TS娘の曇った心を義理の兄がVRMMOゲームを通じて徐々に癒していくお話   作:乾いた布団

5 / 6
第5話 妹の葛藤

 ――朝。

 

 部屋の扉の向こうから、聞き慣れた声が今日も聞こえてくる。

 

「乃亜、扉の前に朝ごはんを置いておくからな」

 

 ベッドの上で膝を抱えながら、扉を見つめた。

 

 返事をしなければ。

 

 そう、強く思う。

 

 毎朝、兄はこうして声をかけてくれる。

 

 今日の予定を話したり、何か必要なものはないかと、毎日訪ねてくれるのだ。

 

 それなのに俺は、いつも何も答えられない。

 

 その一歩が、踏み出せないのだ。

 

「今日は少し遅くなると思う。何か緊急の用事があれば電話してくれよ」

 

「……」

 

 少しの沈黙。

 

「……じゃあ、行ってくるな」

 

 少しずつ遠ざかっていく足音。

 

 やがて、玄関の扉が閉まった音が、家中に響いた。

 

 ベッドから降りて、部屋の扉に近づき、ほんの少しだけドアノブを回す。

 

 そして、扉の隙間から、外の様子を眺める。

 

 静まり返った廊下。

 

 扉の前には、今日の朝食であろうトレーが置かれていた。

 

「……また、何も言えなかった」

 

 小さな声が、廊下に溢れる。

 

 無性に胸の奥が痛んだ。

 

 兄は悪くない。

 

 何も悪くない。

 

 それなのに俺は、そんな兄の言葉を毎日のように無視し続けている。

 

 返事くらい、すればいい。

 

 おはようでも、うんでも、返せばいい。

 

 たった、それだけのことなのに……。

 

 ……くそ。

 

 頭の中には、自分を責める言葉ばかりが浮かんでくる。

 

 だけど――。

 

 実際に声を出そうとすると、喉が締め付けられるように苦しくなるのだ。

 

 どうしても、できない。

 

 どうしても、怖い。

 

 結局、今日も変わることはできなかったのだ。

 

 ……っ。

 

 扉の前に置かれていたトレーを部屋の中へ運ぶ。

 

 今日の朝食は、トーストとスクランブルエッグ、それに牛乳。

 

 そして――。

 

「あ……」

 

 トレーの隅に、見覚えのある小さなカップが置かれていた。

 

 黄色いカスタードと、茶色のキャラメル。

 

 俺の好物――いつものプリンだった。

 

 最近兄は、朝食と一緒にプリンを置いてくれるようになった。

 

 理由は、分からない。

 

 たが、昨日も、そのまた前の日も。

 

 気づけば、ほとんど毎日のように置かれるようになっていたのだ。

 

 プリンを手に取り、しばらく眺める。

 

 ……また、買ってきてくれたんだ。

 

 とても嬉しかった。

 

 もちろん、好きなものが食べられる嬉しさも大きい。

 

 だけどそれ以上に、兄が自分のことを考えてくれているのだと思うと、胸の奥が暖かくなるのだ。

 

 そして、同時に苦しくもなる。

 

 ……毎日、こんなことまでしてくれているのに。

 

 兄は、きっと忙しい。

 

 現に、帰りが遅くなる日も珍しくはないのだ。

 

 それなのに、毎日食事を用意してくれる。

 

 毎日気遣ってくれる。

 

 そして、好きなものを覚えていて、わざわざ買ってきてくれる。

 

 なのに、俺は何も返せていない。

 

 ありがとう。

 

 そんな、たった五文字も伝えることができない。

 

 ……言わないと、ちゃんとお礼くらい。

 

 静かに拳を握る。

 

 兄へお礼を述べる。

 

 そう、言葉にするのは簡単だ。

 

 けれど、実際に兄へ向かって言うことを想像すると、途端に胸が苦しくなる。

 

 扉を開ける。

 

 兄と顔を合わせる。

 

 そして、目が合う。

 

 その瞬間、自分がどうなってしまうのか、全く分からない。

 

 考えるだけだけで、手のひらが冷たくなった。

 

 ……何をやっているんだよ、俺は。

 

 お礼を言いたいだけなのに。

 

 どうして、それすらできないのだろう。

 

 プリンの蓋を開ける。

 

 甘い香りが、鼻をくすぐった。

 

 スプーンですくって、口元へ運ぶ。

 

 ……美味しい。

 

 いつもと変わらない味。

 

 それなのに今日は、少しだけ不思議と涙が出そうになった……。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 気づけば、窓の外は暗くなっていた。

 

 結局、俺は部屋から出れなかった。

 

 ご飯を食べて、動画を見て、ゲームの攻略情報を調べる。

 

 いつもと何も変わらない一日。

 

 だけど、頭の片隅にはずっと、兄に対する罪悪感があった。

 

 時刻は夜の九時。

 

 とりあえず今日も、いつものようにVRゴーグルを装着して、電源を入れる。

 

【エターナル・クロニクル】

 

 見慣れたゲームタイトルの後に、見慣れた街の景色が視界を覆う。

 

「……よし」

 

 早速、フレンドリストを確認する。

 

 すると、どうやらお目当ての人物は、すでにログインしているようだった。

 

「おっ、来たな」

 

「おう、待たせたな相棒」

 

「いや、俺もさっき来たところだから気にすんな」

 

「そうか、なら早速今日も有料の強化クエストに向かうとするか……お前の金で」

 

「おい、ふざけんな。やっぱりお前はもう少し気にしろよ」

 

 いつも通りのくだらないやり取り。

 

 本来なら、とても楽しい時間なはずだ。

 

 それなのに、今日は少しだけ気持ちが乗らない。

 

 一緒にクエストを受けて、敵を倒して、強化素材を集める。

 

 操作自体は問題ないと思う。

 

 けれど、普段なら真っ先に飛び出す場面でも、今日は一歩遅れてしまう。

 

 普段なら自然と出る軽口が、今日は少ない。

 

 ほんの小さな変化。

 

 普通なら、絶対に気づかないレベルだと思う。

 

 だけど……。

 

「おい、レイド」

 

「ん?なんだよ?」

 

「お前、今日何かあったか?」

 

 っ!

