図書室。放課後の校舎の中でも、ここだけは時間の流れが少し遅い。彰と坂柳が盤を挟んで向かい合う少し離れた席では、一人の少女が本を読んでいた。
薄い銀紫色の髪を揺らしながら、周囲の会話にはほとんど興味を示さず、静かにページをめくっている。彰は席につく前、一度だけそちらを見る。
(あの子も同学年か?)
本に集中している様子からして、こちらへ話しかけてくるタイプではなさそうだ。彰も今はチェスの方が重要だった。
坂柳が駒へ視線を落とす。
「先後はどうしますか?」
「どっちでもいいよ」
「では公平に決めましょう」
簡単に決めた結果、彰が白、坂柳が黒。
彰は最初の一手を指す。その瞬間から、雰囲気が変わった。坂柳はすぐに気づく。来栖彰は、単にチェスが好きなだけではない。序盤の駒組み、手を選ぶまでの速度、無駄な迷いの少なさ。何より、局面を「覚えた形」に当てはめるだけではなく、相手の意図から逆算している。
坂柳の口元が少し上がる。
「なるほど」
彰が盤を見たまま言う。
「なに?」
「いえ。少し安心しただけです」
「弱くなくて?」
「ええ」
彰が笑う。
「それはこっちも同じ」
数手進む、彰はかなり楽しそうだった。授業中とは別人に近い。坂柳が一手指す。彰の指が止まる。
三秒
五秒
盤全体を見る。
(そこか)
すぐに応手、坂柳の目が僅かに細くなる。彰は、見えている。しかもかなり深いところまで。一方で彰も感じていた。
(この子、マジで強いな)
これまで指してきた相手とは明らかに違う、一手一手が素直じゃない。ただ最善手を積んでいるのではなく、彰がどう読むかまで踏まえて罠を置いてくる。その感覚が、妙に楽しい。
「坂柳」
「はい?」
「めっちゃ楽しい」
坂柳が小さく笑う。
「それは何よりです。私も同感ですよ」
少し離れた席。先ほどの女子生徒の指が、ページをめくる途中で一度止まる。チェスの駒が置かれる小さな音、普段の図書室ではあまり聞かない音だ。顔を上げる、視線の先。坂柳有栖。その向かいに、見覚えのない男子生徒。少なくとも同じクラスではない。
少しだけ眺める、騒いでいるわけではない。むしろ二人とも静か。ただ、妙に集中している。数秒見たあと、また本へ視線を戻す。声をかける理由はない。
対局は中盤へ、彰が少し前のめりになる。有栖は姿勢をほとんど変えない。彰がナイトを動かす。坂柳は即座には指さなかった、ほんの少し考える。彰の視線がその表情を拾う。
(考えた)
小さな変化、それだけで彰は少し嬉しくなる。自分の手が、彼女に一度止まらせる価値を持った。しかし次の一手。坂柳が指す。彰の表情が変わる。
「……うわ」
「何か?」
「いや、最悪な手だなって」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「そうして」
彰は笑いながら、また盤を見る。さらに数手。今度は坂柳の方が僅かに眉を動かす。彰の手、基本の考えから少し外れている。だが雑ではない。むしろ、相手が基本通りの対応をすることまで読んで、そこから崩すための手。
「来栖くん」
「ん?」
「あなた、随分性格の悪いチェスを指しますね」
彰が顔を上げる。
「初対面二日目で言う?」
「盤上では十分分かります」
「坂柳も人のこと言えないけどな」
「ふふっ」
静かな笑い声、その瞬間。少し離れた場所で本を閉じる音がした。女子が立ち上がる。本を返却棚へ戻し、そのまま二人の近くを通る。盤面が視界に入り、ほんの一瞬だけ足が緩む。
彰が気づく、目が合う。その子は少しだけ頭を下げる。彰も反射的に軽く会釈する。坂柳も彼女の存在には気づいていた。
「椎名さん」
