放課後、朝の説明で教室の空気は完全に変わっていた。今までなら真っ先に遊びへ向かっていた池や山内も、今日はさすがに平田の周りで話を聞いていた。須藤だけは不機嫌そうに鞄を持ち、さっさと帰ろうとしていた。
平田が声を上げる。
「待って、須藤くん。中間試験の対策、みんなで考えないか?」
「いらねえよ」
「でも赤点なら――」
「分かってるって言ってんだろ」
須藤の声が少し荒くなる、彰は自分の席でそれを見ていた。
(まあ、ああなるよな)
人前でお前は危ないから勉強しろと言われれば、須藤の性格なら反発する。正論をぶつければ動く相手でもない。一方、彰自身も余裕があるわけではない。端末で試験範囲を確認する。
英語
「……知らん単語多すぎ」
数学
「あ、公式覚えてねえ」
日本史
「終わった」
清隆が後ろから覗く。
「想像以上に酷いな」
「お前さっきから俺への当たり強くない?」
「事実だ」
「国語で殴り返すぞ」
「どうやってだ」
「市の字をトライデントにしてぶっ刺す」
平田から、
「来栖くんは意外だな、授業中も割と答えられてる方に見えたから」
「暗記が無理、終わり、壊滅的」
彰は試験範囲を見せる。
「ほら、英語とかもう知らない人いっぱい並んでる」
「英単語を人扱いしないでよ」
櫛田が笑った、その少し離れた席。堀北鈴音は一人で帰る準備をしている。清隆がそちらを見る、彰も視線を追った。
「……行く?」
「俺が?」
「俺も一緒に行くよ。流石に今回は人任せにする気ねえし」
二人が堀北の席へ近づく、堀北はすぐ気づいた。
「何?」
清隆が口を開く。
「勉強会についてなんだが」
その時点で鈴音の表情に、僅かな面倒臭さが浮かぶ。
「嫌よ」
「まだ何も頼んでないぞ」
「頼もうとしているのでしょう?」
彰が横から言う。
「察し良すぎだろ」
鈴音の目が彰へ移る。
「あなたも?」
「俺も普通に危ない」
「なら勉強すればいいじゃない」
「それが嫌いだから今こうなってんだよ」
「自業自得ね」
「ぐうの音も出ねえ」
鈴音は彰を少し見た、反論せず認めたことが意外だったらしい。
清隆が話を戻す。
「須藤たちが赤点を取れば退学になる。クラス全体にも影響する可能性が高い」
「だから私が助けろと?」
「堀北なら教えられるだろ」
「能力のない人間が、自分の責任で脱落するだけよ」
堀北なら自然な答えだった、彰はそれを聞いても怒らない。
むしろ、
(まあ、この子ならそう言うよな)
と納得する。
「一個だけいい?」
堀北が彰を見る。
「何かしら」
「退学する奴が出た時、それが俺ら全員にどう響くかって分かってる?」
一瞬、堀北は答えない。
彰は続ける。
「今日初めてクラス単位でポイント決まるって分かったばっかだろ。退学者出して何も減点されません、って保証もなくね?」
堀北の目が僅かに鋭くなる、彰は肩をすくめた。
「俺も分かんねえよ。ただ、少なくとも『弱い奴が勝手に消えるだけ』で終わるかは怪しいと思う」
堀北は黙る、感情論ではない。Aクラスを目指すなら無視できない可能性。
そこを突かれた、清隆も言う。
「来栖の言う通りだ。少なくとも今は、退学者を出すことのデメリットが分からない」
しばらくして、堀北が小さく息を吐いた。
「……条件付きよ」
彰が少し笑う。
「お」
「勉強する意思のない人間まで面倒を見るつもりはないわ」
「それは妥当」
こうして、堀北を中心にした勉強会が開かれることになった。
───
数日後、図書室。机を囲んでいるのは、清隆、彰、堀北、櫛田。そして池、山内、須藤。
開始から十分、彰は既に顔をしかめていた。堀北が問題集を指す。
「来栖くん、ここ」
「……分からん」
「先ほど説明したでしょう?」
「説明された時は分かった」
「ではなぜできないの?」
「公式忘れた」
堀北のこめかみが僅かに動く。
「十分前よ?」
「興味ないことへの俺の記憶力舐めんな」
「誇ることではないわ」
「はい」
隣で池が笑った。
「来栖も大したことねえじゃん!」
彰が振り向く。
「お前は俺を笑う前にその一問目どうにかしろ」
「うるせえ!」
清隆は黙々と問題を解いている。櫛田は雰囲気が険悪にならないよう間を繋ぐ。そして須藤は、最初から苛立っていた。堀北の教え方は合理的だが、優しくはない。
「こんな問題も分からないの?」
「だから分かんねえって言ってんだろ!」
「授業をまともに聞いていれば分かる範囲よ」
「いちいち言い方ムカつくんだよ!」
空気が変わる、彰は鉛筆を止める。
(あー、来た)
堀北も引かない。
「事実を言っているだけよ。退学したくないなら勉強しなさい」
「もういい!」
須藤が立ち上がる、椅子が大きな音を立てた。
櫛田が慌てる。
「須藤くん!」
「こんな奴に教えてもらわなくてもなんとかする!」
そのまま図書室を出ていった、池と山内も気まずそうになる。堀北は止めない。彰は須藤が消えた扉を見てから、堀北を見る。
「……堀北」
「何?」
「正しいけど、人に教えるの下手だな」
堀北の眉が動く。
「あなたに言われたくないわ」
