ハナコ以外が先生を忘れてしまったキヴォトスの中心で愛を叫べ 作:すーぱーりっかちゃん
原作:ブルーアーカイブ
タグ:ブルーアーカイブ ブルアカ 先生(ブルアカ) 浦和ハナコ ゲーム開発部 補習授業部 曇らせ 会話形式
【あらすじ】
ある朝、ハナコ以外の生徒たちが、先生の存在を忘れてしまった。
アロナとプラナ、そして機械の身体を持つアリスとケイだけは異変の影響を受けていない。
全キヴォトスから拒絶される先生の隣で、唯一の理解者となったハナコは――自分だけが先生を独占できる世界に、ほんの一瞬だけ幸福を感じてしまう。
会話中心の長編です。
キャラクターの口調や関係性には注意していますが、独自解釈およびif設定を含みます。
【注意】
・記憶疎外if
・ハナコ曇らせ
・先生×ハナコを思わせる恋愛要素
・戦闘、軽度の負傷表現
・ゲマトリアおよびベアトリーチェに関する独自設定
・メインストーリー各編のネタバレを含みます
以上の要素が苦手な方はご注意ください。
pixivにも掲載しています。
ハナコ「私だけが覚えているなら、幸せなはずでした」
ハナコ「先生。少しだけ、目を閉じていただけますか?」
先生「どうして?」
ハナコ「目を開けたままでは、できないことをするからです」
コハル「何をするつもりなのよ!?」
シャーレの執務室に、コハルの声が響いた。
先生の机を囲んでいるのは、補習授業部の四人。提出された活動報告書を確認するだけの、ごく普通の放課後だった。
ヒフミは人数分の紅茶を用意し、アズサは窓辺で周囲を警戒し、コハルはハナコが持ち込んだ紙袋を不審そうに睨んでいる。
当のハナコは先生の背後に回り、その目元を両手で覆っていた。
ハナコ「もう、コハルちゃん。先生の肩へ、日頃の感謝を込めた刺激を与えるだけですよ」
コハル「その言い方が怪しいの!」
アズサ「肩への刺激なら、按摩だろうか」
ハナコ「はい。先生の凝り固まったところを、私が優しく解して差し上げようかと」
コハル「だから意味深な言い方をするな!」
ヒフミ「あはは……先生、最近ずっとお忙しそうでしたから。肩揉みなら、いいんじゃないでしょうか」
先生「私としては助かるけど、ハナコの手つきが目隠しのまま全然肩へ移動しないのが気になるかな」
ハナコ「まあ。もう少し、このままではいけませんか?」
先生「前が見えないんだよね」
ハナコ「私だけを見てくださればよいのです」
先生「それは目を閉じているから無理じゃないかな」
コハル「真面目に返さなくていいから!」
ハナコはくすりと笑った。
その声はいつもと変わらない。
けれど、先生の目を覆う指先は、ほんの少しだけ強くなっていた。
ハナコ「先生は、目を開けると大勢の生徒を見てしまいますから」
先生「それが仕事だからね」
ハナコ「ええ。存じています」
返事までのわずかな間を、先生だけが気に留めた。
先生「ハナコ?」
ハナコ「ですから、今だけは私が独占しようかと思いまして」
コハル「欲望を隠さなくなった!?」
ヒフミ「ハナコさん、先生が困っていますよ」
ハナコ「先生は本当に困っていらっしゃいますか?」
先生「うーん。少し楽しいとは思ってる」
コハル「先生も乗らないで!」
先生が笑う。
目元を覆っていたハナコの手から、力が抜けた。
冗談に付き合ってもらえただけ。それ以上の意味はない。
分かっていても、胸の奥に小さな熱が灯った。
ハナコ「それでは先生。立ち上がってください」
先生「このまま?」
ハナコ「はい。私が誘導しますので」
アズサ「危険だ。床にヒフミの鞄がある」
ヒフミ「あっ、すみません!」
ヒフミが鞄を退かそうとした瞬間、机の脚に靴を引っかけた。
ヒフミ「きゃっ……!」
持っていたティーポットが傾く。
熱い紅茶が先生へ降りかかるより先に、アズサがヒフミの身体を支えた。コハルが慌ててテーブルを押さえる。
目隠しをされたままの先生だけが、何も分からず一歩踏み出した。
床に落ちたティースプーンを踏む。
先生「わっ」
ハナコ「先生?」
体勢を崩した先生が後ろへ倒れ、ハナコを巻き込んだ。
背中から床へ落ちる直前、ハナコは先生の身体を抱き留める。頬と頬が触れ、互いの息がかかるほど顔が近づいた。
ハナコ「きゃっ……」
普段の彼女からは想像もできない、短く無防備な声だった。
コハル「ちょ、ちょっと! 何してるのよ!」
先生「ご、ごめん。ハナコ、大丈夫?」
ハナコ「ええ。少々、予定より刺激が強かっただけです」
ハナコは先生を抱いたまま、耳元へ唇を寄せた。
ハナコ「このまま、誰にも渡さず連れ帰ってしまいましょうか」
先生「帰るって、どこへ?」
ハナコ「二人きりになれる場所です」
コハル「離れなさい!」
コハルがハナコを引き剥がそうとした。
そのときだった。
シッテムの箱の画面に、赤い警告が走った。
アロナ『先生! 正体不明の信号がキヴォトス全域に広がっています!』
プラナ『既存の通信規格ではありません。生徒のヘイローを中継点として、認識情報に干渉しています』
先生「認識情報?」
先生にしか聞こえない声へ反応した直後、耳鳴りがした。
空気そのものが泣き叫ぶような、甲高い音。
ハナコは先生と触れ合ったまま耳を押さえる。アズサたちも苦しそうに頭を伏せた。
赤黒い光が一度だけ窓の外を横切る。
次の瞬間、執務室は静寂に包まれた。
先生「みんな、大丈夫?」
先生が身体を起こす。
ヒフミは床に座り込み、呆然と先生を見上げていた。
アズサはすでに銃を構えている。
アズサ「動くな」
先生「アズサ?」
アズサ「なぜ私の名前を知っている?」
銃口が、先生の胸元へ向けられた。
コハル「だ、誰なのよ、あなた!」
先生「何を言って……」
ヒフミ「ここはシャーレの執務室ですよね。どうして大人の方がいるんですか?」
