幸福は過去にある。
未来という不定形なものから見つけることは不可能で、現在から見つけるには、新芽はあまりに実りがない。
わたしにとって、幸福とは、取り戻せないほど遠くて、思い出せないほど傷だらけで、目に見えないまま浮かんでいるものだった。
ぼんやりと浮かぶ、殺された父母との思い出がその証明であった。
とはいえ、忘れていくことに耐えられるわけではない。
ふと、何かを思い出せなくなったことに気づいた時、わたしは耐え難い虚無感に怯えて、ポロポロと涙するしかなかった。
心から水漏れでもしたみたいに、体温が下がっていって、目や脳が通常の機能を発揮できなくなっていた。
悲しみで心が埋まれば良かった。
泣く度に、わたしは、心に傷をつけたがった。
自分の心に、忘れたくないものを覚え続ける為に、柱に背を刻みたかった。
母の教えだったと思う。
「本当に大切なものだから、あなたとの思い出は心の中にある」。
母は一度も約束を違えなかった。わたしが忘れていた約束ですら、覚えていた。
本当、だと思った。
だから、心に傷をつけたかった。
心を掻きむしろうと、肌を引っ掻いても、その爪先が記憶に一掻きも届かず、ただ赤い線を残すだけで、わたしの服はとうとう真っ赤に染まった。
心に傷はつかなかった。
幸福は過去にある。
わたしの胸の浅い所にはなく、心という手の届きようのない臓器にはあるらしかった。
忘れていくだけの母との幸福は、わたしには取り出すことができなかった。
だが、もしかしたら。もしかしたら、奪われた幸福なら、他人の心にあるかもしれない。そう思った。
返してもらおうと思った。
他人の心を切り開こうと、ナイフを持ち出した。
幸福と関係があるだけの他人。願わくば、父母を殺したその人を。
切り分けたその破片を浴びるように、ナイフを振り抜く。
母との思い出に傷がついた気がした。
ほんの一瞬の傷だった。数日後には癒えてなくなるような、ただの線であった。
だが、ズキズキと重たくのしかかる、確かな傷だった。
これだと思った。これを続ければ良いと思った。
幸福と関わる他人がいなくなってからは、他人の為に、他人の幸福を奪い返してやろうと思った。
返ってくる、返ってこない、は最早関係なかった。
自分の幸福に関わる他人でなくとも、傷はついた。
心を抉り出し、その中を掻っ捌いても、幸福は見えなかったが、代わりにわたしの心には傷がついていった。
忘れることはできなかった。
関係のない他人を使ってまで、わたしは傷の続きを描き続けるようになった。
以上、初投稿でした。