放課後、彰は坂柳と話す為にAクラスへと向かっていた。理由は小説の感想を話すため。
───
ここで場面は遡る。高度育成へ入学して、初めての休日。彰は坂柳からおすすめされた小説を読むことにしていた。『鹿が集う林檎の木』表紙には雪の残る果樹園、その中央に一本の林檎の木、その周囲に五頭の鹿。題名だけなら静かな文学作品にしか見えない。
彰は寮のベッドへ寝転がり、午前中から読み始めた。
舞台は山間部にある旧家――鹿ノ宮邸。屋敷の裏には広大な果樹園があり、その中央に一本だけ樹齢百年を超える林檎の木が立っている。その木の実だけは糖度が高く、毎年秋になると野生の鹿が集まることから、地元では「鹿が集う林檎の木」と呼ばれていた。
屋敷の主人は鹿ノ宮宗一郎、六十八歳。資産家で、若い頃は精密機械メーカーの技術者でもあった。屋敷へ集められたのは、長男の宗吾、次女の佳澄、甥の遼平、宗一郎の主治医・久我、三十年以上仕える家政婦・雪乃、そして宗一郎から直接招待状を受け取った大学院生・久世透の六人。人物紹介には、それぞれの年齢、職業、宗一郎との関係だけが簡潔に書かれている。
晩餐の席で宗一郎は突然告げる。
「明日の朝、林檎の木の下で二十年前のことを全部話す」
その一言で、宗吾、佳澄、遼平、久我の四人だけが明らかに表情を変える。雪乃だけは黙ったまま宗一郎の皿を下げ、久世はその反応を観察する。
二十年前、宗一郎の長女・真奈が林檎の木から転落して死亡していた。事故として処理されたが、宗一郎は最近になって「事故ではなかった」と疑い始めていたらしい。
翌朝。
宗一郎は二階の書斎で死体となって発見される。
死因は後頭部への強い打撃。死亡推定時刻は午前零時から一時。扉は内側から施錠され、鍵は宗一郎のポケットにある。窓も内側から閉まっている。暖炉も煙突も使えない。いわゆる密室。
机の上には、昨夜雪乃が運び込んだはずの林檎が、一個だけ残されている。ただし。前夜、雪乃は宗一郎の指示で十二個の林檎を箱に入れて書斎へ運んでいた。
彰はそこですぐページを戻した。
「十一個消えてる」
林檎の箱そのものも見つからない。
さらに妙なことがある。午前一時頃、雪乃が裏庭を見た時、いつもなら木の下に集まる鹿たちが、その夜だけ屋敷の南側の壁際に集まっていた。五頭とも地面を嗅ぎ、何かを探しているようだった。
「林檎の匂いだな」
彰はかなり早い段階でそこまで読む。書斎は屋敷の南側二階。その真下には、古い雨樋と排水溝がある。
「林檎、窓から捨てた?」
だが窓は内側から閉じている。しかも窓の下の雪に人間の足跡はない。
物語中盤。探偵役となった久世は、書斎の棚の裏から細いワイヤーを発見する。ワイヤーは壁の内部を通り、床下を経由して南側の排水管へつながっている。
彰はそこで身体を起こした。
「機械仕掛けか」
宗一郎は元技術者。屋敷には彼自身が改造した装置がいくつもある。階段昇降機、古い時計、自動散水装置、果樹園の害獣よけ。すべて序盤で自然に描写されている。
やがて久世が明らかにする。書斎の排水管には、宗一郎が秘密裏に作った装置が仕込まれていた。書斎の壁際に、小さな投入口がある。そこへ林檎を一個ずつ入れる。林檎は排水管内部の受け皿へ落ちる。一個落ちるたび、その重みでラチェット式の機構が一段ずつ進む。十一個投入すると、庭の林檎の木の根元に埋められた金属製の枠が作動する。
翌朝、宗吾、佳澄、遼平、久我の四人を木の下へ立たせた状態で、頭上から大量の鉄製ネットを落とすための装置だった。
「……殺すためじゃなくて拘束?」
彰は最初そう思う、だが違う。ネットには鋭い鉄杭が取り付けられていた。宗一郎は、二十年前に真奈を見殺しにした四人を、翌朝まとめて殺そうとしていた。
彰は少し顔をしかめる。
「復讐か」
そして、十二個の林檎。装置が完全に作動するために必要なのは十一個。
十二個目は予備。
宗一郎は、夜中に一人で装置の動作確認をしていた。
ここで彰は一度、答えが見えた気になる。
