登校班くノ一化の記録 作:匿名希望
隠れ里の屋敷に与えられた小さな一室。
月明かりだけが差し込む畳の上で、陸斗――いや、くノ一の「篝(かがり)」として扱われている少女は、自分の小さな両手を固く握りしめていた。
「ぼくは……小林陸斗だ。六年二組、サッカー部で……好きな食べ物はハンバーグ……」
夜な夜な行われる、自我を保つための暗唱。
しかし、喉から漏れるのは可憐な少女の声であり、脳裏に浮かぶハンバーグの味覚は、日に日に現実味を失っていく。
代わりに口内に広がるのは、昼間の修行で噛み潰した薬草の苦味と、暗器に塗られた毒の匂いだった。
昼間の訓練中、それは容赦なく訪れる。
「篝、次だ!」
教官である上忍の呼び声に、意識よりも先に身体が反応する。
かつて運動神経の良かった少年の体幹は、今やしなやかな少女の肉体として見事に跳躍し、空中から三本の標的へ正確にクナイを放っていた。
(すごい……完璧に刺さった……!)
心が、不意に昂ぶる。現代の陸斗なら「忍者のマネごとがうまくできた」と喜ぶはずだった。
だが、胸の奥から湧き上がったのは、冷たく切実な歓喜だった。
(これで……これで次の任務に選ばれる。里長様に褒めていただける……!)
「ひっ……!?」
自分の内側から溢れ出した見知らぬ感情に、陸斗は着地と同時に激しく吐き気を催した。
違う。
ぼくはこんな殺伐とした評価なんて欲しくない。
早く現代に帰って、友達とゲームがしたいだけなんだ。
だが、隣で木刀を振るう元・副班長の冴を見れば、彼女の瞳からも急速に現代の光が失われつつあった。
かつておしゃべりだった下級生の男子二人は、今や口数を減らし、無表情に相手の首元を狙う動作を繰り返している。
「みんな……思い出してくれよ! 登校班の時のこと……!」
休憩時間、気配を消して薪の陰に集まった時、陸斗は必死に声をかけた。
しかし、元・結衣である最年少の少女は、虚ろな目で自分の小さな掌を見つめるだけだった。
「登校班……? あたし……昔、黄色い帽子を被っていた気がする……。
でも、それって本当にあたしの過去? 幼い頃に見た『夢』じゃないの……?」
「夢じゃない! ぼくたちはタイムスリップして――」
「声が大きいわ、篝」
冴だった少女が、冷ややかな手つきで陸斗の口を塞ぐ。
その手つきは、完全に訓練された忍びのそれだった。
「そんなおとぎ話、誰かに聞かれたら『頭が狂った』として処分されるわ。
……それにね、篝。最近、昔の記憶を思い出そうとすると、頭が割れるように痛むの。もう……そっとしておいて……」
彼女たちの心の中で、現代の記憶は「幼少期に見たただの浮世離れした夢」へと処理され始めていた。
里の呪法は、思考の前提そのものを塗り替えていくのだ。
夜、布団の中で陸斗は自分を抱きしめた。
(嫌だ……消えたくない。ぼくが消えたら、あいつらは本当にただの『くノ一』になってしまう)
しかし、抗えば抗うほど、肉体と精神の乖離に猛烈な頭痛が襲いかかる。
眠りに落ちかけると、脳裏に「篝」の記憶が滑り込んでくる。
厳しかった冬の滝行、初めて与えられた刃物の冷たさ、里のために死ぬ覚悟――それらはあまりにも鮮明で、豊かな感情の色彩を帯びていた。
一方で、現代の記憶は、水に濡れた絵の具のようにぼやけ、色あせていく。
(ぼくのなまえは……りくと……りくと……)
心の底で必死に名前を叫ぶ。
だが、朝を告げる一番鶏が鳴き、薄明かりが差し込むと同時に、身体が勝手に跳ね起きる。
「……ふぅ」
一瞬だけ現代の少年の顔で苦悶したあと、その表情はスッと冷ややかな少女のそれへと整えられた。
着物を締め直し、帯に暗器を仕込む。鏡に映る自分の姿――黒髪をなびかせた可憐な見習いくノ一の瞳には、ほんのわずかな葛藤と、それを塗り潰そうとする深い暗闇が宿っていた。
「今日も、生き残らなきゃ……」
少女の声で呟いたその一言が、「陸斗」としての抵抗なのか、「篝」としての本能なのか、もはや自分でも判別がつかなくなっていた。