先生は答えられなかった。
冗談を言っている顔ではない。
三人の瞳にあるのは、困惑と警戒、そして見知らぬ大人に対する恐怖だった。
アズサ「質問に答えろ。何者だ」
先生「私は――」
ハナコ「銃を下ろしてください、アズサちゃん」
ハナコが先生の前へ立った。
両腕を広げ、アズサの射線を塞ぐ。
アズサ「ハナコ。そいつを知っているのか?」
ハナコ「はい」
コハル「誰なの?」
ハナコは振り返った。
先生はまだ床に座ったまま、信じられないものを見る目で三人を見ている。
その表情を見た瞬間、先ほどまでの熱が、胸の中から消えた。
ハナコ「この方は、先生です」
ヒフミ「……先生?」
コハル「何の先生よ」
ハナコ「私たちの先生です」
アズサ「私たちに、個人的な教師はいない」
ハナコ「シャーレの顧問です。私たちを何度も助けてくださった、連邦捜査部の――」
ハナコの言葉を遮るように、廊下から警報が鳴った。
『警告。シャーレ執務室に未登録の人物を確認。警備職員は直ちに対応してください』
先生が自分の端末を確認する。
生体認証が拒否された。
連邦捜査部シャーレの責任者欄には、何も表示されていない。
ハナコ「先生」
先生「……少し、困ったことになったね」
アロナ『少しではありません! 先生に関する認証情報が、ほぼすべて無効化されています!』
プラナ『訂正します。情報自体は残っています。しかし、先生と結びつけて認識できなくなっています』
アロナ『つまり、先生のことを忘れちゃったということですね!』
プラナ『最初からそう説明すればよかったのでは?』
アロナ『プラナちゃんは難しい言葉が好きですねえ』
プラナ『アロナ先輩が雑すぎるだけです』
警備員たちが近づいてくる足音が聞こえた。
アズサ「ハナコ。その人物から離れろ」
ハナコ「できません」
アズサ「危険かもしれない」
ハナコ「危険ではありません」
アズサ「なぜ断言できる?」
ハナコは先生の手を取った。
ハナコ「私だけは、この方を覚えているからです」
非常階段を下り、地下駐車場へ向かう。
先生はハナコに手を引かれながら、何度も後ろを振り返った。
先生「三人を置いてきてよかったのかな」
ハナコ「今は説明している時間がありません。アズサちゃんたちは、警備の方々を止めてはくださらないでしょうから」
先生「でも、あんな顔をさせたままなのは……」
ハナコ「先生」
ハナコが足を止めた。
ハナコ「今は、ご自身の安全を優先してください」
冗談も笑顔もない、強い声だった。
先生は一瞬驚き、それから小さく頷く。
先生「分かった。ハナコに従うよ」
その言葉に、ハナコの胸が跳ねた。
今、この人が頼れるのは自分だけだ。
ヒフミでも、アズサでも、コハルでもない。
数え切れないほど多くの生徒が先生を慕っていた。先生はその全員へ手を差し伸べ、誰か一人だけを選ぶことはなかった。
けれど今は。
先生「ハナコ?」
ハナコ「何でしょう?」
先生「手、痛くない?」
気づけば、先生の手を強く握っていた。
ハナコ「申し訳ありません」
先生「謝らなくていいよ。私も離れないように握っておくから」
指が重なる。
その温かさを、喜んではいけない。
分かっているのに、ハナコは手を離せなかった。
駐車場の隅に身を隠し、シッテムの箱を起動する。
先生の視界にだけ、いつもの教室が映し出された。
黒板の前では、アロナが大きな文字を書いている。
『先生をみんなが忘れちゃった事件!』
プラナ『そのままです』
アロナ『分かりやすさを重視しました!』
プラナ『原因の分析を重視してください』
アロナ『では、プラナちゃん。分析をお願いします』
プラナ『私へ丸投げしないでください』
先生「二人とも無事でよかった」
ハナコ「先生」
先生「どうしたの?」
ハナコ「先ほどから、どなたとお話しされているのでしょう?」
先生「ああ、そっか。ハナコには見えていないんだね」
ハナコに見えているのは、シッテムの箱へ話しかけている先生だけだった。
画面の向こうにいる二人の姿も、その声も認識できない。
先生「シッテムの箱の中にいる、アロナとプラナだよ。二人とも、私のことを覚えている」
ハナコ「アロナさんと、プラナさん……」
先生「うん。今は二人に、この異変を調べてもらってる」
ハナコ「申し訳ありません。私には、お二人のお姿も声も分からないようです」
先生「大丈夫。二人が話したことは、私からハナコに伝えるよ」
アロナ『もちろんです。アロナたちはシッテムの箱の中にいますから、外部の認識阻害は効きません!』
プラナ『先生に関する私たちのデータも保持されています。ただし、現在の異常信号には、ゲマトリアが使用していた術式と似た特徴があります』
先生「今の異常信号には、ゲマトリアが使っていた術式と似た特徴があるらしい」
ハナコ「ゲマトリア……」
先生「プラナは、ベアトリーチェと関係があると思う?」
プラナ『断定はできません。ただし、信号内部にアリウス由来の古い聖句と、彼女が好んでいた神秘干渉の痕跡があります』
アロナ『つまり、あの真っ赤な人の仕業ですね!』
プラナ『残滓である可能性が高い、という話です』
先生「ベアトリーチェ本人とは断定できないけど、その残滓である可能性が高いみたいだ」
ハナコ「残滓、ですか」
アロナ『でも、どうしてハナコさんだけ無事だったのでしょう?』
先生がハナコを見る。
先生「そういえば、どうしてハナコだけ無事だったんだろう」
ハナコ「心当たりがあるとすれば……」
数分前の光景が蘇る。
目隠し。
転倒。
頬が触れ、先生を抱き締めたまま、耳元で囁いていた。
ハナコ「先生と密着していたから、でしょうか」
アロナ『なるほど! 先生との接触によって、信号を受信し損ねたんですね!』
プラナ『可能性はあります。先生に接触していたことで、シッテムの箱の防御領域へ一時的に取り込まれたと考えれば説明できます』
