彰は1年Dクラスの教室へ入るなり、自分の席に鞄を置く。
「今日の放課後はチェス、と」
後ろの清隆が座りながら、
「随分楽しみにしてるな」
「そりゃな。せっかく指せるなら普通に楽しみだろ」
彰は椅子へ腰掛ける。
少しして、櫛田や平田を中心にいつものように会話が始まり、池と山内と須藤も騒ぎ始める。まだ入学したばかりだというのに、教室内の人間関係は少しずつ形になりつつあった。
彰はそれを眺めながら、特に輪の中心へ入ろうとはしない。話しかけられれば話す。面白そうなら自分から行く。それくらいでいい。
やがて授業が始まった。
一時間目は英語。
教師が黒板に英文を書き、文法について説明する。彰は最初こそ見ていたものの、途中から眉間に皺が寄っていった。
(……単語が分かんねえ)
説明を聞けば理解はできる。だが、前提となる単語も文法も分からない。正確には、中学で一度くらい習っているのかもしれないが、覚えていない。
教師が質問する。
「では、この部分を訳せる者は?」
彰は堂々と視線を逸らす、後ろから小さな声。
「分からないのか?」
清隆だった、彰は前を向いたまま小声で返す。
「単語知らん」
「習ってないのか?」
「習ってても知らん」
「開き直るな」
「勉強嫌いなんだって」
清隆はそれ以上何も言わない。
二時間目は現代文、今度は逆だった。初見の文章を読み、その内容について問われる。彰は一度通して読む、少し戻る。筆者がわざわざ言い換えた部分、例として挙げている箇所、問いで要求されているもの。そこだけ拾う。答えはすぐ出た。
教師に指名される。
「来栖、この問いは?」
彰は本文を見ながら答える。
「この段落で一回否定してから、次で同じ意味を別の言い方してるんで……Cです」
「……正解だ」
「どうも」
座る。清隆から、
「これは解けるのか」
「国語はお任せ」
それを聞いた堀北が、話に入ってくる。
「典型的な勉強ができない人ね」
「こらそこうるさい」
「事実を言ったまでよ」
「堀北は言い方が悪いからな」
清隆がカウンターを決めてくれる、さすが親友だ。
「…来栖、お前が悪い」
振り返るとコンパスの針で脅されていた、なんて頼りない親友だ。
昼休み。
彰は池たちと食堂へ行き、戻ってくる途中で1年Aクラスの廊下をちらっと見る。ただし、わざわざ坂柳を探して声をかけたりはしない。放課後に会う、それで十分だった。
彰は自分の席へ座りながら、
「なあ清隆」
「なんだ?」
「チェス、観戦する?」
「俺がか?」
「暇なら、二人きり気まずいし」
「それが理由だろう」
清隆は少し考える。
「今日はやめておく」
「そっか」
彰も特に引き止めない。
午後の授業、日本史。彰の集中力は開始十五分でほぼ消えた。人物名、年号、制度。覚えていなければどうにもならないものが大量に出てくる。
(無理だろこれ)
ノートには、一応最低限の文字だけが並ぶ。だが自分でも、後で見返す未来がまるで想像できない。茶柱が授業中、彰の方を一度見る、彰は黒板を見ている。
寝てはいない、私語もしていない。ただし、明らかにやる気はない。そして周りの生徒はもっと酷かった。寝ている、私語をする、やる気がない、フルコンボだった。
それでも、茶柱は何も言わなかった。
次の授業では、提示された資料を読んで考える問題があった。彰はそこで急に集中する。複数の情報、一見関係のない数字、条件、矛盾。
こういうものになると頭が勝手に動く。
(この条件だとこっちは成立しねえ。なら残り二つのどっちかで……いや、ここの数字がズレてるから一個しか残らねえな)
答えは出る。だが、自分から手は挙げない。
正解を発表した生徒を見て、
(うん、それ)
と一人で納得して終わる。
放課後。
チャイムが鳴った瞬間、彰は机に突っ伏すことなく、すぐ顔を上げた。今日は目的がある。池が驚く。
「来栖が放課後に死んでない!」
「今日は予定あるからな」
山内が食いつく。
「女子?」
彰は鞄を持つ。
「女子とチェス」
「女子じゃん!」
「そこ重要?」
「重要だろ!」
彰は笑いながら立ち上がる。
清隆が後ろから、
「坂柳との対局か」
「ああ」
「頑張れ」
彰が振り返る。
「チェスに頑張れってなんだよ」
「勝てという意味だ」
「それなら最初からそう言え」
清隆は相変わらず淡々としている。
彰は手をひらひら振る。
「じゃ、また明日」
「また明日」
教室を出る。廊下を歩いているうちに、彰の表情は少しずつ楽しそうなものへ変わっていく。勉強の授業なら、一日がやたら長かった。でもチェスなら話は別だ。指定された場所、図書室へ向かう。
少し歩くと図書室についた。そこには既に、盤と駒が用意されていた。そしてその向こう側。杖を傍らに置いた坂柳が、椅子に座って待っている。彰を見つけると、小さく微笑んだ。
「お待ちしていました、来栖くん」
彰も笑う。
「待たせた?」
「いいえ。ちょうどよい時間です」
彰は盤の反対側へ座る、目の前に並ぶ白と黒の駒。それを見た瞬間、授業中の眠そうな目は完全に消えた。
「じゃあ――やろうか、坂柳」
坂柳の瞳にも、先ほどまでとは違う楽しげな色が宿る。
「ええ。お手並み、拝見いたします」