体育祭が終わってから、Dクラスには少しずつ変化が出始めていた。
堀北は以前より周囲を見るようになった。相変わらず言葉は鋭いし、必要以上に人と馴れ合うようになったわけでもない。それでも、入学当初のような「自分一人で十分」という空気は明らかに薄れている。
須藤も変わった。
劇的に別人になったわけではない。短気なのも、勉強が嫌いなのも変わらない。ただ、堀北に何か言われれば以前より一度は耳を傾けるようになっていた。
平田は相変わらずクラス全体をまとめている。そして櫛田も、誰とでも笑顔で接していた。彰は清隆の前の席に座りながら、そんなクラスをぼんやり眺める。
「最近、堀北ちょい丸くなったよな」
後ろから清隆の声。
「そうかもしれないな」
「清隆もそう思う?」
「以前よりは」
彰は前方を見る。
堀北は平田と何かを確認している。少し離れたところでは須藤がその会話を聞きながら、面倒そうな顔をしつつも逃げてはいない。
「須藤効果?」
「本人に聞け」
「怖いからやだ」
その直後、堀北が振り返った。
「聞こえているわよ、来栖くん」
彰は何事もなかったように教科書を開いた。
「今日もいい天気だなー」
「外、雨だけれど?」
「心の天気」
「意味が分からないわ」
後ろで清隆が小さく息を吐く、彰は笑いながら前へ向き直った。こういう何でもない時間を、最近はかなり気に入っている。ただ、以前とは違うところもあった。彰はふと櫛田を見る。数人の女子と笑いながら話している。いつもの櫛田桔梗。明るく、愛想がよく。誰とでも自然に距離を縮められる。
だが、彰はもう何度か見ていた。堀北へ視線を向けた時。そしてごく稀に、清隆を見た時。その目に混じるもの。ほんの一瞬だけ、笑顔から温度が消える。嫌い。そんな軽い言葉より、もう少し強い。敵意。
(…やっぱなんかあるな)
体育祭より前なら、たまたまだと思って流していたかもしれない。だが一度二度ではない。堀北を見る時は特に分かりやすい、そして不可解なのは。
(清隆もなんだよな)
堀北と櫛田の間に何かあるのは、今までの様子から考えても不思議ではない。だが清隆は、少なくとも彰の知る限りでは、櫛田と深刻に揉めたようには見えない。彰は少しだけ振り返る。清隆はいつもの無表情で教科書を見ていた。
(こいつもなんか知ってんのかな)
聞こうか一瞬考えるが、やめる。見えたのは敵意だけ。理由は知らない、櫛田が何を考えているのかも分からない。ここで清隆に「あいつお前嫌ってるよ」と言ったところで、余計な先入観を作るだけかもしれない。推理と証明は別。
(てか清隆ならもう把握済みかもな)
彰はそのまま何も言わず、前へ向き直った。ただし覚えておく。堀北と清隆。櫛田は、この二人を見る時だけ時々違う顔をする。
それだけはしっかりと覚えておくことにした。
───
それから数日。
体育祭が終わったからといって、学校生活が急に穏やかになるわけではなかった。むしろ次に待っていたのは、彰があまり歓迎していないものだった。
二学期の中間試験。試験範囲が黒板へ書かれていくのを見ながら、彰は徐々に机へ沈んでいった。
「……来た」
後ろから清隆。
「何がだ」
「勉強」
「今までもあっただろ」
「敵として正式に姿を現した」
清隆は少し間を置く。
「体育祭より嫌そうだな」
「比べるまでもない」
そう言いつつも、今回は逃げるつもりはなかった。
一学期までの彰は、勉強そのものに興味が薄かった。特に暗記中心の科目は、必要になればその時に覚えればいい程度に考えていた。頭を使って考えることは好きでも、知識を積み上げることにはあまり価値を感じていなかった。
だが、高度育成高等学校へ入って半年。一学期の中間試験、無人島、船上特別試験、体育祭。いくつもの出来事を経験して、彰も少しずつ考えを変えていた。知識がなくても考えることはできる。だが知識がなければ、そもそも選択肢そのものが見えないことがある。体育祭でもそうだった。違和感には気づいた、けれどその意味を判断するための材料が足りなかった。勉強とは少し違う話ではある。それでも彰の中では、どこか繋がっていた。
