数日後、図書室。
いつものように彰と坂柳は盤を挟んでいた。
「最近体育祭準備で出来てなかったからな、気持ちよく勝たせてもらうね」
「そのままそっくりお返しいたします」
中盤、坂柳がビショップを斜めに走らせる。彰は盤面を見たまま数秒考え、それからナイトを動かした。
「んー……」
「迷っていますね」
「坂柳が嫌な位置に置くからだろ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「毎回それ言うな」
彰は笑いながら次の手を待つ。坂柳が駒へ指を伸ばしたところで、彰が何気ない調子で言った。
「そういやさ」
「はい?」
「清隆とのお話、どうだった?」
坂柳の指先が止まる。
(…やっぱりか)
体育祭が終わってからの数日間、あの時のことを思い返していた。神室が清隆を連れて行くところ。最初は告白やクラス間のあれこれかもしれない、そう思っていた。ただ日が経つごとに、考えるごとに他の考えで頭が埋まっていった。
坂柳の清隆への反応。清隆がとてつもない走力を見せた体育祭の終了時、見計らったようにAクラスの生徒が動いた。坂柳は、当日のメッセージでは何もおかしな反応はしていなかった。でも、何かがある。彰はそう考えていた。
坂柳はそのまま駒を置いた。
「随分と直接的ですね」
「だって体育祭のあと神室に連れてかれてたじゃん。坂柳のとこだろ、あれ」
「よく見ていますね」
「たまたまだけどね」
彰は盤面を確認しながら続ける。
「前から清隆の名前出すと坂柳ちょい反応するし。で、わざわざ呼び出したなら何か話したんだろうなって」
坂柳は少しだけ微笑む。
「ええ、お話はしましたよ」
彰が顔を上げる。
「どんな?」
「秘密です」
即答だった。
彰はあーと声を漏らす。
「やっぱそうなるか」
「来栖くんも以前、私に『隠したいなら別にいい』と仰っていたではありませんか」
「言った」
「では、問題ありませんね」
「正論で返された」
坂柳はふふっと笑う、彰は少しだけ彼女の表情を見る。楽しそうだ、かなり。少なくとも嫌な話をした顔ではない。
「でもさ」
「はい?」
「清隆と話したからか、今日の坂柳ちょっと機嫌よくない?」
坂柳の目が細くなる。
「そう見えますか?」
「うん」
彰は盤面を指す。
「今日いつもより攻めてるし」
「それは来栖くんが隙を見せるからです」
「そういう話じゃなくて」
彰は笑う。
「なんか、長いこと待ってたことが一個進んだみたいな顔してる」
今度は坂柳が少し長めに彰を見る、彰も視線を逸らさない。
やがて坂柳は、小さく息を漏らすように笑った。
「本当に、余計なところまでよく見ていますね」
「褒めてる?」
「半分ほど」
「そろそろ全部褒められたいな」
彰は少し笑ってから、盤面へ視線を戻す。
「まあ、内容は聞かないよ」
「よろしいのですか?」
「坂柳が言いたくなさそうだし」
一拍。
「その代わり」
「なんでしょう?」
彰は次の手を指す。
「清隆との勝負が始まりそうなら教えて」
坂柳の笑みが、ほんの少し深くなる。
「なぜです?」
「見たいから」
彰は即答した。
「坂柳がそこまで気にしてる相手だろ?俺も清隆がすごいこと何となくわかってきたし、絶対面白いじゃん」
坂柳は盤面へ視線を落とす。
「…そうですね」
声は静か。
けれど、その奥には隠しきれない期待があった。
「きっと、退屈はしないでしょう」
彰はその言葉を聞いて、口元を上げた。
「ほら、やっぱ戦闘民族」
「来栖くん?」
「はい、次どうぞ」
坂柳のビショップが、彰のキングへじわりと圧をかける。彰は盤面を見て笑った。清隆との間に何があるのか。まだ知らない。
