体育祭当日の朝。グラウンドへ出た彰は、並ぶテント、救護班、競技用のカメラまで一通り見回してから、小さく息を吐いた。
「うわ、本気のやつだ」
隣にいた清隆が見る。
「今さらか」
「準備期間と本番じゃ圧が違うでしょ」
赤組はAクラスとDクラス、白組はBクラスとCクラス。すでに各クラスの生徒が動き始めており、彰もストレッチをしながら周囲を見た。須藤は朝から明らかに気合いが違う、堀北も静かだが集中している。平田は参加者の確認に追われ、櫛田はいつも通り多くの生徒へ声をかけていた。
彰は須藤の肩を軽く叩く。
「今日お前の日じゃん」
「分かってる、全部勝つ」
「頼もし」
「お前も足引っ張んなよ」
「元野球部を舐めんな」
「俺には勝てねえだろ」
「それは認める」
即答すると、須藤が少し拍子抜けした顔をする。
「そこ張り合わねえのかよ」
「勝てないところで意地張るほど馬鹿じゃない」
彰は笑った。
最初の競技は百メートル走、須藤は第一組。スタート前から明らかに他の選手と身体つきが違う。
号砲。
「速っ」
彰が思わず笑う、須藤は危なげなく一位。Dクラスのテントから歓声が上がった。
「ゴリラつっよ」
戻ってきた須藤が彰を睨む。
「聞こえてんぞ」
「褒めてる」
彰自身も別組で走った。結果は上位には入るが、一位ではない。中学まで野球をやっていた分、一般の生徒よりは速い。ただ、須藤のような純粋な身体能力の怪物ではなかった。
走り終えて戻る途中、彰は自分のスタートを思い返す。
(最初の二歩、ちょっと上体起きるの早かったな)
高校に入り、勉強などに向き合うようになってから、失敗すると原因を勝手に探す癖がついていた。
清隆の組になり、彰は何となく見る。
結果…五位。
「…普通だな」
自分で呟いてから、少し違和感。握力測定ではDクラス二位、須藤のフォームについて自分へ助言もした。なのに、走れば五位。
「清隆」
戻ってきた清隆へ声をかける。
「何だ」
「遅かったね」
「そうだな」
「……」
「何だ」
「いや」
彰は笑う。
「なんでもない」
まだただの違和感。
同じ頃、異変が起きた。高円寺が競技へ出ない。体調不良を理由に休むと言い出し、須藤が激怒する。
「ふざけんなよ!テメェ一人の問題じゃねえんだぞ!」
高円寺はいつもの調子を崩さない。須藤が掴みかかろうとした瞬間、彰も動いた。
「須藤、待て」
腕を掴むも、当然力では止めきれない。須藤の腕が彰ごと動く。
「離せ来栖!」
「殴ったらもっと面倒になる!」
反対側から平田も入り、清隆も近づく。高円寺は須藤の攻撃を軽く受け流す。彰の目が一瞬そちらへ向いた。
(こいつも普通じゃねえな)
だが今はそれどころではない。
「須藤!」
「なんだよ!」
「高円寺殴って出場するならまだ意味あるけど、殴ってもこいつ絶対出ないぞ!」
「……っ!」
「だったら俺らが点取るしかないだろ」
須藤はしばらく苛立ったままだったが、平田の説得もあり、何とかその場を離れた。
彰は腕をさすった。
「力強すぎだろ……」
清隆が見る。
「止められてなかったな」
「うるせえ」
序盤。
Dクラスは悪くなかった。須藤が圧倒的に稼ぐ、平田も安定している。堀北も高い運動能力を見せる。彰も大崩れはしない。
しかし、少しずつ妙なことが起き始める。
「あれ?」
彰が最初に気づいたのは、組み合わせだった。Dクラスの得意な生徒が出る組には、Cクラスの強い生徒が配置される。反対に、Dクラスで運動が苦手な生徒がいる組では、Cクラス側も無理に上位を狙わず、別のクラスへ勝ちにいく。
ただの偶然。一回なら、二回でも。
だが、
「多くない?」
彰は平田のそばへ行く。
「何が?」
「C、こっちの配置知ってるみたいに当ててきてない?」
平田の表情が僅かに変わる、その近くにいた堀北も彰を見る。
「私もそう思っていたわ」
清隆は黙っている、彰が言う。
「でも参加表、写真禁止だったよね」
「うん」
平田が頷く。
「なら偶然か、見て覚えたか、誰かが渡したか」
最後の一つを言った瞬間、少し空気が変わる。堀北の目が細くなる。
「裏切り者がいると?」
「可能性の話」
彰はすぐ付け足した。
「まだ分かんない、Cが全部予想した可能性だってある」
推理。でも証拠はない。だから断定はしない。ただ、Cクラスが準備期間にほとんど偵察へ来なかった理由。
そこだけが頭に残る。
(そもそも見る必要がなかった?)