アロナ『つまり、ハナコさんは先生に抱きついていたおかげで、先生を独り占めできたということですね!』
プラナ『どうしてその結論になるのですか』
アロナ『だって、キヴォトス中の生徒が先生を忘れたんですよ? 恋敵が一人もいません!』
プラナ『先生。今すぐアロナ先輩の音声出力を切ってください』
アロナ『プラナちゃん!?』
先生「本人には聞こえていないけど、言っていいことと悪いことがあるよ」
アロナ『すみません……』
ハナコ「何を話していらっしゃるのですか?」
先生「ええと……ハナコが私を覚えている理由について」
ハナコ「それだけですか?」
プラナ『先生。正直に伝えないのですか?』
先生「余計な混乱を増やしたくないんだよね」
アロナ『先生もハナコさんを意識しているんですね!』
プラナ『アロナ先輩』
アロナ『はい、黙ります』
ハナコは先生のわずかに泳いだ視線を見逃さなかった。
だが、追及する気にはなれない。
携帯端末には、シャーレへ不法侵入した身元不明者への注意喚起が届いていた。
添付されているのは、先生の顔写真だった。
その下には、こう書かれている。
『浦和ハナコを人質として連れ去った可能性あり』
ハナコ「どうやら私は、人質になってしまったようですね」
先生「ごめん」
ハナコ「先生が謝ることではありません」
先生「でも、ハナコまで追われることになった」
ハナコ「では、責任を取っていただけますか?」
先生「どうすればいい?」
ハナコ「私を一生、そばに置いてください」
先生は困ったように笑った。
先生「その答えは、今の状況に乗じて聞くものじゃないと思うよ」
ハナコ「……そうですね」
優しい拒絶だった。
こんな状況でも、先生は先生のままだ。
だからこそ、ハナコは笑うことができなかった。
先生「まずは、私たちを覚えていそうな人を探そう」
ハナコ「シッテムの箱の中にいらっしゃる方々以外にも、心当たりがあるのですか?」
先生「機械を介して存在している子なら、影響を受けていないかもしれない」
先生は端末の中に残っていた写真を開いた。
ゲーム開発部の部室で撮影された一枚。
モモイとミドリ、ユズ、アリス。そして先生。
写真の端には、少し不機嫌そうなケイも写っている。
先生「ミレニアムへ行こう」
ミレニアム自治区へ入るまでに、三度職務質問を受けた。
先生は身分証明ができず、ハナコの生徒証も誘拐事件の被害者として使用を停止されている。
物陰へ隠れ、巡回ドローンを避けるたび、ハナコは先生の手を引いた。
ハナコ「先生。こちらへ」
先生「うん」
ハナコ「もう少し近くへ寄ってください」
先生「見つからないためだよね?」
ハナコ「他に何があると?」
先生「ハナコの場合、確認しておいたほうがいいかなと思って」
ハナコ「お望みなら、他の理由もご用意しますよ」
ハナコは先生の腕へ身体を寄せた。
先生は離れなかった。
人目を避けるため。
それだけだ。
それだけなのに、こんな世界も悪くないという考えが、何度も胸をよぎる。
先生はハナコの名前だけを呼ぶ。
困ればハナコを見る。
進む道を尋ね、食事を分け、夜になれば同じ隠れ場所で息を潜める。
誰からのモモトークも届かない。
誰も先生を呼び出さない。
先生を独占できる世界を、ハナコは一度ならず願ったことがある。
それが叶った。
叶ってしまった。
先生「ハナコ、顔色がよくないよ」
ハナコ「少し疲れただけです」
先生「休もうか」
ハナコ「急いだほうがよいのでは?」
先生「ハナコを倒れさせてまで急ぐつもりはないよ」
先生は自動販売機で水を買おうとした。
決済端末はカードを拒絶する。
先生「あ」
ハナコ「私が購入します」
ハナコのカードも通らない。
近くにいた生徒が、不審そうに二人を見ていた。
生徒「誘拐犯……?」
ハナコは先生の手を掴み、走り出した。
ゲーム開発部の部室へ着いた頃には、二人とも息を切らしていた。
扉を開ける。
モモイ「だから、そこは回復アイテムを温存して――って、誰!?」
ミドリ「お姉ちゃん、下がって」
ユズ「ひっ……」
ミドリがモモイを庇い、ユズはロッカーへ駆け込んだ。
アリスだけが目を輝かせる。
アリス「先生!」
先生へ向かって走り、そのまま飛びついた。
先生「アリス!」
アリス「先生です! 本物の先生が、ゲーム開発部へ帰還しました!」
モモイ「えっ、知り合い!?」
ミドリ「アリスちゃん、この人は……?」
アリス「先生は先生です。アリスたちの大切な仲間です!」
続いて、奥の作業台からケイが立ち上がった。
ケイ「遅いです、先生」
先生「ケイも覚えているんだね」
ケイ「当然です。私の記憶領域へ、あの程度の粗雑な信号が干渉できるはずがありません」
アリス「ケイは朝から先生を探していました!」
ケイ「余計なことを言わなくていいです!」
ケイは先生の無事を確かめるように、頭から足元まで視線を動かした。
それからハナコを見る。
ケイ「そちらの方が先生を保護してくださったのですね」
ハナコ「浦和ハナコです」
ケイ「ありがとうございます、ハナコさん」
迷いのない感謝だった。
ハナコは返事をするまでに、わずかな時間を要した。
ハナコ「いいえ。私は、何も」
モモイ「待って、何の話? 本当にこの人が先生なの?」
ミドリ「シャーレの責任者は空席だったはずだけど……」
先生が例の写真を見せる。
モモイたちは画面を覗き込んだ。
モモイ「何これ。どうして知らない大人が私たちの写真にいるの?」
ミドリ「合成には見えないね」
ユズ「撮影日時は、私たちが新作の完成祝いをした日……」
先生「この日、モモイがケーキを切り分けて、全員分の大きさがばらばらになったんだ」
モモイ「な、なんで知ってるの!?」
