イロハ「5○1のアイスキャンデーがあるとき 、ないとき 」 作:すーぱーりっかちゃん
原作:ブルーアーカイブ
タグ:ブルーアーカイブ ブルアカ 棗イロハ 万魔殿 551 蓬莱 曇らせ 551蓬莱 会話形式
ドライアイスがもつのは二時間くらい。溶ける前に配りきるために、先生はシャーレでサボっていたイロハと虎丸に乗って、キヴォトス中を駆け回ります。
「運転手の分は最後でいいですよ」
イロハはそう言っていたのですが……。会話中心の長編です。キャラクターの口調や関係性には気をつけていますが、独自解釈とif設定を含みます。
pixivにも掲載しています。
先生「というわけで これが551のアイスキャンデーだよ」
シャーレの執務室。
先生が机に置いたのは 両腕で抱えるほどの白い箱だった。
蓋の隙間から 薄い白煙がゆらゆらとこぼれている。
向かいのソファでは イロハが読みかけの文庫本から顔を上げていた。
ずり落ちかけた制帽を指先で押し上げ 箱と先生を交互に見る。
イロハ「……どういうわけなのか 一言も説明されてませんけど」
先生「あれ 言ってなかったっけ」
イロハ「聞いてませんね。私は先生が留守のあいだ この部屋を守っていただけですから」
先生「守ってくれなんて 頼んだ覚えはないんだけどな」
イロハ「頼まれなくても 誰かがいないと困るでしょう。書類とか 冷蔵庫のコーヒーゼリーとか」
先生「コーヒーゼリー 三つあったはずなんだけど」
イロハ「留守番の報酬です」
悪びれる様子はまったくない。
先生は苦笑しながら 上着を椅子の背にかけた。
先生「キヴォトスの外で ちょっと仕事があってね。その帰りに有名なお店に寄ってきたんだ」
イロハ「外……ですか」
先生「うん。豚まんが名物のお店なんだけど アイスキャンデーも人気でね。ミルクにアズキ チョコ フルーツ 抹茶 パイン。六種類あるんだよ」
イロハ「豚まんの店でアイス。節操がないですね」
先生「それが おいしいんだって。向こうだとテレビのCMも有名でね。豚まんが"あるとき"はみんな笑顔で"ないとき"はどんよりする っていう」
イロハ「……それのどこが面白いんですか」
先生「私にもよくわからなかった。でも 一度見ると忘れられないんだよね」
イロハ「はぁ。外の世界の感性は謎です」
そう言いながらも イロハの視線は箱のほうへ吸い寄せられていた。
白い煙が一筋 天井へ向かって消えていく。
イロハ「それで。なんで冷凍庫に入れないんです」
先生「それがね」
先生は執務室の隅にある小さな冷凍庫を開けてみせた。
中には冷凍食品のパックが隙間なく詰まっている。
同じパッケージばかりだった。
イロハ「……先生の食生活が心配になる光景ですね」
先生「忙しいときは これが一番早いから」
イロハ「そういうことを言う大人から倒れるんですよ。知ってます」
先生「うっ。気をつけるよ」
イロハ「で 入らないと」
先生「入らないんだよ。それにお店の人が言うには ドライアイスで持ち歩けるのは二時間くらいなんだって」
イロハ「二時間」
先生「帰りの道中は大きな保冷庫を借りてたんだけど ここから先はこの箱だけなんだ。だから溶ける前に みんなに配って回りたいんだよね」
先生は胸ポケットから折りたたんだメモを取り出した。
手書きの文字がびっしり並んでいる。
先生「全部で二十四本買ってきたんだ。ミレニアムに五本 アビドスに五本 風紀委員会に四本 万魔殿に五本。残りは予備」
イロハはソファから少し身を乗り出して メモを覗き込んだ。
万魔殿 五本。
指で数えるように 小さく唇が動く。
マコト先輩 イブキ サツキ先輩 チアキ。
それから。
イロハ「……ふうん」
先生「どうかした?」
イロハ「いえ。先生にしては ちゃんと数えてるなと思っただけです」
イロハは何でもないふうに文庫本を閉じた。
ほんの少しだけ 口の端が上がっていた。
イロハ「それで 二時間でキヴォトスを一周するつもりなんですか。先生の足で」
先生「タクシーを呼ぼうかなって」
イロハ「ミレニアムからアビドスまで砂漠を越えてくれるタクシーがあるなら 紹介してほしいですね」
先生「……ないかな」
イロハ「ないでしょうね」
イロハは立ち上がり 長すぎる袖をぱたぱたと振った。
しわの寄ったコートの裾を 面倒そうに払う。
イロハ「虎丸を出します」
先生「えっ いいの?」
イロハ「マコト先輩からは 今日も"シャーレの先生を懐柔してこい"って言われてますから。先生のお土産配りに付き合うのは 立派な懐柔活動です」
先生「それって つまり」
イロハ「書類仕事をしなくていい正当な理由です」
先生「正直だね」
イロハ「嘘をつくのも面倒なので」
イロハはふっと息を吐き 窓の外に目をやった。
シャーレの前の通りに 見慣れた戦車の砲塔がのぞいている。
先生「もう外に停めてあったんだ」
イロハ「サボるときは 逃げ道を確保しておくものなんですよ」
先生「そういう準備はしっかりしてるんだね」
イロハ「当然です。それと」
ドアノブに手をかけたところで イロハは振り返った。
イロハ「運転手の分は 最後でいいですよ。残ったやつで」
先生「そう? イロハは何味が好き?」
少しだけ間があった。
イロハ「……ミルクですかね。一番普通のやつ」
先生「普通のでいいの?」
イロハ「ああいうのは 普通のが一番おいしいんです。変に凝ったのより」
先生「わかった。じゃあミルク味は一本 最後まで残しておくね」
イロハ「別に 期待はしてませんけど」
そう言い残して イロハは先に廊下へ出ていった。
先生は箱を抱え直し メモの端に小さく"イロハ ミルク"と書き足した。
虎丸の車内は 思っていたより広かった。
先生は箱を膝に抱え 装填手席に収まっている。
イロハは車長席から身を乗り出し 慣れた手つきで操縦系を確かめていた。
イロハ「揺れますよ。箱 落とさないでくださいね」
先生「戦車って そんなに揺れるんだ」
イロハ「揺れないように運転するのが 腕の見せどころです」
エンジンが低く唸った。
虎丸はシャーレの前の通りを 驚くほど滑らかに走り出した。
先生「本当に揺れないね」
イロハ「ゲヘナカップの絶対王者を なめないでください」
先生「そういえば 結構勝ってるんだっけ」
イロハ「勝たないと マコト先輩がうるさいので」
先生「勝っても うるさそうだけど」
イロハ「勝つとうるさいのは一日で済みます。負けると一年です。計算すれば どっちが楽かわかるでしょう」
先生「なるほど」
ハッチの隙間から 午後の風が吹き込んでくる。
イロハの髪がふわりと揺れた。
いつもより 少しだけ機嫌がよさそうに見えた。
最初の目的地はミレニアムだった。
校門の前に戦車が停まると 警備のドローンがいっせいにこちらを向いた。
その騒ぎを聞きつけたのか 校舎のほうから見慣れた人影が走ってくる。
ユウカ「ちょっと! 校門の前に戦車を停めないでください! いったい何の騒ぎですか……って 先生?」
ハッチから顔を出した先生を見て ユウカは足を止めた。
それから車体に描かれた万魔殿の紋章を見て 眉をひそめる。
ユウカ「どうして先生が ゲヘナの戦車に乗っているんですか」
先生「話すと長くなるんだけど 時間がないんだ。これ お土産」
先生が箱の蓋を開けると 白い煙がふわっとあふれた。
ユウカは思わず一歩下がる。
