特別試験を乗り越え、ようやく本格的な夏休みへと入った彰は、坂柳と盤を挟んで向かい合っていた。
「坂柳」
「はい?」
「この学校、思ってたより面白いわ」
坂柳は少しだけ目を細める。
「ようやくお気づきになりましたか?」
彰が笑う。
「その顔腹立つなあ」
「ふふっ」
「今回、龍園めっちゃ結果出したし、一之瀬も頭回るし、清隆も何してるか分かんねえし」
その名前、清隆。有栖の目が、ほんの僅かに変わる。
彰は今回も拾う。
(まただ)
やっぱり、何かある。
そして今度は、坂柳の方から聞いた。
「綾小路くんは、今回の試験で何か?」
彰は少し笑う。
「教えない」
有栖の眉が僅かに上がる。
「なぜです?」
「他クラス」
彰はにやりと笑い、
「敵に情報渡すほど優しくないんで」
坂柳の笑みが、ゆっくり深くなる。
「…そうですか」
彰は駒を並べる。
「だからチェスしよ」
「ええ」
坂柳は駒へ手を伸ばす。
「それでは来栖くん。今回も――」
白いポーンが進む。
「楽しませてくださいね」
彰の口元が上がる。
「そっちこそ」
───
「チェックメイト、だな」
ご機嫌そうに彰が言う。
「久々のチェスは俺の二勝一敗ということで」
「先日突き放された勝敗数が戻ってきてよかったですね」
「なんか棘あるな」
対局が終わり、二人で駒を片付けている時。彰は何気ない調子で口を開いた。
「てかさ」
「はい?」
「清隆、元カレとか?」
坂柳の指が、ほんの一瞬だけ止まった。今まで何度か清隆の名前を出した時にも、僅かな反応はあった。だが今回は、少し種類が違った。
「……はい?」
聞き返す声は穏やか。ただ、珍しく間があった。彰はその反応を見て、むしろ少し確信を強める。
「いや、清隆の名前出すたび微妙に反応するじゃん」
「…それで、なぜ元恋人という結論になるのでしょう?」
「男女で妙に反応する理由として一番分かりやすい」
「随分と短絡的ですね」
「だから聞いてんじゃん、断定してない」
彰は駒を箱へ戻しながら、坂柳を見る。
「幼馴染とか?」
「違います」
「やっぱ元カレ?」
「違います」
「じゃあ片想い?」
今度は坂柳が彰をじっと見た。
「来栖くん」
「はい」
「随分楽しそうですね?」
「めっちゃ楽しい」
「人の過去を勝手に恋愛関係へ変換しないでいただけますか?」
彰が笑う。
「過去ってことは関係はあったんだ」
「…ええ」
坂柳は微笑みながら肯定した、そこに照れはない。むしろ、清隆を恋愛相手として扱われたこと自体に多少の呆れが混じっている。ただし――彰の洞察力なら、それで終わらない。
恋愛ではない…と思う、少なくとも今はまだ。でも、清隆という名前だけ明らかに特別。過去に関係があり、しかも嫌悪でも恐怖でもない。期待、興味…いやもっと長く、根深い何か。
彰は少しだけ目を細めた。
「…坂柳にとって特別ではある?」
坂柳の笑みが僅かに変わる。
「どうしてそう思うのです?」
「顔」
「またですか」
「またです」
数秒、視線が合う。坂柳は否定しなかった。ただ、答えもしない。
「来栖くんは、何でも知りたがるのですね」
「いや?」
彰はあっさり返す。
「坂柳が隠したいなら別にいいよ」
その答えに、坂柳が僅かに目を細める。
彰は続ける。
「ただ、清隆の名前出すと毎回楽しそうだから、気になっただけ」
「…楽しそう、ですか」
「うん。チェスで面白い手見つけた時に近い」
それを聞いて。
坂柳はしばらく彰を見たあと、小さく笑った。
「ふふっ」
否定しない。むしろ、その表現を気に入ったようだった。
「でしたら、いずれ来栖くんにも分かるかもしれませんね」
「何が?」
「それは、ご自身で確かめてください」
「うわ、出た」
彰が笑う。
「そういう言い方する時の坂柳、絶対なんか企んでる」
「失礼ですね」
「元カレじゃないのは分かった」
「最初からそう申し上げています」
「じゃあ元ライバル?」
坂柳の笑みが、今度はほんの少しだけ深くなる。
彰はそれを見て、
「……お?」
とだけ言った。だが坂柳は微笑みながらも、もう答えなかった。彰の中ではその反応だけで、清隆と坂柳の関係に対する興味が一段上がっていた。
(一方的に清隆を知っていて、ライバルに近い関係だった。やっぱりチェスを始めたきっかけが清隆なのか?例えば清隆が坂柳が見に行った大会で、ジュニアチャンピオンを取ったとか。でも調べても主要な大会には名前はなかったし、ローカル大会とかかな。ただ街のチェス教室で見かけただけとかもあり得る)
彰は坂柳の笑みを数秒見たあと、ふっと肩の力を抜いた。
「…これ以上は嫌われそうだからやめとこー」
坂柳が僅かに首を傾ける。
「随分と引き際が早いのですね」
「大事だろ、引き際」
彰は箱に最後の駒をしまう。
「坂柳に嫌われたらチェス相手いなくなるし」
少し間をおいて、
「あと退学させられたくないし」
坂柳の目が少し細くなる。
「私はその程度のことで来栖くんを退学させるような人間に見えますか?」
「見える時ある」
「失礼ですね」
「でも否定しきれないでしょ」
坂柳はすぐには返さなかった。その沈黙で、彰は笑う。
「ほら」
「…来栖くんは本当に余計なところだけ鋭いですね」
「褒め言葉として受け取るわ」
彰は立ち上がる。
「まあ、言いたくなったらいつか教えて。言いたくないなら別にいい」
その言い方には、軽さはあっても圧はなかった。坂柳はそれを感じ取ったのか、表情を少し和らげる。
「ええ、その時が来れば」
彰は坂柳が杖を持ち立ち上がる途中に、
「じゃ、今日はここまで」
「はい」
そして図書室を出る直前、彰は振り返る。
「でも元カレ説はかなり面白かった」
「来栖くん?」
「元気に仲良く帰りましょう!!!」
坂柳の静かな圧を背中に感じながら、彰は笑って逃げるように歩き出した。