そして龍園、少し離れた場所。そこから余裕のある顔でこちらを見ていた。
彰と目が合う、龍園が僅かに口元を上げる。
(嫌な顔)
午前の競技が進むにつれ、Dクラスの状況は悪化した。堀北へのCクラスの接触が妙に多い。走路、位置取り、競技中の体当たり、偶然として処理できる範囲。
ただ何度もそれはおきた。彰は堀北の競技を見ながら眉を寄せた。
「狙われてない?」
清隆が横にいる。
「そう見えるか」
「見える」
「理由は?」
彰は少し考える。
「堀北だから」
「説明になってない」
「ドラゴンが狙いそうじゃん、堀北みたいなの」
清隆は否定しなかった。
その後、二百メートル走。彰自身の競技を終えた直後だった。別の走路で、堀北とCクラスの木下美野里が接触する。
転倒、彰の顔から笑いが消えた。
「堀北!」
すぐ近くへ向かう、堀北は脚を痛めていた。木下側も怪我をしている。周囲の教師も集まる。
彰は転倒した位置を見る。走路、二人の身体の向き、直前に何が起きたか。だが競技中、映像もある。ここで自分が「故意だ」と叫んでも意味がない。堀北が立とうとする。
「無理すんな」
「大丈夫よ」
「大丈夫な歩き方じゃないでしょ」
堀北は彰を睨む。
「まだ競技が残っているわ」
「知ってるけど」
そこへ清隆も来る、堀北は救護へ向かう。彰はその後ろ姿を見る。
その少し先にいる龍園は、笑っている。彰が一瞬歩き出そうとすると、腕を掴まれた。清隆だった。
「何」
「今行って何をする」
彰が黙る。
「……話す」
「その顔でか」
「殴らないよ」
「須藤よりは信用できる」
「そこ比較対象なんだ」
彰は少し息を吐く、結局行かない。証拠がない。それに、怒っている時ほど余計なことはしない。その後もDクラスは削られていく。
そして、須藤。自分が結果を出し続けているのに、クラス全体では順位が伸びない。高円寺は出ない、仲間も思ったように勝てない。堀北まで怪我。苛立ちが積み上がっていた。
戻ってきた須藤が怒鳴る。
「何やってんだよ!もっとちゃんとやれよ!」
空気が凍る、彰が顔を上げる。
「須藤」
「なんだよ!」
「それ言って速くなるなら皆言うよ」
「テメェは黙ってろ!」
「黙らない」
彰の声から普段の軽さが少し消える。
「お前が一番頑張ってるのは分かってる。でも、みんな須藤じゃない」
「だから何だよ!」
「できない奴にできろって怒鳴っても無理だって言ってんの」
須藤が彰へ一歩近づく。
「お前だって結果出せてねえだろ!」
「うん」
彰は即座に認めた。
「だから悔しいよ」
その返しで須藤が一瞬止まる。
「でも、悔しいからってみんなに当たったら違うだろ。みんな全力でやってる、手を抜いてるわけじゃない」
須藤の拳が握られる、平田が間に入る。
「須藤くん、一度落ち着こう」
その言葉が今の須藤には逆効果だった。
「うるせえ!」
拳が平田へ当たる、彰の目が見開く。
「須藤!」
一瞬で須藤の腕を掴む、今度は清隆もすぐ近くへ来る。
「もうやめろ」
茶柱も騒ぎに気づいてやってくる。平田は、自分が殴られたにもかかわらず須藤を庇った。彰は平田を見る。
「平田」
「大丈夫だよ」
「……」
須藤はそれすら気に食わなかった。
「もういい」
吐き捨てる。
「こんなクラスどうでもいい」
そのまま立ち去った。彰は追おうとする、だが。
「待って」
堀北、怪我をした脚で戻ってきている。彰が見る。
「追う」
「今あなたが行っても駄目よ」
「でも」
堀北は少し黙る。清隆が堀北へ話しかける、須藤の状況、堀北自身の状況、今必要なこと。