ユウカ「ドライアイス……? 中身は」
先生「アイスキャンデー。キヴォトスの外で買ってきたんだよ」
ユウカ「外で……ちょっと待ってください。出張の経費は」
先生「これは自腹だから大丈夫」
ユウカ「自腹でも問題です! 先生 先月の食費の内訳 覚えてますか?」
先生「え えっと」
ユウカ「覚えてないんですね。私は覚えてます」
イロハ「どうして他校が先生の食費を把握してるんですか」
車長席からイロハがぼそりと呟いた。
ユウカの頬が みるみる赤くなる。
ユウカ「そ それは! シャーレの会計を手伝っているからで! 他意はありません!」
イロハ「はぁ。そうですか」
ユウカ「なんですか その"はぁ"は」
イロハ「別に。忙しそうだなと思っただけです」
ユウカはこめかみを押さえた。
それでも箱の中をちらりと見ると 小さく咳払いする。
ユウカ「……いただけるなら いただきます。せっかくのお土産を無駄にするほうが 非合理ですから」
先生「どれにする?」
ユウカ「フルーツで。色々入っていて お得な気がします」
先生「値段は全部同じだけどね」
ユウカ「気持ちの問題です」
ユウカがアイスを受け取った瞬間 校舎の陰からいくつもの顔がのぞいた。
モモイ「先生! 今 アイスって聞こえた!」
ミドリ「お姉ちゃん 声が大きいよ……」
アリス「戦車です! 本物の戦車です! アリスは乗ってみたいです!」
ユズ「あ あの……押さないで……」
ゲーム開発部の四人が 一塊になって転がり出てきた。
モモイは真っ先に箱に飛びつこうとして ユウカに襟首をつかまれる。
ユウカ「モモイ! 部費の報告書 まだ出てないわよね」
モモイ「うっ。そ それはアイスを食べてから考える!」
ユウカ「考えるんじゃなくて 出すのよ」
先生「まあまあ。四人の分もちゃんとあるよ」
モモイ「さっすが先生! じゃあ私チョコ!」
ミドリ「私は 抹茶にしようかな」
ユズ「……パイン で お願いします」
アリス「アリスは アズキを選びます! 伝説の甘味の予感がします!」
先生は一本ずつ手渡していった。
アリスはアイスを両手で掲げ 目を輝かせている。
アリス「パンパカパーン! アリスは 異世界のアイテムを手に入れました!」
先生「異世界っていうか キヴォトスの外だけどね」
アリス「アリスにとっては同じです!」
その様子を 車長席のイロハはハッチの縁に頬杖をついて眺めていた。
ふとアリスと目が合う。
アリス「戦車の人! アリスを乗せてください!」
イロハ「定員オーバーです」
アリス「では 次のクエストで乗せてください!」
イロハ「……考えておきます。考えるだけですけど」
モモイがアイスをかじりながら 車体をぺたぺた触っていた。
ユウカがそれを引きはがす。
ユウカ「先生。あまり戦車で乗り回さないでくださいね。いろんな意味で心配です」
先生「ありがとう。気をつけるよ」
ユウカ「……あと。ちゃんとご自分の分も食べてくださいね」
先生「私は向こうで一本食べてきたから」
ユウカ「それならいいですけど」
イロハは何も言わなかった。
ただ 横目で先生の顔を一度だけ見た。
先生「残りは十九本。次はアビドスだね」
イロハ「砂漠越えですね。しっかりつかまっててください」
虎丸がミレニアムの校門を離れると 背後でアリスが大きく手を振っていた。
先生も手を振り返す。
イロハは前を向いたまま 少しだけ速度を上げた。
先生「イロハ 速くない?」
イロハ「ドライアイスは待ってくれませんから」
先生「さっきより揺れてる気がする」
イロハ「気のせいです」
アビドスの校舎に着いたのは それから四十分ほどあとのことだった。
砂を巻き上げて戦車が停まると 屋上から誰かがひょいと顔を出した。
ホシノ「うへ~ なんか大きいのが来たなぁと思ったら 先生だったんだ」
先生「ホシノ。昼寝中だった?」
ホシノ「おじさんはいつでも昼寝中だよ~。で その戦車はどうしたの。ついに先生も武装した?」
先生「借りてるんだよ。運転手つきでね」
ホシノの目が ハッチから顔を出したイロハに向いた。
ほんの一瞬だけ 眠たげな目の奥が鋭くなる。
けれどすぐに いつものふにゃりとした笑顔に戻った。
ホシノ「へぇ~。ゲヘナの子に運転してもらってるんだ。先生 顔が広いねぇ」
イロハ「ただのサボりです。お気になさらず」
ホシノ「うへ~ 正直でいいねぇ。おじさん そういう子は嫌いじゃないよ」
階段を駆け下りる音がして 校舎の入口からシロコたちが出てきた。
シロコ「ん。先生 おかえり」
ノノミ「わぁ 先生☆ お帰りなさい! それに戦車まで!」
セリカ「ちょっと 何なのよこれ! 校庭が砂だらけじゃない!」
アヤネ「セリカちゃん 校庭はもともと砂だらけだよ……」
先生が箱を開けると シロコの耳がぴくりと動いた。
シロコ「ん。冷たいにおいがする」
先生「アイスキャンデーのお土産だよ。一人一本ね」
セリカ「え……私たちの分もあるの?」
先生「もちろん。みんなの分 ちゃんと数えて買ってきたからね」
セリカ「べ 別に欲しいなんて言ってないけど……もらえるなら もらうわよ」
ノノミ「ふふ セリカちゃん 顔が嬉しそうですよ☆」
セリカ「嬉しくない!」
ノノミがパインを シロコがチョコを選ぶ。
アヤネは抹茶を セリカはさんざん迷ってからフルーツを手に取った。
アヤネ「先生 ありがとうございます。外のお店のアイスなんて 初めてです」
先生「気に入ってくれるといいな」
ホシノ「おじさんは余ったのでいいよ~。若い子から選んで」
先生「ホシノもまだ若いでしょ」
ホシノ「うへ~ そう言ってくれるのは先生だけだよ」
ホシノはアズキを受け取ると 一口かじって目を細めた。
ホシノ「ん~ これはいいねぇ。甘すぎなくて 豆がちゃんとしてる」
シロコ「ん。おいしい。先生 これ どこで売ってるの」
先生「キヴォトスの外だから 簡単には行けないかな」
シロコ「……じゃあ 自転車で」
先生「たぶん自転車じゃ無理だと思う」
シロコ「ん。残念」
シロコは本気で残念そうだった。
そのとき 校舎の裏手から騒がしい声が聞こえてきた。
アル「ちょっと待ちなさい! 今 高級アイスの気配がしたわ!」
ムツキ「くふふ アルちゃん 鼻がいいね~」
カヨコ「社長。気配って何」
ハルカ「あ あの アル様が行くなら 私も……!」
便利屋68の四人が 砂煙の向こうから現れた。
アルは先生を見つけると 胸を張って髪をかき上げる。
アル「あら 先生じゃない。偶然ね。本当に偶然よ」
先生「偶然にしては 走ってきた感じだったけど」
アル「ち 違うわ! 私たちはアビドスの近くで依頼をこなしていただけで……!」
カヨコ「依頼 さっき終わったけどね」
ムツキ「帰り道で"なんかいい匂いがする"って言ったの アルちゃんだよね~」
アル「ムツキ!」
イロハはハッチの上で ぼんやりとその様子を眺めていた。
先生はメモを取り出し 残りの本数を確かめる。
先生「えっと。予備が五本あるから 四人にも渡せるね」
アル「えっ いいの!?」
先生「せっかく会えたんだから。ちょうど予備もあるし」
アル「さ さすが先生ね。アウトローたるもの 施しは受けない主義なんだけど……今回は特別に受け取ってあげるわ!」
カヨコ「さっきまで施しを探してたのに」
