中間試験、全科目終了。
最後の答案用紙が回収された瞬間、彰は机に突っ伏した。
「……終わった」
後ろから清隆の声がする。
「どうだった?」
「考える問題は余裕。覚えるやつは……知らん」
「勉強しただろ」
「したよ。したけど俺の中学三年間の怠惰を数日で完全消去できると思うな」
清隆は少し考え、
「赤点は?」
「たぶん大丈夫」
彰は顔を上げた。
「……たぶん」
「不安なんだな」
「うるせえ」
「次の学校では上手くやれると良いわね」
「もっとうるせえ!」
堀北なりの愛情表現も挟まれる。…勝手にそう捉えてるだけだが。とはいえ、手応え自体は悪くなかった。以前の彰なら空欄になっていた問題も、今回はかなり埋められた。特に現代文はほぼ迷わず、数学も必要な公式さえ思い出せればその先は速かった。
問題は英語と暗記科目。そして彰は結果が出るまで悩み続けるほど気長ではない。
立ち上がる。
「よし」
清隆が見る。
「どこ行くんだ?」
「坂柳んとこ」
「なぜ?」
彰は鞄を肩に掛けた。
「退学前最後のチェスしてくる」
「まだ退学してないぞ」
「最後になるかもしれねえだろ」
「縁起でもないな」
「もし俺が消えたら、坂柳に『来栖は英単語に殺された』って伝えといて」
「自分で伝えろ」
「冷てえな親友」
「だから親友ではない」
彰は笑いながら教室を出た。
⸻
一年Aクラス。
試験直後にもかかわらず、Dクラスほど悲壮感はない。彰は扉のところから中を覗く。最近改めて分かってきたことがある。
Aクラスは、単純に坂柳有栖一人を中心にまとまっているクラスではない。葛城康平、ツルツルさんの名前が分かった。彼の周囲には、実直そうな生徒が集まっている。この前話してみると、実際真面目で良いやつだった。対して坂柳にも、坂柳なりに話を聞く生徒たちがいる。
ただ今日は、坂柳は一人でいる時間だった。
彰はその席へ向かう。
「坂柳」
坂柳が顔を上げる。
「来栖くん。試験、お疲れ様でした」
「うん」
彰は有栖の机の前まで来る、妙に真面目な顔を作った。
「今までありがとう」
「……はい?」
「短い付き合いだったけど楽しかった」
坂柳が数秒、彰を見る。
「赤点なのですか?」
「退学前最後のチェスしようぜ」
坂柳は何も言わない。
それから、
「ふふっ」
笑った。
「赤点なのですね」
「いや一応まだチャンスある」
「では、なぜお別れの挨拶を?」
「英語が怖い」
「なるほど」
坂柳は妙に納得したように頷いた。
彰が眉を寄せる。
「そこで納得すんなよ」
「来栖くんの普段の学習態度を伺っていますので」
「誰からだよ!」
「今までの会話でご自身から散々仰っていたではありませんか」
「あっ」
全部自分だった。坂柳は楽しそうに彰を見る。
「ですが、最近は勉強されていたのでしょう?」
「した。人生で一番した」
「それなら、ご自身を信じればよいのでは?」
彰は即答する。
「人間を簡単に信用しない主義なんで」
「ご自身すらですか?」
「試験後の俺は特に信用ならん」
坂柳がまた笑う、彰はその顔を見て少し満足した。
「で、チェスする?」
「構いませんよ」
「よっしゃ。最後の一局」
「ですから、まだ退学していません」
⸻
いつもの図書室。
盤を用意しながら、坂柳が訊く。
「ちなみに、手応えはいかがでした?」
「国語は大丈夫。数学も多分いける。社会は勉強したとこ出た。英語は知らん」
「つまり、普通に残りそうですね」
「坂柳」
「なんでしょう?」
「俺が生き残る前提で話すのやめてもらえる?」