先生「ミドリは一番小さいものを取ろうとした。ユズはロッカーの中で食べようとしたから、みんなで止めた」
ロッカーの扉が少し開く。
ユズ「私のことまで……」
先生「アリスが五個目の皿を用意したんだ。自分たちが四人なのに、どうしてだろうって今まで思わなかった?」
机の上には、五人分のコントローラーがあった。
壁のフックにも、使い古された来客用の椅子が一脚だけ掛けられている。
ミドリ「この椅子……誰のために?」
モモイ「写真にいるってことは、一緒にゲームしてたんだよね」
ユズ「でも、思い出せない……」
モモイは先生を見上げた。
その顔にまだ警戒はある。
けれど、最初の拒絶とは違っていた。
モモイ「アリスとケイが信じてるなら、私も信じる」
ミドリ「お姉ちゃん。簡単に決めすぎじゃない?」
モモイ「だって、アリスがこんな顔で嘘をつくと思う?」
アリスは先生の袖を握り、離れようとしない。
モモイ「それに、私たちが忘れたせいで困ってる仲間を放置するなんて、そんな展開はバッドエンドでしょ」
ミドリ「……そうだね」
ミドリは小さく息を吐いた。
ミドリ「私はまだ、あなたを先生だとは思えません。でも、何が起きたのか調べることには協力します」
ユズ「わ、私も……。写真の中の私は、この人がそばにいることを嫌がっていないから」
ケイ「結論まで時間がかかりすぎです」
モモイ「ケイは覚えてるから言えるんでしょ!」
アリス「これでパーティーが再結成されました!」
先生は安堵したように笑った。
先生「ありがとう、みんな」
その笑顔を見て、ハナコの胸が痛んだ。
味方が増えたことを、喜ぶべきだった。
先生が救われたのだから。
それなのに、自分だけを見ていた先生の目が、再び他の生徒へ向いている。
そんな当たり前のことへ、安心と寂しさを同時に覚えてしまう。
ハナコは自分の指先を見つめた。
先ほどまで握っていた先生の温もりは、もう残っていなかった。
ミレニアムのネットワークを利用し、異常信号を解析する。
信号の中心はトリニティ自治区。
だが、波形を追っていたケイの表情が険しくなった。
ケイ「まずいです。セミナーがこちらを特定しました」
モモイ「どうして!?」
ケイ「誘拐事件の容疑者と、被害者とされるハナコがミレニアムへ侵入。さらにゲーム開発部が匿っている。こういう扱いになっています」
先生「リオと話はできる?」
ケイ「向こうが話す気なら」
部室の照明が消えた。
代わりに、壁の大型モニターが起動する。
リオ『ゲーム開発部の皆さん。その人物から離れなさい』
画面に映ったリオは、先生を見ても何の反応も示さなかった。
アリス「リオ先輩。先生は敵ではありません!」
リオ『アリス。あなたの認識機能が改竄されている可能性があります』
ケイ「私の認識もですか?」
リオ『同一規格に由来する二人が、同じ偽情報を保持している。その可能性は否定できないわ』
先生「リオ。何が起きているのか、一緒に調べてほしい」
リオ『私の名前を知っているようね』
先生「私はあなたを知ってるから」
リオ『その主張自体が、あなたの危険性を示している』
ハナコ「リオさん。この方は――」
リオ『浦和ハナコ。あなたは人質ではないと主張しているようだけれど、それを証明できる客観的な根拠はないわ』
ハナコ「先生と一緒にいることを、私自身が選んでいます」
リオ『認識を操作されている人間は、自分の意思で選択していると信じるものよ』
ハナコ「では、どのような証言も無意味ですね」
リオ『そうなるわ』
ハナコ「随分と、都合のよい合理性です」
ハナコの笑顔が薄くなる。
ハナコ「自分の考えと違う言葉を、すべて操作された結果として切り捨てる。以前も、そうやって大切な方々を傷つけたのではありませんか?」
リオの目が細められた。
先生「ハナコ」
ハナコ「失礼しました」
先生「リオを傷つけるために言ったなら、よくないよ」
ハナコ「……はい」
先生はモニターへ向き直る。
先生「リオが警戒するのは当然だと思う。私には身分を証明するものがない。だから、拘束するなら抵抗しないよ」
ハナコ「先生?」
先生「ただし、ハナコたちまで拘束するのはやめてほしい」
ハナコ「何をおっしゃっているのですか」
先生「私一人で済むなら――」
ハナコ「済みません」
ハナコの声が、先生の言葉を断ち切った。
ハナコ「ご自身を差し出せば皆さんが安全になる。先生は、またそのような選び方をなさるのですか?」
先生「でも」
ハナコ「私は、それで安全になどなりません」
先生が黙る。
ハナコは胸元で手を握りしめた。
ハナコ「先生が連れていかれるのを見送って、一人で待つことを安全とは呼びません」
先生「……そうだね。ごめん」
ハナコ「謝罪ではなく、考え直していただきたいのです」
先生「分かった。一人で決めないよ」
そのやり取りを、リオは画面越しに見ていた。
リオ『交渉は決裂と判断するわ』
部室の扉が、外側から蹴り飛ばされた。
ネル「ったく、面倒くせえ仕事を押しつけやがって」
モモイ「ネル!?」
ネルが銃を肩へ担ぎ、室内を見回した。
ネル「誘拐犯ってのは、どいつだ」
先生「私らしいね」
ネル「へえ。逃げも隠れもしねえのか」
アリス「先生を攻撃してはいけません!」
ネル「先生?」
ネルは知らない単語を聞いたように眉を寄せた。
次いで、ハナコが先生の前へ立つ。
ハナコ「この方へ銃口を向けることは、私が許しません」
ネル「お前が人質だろ」
ハナコ「違います」
ネル「洗脳されてるって話だ」
ハナコ「そう見えますか?」
ハナコは先生の腕を取り、自分の胸元へ抱き寄せた。
先生「ハナコ?」
ハナコ「このように扱われて、逃げようともなさらないのですよ?」
先生「今はそういう証明をする場面じゃないと思う」
ネル「……確かに、嫌がってるようには見えねえな」