ハルカ「あ アル様 どれがいいですか……? わ 私は 残ったので……溶けかけたのでも……」
先生「溶けかけたのはないから 好きなのを選んでね」
ハルカ「は はい……!」
ムツキがチョコ カヨコが抹茶。
アルは堂々とミルクを手に取り ハルカは最後までおろおろしてからパインを選んだ。
イロハの視線が ほんの一瞬 アルの手元に止まった。
ミルク味の包み紙。
すぐに目をそらし 車長席に腰を落とす。
アル「ふふ ミルク。こういうシンプルなものほど 本物の味がわかるのよ」
ムツキ「アルちゃん それっぽいこと言ってる~」
アル「言ってるんじゃなくて そうなの!」
先生は箱の中をのぞき込み 小さく息をついた。
予備は残り一本。
メモの数字を指でなぞる。
風紀委員会に四本 万魔殿に五本 予備が一本。
大丈夫 足りている。
先生「イロハ 次は風紀委員会だよ」
イロハ「……了解です」
虎丸が動き出す。
砂煙の向こうで 対策委員会と便利屋の八人が手を振っていた。
ホシノだけが 手を振りながら少しだけ首をかしげていた。
ゲヘナ学園の敷地に入ると 空気が変わった。
どこかで爆発音がしている。
どこかで誰かが叫んでいる。
いつものゲヘナだった。
イロハ「着きましたよ。風紀委員会の本部です」
先生「イロハは ここに入って大丈夫?」
イロハ「大丈夫じゃないでしょうね。万魔殿の戦車ですから」
その言葉どおりだった。
本部の前に虎丸が停まるなり 建物の中から武装した委員たちが飛び出してきた。
先頭に立つのは 銀色の髪をなびかせた少女だった。
イオリ「おい! 万魔殿の戦車が何の用だ! まさか また議長の差し金か!?」
イロハ「違います。今日は運転手です」
イオリ「運転手!? ふざけるな!」
アコ「イオリ 落ち着きなさい。……先生?」
遅れて出てきたアコが ハッチから顔を出す先生を見つけて目を丸くした。
それから車長席のイロハを見て 露骨に顔をしかめる。
アコ「どうして先生が 万魔殿の戦車に乗っているんですか」
先生「さっきミレニアムでも 同じことを聞かれたよ」
アコ「当然の疑問です。先生 何か弱みを握られているのでは」
イロハ「握ってませんよ。握るのも面倒なので」
アコ「……面倒でなければ 握るということですか」
イロハ「そういう揚げ足取りも 面倒ですね」
ぴりぴりとした空気が流れる。
そこへ 静かな声が割り込んだ。
ヒナ「アコ イオリ。銃を下ろして」
建物の奥から ヒナがゆっくりと歩いてきた。
目の下にうっすらと隈がある。
書類の束を小脇に抱えたままだった。
アコ「委員長! ですが 万魔殿の……」
ヒナ「先生が乗ってるなら 攻撃しに来たわけじゃないでしょう」
ヒナは戦車を見上げ それから先生に視線を移した。
ほんの少しだけ 表情がやわらぐ。
ヒナ「先生。おかえりなさい。外に行ってたって聞いたけど」
先生「ただいま。ヒナ 少し疲れてる?」
ヒナ「……いつものことよ。今日は温泉開発部が三回 美食研究会が二回」
先生「それは大変だったね。はい お土産」
先生が箱を開けると ヒナは小さく瞬きをした。
ヒナ「アイス……?」
先生「ドライアイスがもつうちに 配って回ってるんだ。四人の分あるよ」
チナツ「私たちの分まで ありがとうございます 先生」
いつの間にかヒナの後ろにいたチナツが 丁寧に頭を下げた。
イオリはまだ戦車を睨んでいたが 箱の中身を見て 少しだけ銃口が下がる。
イオリ「……な 何味があるんだよ」
先生「ええと 今残ってるのは」
先生は箱の中を確かめた。
ミルクが二本 アズキが二本 チョコが一本 フルーツが一本 抹茶が一本 パインが三本。
十本。
ここで四本 万魔殿で五本 予備が一本。
イオリ「じゃあ チョコ」
アコ「私はフルーツをいただきます。委員長は」
ヒナ「……アズキ。なんとなく」
チナツ「では 私はパインを」
四本が手渡された。
ヒナはアイスを受け取ると 包み紙を見つめたまま しばらく黙っていた。
それから車長席のイロハに目を向ける。
ヒナ「あなたも 付き合わされてるの」
イロハ「付き合ってるというか 付き合いながらサボってます」
ヒナ「そう。……それなら いいけど」
ヒナはわずかに口元をゆるめた。
イロハも 帽子のつばの下で小さく肩をすくめる。
イロハ「ヒナさんこそ 少し休んだほうがいいですよ。その書類 今日中のものじゃないでしょう」
ヒナ「どうしてわかるの」
イロハ「うちの議長も よく同じ量の書類を押しつけてくるので。見ればわかります」
ヒナは一瞬 目を丸くした。
それから ほんのかすかに笑った。
ヒナ「……ありがとう。少しだけ そうするわ」
アコ「委員長が 万魔殿の人間に礼を……」
イオリ「なんか 調子狂うな」
先生は二人のやりとりを 黙って見ていた。
口を挟まないほうがいい気がした。
先生「じゃあ 私たちはこれで。溶ける前に食べてね」
ヒナ「ええ。先生も 気をつけて」
虎丸が再び動き出す。
遠ざかる本部の前で ヒナがアイスをかじっているのが見えた。
先生「イロハ ヒナと仲いいんだね」
イロハ「仲がいいわけじゃありません。お互い 面倒な人のせいで苦労してるだけです」
先生「それって けっこう仲がいいってことだと思うけどな」
イロハ「先生の定義は ゆるすぎます」
ドライアイスの煙が 少しずつ薄くなってきていた。
先生は腕時計を見る。
シャーレを出てから 一時間半が過ぎていた。
先生「残り六本。ちょうどいいね」
イロハ「そうですね」
イロハの声は いつもと変わらなかった。
けれど 操縦桿を握る指に 少しだけ力がこもっていた。
最後の一本。ミルク味。
ちゃんと残っている。
万魔殿の本拠地は ゲヘナの中でもひときわ豪奢な建物だった。
虎丸がその前庭に入ると 二階の窓がばんと開いた。
イブキ「あっ! 虎丸だ! イロハ先輩 おかえりなさい!」
イロハ「ただいま イブキ」
イロハの声が 一段やわらかくなった。
イブキは窓から大きく手を振り そのまま姿を消したかと思うと すぐに玄関から転がるように飛び出してきた。
イブキ「先生もいる! 先生 おかえりなさい!」
先生「ただいま イブキ。いい子にしてた?」
イブキ「うん! イブキ 今日はマコト先輩のお手伝いしてたの!」
先生「えらいね」
イブキ「えへへ」
イロハはハッチから身を乗り出し イブキの頭についた葉っぱを指でつまんで取った。
イロハ「また庭で転んだんですか」
イブキ「転んでないよ! ちょっとだけ しゃがんだだけ!」
イロハ「そうですか。膝は」
イブキ「大丈夫!」
イロハ「……なら いいです」
心の底から安堵したような声だった。
先生は思わず笑ってしまう。
イロハ「何ですか」
先生「ううん。なんでもないよ」
そのとき 建物の奥から高笑いが響いてきた。
マコト「ついに来たか シャーレの先生! この万魔殿議長 羽沼マコトのもとへ 自ら貢ぎ物を持ってくるとはな!」
マントを翻しながら マコトが大股で歩いてきた。
先生の抱える箱を見て 目をぎらりと光らせる。
マコト「聞いているぞ。キヴォトスの外から 希少な氷菓を持ち帰ったそうだな」
先生「どこから聞いたの」
マコト「万魔殿の情報網をなめるな!」
イロハ「たぶん チアキが風紀委員会の本部の前で写真を撮ってたんでしょう」
マコト「イロハ! 情報源をばらすな!」
イロハ「隠すほどのことでもないので」