「では、退学前提で話してほしいのですか?」
「それは嫌」
「面倒な方ですね」
彰は笑った。
「もし落ちてたら、今日勝って気持ちよく学校去るわ」
「それは困りますね」
「お?」
彰が盤越しに坂柳を見る、坂柳は白いポーンへ指を添えた。
「最後に負けた相手として記憶させることになりますから」
彰の目が細くなる。
「あー……」
「何でしょう?」
「やっぱ戦闘民族だわ」
「何か仰いました?」
「なんでもない」
対局開始、そして。
試験勉強から解放された反動なのか、今日の彰はいつも以上に攻めた。
坂柳も引かない。
中盤。彰が仕掛ける、有栖が受ける。そのまま反撃。
「うわ、そこ来る?」
「退学前最後なのでしょう?」
「容赦ねえな!」
「最後ならなおさら、全力でお相手すべきでは?」
「そういうとこだぞ坂柳!」
坂柳は完全に楽しんでいる、彰も同じだった。学校を辞める可能性を冗談にしてチェスをしている時点で、どちらも大概である。
そして一時間近く経った頃、彰が盤面を睨む。
「…負けた」
坂柳が微笑む。
「チェックメイトですね」
彰は天井を仰いだ。
「最悪だ」
「何がです?」
「これで退学したら一生リベンジできない」
「でしたら」
坂柳は駒を戻し始める。
「残ればよいのではありませんか?」
彰は数秒、坂柳を見る。それから笑った。
「簡単に言うねえ」
「少なくとも、来栖くんが数日間きちんと勉強したことは知っていますから」
「…まあ」
彰も駒を片付ける。
「じゃあ残ったら再戦な」
「ええ」
「絶対だからな」
「ええ、来栖くんが退学しなければ」
「そこ念押しする?」
坂柳が、ふふっと笑う。
彰は駒を片付けながら、ふと思い出したように顔を上げる。
「…あ、そうだ。坂柳ってなんでチェス始めたの?」
坂柳の手が、ほんの一瞬だけ止まった。それは本当に僅かな変化だった。
普段なら何でもない質問として返せるはずなのに、その問いだけは少し違う。
「随分と突然ですね」
「いや、何回か指してんのに聞いたことなかったなって」
彰は深い意味なく続ける。
「小さい頃からやってるって言ってたじゃん。親父に教わったとか?」
坂柳は盤上の駒へ視線を落とす。
「……きっかけは、ある方がチェスを指している姿を見たことです」
彰の眉が少し上がる。
「へえ」
「とても幼い頃の話ですよ」
「その人が強かった?」
「ええ。非常に」
坂柳の声は穏やかだった。けれど、さっきまで彰と話していた時とはほんの少しだけ違う。懐かしむような。そして、遠い場所にいる何かを見ているような。
彰はそこを拾う。ただし、すぐには突っ込まない。
「それ見て、自分もやってみようって?」
「そうですね」
坂柳が小さく微笑む。
「その方と、いつか同じ盤を挟んでみたいと思いました」
彰は数秒、坂柳を見る。
(…思ったよりそのきっかけを重く捉えてるんだな)
単に父親に教わったから、という話ではない。誰か一人が明確に起点になっている。しかも、坂柳の言い方からしてかなり昔から強く記憶に残っている相手だ。彰なら、その相手が坂柳にとって相当特別なのだろうとは分かる。
「なるほどね」
彰は軽く頷く。
「じゃあその人、俺が負けて悔しい思いする元凶じゃん」
「元凶とは失礼ですね」
「だってその人いなかったら、俺今日負けてないかもしれんし」
坂柳が、ふふっと笑う。
「そういう意味でしたら、確かに来栖くんにとっては元凶かもしれませんね」
彰も笑う。
「いつかその人と指せるといいな」
その一言で。有栖の笑みが、ほんの僅かに深くなった。