ハナコ「先生。そこはもう少し、嬉しそうにしてください」
先生「できれば離してほしいかな」
ハナコ「まあ」
ネル「ただイチャついてるだけじゃねえか!」
モモイ「大体合ってる!」
ミドリ「お姉ちゃん、適当なことを言わないで」
先生がハナコの腕から抜け出す。
一瞬だけ訪れた気の抜けた空気は、ネルが銃を構えると同時に消えた。
ネル「悪いが、会長命令だ。大人しく来てもらうぞ」
先生「ネル。私たちは戦いたくない」
ネル「だったら抵抗すんな」
先生「でも、一緒に来ている生徒たちを置いていくこともできない」
ネル「知るかよ」
ネルが床を蹴る。
銃声が響くより早く、アリスがレールガンを構えた。
ケイが増幅装置を投げる。
その中央へ、ハナコが煙幕弾を撃ち込んだ。
ケイ「今です!」
白い煙が部室を満たす。
モモイたちは裏口から逃げ、先生も続こうとした。
しかし煙の向こうから伸びた手が、先生の襟を掴む。
ネル「逃がすか!」
ハナコ「先生!」
ハナコは反射的に先生へ飛びついた。
ネルとハナコに引かれ、先生の服が悲鳴を上げる。
先生「二人とも、一度離してくれる!?」
ネル「こいつを渡せ!」
ハナコ「お断りします!」
ネル「なんでお前がそんな必死なんだよ!」
ハナコ「私の先生だからです!」
叫んだ直後、ハナコ自身が息を呑んだ。
私の先生。
それは立場を示す言葉ではない。
独占を願う、幼い本音だった。
先生も気づいたのだろう。
振り返った瞳に、驚きと心配が浮かんでいる。
その顔を直視できず、ハナコは煙幕を追加した。
どうにか廃ビルへ逃げ込んだ頃には、夜になっていた。
アリスとケイは追跡妨害のため別行動を取り、モモイたちも囮としてゲーム開発部へ戻っている。
狭い部屋にいるのは、先生とハナコだけだった。
ひび割れた窓から、ミレニアムの街明かりが見える。
先生「ハナコ。手を見せて」
ハナコ「問題ありません」
先生「さっき転んだとき、切ったよね」
ハナコ「かすり傷です」
先生「だから見せて」
先生はハナコの返事を待った。
無理に腕を取ろうとはしない。
ハナコが黙って手を差し出すと、先生は携帯用の救急用品を取り出した。
先生「少し染みるよ」
ハナコ「先生に触れていただけるなら、多少の痛みも歓迎です」
先生「我慢しなくていいからね」
ハナコ「冗談ですよ」
先生「本当に?」
ハナコは答えなかった。
先生が傷口を洗い、小さなガーゼを貼る。
指先に触れる手が、どこまでも優しい。
先生「さっきのことなんだけど」
ハナコ「何でしょう?」
先生「私の先生って言ってくれたね」
ハナコ「聞かなかったことにしてください」
先生「それでいいの?」
ハナコ「はい」
先生「私は、よくないと思う」
ハナコの肩が揺れた。
先生「ハナコがあれだけ必死になるほど何かを抱えているなら、なかったことにはしたくない」
ハナコ「先生は、皆さんの先生ですからね」
先生「うん」
ハナコ「そのような方に、私だけの先生でいてほしいなどと願うのは、間違っています」
先生「願うことまで間違いだとは思わないよ」
ハナコ「では、叶えてくださいますか?」
先生の手が止まる。
ハナコ「このまま、誰にも思い出されず、私と二人で暮らしてくださいますか?」
先生「それはできない」
ハナコ「そうでしょうね」
先生「でも、ハナコの気持ちを否定したわけじゃない」
ハナコ「同じことです」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
ハナコは貼られたばかりのガーゼを隠すように手を握る。
ハナコ「先生は優しいですね。私がどのようなことを言っても、傷つけない答えを探してくださる」
先生「傷つけたくないと思ってるから」
ハナコ「それは私だからですか?」
先生はすぐに答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ハナコ「生徒だから、でしょう?」
先生「……今は、そういう立場も含めて答えるしかないよ」
ハナコ「よく分かりました」
ハナコは立ち上がった。
先生「どこへ行くの?」
ハナコ「見張りです」
先生「少し休んだほうがいい」
ハナコ「私は平気です」
先生「平気な顔には見えないよ」
ハナコ「先生は私のことを、よく見ていらっしゃるのですね」
ようやく笑えた。
普段どおりの、何も悟らせない笑顔。
ハナコ「ですが、それも生徒だからでしょう?」
廃ビルの屋上へ出る。
扉を閉めた瞬間、笑顔が消えた。
冷たい風が頬を撫でる。
ハナコは端末を取り出し、ヒフミへ電話をかけた。
何度目かの呼び出し音のあと、声が聞こえる。
ヒフミ『はい。どちらさまでしょうか?』
ハナコ「ヒフミちゃん」
ヒフミ『ハナコさん? よかった、無事だったんですね!』
ハナコの胸に、小さな希望が灯る。
ハナコ「私のことは、覚えていますか?」
ヒフミ『もちろんです。補習授業部の仲間ですから』
ハナコ「では、先生のことは?」
電話の向こうで沈黙があった。
ヒフミ『その人が、ハナコさんを連れ去った方なんですか?』
ハナコ「違います」
ヒフミ『戻ってきてください。アズサちゃんもコハルちゃんも心配しています』
ハナコ「先生も一緒に、ですか?」
ヒフミ『……その人を、先生と呼ぶのはどうしてですか?』
ヒフミの声には、理解できないものへ触れる恐怖があった。
ハナコ「以前、ヒフミちゃんは言いました。どこにいても、私たちは仲間だと」
ヒフミ『はい。今もそう思っています』
ハナコ「先生のことも、そう言ってくださいました」
ヒフミ『ごめんなさい。知らない人のことを、仲間だとは……』
ハナコは手すりを握った。
仕方のないことだ。
ヒフミは悪くない。
それでも、先生が知らない人と呼ばれたことに、胸が締めつけられた。