マコトはイロハを一睨みしてから 先生の前に手を差し出した。
マコト「さあ 献上せよ!」
先生「献上じゃなくて お土産だけどね。はい イブキから選んでいいよ」
イブキ「いいの!? えっとね えっとね」
イブキは箱の中を覗き込み 一本ずつ指さしながら悩んだ。
ミルクが二本 アズキが一本 抹茶が一本 パインが二本。
イブキ「イブキ パインにする! 黄色いの 好き!」
先生「どうぞ」
イブキ「ありがとう 先生!」
イブキは包み紙を大事そうに抱きしめた。
イロハの口元が ゆるやかにほどける。
その一瞬の隙だった。
マコト「では 残りはこのマコト様が預かる!」
先生「え」
マコトの手が 箱の中へ伸びていた。
ミルク アズキ 抹茶 パイン。
そして 最後のミルク。
五本すべてを 両腕でがっさりと抱え込む。
先生「マコト ちょっと待って。それは」
マコト「議長の分! サツキの分! チアキの分! それから 議長の予備と 予備の予備だ!」
先生「予備の予備って」
マコト「議長たる者 常に不測の事態に備えねばならんのだ! キヒヒッ ではさらばだ!」
言うが早いか マコトはマントを翻して建物の中へ駆け込んでいった。
廊下の奥で 扉の閉まる音がした。
前庭に 静けさが落ちた。
空っぽになった箱の底で ドライアイスの最後の欠片が かすかに煙を上げている。
先生「……」
イブキ「マコト先輩 はやーい」
先生はゆっくりと振り返った。
車長席のイロハは ハッチの縁に肘をついたまま 建物の入口を見ていた。
表情は変わらない。
いつもの 気だるげな顔だった。
先生「イロハ ごめん。すぐにマコトから一本返してもらってくるよ」
イロハ「いいですよ」
先生「でも」
イロハ「取り返しに行くの めんどくさいですし。あの人 一度抱え込んだものは なかなか離しませんから」
イロハは袖の中で 小さく指を組み直した。
イロハ「はぁ……しょうがないですね」
いつもの口癖だった。
本当に いつもどおりの声だった。
イブキ「イロハ先輩 アイスもらえなかったの?」
イロハ「私は運転手ですから。最後でいいって言ったのは 私です」
イブキ「じゃあ イブキの 半分こする?」
イロハ「イブキが全部食べてください。今日はお手伝い 頑張ったんでしょう」
イブキ「……うん」
イブキはアイスを握ったまま 少しだけ困った顔でイロハを見上げた。
イロハはその頭を ぽんと軽く撫でた。
イロハ「ほら 溶けますよ」
イブキ「うん!」
イブキが包み紙を破る。
黄色いアイスに かぷりと小さな歯型がついた。
イブキ「おいしい! イロハ先輩 これすっごくおいしいよ!」
イロハ「それはよかったです」
イロハは微笑んでいた。
その笑顔を見て 先生は胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
イロハ「先生。シャーレまで送ります」
先生「イロハ 本当に」
イロハ「送ります。溶けるものはもう何もないので 安全運転で」
帰り道の虎丸は 行きよりもずっと静かだった。
エンジンの唸りと 履帯が路面を噛む音だけが 車内に響いている。
先生は空の箱を膝に載せたまま 何度か口を開きかけた。
けれど 言葉が見つからなかった。
「ごめん」はもう言った。
「取り返してくる」も断られた。
それ以上の言葉を探すうちに 窓の外の景色だけが流れていく。
先生「……イロハ」
イロハ「はい」
先生「今日は 本当にありがとう。イロハがいなかったら 全部溶かしてたと思う」
イロハ「そうでしょうね。先生の足じゃ アビドスで力尽きてました」
先生「うん」
イロハ「どういたしまして」
それきり 会話は途切れた。
イロハは前だけを見て運転していた。
ハンドルを握る手は 相変わらず滑らかだった。
揺れは ほとんどなかった。
シャーレの前に着いたときには 空が茜色に染まり始めていた。
先生がハッチから降りると イロハは車長席から見下ろして言った。
イロハ「今日は疲れたので 帰ります」
先生「え。上がっていかないの? コーヒーくらい淹れるよ」
イロハ「コーヒーゼリーも もうないですし」
先生「あれはイロハが食べたんだけどね」
イロハ「そうでした」
ほんの少しだけ いつもの軽口が戻った気がした。
けれど イロハはハッチを閉めかけて 手を止めた。
イロハ「先生」
先生「うん」
イロハ「……別に気にしてませんけど」
先生「え?」
イロハ「アイスのことです。気にしてませんから。先生も気にしないでください」
そう言って ハッチが閉まった。
虎丸はゆっくりと向きを変え 夕暮れの通りを遠ざかっていく。
先生はその背中を 見えなくなるまで見送っていた。
執務室に戻ると ソファの上に一冊の文庫本が残されていた。
イロハが読んでいたものだった。
ページの途中に 栞が挟まったままになっている。
先生「……忘れていったんだ」
イロハが自分の本を置いていくのは 珍しいことだった。
サボりの道具は いつもきちんと持ち帰る子だったから。
先生は本を手に取り 机の上にそっと置いた。
それから 胸ポケットのメモを取り出す。
しわくちゃになった紙の端に 自分の字で書いた小さな文字があった。
"イロハ ミルク"
先生「……最後まで残しておくって 言ったのにね」
誰もいない部屋に 独り言が落ちる。
先生は椅子に深く座り 天井を見上げた。
マコトに取られた。
それは たしかにそうだ。
けれど マコトが箱に手を伸ばしたとき 自分はどうしていただろう。
イブキがアイスを選ぶのを見て 笑っていた。
イロハの分を 先に分けておけばよかった。
ミルクを一本 箱の外に出しておけばよかった。
"最後でいい"と言われて それに甘えていた。
そして アビドスでアルがミルクを手に取ったとき。
イロハが一瞬だけ 目を止めていたのを 見ていたはずだった。
先生「気にしてない か」
あの子は 本当に気にしていない子なんだろうか。
先生は目を閉じて 今日のイロハの顔を一つずつ思い出していった。
メモを覗き込んで 小さく唇を動かしていた顔。
"ミルクですかね"と答える前の 少しの間。
イブキの頭を撫でて 「ほら 溶けますよ」と笑った顔。
そして ハッチを閉める前の 何かを飲み込んだような声。
先生「気にしてないなら わざわざ言わないよね」
先生は立ち上がり 窓の外を見た。
ゲヘナの方角の空は もう紺色になりかけていた。
その夜 先生はほとんど眠れなかった。
冷凍庫の中の冷凍食品を一つ温めて 半分だけ食べた。
残りは 喉を通らなかった。
翌日 イロハはシャーレに来なかった。
特別なことではない。
イロハがシャーレに来るのは あくまでサボりのついでで 約束をしているわけではなかった。
来ない日だって いくらでもある。
けれど 机の上には文庫本が残されたままだった。
昼を過ぎても 夕方になっても 誰も取りに来なかった。
先生は業務の合間に 何度もその本に目をやった。
書類の山は 昨日の外出のぶん いつもより高く積み上がっている。
手を動かしても 頭のどこかが別のことを考えていた。
夕方 端末に一通のメッセージが届いた。
差出人は イブキだった。
"せんせい イロハせんぱいが きのうから ずっと とらまるの おへやにいるの"
"ごはんも あんまりたべてないの"
"イブキ どうしたらいい?"
