体育祭準備
九月一日、長かった夏休みが終わった。
「おはよーございまーす。現実に帰ってきました皆さん」
教室へ入るなり彰がそう言うと、池が机へ突っ伏したまま片手だけ上げた。
「帰りたくなかった…」
「分かる」
山内も死んだような顔をしている。その一方で平田や櫛田はいつも通りで、堀北に至っては夏休みが終わったことに何の感慨もなさそうだった。
彰は自分の席へ鞄を置き、後ろの清隆を見る。
「清隆、夏休み終わっちゃったね」
「ああ」
「悲しい?」
「別に」
「お前に聞いた俺が悪かった」
席へ座る。まだ入学して半年も経っていない。それでも無人島、船上特別試験と、普通の高校ではまず経験しない夏を過ごしたせいか、四月よりクラス内の距離はかなり縮まっている。
そして担任の茶柱が入ってきた。
ホームルームが始まり、二学期の予定が説明される。
その中で、
「体育祭ね…」
彰が小さく呟いた。
九月は通常より体育の授業が増える。理由は、一か月後に控えた全学年合同の体育祭。その説明が進むにつれて、彰の表情が少し変わっていった。
単なる学校行事ではない。全学年を赤組と白組に分け、競技ごとの順位に応じてポイントを競う。さらに個人成績、クラスへの影響。
「…やっぱ普通の体育祭じゃねえじゃん」
清隆が横から答える。
「この学校だからな」
「夏休み最後に言ってたやつ当たったな、嫌な方で」
一方、須藤の様子は違った。明らかに目が輝いている。
「これ、俺全部出ていいんすよね?」
茶柱へ食いつく勢いだった。彰が言う。
「須藤の日来たじゃん」
「おう」
即答。
「絶対一位取る」
その自信に関してだけは、彰も疑わない。
学力なら話は別だが。身体能力、特に純粋な運動性能なら、須藤はDクラスで頭一つどころか何個も抜けている。彰自身も中学まで野球をしていたから、運動が苦手なわけではない。だが須藤と競えばまず負ける。そこは素直に認めていた。
───
その日の二度目のホームルームは体育館へ移された。
一年だけではない。二年、三年。全学年が集まる。彰は入った瞬間から周囲を見回していた。
「人多っ」
「全学年だから当然だろ」
「いや、そうなんだけどさ」
三年Aクラスの藤巻が赤組を代表する形で前へ出て説明を行う。
組み分けは。
AクラスとDクラスが赤組
BクラスとCクラスが白組
彰は少し眉を上げた。
「Aと組むんだ」
その後、学年ごとに分かれて作戦を話し合うことになる。
Aクラス側では葛城康平が中心に立つ
Dクラスは平田と堀北
Bクラスからは一之瀬
そしてCクラス、龍園翔
一之瀬が協力を持ちかけるが、龍園はそれに乗らず、早々にCクラスを連れて離れる。彰はその背中を見送った。
「ドラゴン、相変わらずだな」
清隆が横を見る。
「ドラゴン?」
「龍園だから」
「本人に言うなよ」
「最近言いたくなってきた」
「そうか」
見送った後、葛城はそんな龍園を軽視しないよう、堀北へ警告する。
彰もそれを聞きながら少し考えた。
無人島
船
どちらでも龍園は普通のやり方をしていない。体育祭だから真正面から運動能力で殴り合う。そう考える方が危険なのかもしれない。
そしてAクラスの中で、一人だけ椅子に座っている少女。
坂柳有栖。
体育祭に参加できないことについて、周囲へ静かに詫びている。彰は自然とそちらへ目が向いた。
清隆が気づく。
「見すぎだ」
「え?」
「坂柳」
「……いや別に」
「そうか」
「そうだよ」
彰が彼女を気にしていることだけは清隆にもかなりバレていた。
話し合いの終わり際。AクラスとDクラスは互いの作戦を大きく邪魔しない形で協力することになる。