「装置の試運転中に事故った?」
実際、十一個の林檎は排水管の中から潰れた状態で見つかる。鹿が壁際へ集まっていたのも、その匂いに引かれたため。机の上の一個は予備、すべてつながる。
さらに、宗一郎の後頭部に残された傷は、誰かに殴られたものではない。
書斎天井に固定されていた金属製の巻き取り装置が外れ、落下して頭へ直撃したものだった。装置を動かす際にワイヤーへ過剰な負荷がかかり、固定金具が破損した。
「はい、事故死」
彰はそう思った、久世も全員の前で同じ推理をする。宗一郎は自作した復讐装置を夜中に試し、事故で死亡した。密室だったのは当然、犯人はいない。死亡時、宗一郎は一人だった、机の上に残った一個の林檎も、単なる予備。
そこで彰は少し笑った。
「これで終わりなら普通だな」
まだページが残っている、そして久世が言う。
『ただし、一つだけ説明できません』
彰の目が止まる。
天井から落下した巻き取り装置には、本来、二重の安全機構が付いていた。
宗一郎は精密機械の技術者で、装置を作る際には必ず「主機構」「停止機構」「物理的安全装置」の三段階を設ける癖があった。それは序盤、屋敷の階段昇降機の説明で一度だけ描写されている。
書斎の装置にも当然、安全ピンがあった。ワイヤーへ過剰な負荷がかかれば、巻き取り装置が落ちる前にピンが噛み、動きを止める。
しかし。その安全ピンが、抜かれていた。
彰は本を持つ手を止める。
「……じゃあ事故じゃない」
誰かが、宗一郎が夜に装置を試すと知ったうえで。安全装置だけを外した。宗一郎自身が林檎を十一個投入し、宗一郎自身が装置を動かし、結果的には自分自身で死ぬ。
だが、その死が起こるように準備した人物がいた。久世は犯人を雪乃だと告げる。
彰は少し眉を寄せる。
「雪乃?」
動機は二十年前へ戻る。真奈が転落した夜、その場にいたのは宗吾、佳澄、遼平、久我、そして雪乃の弟・圭介。
五人は当時、酒を飲みながら林檎の木に登ろうとする真奈を煽った。真奈は足を滑らせ転落。まだ息があった。だが五人は、自分たちの飲酒や責任が問題になることを恐れ、すぐに救急車を呼ばなかった。
結果、真奈は死亡した。久我は当時まだ医学生で、後に「転落時にほぼ即死だった」と証言を偽った。宗一郎は長い間、その事実を知らなかった。
一方、圭介はその後、強い罪悪感から精神的に追い詰められ、数年後に自殺していた。
雪乃はずっと、弟が真奈を死なせた罪悪感に耐えられず、自殺したと思っていた。ところが、宗一郎が二十年前の真相を調べ直す過程で、雪乃は弟が残した手紙を見つける。そこには、真奈の死後、宗一郎が圭介へ何度も接触し
『お前が娘を殺した』
『一生忘れるな』
『お前だけは許さない』
と責め続けていたことが書かれていた。
つまり、圭介を自殺へ追い込んだ最大の原因は。真奈の死そのものだけではなく。宗一郎による長年の執拗な圧力だった。雪乃はそこで初めて、宗一郎を恨む。
ただし、それだけなら、二十年前の復讐。雪乃は宗一郎を殺さなかった。年月が経ち、彼女自身も、弟に罪があったことは理解していたから。
ではなぜ今、犯行に及んだのか。
答えは。雪乃は宗一郎が翌朝。宗吾、佳澄、遼平、久我の四人を殺そうとしていることを知った。書斎の掃除中、果樹園の設計図、ワイヤー、鉄杭。
そして、装置の作動手順を書いた宗一郎のメモを見つけた。雪乃は宗一郎へ問いただす。
『お嬢様のために、また人を殺すのですか』
宗一郎は答える。
『あいつらは二十年前に死んだのと同じだ』
雪乃は止めようとした、警察へ連絡しようとも考えた。だが、装置自体はまだ作動していない。殺人予告の証拠になる明確な文書もない、しかも宗一郎は、翌朝話をするとしか周囲には言っていない。警察がすぐ動く保証はない。
そして、装置を壊せば、宗一郎は別の方法で四人を殺すかもしれない。
雪乃は考える、宗一郎本人を止めるしかない。
そこで、彼女は直接殺すことを選ばない。宗一郎が毎晩完成した装置を自分で試す癖があることを知っていた。