(知らないより、知ってた方が使えるよな)
単純な話。だからやる。好きではない、でもやる価値はある。
───
放課後。
平田が前に立った。
「今回の中間試験も、できるだけクラス全体で対策したいと思ってる。苦手な科目がある人は、遠慮しないで参加してほしい」
彰は迷わず手を上げた。
「俺参加する」
池が振り返る。
「来栖が?」
「なんだよその反応」
「お前勉強嫌いじゃん」
「嫌いだよ」
「じゃあなんで来るんだよ」
彰は少し考えて。
「退学したくないから」
「現実的だな!」
「大事だろ」
少し笑ってから。
「あと最近、分かるようになるのはちょっと面白い」
池が怪訝そうに見る。
「勉強好きになった?」
「それは違う」
即答。その少し向こうでは、須藤が露骨に目を逸らしていた。
堀北が気づく。
「須藤くん」
「…なんだよ」
「勉強会には参加するわよね」
「まだ何も言ってねえだろ」
「顔を見れば分かるわ」
須藤が彰を見る。
「おい来栖」
彰は先に首を振った。
「無理」
「まだ何も頼んでねえ!」
「助けろって顔してた」
「してねえよ!」
堀北が冷たい視線を向ける。
「体育祭で少しは成長したと思ったのだけれど」
「勉強と運動は別だろ!」
「赤点を取れば関係ないわ」
「……」
彰が須藤の肩を軽く叩いた。
「一緒に頑張ろうぜ」
「お前に励まされるとムカつく」
「理不尽」
清隆が口を挟む。
「似た者同士だからじゃないか」
彰と須藤が同時に振り返った。
「どこが?」
「どこがだよ!」
清隆は答えなかった。
勉強会では、平田や櫛田、堀北が中心になる。彰も机を寄せた。そして最初に分かったのは、やはり科目ごとの差が大きい。
国語、漢字以外はかなり得意だった。文章を読む、何を問われているのかを見る、選択肢の言葉を比べる。相手が何を言おうとしているのか。どこまでが事実で、どこからが解釈なのか。普段から無意識にやっていることに近い。
池が問題集を持ってくる。
「来栖、これ何番?」
彰は少し読む。
「三」
「早くね?」
「一番は本文にない。二番は言い過ぎ。四番は逆」
「…お前国語だけ頭いいな」
「だけって言うな」
数学、ここは以前より明らかに伸び始めていた。堀北が公式を使った解き方を説明する。彰は途中で止める。
「待って」
「何?」
「これ、なんでこの式になるの?」
堀北が少し眉を動かした。
「公式だからよ」
「それは分かる、でも元は?」
「元?」
「なんでこういう形になるのか」
堀北は少し考え、途中の理屈から説明し直す。
彰は黙って聞く。
一度、二度。
「ああ」
「分かったの?」
「うん」
そのまま似た問題へ移る。今度は自力で解ける。堀北が答案を見る。
「…来栖くん」
「ん?」
「あなた、暗記より理解の方が得意なのね」
「多分」
「本当に今まで勉強してこなかったの?」
「それ毎回聞かれるの???」
堀北が少し呆れる。
「勿体ないわね」
彰は清隆の方を向く。
「清隆にも言って」
「なぜ俺なんだ」
「なんとなく」
「意味が分からない」
社会、ここは苦戦した。彰は年号の並んだページを見て。
「これ全部必要?」
「必要よ」
「順番だけ覚えちゃダメ?」
「駄目」
「厳しい」
ただし、出来事を単独で覚えるより。何が起きた、なぜ起きた、その結果何が変わった、さらに次の出来事へどう繋がった。そこまで流れを作れば。彰は意外と覚えられた。
問題は細かい固有名詞。数字、年号。そこは純粋な暗記が必要になる。
「…ここ嫌い」
「覚えなさい」
「はい」
そして、最大の難敵。
英語。
彰は英単語帳を見つめていた。
一分
二分
三分
閉じる。
櫛田が気づいた。
「来栖くん、もう終わったの?」
「精神が終わった」
櫛田が笑う。
「まだ三分くらいだよ?」
「単語だけ並んでるの、全然頭入んない」
「来栖くんって暗記苦手なんだね」
「そう、なんか意味が繋がってないと残んない」
櫛田は少し考え。
「じゃあ、例文と一緒に覚えたら?」
「例文?」
「うん。一つの単語だけを見るより、文章の中で使われてる方が意味も分かりやすいでしょ?」
彰が少し止まる。
「…それいいかも」