ハナコ「分かりました」
ヒフミ『ハナコさん。帰ってきてくれますよね?』
ハナコ「はい。先生を連れて、必ず帰ります」
ヒフミ『その人から離れてください!』
電話を切った。
画面へ、一滴の水が落ちた。
雨は降っていない。
ハナコ「どうして泣くのですか」
誰も見ていないのに、笑おうとする。
ハナコ「望んだとおりではありませんか」
先生が自分だけを頼っている。
誰にも奪われない。
モモトークも、仕事の依頼も、他の生徒との約束もない。
この世界で先生の隣に立てるのは、自分だけ。
ハナコ「幸せなはずでしょう?」
答える者はいなかった。
翌朝、ゲーム開発部から解析結果が届いた。
信号は、人間の記憶そのものを消したわけではない。
先生へ繋がる認識に、「存在しない」という上書きを行い続けている。
写真や記録を見ても、記憶の空白を不自然だと感じられない。
信号の発信源は、トリニティ地下に残されたアリウスの旧施設だった。
さらに、リオから接触があった。
リオ『話があるわ』
端末の画面に映るリオの顔には、昨日までの敵意がなかった。
先生「ネルは無事?」
リオ『あなたは、まず自分を追跡した生徒の心配をするのね』
先生「ネルは命令に従っただけだから」
リオ『彼女なら無事よ。あなたが彼女を傷つけないよう指示していたことも、監視記録で確認したわ』
ハナコ「私たちを信じてくださるのですか?」
リオ『いいえ。まだ信頼はしていない。ただ、私の判断に矛盾が見つかった』
リオが複数の記録を表示する。
リオ『ミレニアムの危機対応記録には、意思決定者の存在しない命令が大量に残っていた。ゲーム開発部にも、不明な大人を受け入れていた痕跡がある。ケイとアリスの記憶を改竄と仮定した場合、あまりにも範囲が限定的すぎる』
先生「私が元々いたと考えたほうが、合理的?」
リオ『そうなるわ』
ハナコ「疑ったことを、謝罪なさらないのですね」
リオ『謝罪するわ』
即答だった。
リオ『先生。私はあなたを脅威と断定し、排除しようとした。申し訳ない』
先生「うん。正直、怖かったよ」
リオ『……そう』
先生「でも、考え直してくれてありがとう。今はそれで十分だと思う」
リオ『私を許すの?』
先生「許すかどうかは、全部が終わってから一緒に考えよう。今は手伝ってほしい」
リオは目を伏せた。
リオ『分かったわ』
先生が画面から離れたあと、リオはハナコへ視線を向ける。
リオ『ハナコ。あなたに確認したいことがある』
ハナコ「何でしょう?」
リオ『先生を取り戻すためには、記憶疎外を破壊しなければならない』
ハナコ「当然です」
リオ『そうすれば、先生は再び全キヴォトスの先生になる』
ハナコの笑顔が止まる。
リオ『あなた一人だけを頼ることはなくなるわ』
ハナコ「……何がおっしゃりたいのですか?」
リオ『あなたが、妨害する可能性を計算から除外できない』
ハナコは言葉を失った。
その反応を、リオは見逃さない。
リオ『先生を独占できる現在の状況は、あなたにとって利益がある』
ハナコ「私は先生を救うために、ここまで来ました」
リオ『それは事実でしょうね。けれど、相反する感情は同時に存在できる』
ハナコ「私が、皆さんの記憶が戻らないことを望んでいると?」
リオ『一度も望まなかったと断言できる?』
できなかった。
廃ビルの隅で眠る先生。
自分の名だけを呼ぶ声。
手を差し出せば、迷わず握り返してくれた。
あの時間が永遠に続けばいいと、確かに願った。
リオ『沈黙を肯定と解釈するわ』
ハナコ「……随分と、意地の悪い方ですね」
リオ『あなたから言われるとは思わなかった』
ハナコ「先生へ伝えるおつもりですか?」
リオ『いいえ。感情は罪ではない。それを理由に行動を歪めない限りは』
ハナコ「私は歪めないと、信じるのですか?」
リオ『それを選ぶのは、あなたよ』
通信が切れる。
ハナコは暗くなった画面へ、自分の顔が映っていることに気づいた。
ひどく疲れた顔だった。
旧施設へ向かうため、トリニティへ戻る。
だが自治区の境界には、ティーパーティーの部隊が展開していた。
中央に立つナギサの隣には、ヒフミ、アズサ、コハルもいる。
ナギサ「浦和ハナコさん。その方から離れてください」
ハナコ「先生です」
ナギサ「その呼称は、あなたの主張にすぎません」
先生「ナギサ。無理もないと思うけど、少しだけ話を聞いてほしい」
ナギサ「私の名前を気安く呼ばないでください」
ナギサの声は穏やかだった。
しかし、銃口は真っ直ぐ先生へ向けられている。
ナギサ「あなたがトリニティの機密情報を知っていることは把握しています。ハナコさんの認識へ干渉し、各学園を混乱させた容疑もある」
先生「私は誰も傷つけたくない」
ナギサ「それを証明できますか?」
先生「今はできない」
ナギサ「でしたら、投降してください」
ハナコ「お断りします」
ハナコが一歩前へ出た。
ナギサ「ハナコさん。冷静になってください」
ハナコ「私は冷静です」
コハル「そんなわけないでしょ! 知らない大人のために、ここまでして!」
ハナコ「コハルちゃん」
コハル「その人に何をされたの!?」
ハナコ「私を、何度も助けてくださいました」
コハル「だから覚えてないって言ってるでしょ!」
ハナコ「覚えていなくても、残っているものがあるはずです」
ハナコは鞄から、一冊の問題集を取り出した。
表紙は何度も開かれ、端が擦り切れている。
ハナコ「コハルちゃん。この書き込みを見てください」
コハル「何よ」
余白には、柔らかな字で解法の手順が書かれていた。
『ここまでは合ってる。焦らなくて大丈夫』
『前よりずっとよくなったね』
『間違えても、一緒に直せばいいよ』
コハル「これ……」
ハナコ「先生の字です」
コハル「知らない」
ハナコ「では、どうして捨てなかったのですか?」