椎名と呼ばれた子が足を止める。
「坂柳さん、こんにちは」
「こんにちは」
彰は二人を見る。
「知り合い?」
椎名が答えるより先に、有栖が言う。
「同学年ですから、椎名ひよりさん。Cクラスの方です」
椎名は彰を見る。
「椎名ひよりです」
「来栖彰。Dクラス」
「よろしくお願いします」
声は穏やかで小さい、彰も軽く返す。
「よろしく」
ひよりの視線が盤へ落ちる。
「チェス、ですか?」
彰が少し笑う。
「うん。坂柳が強すぎて困ってるとこ」
有栖がすぐ返す。
「来栖くんも十分強いですよ」
椎名は盤面を見る、チェスに詳しいわけではない。ただ、二人がかなり真剣に指していることは分かる。
「楽しそうですね」
「めちゃくちゃ」
彰は即答した、ひよりはその反応に少しだけ微笑む。
「それなら、邪魔しない方がよさそうですね」
「別に邪魔じゃないよ」
彰が言う、坂柳は一瞬だけ彰を見る。その言葉に深い意味はない。ただ普通にそう思っただけ。
「ありがとうございます。でも、今日はそろそろ帰ります」
軽く頭を下げる。
「それでは」
「またね」
「また」
彰と坂柳が返す、椎名は図書室を出ていく。彰はその後ろ姿を少し見てから、盤へ視線を戻す。
「Cクラスにもああいう静かな子いるんだな」
坂柳が言う。
「龍園くんの印象だけでCクラス全体を決めるのは早計でしょう」
「龍園も知ってるんだ」
「ある程度は把握済みですよ」
「遊び相手探しでしょ?」
坂柳の目がこちらを見る、それには反応せず次の一手を指した。
「で、こっちの話に戻ろう」
有栖の目が盤へ戻る。
「ええ」
盤上の駒は、少しずつ減っていった。序盤では互いに様子を見ていた二人も、中盤を越える頃には完全に対局へ没頭していた。彰は頬杖をつくこともなく、盤面だけを見ている。坂柳も同じだった。
彰が一手、坂柳が一手。
間が空く、また一手。
図書室の静けさの中、駒を置く音だけが一定の間隔で響く。
(……ここで取りに来ない)
彰は坂柳の狙いを考える。目先の駒得を選ばず、位置を優先している。
ならば、その先。
二手。
三手。
四手。
(あー……そこまで見てんのか)
彰は思わず小さく笑った。
「なにかおかしいですか?」
「いや。坂柳、俺がそこ取ると思って置いたろ」
坂柳の目が僅かに細くなる。
「さて、どうでしょう」
「絶対そうじゃん」
「盤上で証明してください」
「性格悪」
「先ほど来栖くんに言われた言葉を、そのままお返しします」
「二日目同士遠慮なくいこう」
坂柳が小さく笑う、そのまま彰はポーンを進めた。坂柳の予想とは少し違う手。彼女の指が止まる。今度は坂柳が考える番だった。彰は、その僅かな沈黙を楽しんでいた。自分の手を相手が読む、相手がそれをさらに返してくる、その返しを自分が読む。チェスの何が好きかと聞かれれば、彰はたぶんこれだと答える。単純な記憶勝負ではない、盤上に現れる相手の考え方を見るのが面白い。
そして坂柳有栖は――かなり面白い。坂柳がルークを動かす。彰の目が動く。
「……うっわ」
「どうされました?」
「また嫌なとこ置くな」
「来栖くんが嫌がる場所ですから」
彰は顔を上げた。
「今のちょっと怖くない?」
「チェスとはそういうものでしょう?」
「まあ、そうなんだけど」
再び盤面へ、終盤に入る。互いにキングを動かし始める。駒の数が減った分、一手の重みは増していく。彰は頭の中で局面を並べる。この道、あの道、坂柳がそこへ行けば、自分はここ。その後交換、さらに進む。
(勝ち筋……薄いな)
坂柳側も同じことを考えていた。彰が無理に攻めれば、僅かな綻びを突ける。だが彰は来ない。攻められるから攻める、というタイプではない。勝ち切れないと判断すれば、ちゃんと引く。その判断が早い。坂柳は少しだけ口元を緩めた。
