだ数日だが、既に何人かずつ固まって登校する姿も増えていた。
彰は基本一人だった、一人でいることに抵抗はない。むしろ朝から誰かとテンション高く喋る方が疲れる。
端末を取り出す。昨夜の坂柳とのやり取りを、なんとなくもう一度見る。
{私も楽しみにしています}
「……」
彰の口元が少し緩む。
「チェス楽しみだな」
そこへ後ろから声が飛んできた。
「来栖くーん!」
振り返る、櫛田桔梗が小走りで近づいてきた。
「おはよう!」
「おはよ。朝から元気だな」
「来栖くんが眠そうすぎるんだよ」
「朝に元気なの、人類として間違ってるだろ」
「そんなことないって」
櫛田が笑う、自然に隣へ並んで歩き始める。彰は拒まない、話しやすい相手ではある。
「そういえば昨日、また他のクラス行ってたんでしょ?」
「情報回るの早すぎね?」
「池くんたちが言ってたよ」
「あいつら俺の広報担当かよ」
櫛田が楽しそうに笑う。
「誰と話したの?」
「一之瀬と神崎と龍園プラス石崎。あと坂柳」
「結構行ってる!」
「どうせ同じ学校いるなら、目立つ奴くらい知っとこうかなって」
「来栖くん、人付き合い好きなんだね」
彰は少しだけ首を傾ける。
「いや?」
「え?」
「別に人付き合いが好きなわけじゃないよ。気になったから見に行っただけ」
「そうなんだ」
櫛田の笑顔は崩れない、ただ、彰は横目で彼女を見る。この子は会話の中で相手の情報を集めるのが上手い。質問が自然なのだ。不自然に探っている感じを出さずに、相手の交友関係や考え方を知っていく。
(やっぱコミュ力たっけえな)
感心する、それだけだ。裏がある、とまでは思わない。材料がない。ただし、だから信用するわけでもない。
「坂柳さんとも話したんだ?」
櫛田が言う、彰の反応がほんの少し変わる。
「うん」
「どんな子だった?」
「頭良さそう」
「それだけ?」
「あとチェスやる」
「へえ。来栖くんも好きなんだよね?」
「そう。今日の放課後指すことになった」
櫛田が少し驚く。
「もうそこまで仲良くなったの?」
「いや、仲良いかは知らん」
彰は即答した。
「チェスする約束しただけ」
「連絡先は?」
「交換した」
「それ結構早くない?」
彰は数秒考える。
「……そう?」
櫛田が笑う。
「来栖くんって、興味ある相手には結構グイグイ行くんだね」
「興味ない相手に行く意味なくね?」
「すごく分かりやすい」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「半分かよ」
そんな会話をしながら歩いていると、前方に見覚えのある後ろ姿が見えた。清隆だ、一人で歩いている。
彰が少し声を張る。
「清隆!」
清隆が振り返った。二人を見て、足を少し緩める。
「おはよう」
「おはよ」
櫛田も笑顔で、
「綾小路くん、おはよう!」
「おはよう、櫛田」
三人で歩く形になる、彰は清隆を見る。
「今日も地味だな」
「朝一番に言われることか?」
「褒めてる」
「どこがだ」
櫛田が笑う。
「二人、もう結構仲良いよね」
彰が清隆を見る、清隆も彰を見る。
「席前後だしな」
彰が言う。
清隆も、
「話す機会は多い」
「あと親友」
「まだ言ってるのか」
櫛田が笑った。
「やっぱり仲良いんだね!」
しばらく歩いていると、彰がふと思い出す。
「そういや清隆」
「なんだ?」
「チェスできる?」
「一応ルールは知ってる」
その返答に彰が少しだけ目を向ける。
「へえ」
「そんなに意外か?」
「なんとなく」
「来栖は随分好きらしいな」
「昨日、坂柳と対局する約束した」
清隆の歩調は変わらない。
「坂柳?」
「Aクラスの杖持ってた子」
「ああ」
清隆は短く返す、彰はその横顔を少し見る。特に反応はない。彰も、それ以上話を広げなかった。やがて校舎が近づく。
その入口付近、彰の視線がふと前方へ止まった。
長い黒髪をたなびかせながら、歩く女子生徒。堀北鈴音だった。
「おっはよーすずねん」
ものすごい目で睨まれる。
「…堀北」
「あなたはふざけないと会話ができないの?」
「すみません…」
少し遅れて櫛田と清隆も、
「おはよう、堀北さんっ!」
「おはよう」
そんな二人を軽く一瞥して歩き出す堀北。
「相変わらず冷たいな」
ふと櫛田の方を見ると、
「ん、?」
「どうしたのっ?来栖くん!」
「いんや、なんでもない」
そのまま校舎に入り、三人で教室まで歩いた。
(気のせい…じゃないよな)
あの時、堀北を見る櫛田の目には。確実に敵意が混ざっていた。理由はわからない、追及もしない。
ただ、あの時の櫛田の目が、やけに脳裏に焼きついて離れなかった。