移動を始める途中、彰の近くを坂柳が通った。
「来栖くん」
「ん?」
「随分と楽しみそうな顔ですね」
「体育祭?」
「ええ」
彰は少し考える。
「半々かな。普通の体育祭だったら楽しいけど、この学校だと絶対なんかあるし」
「ふふっ、随分学習されましたね」
「半年で嫌でもね」
彰は杖へ一瞬だけ視線を落とすが、体育祭へ出られないことそのものには触れない。代わりに。
「坂柳は俺が走ってるとこ見といて」
「どうしてです?」
「格好いいかもしれない」
「かもしれない、ですか」
「ハードル下げとく」
坂柳が小さく笑う。
「では、期待しすぎないようにしておきます」
「それはそれで腹立つな」
短いやり取り、それだけして別れる。
教室へ戻った彰は、清隆に言われる前に先制した。
「何も言うな」
「何も言ってない」
「顔が言ってる」
「俺の顔から分かるのか?」
「今日は分かる」
───
翌日以降。
Dクラスでは、本格的に体育祭の作戦会議が始まった。
全員参加競技
推薦参加競技
誰をどこへ配置するか。
議論の中心になったのは、希望を優先するか、能力を優先するか。須藤は当然、能力重視を主張した。
「勝つなら強い奴が出た方がいいだろ」
彰は腕を組みながら聞く、理屈だけなら分かる。
体育祭で勝つ。それだけを目的にするなら、得意な人間へ競技を集中させるのが一番効率的だ。
堀北も能力重視に賛成した。さらに彼女は、全員参加競技でも運動能力の高い生徒と高い生徒を組ませ、強い生徒が上位へ入れる可能性を上げる案を出した。
教室の空気が少し変わる、彰はすぐ理由が分かった。
「弱い方を切る形になるね」
堀北が彰を見る。
「言い方は悪いけれど、そういう面はあるわ」
「でも全体点だけ考えるなら合理的」
「そうよ」
軽井沢が反対する、運動が苦手な生徒側ばかりが損をする。
彰は軽井沢を見る、言っていることは正しい。その直後。軽井沢が櫛田へ意見を求めた、彰はほんの少しだけ眉を動かす。
(なんでそこで櫛田?)
櫛田は、どちらか一方だけが損をする形ではなく、双方が納得できる案が理想だと答える。
結果、多数決となり堀北案が通る。彰も賛成へ入れた。
ただ、投票が終わったあと。
「堀北」
「何?」
「案はいいと思うけど、弱い方に“お前らは捨て駒ね”って感じさせたら絶対揉めるよ」
堀北が少しだけ眉を寄せる。
「そんな言い方をするつもりはないわ」
「言わなくても伝わる時あるから」
平田が彰を見る。
「来栖くんの言う通りだと思う。実際に組み合わせる時は、僕からもちゃんと説明するよ」
「お願い、平田」
堀北も反対はしなかった。
彰はこの時点で、堀北の案そのものを否定しない。合理性は分かる。ただ、正しいことを言えば人が動くわけではない。
やがて参加競技が埋まり始める。須藤は推薦競技へ可能な限り出るつもりだ。堀北も積極的。平田も運動能力が高い。彰も何種目かへ名前が入る。
「俺、思ったより出るな」
須藤が言う。
「来栖、運動できる方だろ」
「須藤基準だと全員できない側になるけどね」
「俺と比べんなよ」
「自分で言う?」
そんな中、体育の時間には握力測定も行われた。
須藤は圧倒的だった。
「いや強っ」
彰は数字を見て普通に引く。
「お前やっぱゴリラだろ」
「ぶっ飛ばすぞ」
彰自身の数字も悪くない。野球経験がある分、平均より上。
ただ、そこで妙な数字が出た。
綾小路清隆、Dクラス二位。
「……え?」
彰が測定器を見る、次に清隆を見る。
「清隆」
「なんだ」
「お前強くない?」
「少し力を入れすぎた」
「何その答え」
「普通にやっただけだ」