ただ、おそらく坂柳がずっと待っていた相手は、自分の後ろの席にいる無表情な親友だという事実だけで、彰には十分面白かった。
───
清隆の話もほどほどに、一局目は坂柳の勝利となった。そして迎えた二局目。
彰は盤面を見つめたまま、少しだけ眉を寄せた。
「今、俺ちょい不利だな」
「ええ。少なくとも、私から見れば」
「言うねえ」
彰は駒に指を添えながら、ふっと笑った。
「じゃあさ」
坂柳が視線を上げる。
「これ逆転したら、これからは有栖って呼ばせて」
一瞬。盤上とは別の意味で、空気が止まった。
坂柳は彰を見る。
「…随分と妙な条件を持ち出しますね」
「ダメ?」
「なぜ、それが勝負の報酬になるのでしょう」
「なんとなくかな。坂柳って呼ぶより距離近い感じするし」
彰は軽く言った。ただ、坂柳はすぐには返さない。呼び方を変える、それ自体は些細なことだ。けれど、まだ付き合いの浅い男子から唐突に名前呼びを求められて、何も考えず許すタイプでもない。
坂柳は数秒考えたあと、少しだけ口元を上げる。
「では、条件があります」
「お?」
「本当にこの局面から逆転して勝ってください。その上で、もう一局勝てたらよろしいですよ」
彰が笑う。
「いいね」
「どちらかが引き分けでは駄目です」
「厳し」
「来栖くんから持ち出した勝負でしょう?」
「はいはい」
彰は改めて盤面を見る。さっきまでより、目つきが変わった。坂柳もそれを見て、小さく笑う。
「随分とやる気が出たようですね」
「報酬ができたからね」
「では――」
坂柳は次の一手を指す。
「簡単には呼ばせませんよ」
彰の口元が上がる。
「望むところ」
その瞬間から、ただの勝負だったチェスが、彰にとって少しだけ意味の違う勝負になった。彰は盤面から目を離さなかった。さっきまでなら、少し悪い程度の局面。
でも今は違う、一手ごとに意味が増えた。坂柳もそれを分かっているのか、いつも以上に慎重だった。
彰がナイトを跳ねる。坂柳はすぐには指さない。
「そこですか」
「そこ」
「少々強引ですね」
「不利なら盤面荒らすしかないだろ」
「なるほど」
坂柳がビショップを引く。彰はその瞬間、目を細めた。
(引いた)
完全に逃げたわけじゃない、次の展開を見て位置を変えた。なら、彰は一度ルークへ触れかけ――やめる。別のポーンを進めた。
坂柳の目が僅かに動く。
「……そちらを?」
「うん」
「面白いですね」
その言い方で、彰は少し笑った。
「やっぱ今ちょっと嫌だったろ」
「どうでしょう?」
「顔」
「またそれですか」
「便利なんだよ」
数手、また数手。少しずつ局面が変わっていく。彰は駒得ではまだ僅かに負けている。でも、坂柳のキング周辺が、少しずつ窮屈になっている。
彰がクイーンを中央へ出した。坂柳は一瞬止まる。
「…なるほど」
「見えた?」
「ええ」
彰は笑う。
「じゃあ止めてみて」
「言われなくても」
坂柳の指が駒を動かす。受ける、彰がさらに攻める。受ける。
そして、彰がナイトを捨てた。坂柳の目が僅かに見開く。
「……本気ですか?」
「本気」
「そのナイトを失えば、普通に考えればこちらが有利になりますよ?」
「普通に考えればね」
その一言で、坂柳の表情が変わった。楽しそうに。でも、警戒するように。
「来栖くん」
「ん?」
「本当に性格の悪いチェスを指しますね」
「褒め言葉として受け取っとく」
坂柳がナイトを取る。彰は待っていたようにビショップを走らせた。
「チェック」
坂柳の目が盤面を追う。キングを逃がす、彰がクイーンを寄せる。さらに一手、もう一手。坂柳の表情から余裕が少しずつ消えていく。彰も黙る。
ここからは完全に読み合い。
そして数分後、坂柳が最後の防御手を指した。彰は盤面を見る。
一秒
二秒
三秒
口元が上がる。
「……見つけた」