彰が気づく。
「また笑った」
「楽しいものですから」
「俺も」
そこからさらに十数手、ついに盤面はかなり簡素になった。
ルーク、数枚のポーン、キング。
どちらにも決定的な突破口がない。彰が一手指す、坂柳が応じる、彰が戻す、坂柳も戻す。
もう一度。
そして彰が盤面を眺めたまま言った。
「これ、続けても崩れないな」
「ええ」
坂柳も同意する。
「無理に勝ちに行けば、行った方が負けそうです」
「だよな」
彰は少しだけ考えてから、坂柳を見る。
「引き分けでどう?」
有栖は盤面をもう一度確認する、数秒後。
「異論はありません」
彰が背もたれへ身体を預けた。
「はぁー……」
緊張が抜ける。
「疲れた。でもめちゃくちゃ楽しかった」
「私もです」
坂柳は穏やかに答えた、彰は盤面を見る。
勝てなかった、だが負けてもいない。それ以上に、自分と同じくらい深く読んでくる相手と指せたこと自体が嬉しかった。
「坂柳、マジで強いな」
「来栖くんも。正直なところ――」
坂柳が一拍置く。
「ここまでとは思っていませんでした」
彰が少し笑う。
「格下扱いなくなった?」
「…気付いていたのですか?」
「まあね、人を見る目には自信ある」
坂柳は彰を見る。
「定跡の知識だけに頼る指し方ではありませんね」
「覚えるの嫌いだからね」
「チェスの定跡は覚えているではありませんか」
彰が一瞬止まる。
「……好きなものは別」
「随分都合のよい頭なのですね」
「俺もそう思う」
坂柳がくすりと笑う。彰は盤上の駒を片付け始めながら、ふと訊く。
「坂柳って対局中、相手の性格も見る?」
坂柳が駒を戻しながら答える。
「当然でしょう。盤面には、その人の考え方が少なからず現れます」
「やっぱそうだよな」
「来栖くんも?」
「めっちゃ見る」
視線が合う、そこだけは二人とも似ていた。坂柳が言う。
「では、今日の対局で私のことを少しは理解できましたか?」
彰は数秒考える。
「少しだけ」
「どのように?」
「戦闘民族の女王様」
即答、有栖の眉が僅かに上がる。
「なぜです?」
「だって俺のこと舐めてたのに、思ったよりやるから途中から楽しくなって潰しに来たじゃん」
有栖はしばらく彰を見る。
そして――
「ふふっ」
小さく笑った。
「そうですね。その通りです」
彰も笑う。
「坂柳も俺のことなんか読んだろ?」
「ええ」
「じゃあ教えて」
「嫌です」
彰が吹き出した。
「仕返しかよ」
「女子に相応しくない言葉を使われましたので」
「それはごめん」
駒を全て片付ける。窓の外は、対局を始めた頃より少し暗くなっていた
彰は時計を見る。
「結構やってたな」
「そうですね」
「また指そうぜ」
彰は自然に言った。有栖はすぐには答えず、彰を見る。一局指した、その結果は引き分け。そして何より、退屈しなかった。坂柳にとって、それは十分な理由だった。
「ええ。ぜひ」
「よし」
彰は嬉しそうに笑う。立ち上がり、坂柳が杖を手にする。彰は一瞬だけ手を出そうか迷ったが、やめた。必要かどうかも分からないのに勝手に介助するのは違う。
坂柳は自分で立つ、彰はそれを普通に待った。二人で図書室を出る。まだ友人と呼べるほど互いを知らない。まして恋愛など、彰が坂柳をかなりタイプだと思っている以外には何も始まっていない。
ただ――少なくとも今日の一局で、坂柳有栖にとって、来栖彰はもう単なる「Dクラスの知らない男子」ではなくなっていた。
そして彰にとっても、見た目が好みだった少女は
今ではそれ以上に――もう一度チェスを指したい相手になっていた。