彰は清隆の腕を見る、プールの時にも思った。細身ではあるが身体が出来ている。こういう時だけ、妙な結果を出す。
「お前さ」
「なんだ」
「運動してた?」
「特には」
彰は数秒見る。
「ふーん」
そこで終える。まだ、追及するほどではない。ただ覚える。清隆には、こういう小さな違和感が多い。
体育祭へ向けた練習が始まると、須藤が予想以上に存在感を増した。
「違う!そこもっと身体前に出せ!」
言葉自体は荒かった。だが、ちゃんと教えている。走るのが苦手な生徒にはフォームを、スタートが遅い者には姿勢を。跳ぶ競技では踏み切りを。
彰も何度か教わる。
「来栖、お前走る時上半身ブレてんぞ」
「マジ?」
「野球の走り方残ってんじゃねえの」
彰は一度走る、須藤の説明を聞く。
もう一度、今度は上半身の揺れを抑える。須藤が少し黙る。
「……直るの早えな」
「言われたから」
「普通一発じゃ直んねえよ」
彰は自分ではよく分かっていない。
ただ、相手の動きを見る。自分との違いを見つける。そしたら試し、違ったら変える。見た情報を整理することは得意だった、それを身体に使っているだけ。
「じゃもう一回」
「おう」
彰は何度も走る、須藤には届かない。でも、毎回少しずつ変わる。その姿を見た清隆が、休憩中に小さく言った。
「来栖」
「ん?」
「形だけを真似するな」
彰が振り返る。
「どういうこと?」
「須藤とお前は体格も筋力も違う、動きをそのままコピーしても効率が悪い」
彰は少し黙る。
「じゃあ?」
「なぜその動きをしているかを見ろ」
一拍、彰の表情が変わる。
「…なるほど」
フォームではなく、目的。重心をどこへ移すためか、どこで力を地面へ伝えているか。彰は須藤を見る、もう一度走る。
今度は真似しない、自分の身体に置き換える。タイムがまた僅かに縮んだ。彰は戻ってきて清隆を見る。
「お前、やっぱ運動してたろ」
「してない」
「絶対嘘」
清隆は答えなかった。
───
体育祭準備は日ごとに本格化していく。AクラスやBクラスの生徒は、他クラスの練習を見に来る。誰が速いか、誰が何を得意としているか。普通に考えれば当然の偵察。
しかし、Cクラスだけほとんど出てこない。
彰も気づく。
「ドラゴンたち全然見に来ないね」
堀北が答える。
「興味がないとは思えないわ」
「だよね」
「ところで…ドラゴンって龍園くんのこと?」
「え?うん」
「…まあいいわ」
堀北は呆れたように顔を逸らす、そんな堀北を横目に見ながら彰は言う。
「見に来ない理由がある?」
清隆が聞く。
「例えば?」
「もう見る必要ないとか」
堀北の目が僅かに動く、彰自身も言ってから考える。まだ根拠はない。
「いや、適当。情報別ルートで取ってるとか、そもそも偵察させる必要ない作戦とか、いくらでもある」
「そうね」
堀北は龍園を警戒している、彰も同じ。ただし、この段階では何も掴めない。だからこそ決めつけない。中旬になる頃には、毎日の練習が当たり前になった。須藤は相変わらずクラスの中心で体育祭準備を引っ張っている。平田はAクラスの葛城と定期的に話を合わせる。堀北も運動能力そのものは高い。
だが、二人三脚だけ異様に苦戦していた。
「右、左、右――」
数歩、崩れる。
「だから合わせて」
相手の女子が困った顔になる。
「堀北さんが速すぎて……」
「合わせようとしているわ」
離れた場所で見ていた彰が言う。
「してないよ」
堀北が振り向く。
「何?」
「合わせようとはしてるけど、自分のペースを落としただけじゃん」
「同じことでしょう?」
「違くない?」
彰は首を傾げる、上手く説明できない。
そこへ清隆が来る。
「堀北は相手を自分に合わせようとしすぎてる」