「何をです?」
彰はルークを滑らせると、坂柳の目が止まる。
数秒。そして、小さく息を吐いた。
彰が言う。
「チェックメイト」
沈黙、坂柳が盤面をじっと見つめる。逆転。しかも、途中までは坂柳が明確に有利だった。彰は椅子にもたれながら、かなり嬉しそうに笑った。
「よっしゃ」
坂柳が顔を上げる。
「…本当に逆転しましたね」
「したね」
「随分と嬉しそうで」
「そりゃそうだろ」
彰は少し身を乗り出す。
「まず一勝」
彰はすぐさま駒を初期位置へ戻し始める。坂柳が小さく笑った。
「動きが素早いですね」
「今調子上がってきたから、すぐやりたい」
「次も勝てると?」
「勝つ」
即答だった。
坂柳は杖を傍らへ置いたまま、ゆっくりと駒を並べる。
「ふふっ、良いでしょう」
そして。
「ですが、先ほどよりも難しくなると思いますよ?」
彰の手が止まる。
「…本気出してなかった?」
「いいえ、先ほども本気でした」
「じゃあなんで」
「負けたからです」
坂柳の笑みが僅かに深くなる。
「同じ相手に、連続で負けるつもりはありません」
彰も笑った。
「いいね」
二局目、彰が白。
最初の数手は静かだった。彰は奇策を使わない、坂柳も急がない。互いに中央へ圧力をかけながら、駒を展開する。体育祭で龍園を相手にした時とは違う。何を考えているか分からないのではない。考えていることが、盤面に全部出ている。それなのに読めない。彰は十手ほど進んだところで、少しだけ目を細めた。
(さっきと違う)
坂柳の指し方そのものが変わっているわけではない。だが彰が狙いそうな場所を、先に消してくる。一局目で彰が見せた癖。相手の駒の配置から、局面全体の意図を推測し、そこから崩す。それを逆に利用されている。
「……俺のこと見てるなあ」
思わず声に出た、坂柳が駒を置く。
「チェスをしているのですから当然でしょう?」
「そういう意味じゃない」
彰はナイトを動かす。
「さっきの一局で俺が何考えてたか、結構拾ったでしょ」
「さあ、どうでしょう」
「絶対拾ってる」
「なら、それを前提に指せばよいではありませんか?」
「簡単に言うな」
坂柳がふふっと笑う。
中盤。
彰は一度、ポーンを犠牲にして中央を開いた。坂柳は取らない、彰は僅かに眉を動かす。
(乗らないか)
さらに別の駒を前へ、今度は坂柳が応じる。ただし、彰が期待した交換にはならない。
一手先
二手先
さらにその先
彰が作ろうとしている形を、坂柳は直接潰さない。完成した時に一番価値が落ちる場所へ、自分の駒を置いている。
「……いやらしいな」
「いつも通り褒め言葉として受け取っておきます」
「チェスだとめちゃくちゃ性格悪いよね」
「来栖くんほどではありませんよ」
「俺!?」
「先ほど、こちらに勝ったと思わせてから随分と楽しそうに逆転されていましたから」
「全力でやっただけ!」
会話をしながらも手は止まらない。
三十分
四十分
盤面から駒が減っていく。
互角、彰にはそう見えた。いや僅かにだが、自分が悪い。駒数は同じ。だが坂柳の方が自由に動ける。彰は盤面へ顔を近づけるようにして考えた。
(普通にやったら負ける)
キング、ルーク、ビショップ、ポーン。有栖のキング周辺は堅い。自分の方が先に崩れる。なら守るか、違う。彰は昨日のメッセージを思い出した。
――来ないことも行動。
何をしたかだけじゃない、何をしていないか。彰の視線が止まる、坂柳のクイーン。強い位置にいる、こちらへ圧力もかけている。なのにこの数手、一度もキング側へ寄せていない。
(なんで?)
守る必要がないから?それとも。彰はもう一度盤面を最初から組み直す。坂柳なら、意味のない駒の置き方はしない。クイーンを動かさない…ではなく、動かせない?