やがて、堀北が行く。須藤を連れ戻すために。彰は後ろから呼ぶ。
「堀北!」
堀北が振り返る。
「何?」
彰は一瞬考えて。
「…頼んだ」
「ええ」
───
午前が終わり、昼休み。
須藤も、堀北もいない。Dクラスのテントは重い空気だった。彰は座りながら食事を取るが、あまり味がしない。
池がぼそっと言う。
「須藤、戻ってくんのかな」
彰は少し黙る。
「戻るよ」
「なんで分かんだよ」
「分かんない」
池が彰を見る。
「じゃあ何だよ」
「戻ってほしいから言った」
池は何も返さなかった。
───
午後。
推薦参加競技へ入るも、須藤不在、堀北も不在。
代役を立てるしかない。平田が自分のポイントまで使って選手変更を続ける。彰もいくつか代役へ回った。結果は当然、本来より悪い。それでも一つ一つやる。
借り物競争
綱引き
二人三脚
混合競技
その途中、清隆と櫛田が二人三脚へ出ることになる。彰は何気なく二人を見る。櫛田はいつも通り笑っている、清隆もいつも通り。なのに少しだけ、空気が妙だった。
(何話してんだろ)
聞こえない。ただ、二人が普通の雑談をしているようには見えなかった。
それ以上は追えない、自分にも競技がある。そしてその頃、堀北は寮で須藤を待っている。
一時間。戻ってきた須藤へ、自分も兄だけを見て。周りを見ず、一人で強くなればいいと思っていた。でもそれだけでは駄目だった。自分と須藤は似ている、そう認めて力を貸してほしいと頭を下げる。
彰はその会話を知らない。ただ体育祭終盤、テントの方で声が上がる。彰が振り返ると、須藤。その隣に、堀北。
「…来た」
須藤はクラスの前へ立つ。そして、頭を下げた。
「悪かった」
彰の表情が少し変わる。須藤が頭を下げる。平田へ、池へ、クラスへ。彰は何も言わず見ていた。須藤が顔を上げる、彰と目が合う。
「……来栖」
「ん?」
「さっきは悪かった」
彰は数秒黙ってから笑う。
「いいよ」
少し間をおいて、
「でも平田殴った分は平田にもっと謝れ」
「分かってる」
「じゃあいい」
堀北も戻ってきた。だが脚は悪化している。最終リレーは本来、堀北がアンカーとして走るはずだった。彰はその脚を見る。
「無理だね」
堀北は悔しそうに拳を握る。
「…ええ」
自分から辞退する。そして珍しく深く頭を下げる。彰は少し意外だった、以前の堀北なら無理にでも走ったかもしれない。でも今はクラス全体を見る。
(…変わったな)
代役が決められる。さらに、三宅も足首の痛みで辞退。参加者が変わる。そして清隆。彰は最初は自分の耳を疑った。
「清隆出るの?」
「ああ」
「リレー?」
「そうなる」
彰は少し笑った。
「大丈夫?」
「普通に走るだけだ」
「また普通ね」
最終競技、千二百メートルリレー。会場の空気が変わる、学年を跨いだ最後の大勝負。彰も赤組側から声を出す。
須藤、やっぱり速い。走る姿が、午前より妙に落ち着いて見える。
「須藤ー!」
彰が叫ぶ、須藤が抜く。Dクラス側も盛り上がる。そして清隆へと、バトンが渡る。相手は生徒会長、堀北学。
彰の目が細くなる。
「……え?」
最初の数歩、清隆が速い。明らかに今までと違う。彰の表情から、完全に笑いが消える。
「は?」
横の生徒たちもざわつく。あの綾小路清隆が、生徒会長堀北学へついていく。いや、競っている。
「……お前」
彰は以前、握力、泳ぎ、身体、何度も小さな違和感を見てきた。その違和感が繋がる。
(やっぱり)
異常に育った身体、自分への的確な助言、握力二位。そしてこの走力。
