中間試験までの数日間、彰の生活はかなり変わった。
授業が終われば勉強会。寮へ戻っても、その日のうちに最低限覚える範囲だけは片づける。嫌いなものは嫌いなままだったが、一度「攻略対象」として認識すると、彰の集中力は別物だった。
英単語は単体で覚えるのを諦め、似た語や文中でまとめる。日本史は年号そのものより因果関係を先に繋げる。数学は公式だけを丸暗記せず、一度導き方を理解してから使う。
それでも、これまで何もしてこなかった穴は大きい。
「……なんで中学三年間のツケを数日で払ってんだ俺」
放課後の図書室で、彰は机に突っ伏した。向かいの堀北が問題集から顔も上げずに答える。
「あなたが三年間払わなかったからでしょう」
「正しいこと言えばいいと思うなよ」
「間違ったことを言うよりはいいわ」
「清隆。こいつなんとかして」
隣で問題を解いていた清隆は淡々と、
「堀北が正しい」
「敵しかいねえ」
櫛田がくすくす笑った。ただ、彰の伸びはかなり速かった。
最初は空欄だらけだった英語も、試験範囲に限れば少しずつ形になっていく。数学も必要な公式が頭に入れば、そこから先の応用はむしろ得意だった。
堀北も途中から、それを認めざるを得なくなる。
「来栖くん。あなた、本当に今まで勉強していなかっただけなのね」
「だから最初から言ってんじゃん」
「普通は『勉強していない』と言う人間でも、最低限は覚えているものよ」
「俺を普通の怠け者と一緒にすんな」
「より酷い意味になっているわよ」
「…確かに」
一方、須藤たちの方は順調とは言い難かった。特に須藤は勉強そのものへの拒否感が強い。池や山内も集中が続かない。それでも櫛田が空気を繋ぎ、清隆が目立たない範囲で手を回し、鈴音も不満を言いながら教える。
彰も、説明できる範囲なら手伝うようになった。
ただし、
「池、これ答え何?」
「分からん」
「俺も分からん」
「教える側じゃねえのかよ!」
「日本史を俺に聞くな!」
得意不得意は激しかった、そんなある日の帰り道。彰は一人で端末を見ながら歩いていた。
坂柳有栖とのトーク画面。最近は勉強会で時間を取られ、チェスの回数もほぼ0まで減っている。ふと、坂柳の顔が浮かぶ。頭が良さそう、というより――実際かなり頭がいい。少なくとも、彰が数日かけて必死に埋めているような基礎学力で苦労する姿は全く想像できない。
彰は顔をしかめた。
「頭良さそうな坂柳…」
少し間。
「勉強が出来ない俺……」
さらに数秒、彰は空を仰ぐ。
「この学校の制度がなぁぁぁ……」
通りかかった生徒が怪訝そうに彰を見る。
気にしない。
「クラス間で争うもんなぁ……」
普通なら、勉強を教えて!と頼みきゃっきゃうふふが想像できる。ただクラス間で争う以上話しは別だ。
「教えてくれなさそう、てか教えてくれるとしても俺がなんかやだ」
チェスの趣味が合う、話していても面白い。見た目は、文句なしにタイプ。しかし学校制度上――AクラスとDクラス。完全に敵対する確信がある。しかも坂柳の性格を少しずつ知ってきた彰には、追加で嫌な確信がある。
(坂柳、絶対こういう学校好きじゃん)
クラス同士で競う
情報を集める
相手の考えを読む
仕掛ける
裏をかく
あの少女にとって、どう考えても好物である。
彰は頭を抱えた。
「俺、あいつに目ぇ付けられたら普通に楽しそうに殺される側じゃね?」
もちろん比喩だ、ただし退学という意味では笑えない。それでも彰の口元は、少しだけ笑っていた。
怖い。けれど――。
「…まあ、それはそれでやっぱ面白そうなんだよなぁ」
自分も大概だった。
───
試験前日、彰と坂柳は久しぶりに図書室で顔を合わせた。チェスをする時間はない。彰は参考書を抱えている。
有栖がそれを見るなり、小さく笑った。
「珍しいものをお持ちですね」
「殴るぞ」
「ふふっ。まだお持ちですねと言っただけですよ?」
「それが煽っとるねん」
坂柳は改めて彰の参考書を見る。
「明日は中間試験ですね」
「そう。俺の人生初、本気の勉強期間」
「それは大げさでは?」
「いやマジ」
彰は椅子へ座る。
「坂柳は余裕そうだよな」
「少なくとも、退学を心配するほどではありません」
「腹立つなあ」
「努力不足だった方に言われましても」
「堀北と同じこと言いやがる」
坂柳が楽しそうに笑う。
彰はその顔を見ながら、ふと思う。
「なあ坂柳」
「はい?」
「この学校、やっぱクラス同士で本格的に争わせるつもりだと思う?」
坂柳は即答しなかった。
少し考えてから、
「その可能性は非常に高いでしょうね」
と答える。
「ですよねぇ……」
彰が机に額をつける、坂柳が首を傾げる。
「何か問題でも?」
彰は顔を上げる。
「坂柳が敵になる」
一瞬、坂柳の目が僅かに細くなる。
「私が?」
「AとDじゃん」
「ええ」
「坂柳珍しいね、Aとええで駄洒落」
「………」
坂柳は微笑んだまま何も言わない。
「すみません…絶対こういうの好きだよなって」
「駄洒落ですか?」
「分かって言ってるよね!勝負のこと!」
有栖は少し微笑んだ。微笑んだまま…否定しない。それだけで彰には十分だった。
「ほらぁ……」
「来栖くんがDクラスである以上、いずれ競うことはあるかもしれませんね」
「手加減する?」
「なぜです?」
即答だった、彰は数秒黙る。
「だと思ったよ!」
坂柳は、ふふっと笑う。
「来栖くんこそ、私が相手なら手を抜くのですか?」
「抜かない」
こちらも即答。
「でしたら、お互い様でしょう」
彰は少しだけ考えてから笑った。
「まあな」
それでいい、仲良くなったから勝負を避ける。タイプだから敵対したくない。そういう関係ではないらしい。
むしろ彰は、その方が坂柳らしいと思った。
⸻
翌日、中間試験当日。
彰はいつもより早く目を覚ました、ベッドの上で天井を見る。
「……行きたくねえ」
しかし起きる、端末で最後に単語だけ確認する。校舎へ向かう途中でも、日本史の流れを頭の中でなぞる。教室へ入ると、堀北と清隆が既にいた。彰は席へ着くなり言った。
「清隆」
「なんだ?」
「俺、今日退学したら坂柳にチェス勝ち逃げされるんだけど」
「試験前に考えることか?」
「重要だろ」
「なら落ちるな」
堀北はこちらを一瞥すると、何も言わずに本に目を戻した。
彰は少し笑った。
「だな」
やがて試験用紙が配られる。
最初の科目。
彰は深く息を吐く。以前なら、知らない問題を見た瞬間に諦めていた。今は違う、覚えた。必要なものは、ちゃんと詰め込んだ。それでも知らないものはある。なら、そこは捨てる。考えれば取れるところは絶対に落とさない。
問題用紙をめくる。彰の目が、授業中とは別人のように鋭くなる。
「……よし」
学校生活最初の中間試験が始まった。