先生はしばらく画面を見つめていた。
それから 静かに返信を打つ。
"教えてくれてありがとう。明日の朝 そっちに行ってもいいかな"
返事はすぐに来た。
"うん! まってるね!"
ひらがなばかりの文面の最後に 小さな虎のスタンプが添えられていた。
翌朝。
先生は文庫本を鞄に入れ ゲヘナ学園へ向かった。
途中で一度だけ 店に立ち寄った。
万魔殿の建物の前では イブキが門柱に寄りかかって待っていた。
先生の姿を見つけると ぱっと顔を輝かせて駆けてくる。
イブキ「先生! 来てくれたんだね!」
先生「おはよう イブキ。待っててくれたの?」
イブキ「うん! イブキ 早起きしたの!」
けれど そのあとすぐに イブキの表情がしぼんだ。
足元の石ころを 小さくつま先でつつく。
イブキ「イロハ先輩ね 昨日もずっとお部屋にいたの。イブキが遊びに行ったら 入れてくれたけど」
先生「うん」
イブキ「でも 本 読んでないの。いつもは本読んでるのに ずっと天井 見てたの」
先生「……そっか」
イブキ「イブキ 何かしちゃったのかな」
イブキが顔を上げた。
大きな瞳が 不安そうに揺れている。
イブキ「イブキ 昨日のアイス 全部食べちゃったから。イロハ先輩に 半分こしようって言ったのに 先輩 いらないって言ったから 全部食べちゃったの」
先生「イブキ」
イブキ「でも ほんとは 無理やりでも半分こしたほうがよかったのかなって」
先生はしゃがみ込み イブキと目の高さを合わせた。
先生「イブキは 何も悪いことしてないよ」
イブキ「ほんと?」
先生「うん。イロハは イブキに全部食べてほしかったんだと思う。イブキがおいしいって笑ってくれて きっと嬉しかったはずだよ」
イブキ「……じゃあ どうして 元気ないの?」
先生は少しだけ言葉を探した。
先生「それはね たぶん私のせいなんだ」
イブキ「先生の?」
先生「イロハの分 最後まで取っておくって約束したのに 守れなかったから」
イブキ「マコト先輩が 全部持ってっちゃったから?」
先生「マコトが持っていく前に 私がちゃんと分けておけばよかったんだよ」
イブキは小首をかしげて 先生の顔をじっと見つめた。
イブキ「先生も 元気ない顔してる」
先生「そう見える?」
イブキ「うん。イロハ先輩と おんなじ顔」
先生は思わず苦笑した。
子どもの目は ごまかせない。
先生「今日はね イロハにちゃんと謝りに来たんだ」
イブキ「イブキも一緒に行く?」
先生「ありがとう。でも まずは私一人で行ってもいいかな。イロハと二人で 話したいことがあるんだ」
イブキ「……うん。わかった! イブキ ここで待ってる!」
先生「その前に一つだけ。マコトって 今どこにいるかな」
イブキ「マコト先輩? 議長室にいると思うよ。朝から"今日こそ風紀委員会を出し抜く"って 作戦会議してた!」
先生「朝から元気だね」
イブキ「マコト先輩は いつも元気だよ!」
議長室の扉を叩くと 中から尊大な声が返ってきた。
マコト「入れ! ……む シャーレの先生か。朝から何の用だ」
マコトは巨大な机の向こうで ふんぞり返っていた。
机の上には ゲヘナの地図と 赤いペンで書き込まれた謎の作戦図が広がっている。
先生「おはよう マコト。一昨日のアイスのことで ちょっと聞きたくて」
マコト「アイス? ああ あの氷菓か。なかなか悪くない味だったぞ。特にアズキ。このマコト様の舌を満足させるとは 外の世界も侮れん」
先生「それはよかった。それで 五本持っていったよね」
マコト「うむ」
先生「サツキとチアキには 渡してくれた?」
マコト「当然だ。議長として 議員への配給は怠らん」
先生「じゃあ 残りの二本は」
マコトの眉が ぴくりと動いた。
マコト「予備と 予備の予備だと言っただろう」
先生「うん。その予備って 今どこにあるのかな」
マコト「……なぜそんなことを聞く」
先生「一本は 本当はイロハの分だったんだ。ミルク味を イロハのために残しておくって約束してたんだよ」
マコトは黙った。
しばらく 先生の顔を睨むように見つめていた。
やがて 大きく鼻を鳴らして立ち上がる。
マコト「ついて来い」
マコトに連れられて向かったのは 万魔殿の給湯室だった。
部屋の隅に 業務用の大きな冷凍庫が置いてある。
マコトはその扉を 勢いよく開けた。
冷気の向こう。
一番上の棚に アイスキャンデーが一本だけ 横たわっていた。
ミルク味の包み紙。
その上に 大きな字で書かれた付箋が貼りつけてある。
"イロハの 触るな 議長命令"
先生「……マコト これ」
マコト「予備の予備は私が食べた。これは予備だ」
先生「予備っていうか」
マコト「予備だ!」
マコトは腕を組み ぷいと顔をそむけた。
マコト「あいつは運転中だっただろう。あのまま箱に残しておけば 虎丸の中で溶けるに決まっている。ミルクはあいつの好物だからな。溶けた好物ほど みじめなものはない」
先生「イロハがミルク好きだって 知ってたんだ」
マコト「知らんわけがあるか! あいつが万魔殿に入ってから 何年見ていると思っている」
声が大きくなった。
それから マコトは少しだけ声を落とした。
マコト「……渡してやろうと思っていたのだ。議長直々の下賜としてな。ところがあいつは 虎丸でさっさとシャーレへ行ってしまった。昨日は昨日で 戦車室から出てこん」
先生「そうだったんだ」
マコト「呼んでも"めんどくさいです"の一点張りだ。まったく 誰に似たのやら」
マコトは冷凍庫からアイスを取り出すと 先生の胸にぐいと押しつけた。
マコト「お前が持っていけ」
先生「マコトから渡したほうが いいんじゃないかな」
マコト「私が渡すと あいつは面倒くさそうな顔をする。それが目に浮かぶ。だから お前が持っていけ」
先生「でも これはマコトが イロハのために取っておいたものだよ」
マコト「だから何だ」
先生「マコトからだってことは ちゃんと伝えるよ。黙って私からのものにするのは 違うと思うから」
マコトは口を開きかけ 閉じた。
それから苦虫を噛み潰したような顔で 小さく舌打ちする。
マコト「……好きにしろ。ただし 恩に着せるような言い方はするなよ。議長の威厳にかかわる」
先生「わかった。ありがとう マコト」
マコト「礼を言われる筋合いはない! 備品管理は議長の務めだ!」
マコトはそう叫ぶと 足音も荒く給湯室を出ていった。
廊下の向こうから 「今日こそ風紀委員会を!」という声が遠ざかっていく。
先生は手の中のアイスを見下ろした。
包み紙の上の付箋。
角ばった 力強い字。
"触るな"の部分だけ 二重に線が引いてあった。
戦車室は 万魔殿の建物の地下にあった。
ひんやりとした空気の中に 油と鉄のにおいが混じっている。