 

 図星を突かれて、思わず足が止まった。

 

「急になんだよ」

 

「いや、なんだかいつもより元気がないように感じてな」

 

「……気のせいだろ」

 

「そうか?」

 

「そうそう、俺はいつでも元気いっぱいだぜ!」

 

「……なら、いいけど」

 

 それ以上、ルークは追求してこなかった。

 

 でも、先ほどの真剣な眼差し。

 

 それを思い出すと、とても誤魔化し切れたとは、到底思えなかった。

 

 心臓の鼓動が、少しだけ早鐘を打つ。

 

 ルークは、いい奴だ。

 

 それは間違いない。

 

 現に、こうして俺の細かい変化に気づき、話を聞こうとしてくれている。

 

 けれど……。

 

 ……どうしよう。

 

 現実のことを――。

 

 リアルの話をゲームの中へ持ち込んでもいいのだろうか。

 

 しかも、俺みたいなしょうもない奴の話を。

 

 ここは、あくまでゲームの世界だ。

 

 幾ら、ルークが気心の知れた相手だとはいえ、それはあくまでゲーム内での話。

 

 現実の彼がどんな人物なのか。

 

 俺は全く知らないのだ。

 

 だから、現実の話をするのは、かなり気が引ける。

 

 だけど……。

 

 それ以上に、今日だけは誰かに聞いてほしかったのかもしれない……。

 

「なぁ、ルーク」

 

「ん?」

 

「お前って、兄弟とかいるか?」

 

 気づけば、口が自然と言葉を紡いでいた。

 

「……いるぞ」

 

「へぇ、兄?弟?」

 

「……妹だな」

 

「……そうか……仲はいいのか?」

 

「……」

 

 少しだけ間が空く。

 

「……正直、あまり話せていない」

 

「……そうか」

 

「さては、お前も兄弟がいるのか?」

 

「まぁな」

 

「もしかして、お前もあまり話せてない感じか?」

 

「……まぁな」

 

「そうか……」

 

「……」

 

 重く苦しい雰囲気。

 

 言ってしまってから、とても後悔する。

 

 ルークも、あまり妹と話せていないと言った。

 

 もしかしたらルークにとって、この手の話題は地雷だったのかもしれない。

 

 だとしたら……。

 

 俺は、なんてことを……。

 

 ……けれど。

 

「まぁ、兄弟って難しいよな!」

 

 ……えっ?

 

 気づけば、普段の調子に戻っていたルーク。

 

「てか、どうせお前のことだから、部屋にでも引きこもって、兄弟に心配でもかけてんだろ?」

 

「うぐっ……ど、どうして……」

 

「やっぱり図星か。なら早く部屋から出たほうがいいぞ。特別な引きニートさん?」

 

 ……うぐぐ。

 

 くそ……。

 

 やっぱりこいつには、言わなければ良かった。

 

「と、まぁ冗談はこの辺にして、でもマジな話、どんな形であれ、返事があれば、家族は安心すると思うぞ」

 

「……それはそうかもだが……形?」

 

「あぁ、メールでも手紙でも、どんな些細な内容でもいい。少しでも返事が返ってこれば、それだけで嬉しいもんなんだよ」

 

「……なるほどな」

 

 はっきり言って、その発想はなかった。

 

 確かに。

 

 直接、声をかけるのは、ハードルが高い。

 

 それこそ、こうしてずっと一歩が踏み出せないように……。

 

 だけど、メールや手紙なら……。

 

 もしかしたら……。

 

「だから、早く返事をしてやるんだぞ、特別な引きニートさん?」

 

「うるせぇ!誰が引きニートだ!てか今の話もあくまで俺の友人の話だからな!決して俺の話ではないからな!」

 

「はいはい、ならそういうことにしておいてやるよ、特別な引きニートさん?」

 

「おい、てめぇ!」

 

 相変わらず、ムカつく野郎だ。

 

 だけど……。

 

 少しだけ、肩の荷が降りたような、そんな気分になれたのだった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 その日の深夜。

 

 兄が寝静まったことを確認した俺は、空になった食器とトレーを持って、リビングへ向かった。

 

 そして、持っていたトレーをダイニングテーブルに置く。

 

 ここまでは、いつもの流れだ。

 

 だけど、今日は……。

 

 ……よし。

 

 覚悟を決めると、テーブルの上に置いてあったメモ用紙とペンへ目を向ける。

 

 本当は、メールやアプリの方がいいのだろう。

 

 だけど俺は、兄の携帯の電話番号以外の連絡先を知らないのだ。

 

 だから。

 

 緊張しながらも、ペンを手に持つと……。

 

【いつもありがとう】

 

 僅かに震える手で、メモ帳へ確かにそう書き残したのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。