「俺、教えてないもん」
「なら黙っていなさい」
「はいはい」
ただ、彰は堀北だけを責めるつもりはなかった。
須藤にも問題がある
堀北にも問題がある
どちらか一方だけが悪い話ではない。
そして何より――
(これ、このままだと普通に落ちるな)
須藤だけではない。
池
山内
自分も
彰は問題集へ視線を戻した。
「……清隆」
「なんだ?」
「俺、英語だけマジで助けて」
「堀北に聞け」
「怖い」
「聞こえているわよ」
彰は黙った。
───
数日後、そんな勉強会が続く中で、櫛田が一つの情報を持ってくる。
「先輩から、去年の中間試験の問題を見せてもらえるかもしれないの」
彰の手が止まった。
「去年?」
「うん」
堀北がすぐ反応する。
「今年と同じ問題が出る保証はないでしょう」
「もちろん。でも、傾向を見るだけでも役に立つかなって」
彰は少し考える、過去問。この学校、教師が意図的に情報を隠している。上級生たちは既に制度を知っている。
「…それ、結構大事かも」
清隆も同意する、そして実際に手に入った前年の問題を見た時。彰は数ページめくって、止まった。授業で配られた練習問題、教師が強調した範囲。今の授業進度、繋がる。
「これ…」
清隆も気づいている、堀北も。前年問題が、今回の試験範囲と異様なほど噛み合っている。彰は思わず笑った。
「学校、こういう攻略法も込みなんだ」
勉強そのものだけではない、情報を集める。上級生との関係、ポイントの使い方。学校が与えた環境をどう利用するか。それも実力。
ようやく彰には、この学校が少しずつ面白く見え始めていた。
彰は前年の問題を眺めたまま、しばらく黙っていた。それから、口元が少し上がる。
「…なーんかテンション上がってきたかも」
清隆が横を見る。
「勉強で?」
「勉強そのものじゃない」
彰は過去問を指先で叩く。
「いや、勉強もだけど、こういう“攻略する”感じなら、話は別だわ」
堀北が冷ややかに言う。
「随分都合がいいのね」
「自覚ある」
彰は即答した。ただ、今までとは目が違った。やる気がない時の彰は、理解できても覚えない。必要性を感じなければ、そのまま捨てる。必要性を感じても、気分が乗らないと捨てる。でも一度本気で「必要だ」と判断すると、話が変わる。
「清隆、英語の基礎から貸して。あと数学、俺が抜けてる公式まとめたい」
「急だな」
「やるって決めたから」
「日本史は?」
彰の表情が一瞬死ぬ。
「…やる」
櫛田が笑う。
「すごい嫌そう」
「嫌いなのは変わってねえから」
そこからの彰は、本当に勉強した。まず、自分が何を知らないのかを洗い出す。
英語なら単語と文法
数学なら公式と典型問題
日本史なら時代ごとの流れと最低限の用語
闇雲に全部覚えようとはしない。
「これ、今回の試験で使う?」
「使うわ」
「じゃあ覚える」
「これは?」
「範囲外よ」
「捨てる」
堀北が眉を寄せる。
「極端ね」
「時間有限だし」
彰は必要な情報を切り分けるのが速かった。
一度「覚える」と決めたものについても、ただ丸暗記するのではなく、関係性や構造を作って覚える。
日本史の年号を見ながら、
「これ単体だと無理だけど、前後の事件繋げた方が覚えやすいな」
英語では、
「この単語、語源同じのまとめた方が早くね?」
数学では、
「公式覚えるより、なんでこうなるか一回分かった方が忘れねえ」
堀北が途中から少しだけ見る目を変える。彰は勉強ができないのではない。これまで、やっていなかっただけ。しかも一度やり始めると、飲み込みが異常に速い。
「あなた、本当にやっていなかっただけなのね」
「見直した?」
「余計にやっていなかったことを馬鹿だと思ったわ」
「ひどすぎて泣きそう」
池が隣で絶望する。
「なんで来栖だけもうそこまで行ってんだよ!」
「今説明されたから」
「俺も聞いてた!」
「じゃあ聞け」
「聞いてるわ!」
清隆が淡々と補足する。
「来栖は理解した後の整理が速いな」
彰が顔を上げる。
「褒めた?」
「事実を言っただけだ」
「たまには素直に褒めろよ」
その日の勉強会が終わる頃には、彰のノートは今までと別人みたいに埋まっていた。堀北がそれを見て言う。
「最初からこれをしていればよかったじゃない」
彰は机に突っ伏す。
「正論で殴るな…」
「自業自得よ」
「はい」
けれど、彰の声は少し楽しそうだった。この日を境に、彰は授業中も変わる。全部を真面目に聞くわけではない。ただ、試験に必要だと分かる内容はしっかり拾う。知らない単語が出ればその場でメモする。公式も、自分で使える形に整理する。そして、分からない部分は堀北など勉強が得意な生徒に普通に聞く。
勉強嫌いは変わらない。でももう、嫌いだからやらない彰ではなくなっていた。学校がこういうゲームを仕掛けてくるなら、彰は少し笑う。
「だったら、ちゃんと勝ちに行くか」
彰は珍しく本当に地頭が良いタイプです、でもやってこなかった分即伸びたりはしません。基礎を覚えた分しっかり伸びる、定着すれば基本忘れない。…羨ましい。