「……あ」
彰の声に、坂柳の目が僅かに動いた。彰はそれを見逃さなかった。
「今反応した」
「していませんよ」
「した」
彰はビショップを動かした、坂柳が盤面を見る。
数秒間、坂柳の返しが少し遅れた。
彰の口元が上がる。
「見つけた」
「何をでしょう?」
「まだ言わない」
そこからは、彰の指し方が変わった。直接キングを狙わない、坂柳のクイーンを追わない。代わりに、クイーンが動いた瞬間に崩れる場所を、一つずつ増やしていく。坂柳も当然気づく、すぐに対応する。一ヶ所を捨てて、別の場所へ逃げ道を作る。彰も追う。だが坂柳は早い。一手ごとに修正する。
数分後、彰の顔から笑みが消えた。
「…これでも駄目か」
「良いところまでは来ていますよ」
「上からだなあ」
「今のところは、です」
彰は考える、このままでは押し切れない。
一度盤面から目を離した。坂柳を見る。彼女は落ち着いている、いつも通り。その視線を見て彰は逆に笑った。
「じゃあやるか」
「何をです?」
「負けてもいい手」
坂柳の目が僅かに細くなる、彰はルークを前へ出した。一見は悪手。そのルークは取れる。しかもかなり大きい。坂柳はすぐには取らなかった。
彰が笑う。
「疑ってる」
「先ほどのことがありますから」
「でも取らなきゃ損だよ」
「…そうですね」
坂柳は考える。そして、取った。彰はその瞬間ナイトを動かした。坂柳の視線が変わる。
「……なるほど」
さらに、ビショップ。チェック。坂柳がキングを逃がす。彰がクイーン。坂柳はキング。彰は一度、完全に駒損した。だがその代わり、坂柳のキングを盤面の端へ追い込んだ。
終盤。
残り時間も少ない。彰の駒は少ない、坂柳は多い。普通に見れば坂柳の勝ち。だが彰には一つだけ、たった一つだけ細い道が見えていた。坂柳がそれに気づいているか。多分気づいている。だから、そのさらに先、坂柳がその道を潰す手。そこまで読む。彰は一手置いた。坂柳もすぐに返す。
予想通り、彰はもう一手。坂柳の指が止まった。…坂柳が別の場所へ駒を置く。
彰がチェック、坂柳は逃げる。彰、チェック。また逃げる。そして、彰が最後の駒を置いた。坂柳は盤面を見る。彰も盤面を見て動かない。
数秒、坂柳の口元が僅かに上がった。
「…チェックメイト、ですね」
彰は一秒遅れて。
「……っしゃあああ!」
椅子から立ち上がった。
「勝った!」
「ええ」
「二連勝!」
「条件を満たされましたね」
「マジで勝った!」
彰は嬉しさのまま盤面を見る。一局目とは違う。今度は坂柳も最初から警戒していた。その上で勝った。
「名前呼び!良いんだよね!」
坂柳の目が僅かに細くなる。
「覚えていましたか」
「忘れるわけないじゃん」
一拍、坂柳は彰を見る。
「…仕方ありませんね」
「まじ?」
「勝負は勝負ですから」
彰の笑みが深くなる。
「じゃあこれから有栖って呼ぶ」
有栖は少しだけ視線を逸らし、それから戻す。
「好きにしてください」
「うわ、急に雑」
「来栖くんが勝手に条件を持ち出したのでしょう?」
「でも受けたじゃん」
「ええ、ですから認めています」
彰は何となく嬉しくなる。呼び方が変わる、それだけ。でも、今までより少しだけ距離が縮まったような感覚があった。
彰は試すように呼ぶ。
「有栖」
有栖の指先が、ほんの少しだけ止まる。
「……はい」
彰はその反応を見逃さない。
「慣れてない?」
「来栖くんにそう呼ばれることには、まだ」
「そりゃ今日からだし」
有栖は小さく笑う。
「では、来栖くんも慣れてくださいね」
「何に?」
「私がその呼び方を許したことに、です」
彰は少しだけ目を細める。
「…それ、ちょっと特別っぽく聞こえる」
「どう受け取るかは来栖くん次第でしょう」
「ずる」
「勝負に勝ったのは来栖くんですよ?」
彰は笑う。盤上では勝った。でも、会話ではまた少しだけ転がされた気がした。それでも悪くない、むしろ――かなりいい。
「じゃあ次から普通に有栖な」
「ええ」
有栖は盤面を片付けながら、ほんの少しだけ楽しそうに笑った。