その奥に 虎丸が静かに鎮座していた。
先生は虎丸の横を抜け 戦車室のさらに奥へと進んだ。
整備用の棚の裏に 目立たない扉が一つある。
イロハが以前 「ここは秘密です」と言って一度だけ教えてくれた場所だった。
扉を 二回叩く。
返事はない。
先生「イロハ。私だよ」
しばらくして 扉の向こうで何かが動く気配がした。
イロハ「……先生ですか。どうやって入ったんです」
先生「イブキが案内してくれた。入口までだけどね」
イロハ「イブキ……」
ため息のような声が漏れた。
怒っているふうではなかった。
先生「本を届けに来たんだ。シャーレに忘れていったでしょう」
イロハ「……ああ。そういえば」
先生「開けてもいいかな。嫌なら ここに置いていくよ」
長い沈黙があった。
やがて 扉の鍵が外れる小さな音がした。
イロハ「……どうぞ。散らかってますけど」
サボり部屋は こぢんまりとしていた。
古いソファ 小さな本棚 床に積まれたゲーム雑誌。
脱ぎ捨てられた靴下が 片方だけソファの下に転がっている。
壁際の小さな冷蔵庫の上では 旧式のゲーム機が静かに眠っていた。
イロハはソファの端に膝を抱えて座っていた。
制帽を脱いで 豊かな髪がそのまま背中に流れている。
目の下に 薄く隈ができていた。
先生「はい これ」
先生が文庫本を差し出すと イロハは両手で受け取った。
栞の位置を確かめ 小さく息をつく。
イロハ「わざわざ ありがとうございます。宅配でもよかったのに」
先生「私が来たかったんだよ」
イロハ「……そうですか」
イロハは本を膝に載せたまま 先生を見上げなかった。
先生はソファから少し離れた床に 腰を下ろした。
先生「座ってもいいかな」
イロハ「もう座ってるじゃないですか」
先生「そうだね」
二人のあいだに 静けさが落ちた。
遠くで 虎丸のエンジンを冷ますファンが回っている。
イロハ「先生。何しに来たんですか。本当は」
先生「謝りに来たんだ」
イロハ「謝られるようなこと ありましたっけ」
先生「あったよ」
イロハ「アイスのことなら 気にしてないって言いましたよね」
先生「うん。言ってたね」
イロハ「なら」
先生「でも 私は気にしてるんだ」
イロハの指が 文庫本の表紙の上で止まった。
先生「イロハの分を最後まで残しておくって 私が言ったんだよ。イロハが頼んだわけじゃない。私が自分で約束したんだ」
イロハ「マコト先輩が持っていったんです。先生のせいじゃありません」
先生「マコトが手を伸ばす前に 私が分けておけばよかった。箱の中から一本 先に出しておくだけでよかったんだ。それをしなかったのは 私だよ」
イロハ「……」
先生「イロハが"最後でいい"って言ってくれたから それに甘えてた。イロハなら大丈夫だろうって どこかで思ってたんだと思う。本当に ごめん」
先生は頭を下げた。
しばらくのあいだ 何も聞こえなかった。
イロハ「……やめてください。そういうの」
声が かすかに揺れていた。
イロハ「先生にそういうことされると 私が悪いみたいじゃないですか」
先生「イロハは悪くないよ」
イロハ「悪いですよ。最後でいいって言ったのは 私です」
イロハは膝を抱える腕に 少しだけ力をこめた。
イロハ「言ったからには しょうがないって思うしかないじゃないですか。自分で言ったんですから。それで拗ねるなんて 子どもみたいで」
先生「拗ねてたの?」
イロハ「拗ねてません」
即答だった。
それから イロハは小さく唇を噛んだ。
イロハ「……拗ねてたのかもしれません。自分でもよくわからないんです」
先生は黙って続きを待った。
イロハは天井の配管を見上げたまま ぽつぽつと言葉を落としていく。
イロハ「別に アイスが食べたかったわけじゃないんです。いえ 食べたかったですけど。そういうことじゃなくて」
先生「うん」
イロハ「シャーレでメモを見せてもらったとき 万魔殿 五本って書いてあったでしょう」
先生「うん」
イロハ「数えたんです。マコト先輩 イブキ サツキ先輩 チアキ。……それから 私」
イロハの声が 少しだけ小さくなった。
イロハ「先生が ちゃんと私を数に入れてくれてたんだなって。それだけで ちょっと嬉しかったんです。変ですよね。たかがアイス一本なのに」
先生「変じゃないよ」
イロハ「変ですよ。……それで ミルクがいいって言ったら 先生が"最後まで残しておくね"って言ってくれて」
イロハは膝に顔を半分うずめた。
イロハ「ミレニアムで一本減って アビドスで一本減って。便利屋の社長がミルクを取ったとき 正直ちょっとひやっとしました。でも まだ一本あるって思って」
先生「……」
イロハ「風紀委員会で ヒナさんたちに配ってるときも 残りを数えてました。あと一本 ちゃんとある。先生が残しておいてくれてる。そう思いながら運転するの 楽しかったんですよ。あんなに楽しいサボり 久しぶりでした」
イロハは そこで一度言葉を切った。
イロハ「だから マコト先輩が全部抱えて走っていったとき。ああ やっぱりか って思ったんです」
先生「やっぱり?」
イロハ「私はいつも そういう役なんです。マコト先輩の無茶を片づけて イブキが困らないように気を配って 誰かが騒いだら後始末して。最後に残ったものは 私がもらえばいい。残らなかったら しょうがない」
淡々とした声だった。
けれど その淡々とした調子こそが 何年も積み重なってきたものの重さのように聞こえた。
イロハ「それが一番楽なんです。期待しなければ がっかりもしないので。……それなのに 今回は ちょっと期待しちゃったんです」
イロハは顔を上げて 初めて先生のほうを見た。
灰色の瞳が 少しだけ潤んでいた。
イロハ「先生が 私の分を覚えててくれるって。だから 余計に」
その先は 言葉にならなかった。
イロハは袖で目元をぐいと拭い ふいと顔をそむける。
イロハ「……めんどくさいですね 私。こんなこと言いに 引きこもってたわけじゃないのに」
先生「めんどくさくなんかないよ」
イロハ「めんどくさいですよ。自分でもわかります」
先生「そう思えるくらい 一生懸命期待してくれてたんだね」
イロハの肩が 小さく震えた。
先生「その期待を裏切ったのは 私だよ。イロハの"しょうがない"は 本当はしょうがなくなかった。私がちゃんと見ていれば 防げたことだったんだ」
イロハ「先生……」
先生「だから イロハが自分を責める必要はないよ。がっかりしたなら がっかりしたって言っていいんだ。それは子どもっぽいことじゃない。約束を破られたら 誰だって悲しいよ」
イロハはしばらく黙っていた。
それから 聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った。