コハルは答えられなかった。
問題集を持つ指が震えている。
ハナコはアズサを見る。
ハナコ「アズサちゃん。先生を撃つのですか?」
アズサ「必要なら」
ハナコ「本当に?」
アズサ「……任務なら」
ハナコ「先生の胸へ照準を合わせてから、一度も引き金へ指をかけていませんね」
アズサの瞳が揺れる。
ハナコ「身体が覚えているのではありませんか? この方を撃ってはいけないと」
アズサ「違う。まだ敵だと確定していないだけだ」
ハナコ「それで結構です。ならば、確かめるまで待ってください」
最後に、ヒフミを見る。
電話の向こうで先生を知らない人と呼んだ、大切な友人。
ハナコ「ヒフミちゃん。覚えていませんか?」
ヒフミ「ごめんなさい」
ハナコ「先生と初めて会った日のことも?」
ヒフミ「分かりません」
ハナコ「一緒に戦ったことも?」
ヒフミ「思い出せません」
ハナコ「私が先生へ、困らせるようなことばかり申し上げていたことも?」
ヒフミ「それは……」
ヒフミの眉が寄る。
忘れているはずの光景を探すように、目を閉じる。
ヒフミ「なぜか、ハナコさんを止めなくてはいけない気がします」
ハナコ「はい。いつも止めてくださいました」
ヒフミ「その方が、困った顔で笑っているところを……見たことがあるような……」
先生が、いつものように困った笑みを浮かべる。
先生「ハナコには、よく驚かされたからね」
ヒフミの目から涙が落ちた。
ヒフミ「どうして……知らない方なのに……」
ハナコ「知らない方ではありません」
ハナコは手を差し出した。
ハナコ「私を信じてください、ヒフミちゃん」
ヒフミ「ハナコさんを……?」
ハナコ「はい。先生を信じられなくても、私を」
長い沈黙のあと、ヒフミが一歩前へ出た。
ナギサが止めるより先に、ハナコの手を握る。
ヒフミ「私は、ハナコさんを信じます」
コハル「ヒフミ!」
ヒフミ「この方を先生だとは、まだ思えません。でも、ハナコさんが誰かを守るために、こんな顔をすることは知っています」
ハナコ「私は、どのような顔を?」
ヒフミ「今にも泣きそうなのに、泣いてはいけないと思っている顔です」
ハナコは笑おうとした。
口元が震え、うまく上がらない。
コハル「……最低」
コハルが問題集を抱え、ハナコの隣へ来た。
コハル「そこまで言われたら、私たちが薄情みたいじゃない」
アズサ「敵だと確定するまで、攻撃は保留する」
アズサも銃を下ろす。
ナギサは三人を見つめ、深く息を吐いた。
ナギサ「補習授業部全員が同じ判断をするのですね」
ハナコ「はい」
ナギサ「浦和ハナコさん。あなたが責任を負えますか?」
先生「それは違うよ」
先生がハナコの隣に立つ。
先生「私の存在を証明する責任を、ハナコ一人へ押しつけないでほしい。ハナコは十分すぎるほど、私を守ってくれた」
ナギサ「しかし」
先生「私も責任を負う。ゲーム開発部も、リオも協力してくれている。だから、私たち全員の判断として扱ってほしい」
ナギサは先生の目を見る。
しばらくして、銃を下ろした。
ナギサ「旧施設まで同行します。ただし、完全に信用したわけではありません」
先生「それでいいよ。ありがとう」
旧施設の最深部には、赤黒い花が咲いていた。
無数のケーブルと古い聖堂の祭壇が絡み合い、その中央で巨大な赤い影が脈打っている。
リオとゲーム開発部が、遠隔で封鎖装置を起動する。
アリスとケイは先生たちと共に地下へ降りてきていた。
アリス「魔王の城へ到着しました!」
ケイ「油断しないでください。これはゲームではありません」
アリス「ですが、仲間と共に悪を倒す冒険です!」
ケイ「……その点は否定しません」
先生が祭壇へ近づく。
赤い影から、女の笑い声が聞こえた。
残滓『ああ……ようやく辿り着きましたね』
ハナコ「ベアトリーチェ」
残滓『その名は、もはや器の名にすぎません。私は彼女が残した憎悪。あの方を消し去りたいという、最後の祈り』
先生「どうして生徒たちの記憶を奪った?」
残滓『あなたを先生たらしめるものは、生徒との繋がり。ならば、すべての生徒からあなたを消せばよい』
赤い光が揺れる。
残滓『誰にも必要とされず、誰にも名前を呼ばれず、何者にもなれないまま消えていく。それこそ、あなたにふさわしい終わり』
先生「ハナコが覚えていたのは、誤算だったんだね」
残滓『ええ。そこの少女が、破廉恥にもあなたへ密着していなければ』
コハル「破廉恥!?」
ハナコ「今、そこを気にする場面ですか?」
アズサ「重要な因果関係だ」
ヒフミ「アズサちゃん、真面目に分析しなくても……」
残滓『ですが、結果はより美しくなった』
赤い光がハナコへ伸びる。
先生が前へ出ようとするが、ハナコは腕で制した。
残滓『少女。あなたは幸福だったでしょう?』
ハナコ「何を」
残滓『誰も彼を覚えていない。彼が頼れるのは、あなただけ。彼の視線も、声も、触れる手も、すべてあなたのもの』
ハナコ「黙ってください」
残滓『望んでいたはずです』
ハナコ「違います」
残滓『ならば、なぜ笑っていたのです?』
廃ビルで先生と二人きりだった夜。
誰にも邪魔されず、手当てを受けていた時間。
先生に名を呼ばれるたび、胸の奥で喜んでいた。
残滓『あなたは、この異常が永遠に続けばよいと願った』
ハナコ「違う」
残滓『一度も願わなかったと言えますか?』
リオと同じ問い。
ハナコは答えられなかった。
ヒフミたちの視線が集まる。
先生だけには、知られたくなかった。
残滓『皆へ記憶を返せば、彼は再びあなた以外を見ます』
ハナコ「……分かっています」
残滓『朝から夜まで、数え切れない生徒が彼を求める。あなたの悩みへ耳を傾ける時間も、別の誰かへ分け与えられる』
ハナコ「分かっています」
残滓『あなたは特別ではなくなる』
ハナコの唇が震えた。
