初めて人を殺したはずだった。
いくつかの死体が転がり、赤く汚れた部屋の中。
銀色の髪をした小さな彼女は、品がないなりに裕福な身なりをした男の上に馬乗りになり、赤く汚れたナイフをその首に突きつけていた。
辺りの死体にも、そのナイフと同型の刃物で切りつけられた跡があり、ものによっては、眼球を抉り出された目元にも、切り裂かれた胸からまろび出た心臓にも、同じ刃物が差し込まれたような傷跡がある。
強引に切り裂かれた肌が、開けられた穴が、ささくれ立っている。
彼女の仕業であった。
気分は、心底悪かった。
死体から飛び散った血が頬につき、まるでナメクジか何かが顔を這っているかのように思えて、それが妙に気に障る。
頬を乱暴に袖で拭うと、彼女は曖昧な握り心地のナイフを一度、握り直した。
その時になって、床が暖かな液体で濡れていることを知った。男の下半身からのようだったが、そんなことはどうでも良かった。
さあ、恐怖する男を見下ろし、今、刺す────。
────その数瞬前の出来事だった。
彼が入ってきた。
茶色いコートを着た、見知らぬ彼だ。
扉を蹴飛ばし、拳銃を構えながらこちらを眺める彼を、彼女は唖然とした頭で見つめるしかなかった。
彼は緩慢な動作で拳銃をゆるゆると下ろすと、後からドタドタと入ってきた部下だろう男達に、ポツリと指示を出した。
男達は指示通りに、死体の周りにテープを貼り、写真を撮っては、死体を持ち去っていく。
彼が近づいてくる。
拳銃はもう持っていない。手にはない、腰にもない。であれば、胸元のホルスターだろう。
ぐらぐらと揺れる頭の中では、そういった情報の処理と、殺人の現場を見られたショック、死体達への執着に近いものがひっきりなしに脳みそを引っ掻いている。
彼が来る。
死体は────いや、死体はいい。この男だ。今馬乗りにしているこの男はダメだ。刺さなければならない。
頭の中で反響する金切り声が、彼女を焦らせる。
急かされるままに、咄嗟に振り上げた腕を、彼は────。
ふと、彼女は、自室の天井を眺めていた。
「────朝……」
枯れた声で呟くと、彼女は、はあ、とため息を吐き、もぞもぞと起き上がって、カーテンと窓を開けた。
割れた画面越しに見るような夢であった。
さて、天気は晴れ。天気雨でも降ったのだろうか。小さな通りのアスファルトは濡れていた。
しかし、空の機嫌はカラッと良いらしく、少しだけ残った雲の向こうは、透き通るような青に塗られていた。
湿春青晴(しっしゅんせいせい)。いわゆるしっとり晴れである。
窓から暖かな風の入る部屋の中で、彼女────柊みつきは、うだうだと着替え始めた。
黒く、首元が分厚く何度か乱雑に折り畳まれたタートルネックを着て、身体よりもサイズの大きい、特に袖が大きな赤いアウターをその上から着た。
ところどころ跳ねた肩にかかるくらいの銀髪を鏡も見ずに手櫛で整えると、幼げに膨れた頬を何度か叩き、真っ赤な瞳をパチリと開く。
服の大部分が赤で、それ以外は黒。銀色の髪がサラリと光る。
いつも通りの格好だ。
みつきは、ドアの前にある謎の布の山を足でどかすと、自室のドアを開けた。
「わあ。びっくりした」
「……おはようございます」
ドアを開けると、識百合サラが目の前にいた。
黒髪をショートに切りそろえ、制服のような格好をしている。蛇腹折のスカートである。
手には洗濯物の入ったカゴがあり、それらを干そうと、たまたま部屋の前を通ったようだった。
みつきは、「おはよ。タイミング合っちゃったね」、となんでもなく、部屋を出る。
リビングからは、焼けたばかりのパンの香りが漂ってきており、みつきはそれにホッと息を吐いた。
夢で嗅いだ血の香りを忘れられそうだった。
「お腹すいた」
みつきがぽつりと溢して、くるりとサラの方へ向くと、明るく言った。
「こないだバターいっぱい買ってたよね。いっぱいつけていい?」
「良いですよ。腐らせるだけですし」
「そういえば、なんでバターいっぱい買ったの? お菓子作り?」
「貴方に頼まれたことが忙しくて、桁、間違えたんですが?」
サラはジトっとみつきを見ながら言う。
藪蛇であった。
ぽつり、くるり、ではない。みつきは一瞬の後悔と同時に、あわあわと言い訳を始める。
「えー……、いや、知らねぇというか、なんというか。その、えーと、うん。ね?」
「ね、じゃない。忙しかった」
「いや、うん。ごめん。ごめんだけど、そんな意識朦朧とするまで働かなくても……。────あ!」
チン、と音を鳴らすトースター。
みつきは、これ幸いと逃げて、トースターのパンを引き摺り出した。
「とりあえずごめーん」と捨て台詞も忘れずに。
サラは、はあ、とため息を吐くと、パタパタとベランダへと歩いていく。
逃げ切り敗走。いつものことだった。
さて、向こうのテレビでは、過去に比べて増えている大量殺人に軽く触れたり、政治家へのインタビューやらを行ったりと、アナウンサーが忙しそうである。
テレビが流れる音を聞きながら、冷蔵庫の一角を占めていたバターと積まれていたパンを持ち、みつきはテーブルについた。
普通のパンと、バターである。相性は良いはずだ。パンにバターを塗って、口へ運ぶ。
パンを一口噛めば、つけすぎなくらいのバターの香りが鼻に抜けた。小麦の匂いはしない。
うん、おいしい。
みつきは一口を味わうように咀嚼する。
まろやかなしょっぱさが美味しく、だが、あまりしなかった小麦の味も好きだった。
初めて食べるパンかもしれない。みつきは、パンの袋を見ると、やはり見かけないものだった。
そういえば、パンの数が多かった気がしなくもない。サラがバターとバランスを取れるように多めに買ったのだろう。
でもこれ、ひょっとして食べ切る前にダメになるのではないだろうか。
こんもりと戸棚に置かれた食パンを見ながら、みつきはそう思った。
パンを食べ終えると、みつきは台所へ行き、持ってきた自分の分の皿と、置いてあったサラの分の皿を洗い始める。
みつきが今日の当番だった。
ざっと洗剤で汚れを落とし、濯ぐだけ。
暇になった頭では、今日、出かけた帰りに何を買おうか考えていた。
いつものことである。いつもどこかへ出かけていっては、帰りに何かを食べて帰る。サラにもバレていないことであった。
終わりかけたタイミングで、ベランダから戻ってきていたサラがキッチンの影から半分だけ顔を出して、みつきに声をかけた。
「今、出かけた帰りに何食べるか考えてたでしょ」
「うわぁっ! びっくりした!」
ドキッとした。
バレていないはずだった。
「別に良いですけど、一人で楽しんでたって」
「悪かったから、拗ねないでよ。今日はサラの分も買うから」
「今日は?」
「今日も!」
それをベランダ越しに眺めている太陽は、ポカポカと暖かった。湿度はどこへやら、風が心地良さそうに走る。
ベランダに干してあるタオルの、牛のアップリケが「モー」と鳴いた気がした。
サラの分の皿(激ウマギャグ)。
クソ長日常回です。湿春青晴のところは、「今、読み飛ばしたろ」って思いながら書きました。