「ええ」
短く、でも迷いなく。
「そのつもりです」
彰はその返事を聞いて、また少しだけ坂柳有栖という人間に興味を持った。誰なのかは知らない。ただ、坂柳有栖がこれだけ長い間、ずっと勝負したいと思っている相手。それはかなり面白そうだった。
彰は盤上の駒を片付けながら、ふと考える。
「てか、清隆ともやりたいな」
坂柳の指先が――ほんの一瞬だけ止まった。珍しい。
「俺の後ろの席の無表情マシーン、親友」
「…親友、ですか?」
坂柳は穏やかな笑みを崩さない。ただ、その問い返しは今までより僅かに早かった。彰は引っ掛かりを覚えながらも頷く。
「まあ俺が勝手に言ってるだけだけど。あいつ俺の高校初友達だし、んでずっとあの顔だから無表情マシーン」
彰は清隆の無表情を思い出して笑う。
「でもさ、なんか頭良さそうなんだよな」
坂柳の目が、明確に彰へ向いた。
「…そう思われるのですか?」
「うん」
彰もその変化には気づく。さっきまで自分の昔話をしていた時とは違う。
何かある。彰はまだ理由を知らないが、それだけは分かった。
「何ていうか、反応がちょいちょい変なんだよ。ポイントの時も俺と同じとこ引っかかってたし。喋ると普通なんだけど、普通にしてる感じがちょっと強い」
坂柳は静かに聞いている、彰は指先でキングを箱へ戻す。
「まあ俺が勝手にそう見てるだけだけどな。チェスやったら案外クソ弱いかもしれんし」
「ふふっ」
有栖が笑った。けれど――彰は目を細める。
(……なんだ今の)
普段の有栖の笑い方に近い、なのに少しだけ違う。チェスで面白い局面を見つけた時、彰が予想外の手を指した時。そういう時に見せる、あの楽しそうな色と、先程の話をしていた時の懐かしそうな色が一瞬だけ混ざった。
彰が聞く。
「坂柳?」
「はい?」
「清隆、知ってる?」
坂柳は一拍置いた。
「同じ学年の綾小路清隆くん、という方でしたら」
言い方が妙に正確だった、彰の眉が僅かに上がる。
「名前知ってんじゃん」
「人の名前を覚えることは、それほど不思議なことでしょうか?」
「いや、まあそうだけど」
坂柳はそれ以上、自分から清隆について話そうとはしない。
彰は数秒観察する。
笑顔
口調
姿勢
全部いつも通り。
だからこそ――さっきの一瞬だけが妙に残る。
(なんかあるな)
でも、彰は問い詰めない。相手が隠しているものを、知り合って間もない段階で無理に暴く趣味はない。
「まあいいや」
彰は軽く笑う。
「今度あいつにも聞いてみよ。坂柳と清隆と俺でチェス回したら楽しそうじゃん」
その瞬間。坂柳の笑みが、ほんの僅かに深くなった。
「……そうですね」
彰には分かる、今度は確実だ。楽しんでいる、懐かしんでる。坂柳は盤上から目を上げ、静かに彰を見る。
「もし綾小路くんが応じてくださるのでしたら――私も、ぜひ拝見したいものですね」
「だろ?」
彰は普通に笑った。
「清隆、何となく強そうなんだよな」
「ええ」
坂柳は静かに返す。
「私も…そう思います」
その声に含まれたものを、彰は完全には読み切れなかった。ただ一つだけ確信する。
(やっぱ坂柳、清隆のこと何か知ってんな。坂柳がチェスを始めたきっかけ…いや、年齢的にないだろ。清隆も坂柳のことは知らなそうだったし)
彰がそう考えると同時に。坂柳有栖の中では、遥か昔から待ち続けていた相手の名前を――最近気に入っているチェス相手が、何も知らず「親友」と呼んだ。
その偶然が。
彼女にとって、少しだけ愉快なものになり始めていた。