イロハ「……がっかり しました」
先生「うん」
イロハ「すごく しました」
先生「うん。ごめんね」
イロハ「……はい」
イロハは膝を抱えたまま 小さく鼻をすすった。
先生はそれ以上 何も言わなかった。
ただ 同じ部屋にいた。
どれくらいそうしていただろう。
やがて イロハが ふっと息を吐いた。
イロハ「……先生。その鞄 さっきから妙に膨らんでますけど」
先生「ああ これはね」
先生は鞄を開けた。
中から取り出したのは 小さな保冷バッグだった。
ファスナーを開けると ひやりとした冷気がこぼれる。
イロハ「……アイス?」
先生「そう。これはマコトからだよ」
先生は 付箋のついたミルク味のアイスキャンデーを差し出した。
イロハの目が 付箋の文字の上で止まる。
"イロハの 触るな 議長命令"
イロハ「……は?」
先生「マコトが持っていった五本のうち 一本は最初からイロハの分だったんだって。虎丸の中だと溶けちゃうから 冷凍庫で預かってたらしいよ」
イロハ「え ちょっと待ってください。意味がわからないんですけど」
先生「ミルクはイロハの好物だから 溶けたらみじめだって言ってた」
イロハ「……あの人 私の好物なんて覚えてたんですか」
先生「"何年見てると思ってる"って 怒られちゃった」
イロハはアイスを受け取ったまま 固まっていた。
付箋の文字を 何度も目で追っている。
"触るな"の二重線のところで 視線が止まった。
イロハ「……二重線 引いてますね」
先生「引いてたね」
イロハ「たぶん 自分で食べそうになったから 自分に向けて引いたんですよ これ」
先生「そうかもしれないね」
イロハ「最悪です。あの人 本当に面倒くさい」
そう言いながら イロハの声は震えていた。
怒りでも悲しみでもない 何か別のものが混じっていた。
イロハ「なんで それを直接渡さないんですか。昨日だって 呼びに来たのに」
先生「"私が渡すと イロハは面倒くさそうな顔をする"って」
イロハ「するに決まってるじゃないですか」
先生「だから 私に頼んだんだって」
イロハ「……本当に 最悪ですね」
イロハは付箋をそっと剥がし 文庫本の表紙の内側に貼りつけた。
丁寧に 角をそろえて。
イロハ「恩に着せるなとか 言われませんでした?」
先生「言われた。議長の威厳にかかわるって」
イロハ「威厳なんて 最初からないのに」
イロハは小さく笑った。
昨日から初めての 本当の笑顔だった。
イロハ「……あとでお礼 言っておきます。三日後くらいに。ついでに」
先生「すぐじゃなくていいの?」
イロハ「すぐ言ったら 調子に乗るので。三日後に さりげなく言うくらいがちょうどいいんです」
先生「そういうところ ちゃんとわかってるんだね」
イロハ「何年 あの人の下で働いてると思ってるんですか」
先生は思わず吹き出した。
イロハも つられるように肩を揺らす。
イロハは包み紙を丁寧に開いた。
真っ白なアイスキャンデーが 冷気をまとって現れる。
丸一日以上冷凍庫で眠っていたそれは 一昨日の箱の中よりずっと固く凍っていた。
イロハ「いただきます」
小さくかじる。
しゃり という音がした。
イロハはしばらく目を閉じて 黙って味わっていた。
イロハ「……おいしい」
先生「よかった」
イロハ「普通の味です。ミルクの味がして 甘くて 冷たくて」
先生「うん」
イロハ「普通のが一番おいしいって 言ったでしょう」
先生「言ってたね」
イロハ「当たってました」
イロハはもう一口かじった。
それから ふと手を止めて 先生を見た。
イロハ「先生は 一本食べてきたんでしたっけ。外で」
先生「え」
イロハ「ミレニアムでユウカさんに そう言ってましたよね」
先生の目が 一瞬だけ泳いだ。
イロハはそれを見逃さなかった。
イロハ「……食べてないんですね」
先生「いや その」
イロハ「食べてないんですね」
先生「……食べてないです」
イロハは深く 深くため息をついた。
昨日からのどのため息よりも 大きなため息だった。
イロハ「二十四本買ってきて 自分の分を数えてなかったんですか」
先生「お店の人が 箱に入るのは二十四本までって言うから。みんなの分を数えたら それでちょうどだったし」
イロハ「予備の五本は」
先生「予備は予備だから 誰かが困ったときのために」
イロハ「先生が困ってるじゃないですか」
先生「私は別に」
イロハ「ほら それです」
イロハはアイスの棒で 先生を指した。
イロハ「"私は最後でいい" "私は別に" "私は大丈夫"。それ 一昨日の私と同じこと言ってますよ」
先生「……」
イロハ「冷凍庫の中 冷凍食品しか入ってなかったのも 同じ理由でしょう。自分のことは後回しで いつか倒れるんです。私 知ってますよ。先生が前に倒れたとき 誰がシャーレの書類を片づけたと思ってるんですか」
先生「……それは」
イロハ「ユウカさんとヒナさんと 私です」
先生は言葉に詰まった。
イロハの言うことは 何一つ間違っていなかった。
先生「そうだね。イロハの言うとおりだ」
イロハ「わかればいいんです」
先生「イロハに"期待しなければがっかりしない"なんて言わせておいて 私も同じことしてたんだね」
イロハ「同じどころか 先生のほうがひどいですよ。私は少なくとも ミルクがいいって言いましたから。先生は何味がいいとも言ってないでしょう」
先生「……言ってないね」
イロハ「最悪ですね。似た者同士です」
イロハはそう言って またアイスをかじった。
しゃり しゃり という音が 小さな部屋に響く。
イロハ「……半分こ しますか」
先生「え?」
イロハ「冗談です。アイスキャンデーは 半分こできる形じゃないので」
先生「たしかに」
イロハ「それに これはマコト先輩が私のために取っておいたものですから。先生にあげたら あの人 本気で拗ねますよ」
先生「それは困るね」
イロハ「困ります。三日くらい うるさいです」
イロハは最後の一口を食べ終えると 残った棒をじっと見つめた。
当たりもはずれも書いていない ただの木の棒だった。
イロハ「先生。その胸ポケットのメモ まだ持ってますか」
先生「うん。持ってるよ」
イロハ「貸してください」
先生がしわくちゃのメモを差し出すと イロハはそれを広げた。
ミレニアム 五本。アビドス 五本。風紀委員会 四本。万魔殿 五本。予備 五本。
そして 端に小さく書き足された文字。
"イロハ ミルク"
イロハはその文字を 指先でそっとなぞった。
イロハ「……書いてあったんですね」
先生「書いたのに 守れなかったけどね」
イロハ「でも 書いてあったんですね」
イロハは何かを確かめるように もう一度その文字を見つめた。