「やってみる?」
「やる」
櫛田が簡単な例文をいくつか作る。
彰は読む。
「これならまだ覚えやすい」
「良かった」
「桔梗ちゃん先生優秀」
「もー先生じゃないよ」
「今日から先生」
「仕方ないなあ」
明るい笑顔、いつもの櫛田。彰は一瞬だけその表情を見る。今は何もない。普通だからこそ。堀北や清隆を見た時だけ現れるあの敵意が、余計に気になった。それでも追及はしない。まだ材料が足りない。
───
数日後の昼休み。
彰は英単語帳を片手に廊下を歩いていた。
「…昨日見たやつ、もう半分消えてんだけど」
見覚えはある。
でも、意味がすぐ出てこない。図書室の近くまで来たところで。向こうから数冊の本を抱えた椎名が歩いてきた。
「こんにちは、来栖くん」
「お、椎名」
図書室で何度か話したことがある。本の話をしたり、何を読んでいるのか聞いたり。同じクラスではないし、まだ親しい友人と呼ぶほどでもない。
ただ会えば自然に話せる、そのくらいの距離だった。
椎名の視線が彰の手元へ落ちる。
「試験勉強ですか?」
「そう」
彰は単語帳を持ち上げる。
「こいつが俺の天敵」
「英語ですか」
「うん、単語だけだと全然頭入らない」
椎名は少し考えた。
「来栖くんは、本を読むこと自体はお嫌いではありませんよね?」
「嫌いじゃないよ」
「でしたら、簡単な英語の小説を読んでみるのはいかがでしょう」
彰が止まる。
「英語で小説?」
「はい。既に内容を知っている作品や、文章の易しいものなら、知らない単語があっても前後から推測できますから」
彰の表情が少し変わった。
推測、流れ、文章全体から意味を取る。それなら単語を一つずつ覚えるより、自分には合うかもしれない。
「それめっちゃいいな」
「図書室にも読みやすいものがありますよ」
「マジ?」
「ええ」
彰は笑う。
「今日探してみる」
「お手伝いしましょうか?」
「え!助かる!ありがと椎名」
椎名は小さく微笑んだ。
───
放課後。
今度は有栖とチェス盤を挟んでいた。体育祭の翌日に名前呼びを勝ち取ってから、初のチェスだった。
彰が一手指す。
「中間試験余裕?」
有栖は盤面を見ながら答える。
「そうですね、特に困ることはありません」
「だよね」
「来栖くんはいかがです?」
「英語が敵」
「まだ戦っているのですか?」
「粘り強いんだよあいつ」
有栖が小さく笑う。
「ふふっ」
彰は次の手を考えながら。
「でも前よりはマシ」
「勉強されているのですね」
「してる」
有栖の方を見て。
「偉すぎるから褒めて」
有栖が顔を上げた。
「随分と直接的ですね」
「頑張ってるから」
「では」
少し考え。
「以前よりは真面目になりましたね、来栖くん」
彰が微妙な顔になる。
「それ褒めてる?」
「ええ」
「前が酷かったって意味も入ってない?」
「気のせいでしょう」
「絶対入ってる」
有栖が楽しそうに駒を置く。彰も笑いながら、次の手。
少しして。
「チェック」
「うわ」
彰が盤面を見る。
「俺勉強してる間にチェス弱くなった?」
「関係ありません」
「待って」
「待ちません」
「有栖厳しい」
少しだけ有栖が止まる。
「…勝負ですから」
「…もしかして今びっくりした?」
「なにがでしょう」
「名前呼びに」
「気のせいでは?」
「ふーーん。…まあ許してやろう」
彰は盤面へ集中し直す。
───
試験一週間前。
放課後の教室にはいつもより多くの生徒が残っていた。
堀北が彰の問題集を見る。
「ここ」
「ん?」
「同じ種類の問題をまた間違えているわ」
彰が見る。
「あー」
「何?」
「原因分かった」
「なら直しなさい」
「了解」
須藤が横から彰を見る。
「来栖、お前普通に勉強してんな」
「須藤もしてるじゃん」
「俺は鈴――」
一瞬、止まる。
堀北を見る。
「…堀北に言われてるからだ」
彰の口元が上がった。
「今、鈴音って呼ぼうとした?」
「してねえ!」
「顔赤いけど」
「うるせえ!!!」
堀北が冷たい目を向ける。
「余裕があるみたいね、須藤くん」
須藤が固まる。
「勉強に戻りなさい」
「…はい」
彰が小さく笑う。