だから、安全ピンを抜いた。宗一郎が試運転すれば、装置自身が宗一郎を殺す。しかも、翌朝予定されていた四人への大量殺人も同時に止まる。
彰は少し黙る。
「……なるほど」
犯行方法と動機が、ここで完全につながる。雪乃は宗一郎を恨んでいた。
でも、昔の恨みだけで殺したわけではない。翌朝起きるはずだった殺人を止めるため。
そして、自分の弟を死へ追いやった男に、その男自身が作った復讐装置で死んでもらう。そこには明確な復讐心もあった。だから純粋な正当防衛でもない。では、机の上に残された十二個目の林檎。久世が最後にそこへ戻る。
彰も少し姿勢を正す。
この一個は、ただの予備ではなかった。宗一郎の設計メモには、
「確認時は十個で停止」
と書かれていた。本番では十一個で完全作動。しかし試運転では十個まで投入し、十一個目は入れない。安全装置が正常なら、十個で一度機構を止め、確認する。
つまり、宗一郎は十一個目まで入れるつもりはなかった。ではなぜ排水管から十一個見つかったのか。
彰がそこで止まる。
「……誰かが一個先に入れてた?」
正解だった。雪乃は安全ピンを抜いただけではない。試運転前に、排水管へ林檎を一個だけ、先に入れていた。宗一郎本人はそれを知らない。彼はいつもの手順通り。
一個目
二個目
三個目
と投入していく。自分では十個目だと思って入れた時、実際には装置内部では十一個目。完全作動。
安全ピンは抜かれている、巻き取り装置が外れ、宗一郎は死亡する。
机の上に一個残った理由もこれで完全に説明できる。十二個あった林檎、雪乃が事前に一個投入。宗一郎が十個投入、合計十一個が排水管へ。
そして宗一郎が「試運転用の十一個目」として残していた一個が机に残る。
彰はここで完全に笑った。
「うわ、綺麗」
雪乃は宗一郎に最後の一個を入れさせて殺したのではない。宗一郎自身が『まだ十個目だ』と思って投入した林檎を、実際の十一個目にした。
だから宗一郎は自分から危険な手順を踏んだわけではない。事故でもない。犯人が明確に作動条件を一段ずらした。
そして犯人は装置に触れた痕跡をほとんど残さない。必要なのは林檎を一個入れること、安全ピンを一本抜くこと。それだけだった。
最後に、雪乃は久世へ言う。
『あの人が途中でやめたなら、私は殺人犯ではなかったのでしょうね』
久世は答えない、宗一郎は試運転をやめなかった。十個目だと思った林檎を投入した。雪乃はそれを知っていた、だから殺意はあった。
最後の一文。
『木の下にはその朝、鹿が一頭も来なかった。落ちた林檎は、すべて人の手で使われてしまっていた。』
彰は最後まで読んで、しばらく黙った。
そして、
「……これ、好きだわ」
すぐ最初へ戻る。
十二個
十個で試運転停止
十一個で完全作動
宗一郎の安全装置への異常なこだわり
雪乃が書斎へ自由に入れる立場
圭介の手紙
全部最初からある。彰自身、途中で「装置事故」まではかなり早く読めた。雪乃が怪しいとも思った。ただ、「一個先に入れる」は読めなかった。しかもそれをやる意味が、トリック上の都合ではない。宗一郎が自分の意思で危険ラインを越えないようにしていたから。そこを一段だけずらす。
「性格悪いなあ、この作者」
褒め言葉だった。
───
場面はAクラスへ向かう彰へと戻る。扉を勢い良く開け、
「坂柳!帰ろ!」
と勢い良く言った。理由を察した坂柳は、
「ええ、構いませんよ」
帰り道、2人で歩きながら本を取り出す彰。
「読んだ」
坂柳の目が少し楽しそうに細くなる。
「いかがでした?」
「めっちゃ面白かった」
彰は即答する。
「で、一回綺麗に騙された」
「どこでしょう?」
「事故死」
坂柳が軽く笑う。
「そこですか」
「いや、あれは信じるでしょ。本人が自分で作った装置、自分で動かして、自分の頭に落ちてるんだから」
「ですが、安全装置がありました」
「そこは途中で思い出した」
彰は少し悔しそうに本を叩く。
「序盤で宗一郎、階段昇降機の安全装置三重にしてたじゃん」
「ええ」