それからソファの横の本棚からペンを取り 紙を裏返した。
先生「イロハ?」
イロハ「次の分です」
イロハは真っ白な裏面の一番上に さらさらと書き込んだ。
"先生"
先生「……私?」
イロハ「次にキヴォトスの外に行くときは まず先生の分から数えてください。何味がいいか 今決めてください」
先生「今?」
イロハ「今です。どうせ後回しにして忘れるんですから」
有無を言わせない声だった。
先生は少し考えてから 答えた。
先生「……じゃあ アズキかな。ホシノがおいしいって言ってたし」
イロハ「他人の感想で決めないでください」
先生「えっ だめ?」
イロハ「先生が食べたいものを 聞いてるんです」
先生は目を閉じて 考えた。
箱を開けたときの あの白い煙。
六種類の包み紙。
みんなが一本ずつ選んでいく 楽しそうな顔。
先生「……ミルク」
イロハ「はい?」
先生「ミルクがいいな。イロハが一番おいしいって言ってたから 食べてみたくなった」
イロハは一瞬 固まった。
それから 帽子もないのに つばを引き下ろすような仕草をして 顔を隠そうとした。
手は空を切った。
イロハ「……それも他人の感想じゃないですか」
先生「でも 本当に食べたいと思ったんだよ」
イロハ「……しょうがないですね。今回だけ認めてあげます」
イロハは"先生"の横に "ミルク"と書き足した。
それから その下に もう一行。
"イロハ ミルク"
先生「イロハもミルク?」
イロハ「普通のが一番おいしいので」
イロハはペンを置き メモを先生に返そうとして 途中で手を止めた。
しばらく迷ってから 自分の文庫本を開き 栞の代わりにそのメモを挟んだ。
マコトの付箋の 隣のページに。
先生「それ 私のメモなんだけど」
イロハ「預かっておきます。先生が持ってると また自分の名前を後回しにしそうなので」
先生「……信用ないね」
イロハ「一昨日の実績があるので」
先生「返す言葉もないよ」
イロハ「次に出張が決まったら 取りに来てください。シャーレで待ってますから」
先生「シャーレで? 万魔殿じゃなくて?」
イロハ「サボるなら シャーレのほうが落ち着くので」
イロハはそう言って ソファの背にもたれた。
昨日からずっと強張っていた肩が ようやく落ち着いたように見えた。
そのとき 扉の向こうから ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
イブキ「イロハ先輩! 先生! もうお話 終わった?」
扉がわずかに開いて イブキの顔がのぞく。
心配そうな瞳が イロハの手にあるアイスの棒を見つけて ぱっと明るくなった。
イブキ「あっ! イロハ先輩 アイス食べたの?」
イロハ「はい。いただきました」
イブキ「よかったぁ! おいしかった?」
イロハ「……とても」
イブキ「えへへ! よかった!」
イブキはぴょんと跳ねると そのままイロハの隣に飛び込んだ。
イロハはイブキの頭を撫でながら 小さく息をつく。
イブキ「じゃあ 次はイブキも一緒に食べたい!」
イロハ「次は 先生がまた外に行ったときですね」
イブキ「先生 いつ行くの?」
先生「うーん いつになるかなぁ」
イブキ「イブキ 待ってる! 次はね イブキ ミルクにする!」
イロハ「……ミルク 争奪戦になりそうですね」
先生「じゃあ次は ミルクを多めに買ってこないとね」
イロハ「多めにじゃありません。全員分です」
先生「全員分ミルク?」
イロハ「ミルク以外が欲しい人は ちゃんと手を挙げてもらいます。次は 誰も"最後でいい"なんて言わなくていいように」
イロハは先生の目をまっすぐ見た。
先生は 静かにうなずいた。
先生「うん。そうしよう。次は リストを作るところから イロハも手伝ってくれる?」
イロハは一瞬 きょとんとした顔をした。
それから ゆっくりと肩をすくめる。
イロハ「はぁ……しょうがないですね」
一昨日と まったく同じ言葉だった。
けれど 今度の声は どこか弾んでいた。
廊下の奥から 地響きのような足音が近づいてくる。
マコト「イロハァ! 戦車室にこもってないで いい加減出てこい! 今日こそ風紀委員会を出し抜く作戦会議を……む シャーレの先生もいたのか」
扉の隙間から マコトが顔をのぞかせた。
イロハの手にある棒を見て ほんの一瞬だけ動きが止まる。
すぐに いつもの高笑いで取り繕った。
マコト「ふん! 何を食べていたのかは知らんが 議長への報告は怠るなよ!」
イロハ「マコト先輩」
マコト「何だ」
イロハ「……三日後に 話があります」
マコト「三日後? なぜ三日後なんだ」
イロハ「そういう決まりなので」
マコト「どういう決まりだ!」
イロハ「めんどくさいので 説明しません」
マコトは何か言い返そうとして 結局 口をもごもごさせたまま引っ込んだ。
廊下の向こうで 「万魔殿の規律はどうなっているのだ」と誰にともなく叫ぶ声がした。
イブキ「マコト先輩 なんか嬉しそうだったね」
イロハ「気のせいです」
先生「私も そう見えたけどな」
イロハ「先生まで」
イロハはため息をつき 文庫本を膝の上で閉じた。
ページの隙間から メモの端が少しだけはみ出している。
イロハはそれを指先で押し込もうとして やめた。
はみ出したままにしておいた。
イロハ「先生」
先生「うん」
イロハ「次は ちゃんと"あるとき"にしてくださいね」
先生「……あのCMの?」
イロハ「一昨日の私 完全に"ないとき"の顔だったでしょう」
先生「ちょっとだけね」
イロハ「ちょっとじゃありません。かなりです」
イロハはそう言って 少しだけ笑った。
その顔は 一昨日シャーレで箱を見つめていたときと同じくらい 楽しそうだった。
イロハ「だから 次は"あるとき"の顔 見せてあげます」
イロハはソファから立ち上がり 壁にかけてあった制帽を手に取った。
ずり落ちそうな角度で 頭に載せる。
イロハ「さて。マコト先輩の作戦会議 三日後の話の前にサボっておかないと」
先生「作戦会議にはサボりの準備がいるんだね」
イロハ「当然です。……先生 シャーレまで送りますよ。虎丸で」
先生「今日は溶けるものがないけど」
イロハ「今日は 溶けるものがないからこそ ゆっくり走れるんです」
イロハは扉を開けて 先に戦車室へ出ていった。
その背中を追いかけながら 先生は胸ポケットに手を当てた。
メモはもう そこにはなかった。
けれど 次に何を書けばいいのかは ちゃんと覚えていた。
一番上に 自分の名前。
その下に ミルクが好きな 面倒くさがりの戦車長の名前。
虎丸のエンジンが 低く穏やかに唸り始めた。
カズサ「ちなみに、キヴォトスでは無理だけど、551蓬莱は宅配もしているよ。うめ味が期間限定で美味しいからおすすめ」