彰が指を鳴らす。
「それ!」
「あなた、今説明できていなかったでしょう」
「言語化を清隆に外注した」
「威張ることじゃないわ」
清隆は堀北へ、相手の歩幅やリズムに自分から合わせる必要があると説明する。
彰は少し離れてそのやり取りを見る。堀北は一人なら強い。学力、運動、判断、何でも平均以上。でも、二人になると。相手を自分に合わせようとする。
(堀北っぽいな)
同時に、これも体育祭だけの問題じゃない気がした。
───
別の日。
彰たちは他の運動部の様子も見る機会があった、そこで南雲雅を再び目にする。サッカー、自分が動けるだけではない。
周囲を動かす
自然に中心へ入る
彰は少し離れて眺める。
「やっぱあの先輩すげえな」
櫛田が笑う。
「南雲先輩?」
「うん。上手いのもそうだけど、周りがあの人見るんだよね」
堀北が言う。
「生徒会副会長だからでしょう」
「それだけじゃない気がする」
彰は少し考える。須藤は圧倒的に身体能力が高い、平田は人をまとめられる。南雲は、その両方に近い何かを持っている。ただ清隆は…よく分からない。そして自分は、
「…俺何タイプなんだろ」
清隆が横から言う。
「急にどうした」
「須藤はエース、平田はまとめ役。堀北は頭いいし運動もできる」
「私は?」
櫛田が聞いてくる。
「人脈お化け」
「褒めてる?」
「めちゃくちゃ。さすが桔梗ちゃん」
「えええ!急に名前呼び?」
「仲深めとこうって思った」
堀北が聞く。
「それで、あなたは?」
彰は少し考えた。
「…穴埋め?」
「随分地味ね」
「その時足りないところやるの、結構好きなんだよ」
「雑用係ね」
「………」
彰は落ち込んだ。
───
体育祭一週間前。
参加者の最終調整が行われる、最後の大きな話題。千二百メートルリレーのアンカー。本来なら須藤が最有力。しかし、堀北が自分をアンカーにしてほしいと言い出した。
教室内から疑問が出る、当然だ。勝利だけを考えれば須藤の方がいい、堀北の説明も弱い。彰も少し不思議そうに見る。
「なんでそんな走りたいの?」
堀北は答えない、清隆が途中で口を挟む。
生徒会長
堀北学
兄と走る可能性
そこでようやく彰にも分かった。
「あー」
堀北が清隆を睨む。
「余計なことを」
彰は少し笑う。
「いいじゃん」
「何が?」
「走りたいんでしょ?」
「……ええ」
「じゃ俺賛成」
勝敗、効率、体育祭なら重要。でも、全部をそれだけにする必要もない。彰は須藤を見る、須藤も最終的には認める。アンカーは堀北で決定した。
───
放課後。
練習を終えた彰はグラウンド脇で息を整えながら、体育祭用の一覧を見る。
四月なら、ただ同じDクラスに入れられただけの集団だった。今は少し違う。仲がいい奴もいる、まだよく分からない奴もいる。怪しい奴もいる。
それでも、
「ちょっとクラスっぽくなったな」
隣にいた清隆が見る。
「そうか?」
「うん」
彰は一覧を折り畳む、そして。
「体育祭、勝ちたいな」
清隆は少しだけ黙った。
「そうだな」
「須藤いるし、堀北いるし、平田いるし。俺もそこそこやれる」
「そこそこなのか?」
「自己評価は適切に」
彰が笑う。
「清隆もいるし」
「俺は期待するほどじゃない」
「はいはい」
彰は全く信じていない顔をする。
それでもこの時点では、彰も知らない。体育祭の参加表が、すでにクラスの外へ流れていることを。龍園が、真正面から勝負するつもりなどないことを。
そして、Dクラスの中に。最初から別の目的で動いている人間がいることを。彰が見ているのは。まだ、目の前の体育祭だけだった。
一年生、二学期。最初の大きな勝負は、すぐそこまで来ていた。