「めちゃくちゃ言うこと聞くじゃん」
「来栖くん」
「俺も戻ります」
即答。
清隆が。
「素直だな」
「生存本能」
「便利だな」
彰は振り返る。
「清隆はどのくらい取るつもり?」
「普通だ」
彰の目が細くなる。
「その普通、体育祭以降一番信用してない」
「普通は普通だ」
「はいはい」
───
中間試験前日。
寮へ戻った彰は自室の机に向かっていた。
数学、軽く問題を一周。
社会、流れを確認。
英語、単語だけではなく例文。
そして、椎名に教えてもらった読みやすい英語の本。読み進めた途中から数ページだけ読む。全部を訳さない、大体の意味を取る。分からない単語だけ後から確認する。
「…あ」
一度文章で出てきた単語が、さっきより頭に残っている。
「やっぱこれ結構いいな」
少しずつ、勉強のやり方も自分向けになってきていた。
───
そして中間試験当日。
彰は席につき、後ろを見る。
「清隆」
「何だ」
「親友として応援して」
「頑張れ」
「軽いな」
「他に何がある」
「もっと心込めて」
「頑張れ」
「変わってねえじゃねえか」
堀北が。
「試験前に遊んでいないで、集中したらどうかしら」
彰は即座に前を向く。
「はい」
その後、全科目最後の時間まで見直しを怠らずやり切った。
───
全試験終了。
彰は机へ突っ伏した。
「終わった……」
後ろから清隆。
「どうだった」
「英語と和解した」
「点数はまだだろ」
「気持ちは通じた」
「そうか」
彰は顔だけ振り返る。
「清隆は?」
「普通だ」
「出たよ」
少し離れたところで、須藤も机へ突っ伏していた。
「終わった……」
彰が見る。
「仲間」
須藤が顔を上げる。
「お前と一緒にすんな」
「俺今回結構いけたかも」
「裏切りやがった!」
「勉強したから」
「俺もしたわ!」
そこへ堀北。
「それなら結果を見れば分かるでしょう」
須藤が即座に静かになる。
「…はい」
彰が笑う。
───
数日後。
答案が返ってくる。
彰は一枚ずつ見る。
国語は…かなり高い。
「よし」
数学は…以前より大幅に伸びている。
「おお」
社会は…飛び抜けてはいない。でも十分なほど成長していた。
そして──英語。
彰は少し長く答案を見る。
清隆が後ろから覗く。
「どうした」
彰はゆっくり振り返った。
「生きた」
「そうだな」
「普通に取れてる」
「勉強したからだろ」
「分かってるけど」
彰は少し嬉しそうに答案を見る。
「なんか、やれば上がるんだな」
清隆が答える。
「普通はそうだ」
「俺の人生にその普通なかったんだよ」
総合点はまだ、学年上位とは言えない。知識量、積み重ね。どちらも足りない。ただ、一学期の彰と比べれば明らかに伸びている。
堀北も答案を見る。
「悪くないわね」
彰が顔を上げる。
「今褒めた?」
「事実を言っただけよ」
「有栖と同じ言い方する」
堀北が少し眉を寄せる。
「坂柳さん?名前で呼んでいるの?」
「嫉妬しないでよすずねん」
「…本当にあなたっていう人は」
「誠に申し訳ございません」
「まあ良いわ、しっかり成長しているようだし」
そして。
「ただし」
「来た」
「英語はまだ伸ばせる、社会も細かい知識が抜けている、数学も基礎に穴があるわ」
「はい」
「本当に分かっている?」
「分かってます先生」
「先生ではないわ」
彰が少し笑う。
「最近それ言われること多いな」
その少し向こう。
須藤。
「……っしゃ!」
赤点ではない。池、山内、他の生徒。Dクラスの全員が突破。教室全体に安堵が広がる。一学期とは少し違う。誰か一人が引っ張って何とかする。それだけではない。
クラスの中で少しずつ教え合う、支え合う。Dクラスそのものが、ほんの少しクラスらしくなってきている。彰はそれを眺めながら、答案を机へ置いた。
「…悪くないな」
後ろから。
「何がだ」
「最近のクラス」
「そうか」
「うん」
清隆は後ろから彰を見ながら考える。元々彰は思考する問題は得意だった。自分の実力を一部見抜いたりと、普段から頭の回転の速さは理解している。だからこそ彰が基礎を学ぶことを覚えた場合どこまで行くのか、それを見るのが少し楽しみになっていた。