(ずっと隠してた)
彰の心臓が少し速くなる。
(…すげえ)
そしてなにより、面白い。
「清隆……お前なんなんだよ」
思わず笑ってしまう。清隆と堀北学はほとんど互角、そこへ前方の走者が転倒する。進路を塞がれる、清隆が僅かに遅れる。学が先へ。彰はしばらく、順位を見るよりも清隆の走りだけを思い出していた。
───
競技終了。
体育祭全体では赤組の勝利。しかし、一年生だけで見れば。
一位Bクラス
二位Cクラス
三位Aクラス
そして…Dクラスは最下位。
一年MVPはBクラスの柴田。須藤は届かなかった。結果を聞いた須藤は露骨に悔しそうだった。
「くそ…!」
彰が横へ行く。
「惜しかったな」
「惜しいじゃ意味ねえよ」
「その感じなら次強くなるじゃん」
須藤は少しだけ彰を見る。そして堀北との約束。一年全体で一位を取れなかった以上は、「鈴音」と呼ぶ権利はない。須藤が悔しそうに堀北を苗字で呼ぼうとすると。
堀北が、自分にも責任があったと言う。そして条件付きで、名前で呼ぶことを許した。須藤の顔が真っ赤になる。
「マジか!?」
彰が吹き出す。
「今日一番元気じゃん!」
「うるせえ!」
「体育祭MVP取った時より嬉しそう」
「取ってねえよ!」
「そうだった」
「テメェ!」
堀北が冷たい目を向ける。
「二人とも静かにして」
「はい」
彰は素直に黙った。
体育祭が終わる。そんな中、彰は清隆を見つけた。
「清隆」
「何だ」
彰は少しだけ笑っている。
「速いじゃん」
清隆は止まる。
「そうか」
「そうか、じゃねえよ」
少し近づく。
「須藤より速い?」
「分からない」
「じゃあ生徒会長とは?」
「結果を見ただろ」
彰は数秒見つめた。
「今まで手抜いてた?」
清隆は少し黙った後、
「場面による」
それだけ返す、彰の笑みが少し深くなる。
「やっぱり」
清隆が彰を見る。
「何がだ?」
「ずっと変だった」
彰は指を折る。
「握力、身体、運動のアドバイス、今日の百メートル。全部ちょっとずつおかしかった」
「そうか」
「そうだよ」
彰は笑う。
「何者かまでは知らん」
少し間。
「でも、清隆が普通じゃないのは分かった」
清隆は否定しない。彰はそれ以上聞かなかった。聞いても多分答えない。
そして、答えないなら自分で見ればいい。
「まあいっか」
「いいのか」
「うん」
彰は軽く手を振る。
「そのうち分かるでしょ」
数歩進み、そして振り返る。
「親友だし」
「親友ではない」
「そこはいつも通りなんだ」
清隆はそのまま去る、彰は少しだけ笑った。
この日、Dクラスは負けた。須藤は崩れて、それから戻った。堀北は怪我をして、少し変わった。Cクラスには、最初から最後まで盤面を握られていた。
そして、彰が一番長く話している無表情な少年が、初めてほんの少しだけ、隠していたものを見せた。
来栖彰にとって、体育祭は負けた一日だった。
でも、
「……面白くなってきたな」
そう呟いた顔は、妙に楽しそうだった。
───
「清隆どこだよ…」
彰は自販機で飲み物を買い、清隆に渡した後軽く話でもしようと思っていた。
(秘密は暴く気ないけど、走り方のコツとか聞きたいし)
少し歩くと。
「…ん?」
少し離れた場所には清隆と女子生徒が歩いていた。
(確かAクラスの…神室?)
ついて行こうかとも考えたが、告白かもしれない。飲み物は自分でも処理できる。そう思い彰は寮へ戻ることにした。
彰は知らない。まさに今、最近気になっている子と無表情な親友が、2人だけの秘密を話していることに。
まだ、気づいてなかった。