「だからあいつが自分用の試験装置だけ安全装置なしにするわけないって」
坂柳の表情が少し変わる。
「そこまで戻れたのですね」
「うん。だから誰かが安全ピン抜いたのは分かった」
「犯人は?」
「雪乃も候補には入った」
「なぜです?」
「圭介」
彰は答える。
「昔の恨みだけなら弱いけど、宗一郎が翌朝四人殺そうとしてるの知った瞬間、一気に動機成立する」
坂柳は小さく頷く。
「では、林檎の一個先入れは?」
彰は少し黙る。
「……そこは無理だった」
「ふふっ」
「笑うなって」
「失礼しました」
彰は続ける。
「俺、十二個のうち十一個が装置に入ってて、一個机に残ってるから、単純に十一個必要だと思ってた」
「そう読ませていますね」
「でも実際は十個で試験停止、十一個で完全作動」
彰は少し笑う。
「で、雪乃が一個だけ先に入れてる」
「ええ」
「宗一郎本人は十個しか入れてない」
「そうですね」
「そこがいい」
坂柳が少し首を傾げる。
「どこがでしょう?」
「犯人が宗一郎に『危険なことをさせてる』わけじゃない」
彰は本を開く。
「宗一郎は自分の安全手順守ってる。十個で止める。でも内部では十一個」
少し間。
「一段ずらしただけ」
坂柳の口元が少し上がる。
「なるほど」
「こういうの好き」
彰は少し熱が入る。
「犯人が超能力みたいなことしてない。雪乃なら書斎入れる。宗一郎の手順知ってる。装置の構造も掃除で見てる。林檎一個入れるだけなら簡単。安全ピンも抜ける」
「ええ」
「しかも、なんでそんな面倒な殺し方するかも分かる」
坂柳が彰を見る。
「普通なら直接殺せばよい、と?」
「普通ならね。でも雪乃は宗一郎が翌朝四人殺すのを止めたい。警察呼んでも間に合うか分からない。装置壊しても別の方法使うかもしれない」
彰は少し考える。
「それに、本人の復讐装置で本人を殺すっていう復讐心もある」
「ですから、完全な善意ではない」
「そう」
彰は頷く。
「そこも好き。雪乃が聖人じゃない」
坂柳が楽しそうにふふっと笑う。
「随分とお気に召したようですね」
「うん」
彰は少しだけ本を見る。
「あと最後の鹿」
「はい」
「林檎全部人間が使ったから来ない」
坂柳は静かに頷く。
「タイトルの回収ですね」
「事件中ずっと鹿が重要そうに見えるのに、鹿そのものは何もしてないんだよな」
「ただ林檎を食べに来ていただけです」
「うん」
彰は笑う。
「人間だけ勝手に昔の罪とか復讐とか殺人とかやって、最後には鹿の分の林檎まで使い切ってる」
坂柳が少しだけ顔を覗き込んでくる。
「そこまで含めて読まれましたか」
「作者、絶対性格悪い」
「気付いた来栖くんも同じじゃないですか?」
「そこを言われると弱い。でも坂柳も気付いたでしょ」
「お揃いですね」
「やっぱり!」
彰が楽しそうにお願いのポーズをする
「次もおすすめ教えて」
「今度こそ騙されないおつもりですか?」
「次は全部当てる」
「今回も途中までは随分と自信があったようですが」
「次は本当に」
坂柳は口元を緩める。
「では、もう少し難しいものを選びましょう」
彰は一瞬黙って。
「坂柳、それ絶対楽しんでるでしょ」
「ええ」
珍しく、あっさり認める。彰は少し驚いてから笑った。
「正直だな」
「来栖くんが悔しがる顔は、なかなか面白いので」
「性格悪っ」
「今さらでしょう?」
2人で笑い合う。
「それにしても、来栖くんは中々に推理力があるようで」
「親父の影響、探偵してるんだ」
「それは珍しいご職業ですね」
「だから推理力なら坂柳にも負けないよ」
「なら、次は1番難しいものをおすすめしてあげます」
まだ一度チェスをしただけ。本を一冊勧められただけ。それでも、読んだものを早く話したいと思う。自分が見抜いたところを聞いてほしい。自分が騙されたところで、彼女がどう笑うのか見たい。
そして、自分とは違う読み方を聞きたい。彰にとって坂柳有栖は、少しずつ。ただ見た目が好みな少女から、話すために会いに行きたくなる相手へと、変わり始めていた。