先生へ見つけてほしかった。
誰にも見せない本心を言葉にする前に、気づいてほしかった。
数え切れない生徒の一人ではなく、先生の心に残る、ただ一人になりたかった。
残滓『選びなさい』
祭壇の前に、二つの光景が浮かぶ。
一つは、元に戻ったキヴォトス。
先生は大勢の生徒に囲まれ、忙しそうに笑っている。ハナコはその輪の端にいる。
もう一つは、誰にも追われない静かな街。
先生の隣には、ハナコしかいない。
残滓『あなたが口を閉ざせば、この世界は完成する』
先生「ハナコ」
残滓『彼を独占できます』
先生「聞かなくていい」
ハナコが振り返る。
先生は赤い光を見ず、ハナコだけを見ていた。
先生「そんな選択を、ハナコ一人にさせるつもりはない」
残滓『あなたに決定権はありません。この少女こそ、記憶を繋ぎ止める最後の証人』
先生「それでもだよ」
先生はハナコの前へ立った。
先生「私は、ハナコに自分を犠牲にしてほしくない。みんなのために気持ちを捨てろとも言わない」
ハナコ「では、どうすればよいのですか?」
先生「分からない」
ハナコ「先生にも分からないのですか?」
先生「うん」
先生は迷いなく認めた。
先生「ハナコがどう選んでも、傷つくものがある。だから、簡単な正解なんて私には言えない」
ハナコ「私は、先生を独占したいと願いました」
先生「うん」
ハナコ「皆さんが先生を忘れたと知ったとき……悲しいより先に、嬉しいと思ってしまいました」
ヒフミたちの前で、本音がこぼれる。
ハナコ「先生が私だけを頼ってくださったことが嬉しかった。私の名前だけを呼び、私の手を握ってくださった。このままでもよいと、何度も思いました」
コハルが目を伏せる。
アズサは黙って聞いている。
ヒフミはハナコの言葉を否定しなかった。
ハナコ「最低でしょう?」
先生「そうは思わないよ」
ハナコ「どうしてですか!」
ハナコの声が、地下聖堂へ響いた。
ハナコ「先生が苦しんでいたのに! 皆さんとの繋がりを奪われていたのに! 私は、その隣で幸せだと思ったのですよ!」
先生「それでも、ハナコは私を連れてここまで来てくれた」
ハナコ「それは……」
先生「独占したい気持ちがあっても、私が大切にしていたものを取り戻そうとしてくれた」
ハナコ「私がよい生徒だから、ですか?」
先生「違う」
先生は首を横に振った。
先生「ハナコが、自分でそう選び続けたからだよ」
ハナコの目から涙が落ちた。
先生「迷わなかったから価値があるんじゃない。迷って、嫌だと思って、それでもここまで一緒に来てくれた。その選択を、私は大切にしたい」
ハナコ「記憶が戻れば、先生はまた皆さんのところへ行ってしまいます」
先生「うん」
ハナコ「私だけを見てはくださらない」
先生「ハナコだけを見るとは約束できない」
先生は、嘘をつかなかった。
先生「でも、ハナコを見なくなるわけじゃない」
ハナコ「同じではありません」
先生「同じじゃないよ」
先生が手を差し出す。
先生「だから、寂しいときは寂しいと言ってほしい。独占したいと思ったなら、それも聞かせてほしい。全部を叶えることはできなくても、なかったことにはしないから」
ハナコは手を見つめた。
この手を取れば、二人きりの世界は終わる。
先生はまた、手の届かないところへ行く。
困っている生徒の名を呼び、泣いている誰かの隣に立つ。
それが先生だ。
その人を好きになったのは、自分だった。
ハナコ「……ずるい方ですね」
先生「そうかもしれない」
ハナコ「私が、先生を嫌いになれないと分かっていらっしゃる」
先生「そこまでは自信がないかな」
ハナコ「……先生は、いわゆる『クソボケ』というものですね」
先生「ハナコからそんな言葉を聞くとは思わなかったな」
シッテムの箱の中で、アロナが大きく頷いた。
アロナ『そうです! 先生はクソボケです!』
プラナ『アロナ先輩が同意する側ではありません。主にあなたのことです』
アロナ『えっ?』
プラナ『先ほどまで、ハナコさんは先生を独占できて幸せなのでは、と言っていたではありませんか』
アロナ『だって恋敵ゼロですよ?』
プラナ『アロナ先輩には、人の心への配慮というものがないのですか?』
アロナ『AIですから!』
プラナ『そういう意味ではありません』
先生が小さく吹き出した。
ハナコ「この状況で、何を笑っていらっしゃるのですか?」
先生「ごめん。シッテムの箱の中の二人が、いつもどおりで」
ハナコ「私には聞こえない会話で笑わないでください」
先生「それもそうだね」
ハナコは先生の手を取った。
そして、ヒフミたちを見る。
ハナコ「ヒフミちゃん。アズサちゃん。コハルちゃん」
ヒフミ「はい」
ハナコ「私は、皆さんに先生を返したくないと思っています」
コハル「正直すぎない!?」
ハナコ「ですが、皆さんが先生を忘れたままでいることは、もっと嫌です」
アズサ「なら、私たちも戦う」
ハナコ「先生を取り戻せば、私の独占ではなくなりますよ?」
ヒフミ「先生が誰かの所有物だったことは、一度もありません」
ハナコ「厳しいですね、ヒフミちゃん」
ヒフミ「でも」
ヒフミがハナコの空いている手を握った。
ヒフミ「先生の隣にいたいと思うハナコさんを、私たちが追い出すこともありません」
コハル「変なことをしなければね!」
アズサ「ハナコが先生の警護を担当することには、合理性がある」
コハル「警護の話じゃないでしょ!」
ハナコは泣きながら笑った。
今度の笑顔は、何かを隠すためのものではなかった。
赤い影へ向き直る。
ハナコ「お聞きになりましたか?」
残滓『愚かな』
ハナコ「そうかもしれません」
残滓『幸福を捨てるのですか?』
ハナコ「いいえ」
ハナコは先生の手を強く握る。
ハナコ「私は、幸せになりたいのです」
残滓『ならば彼を選びなさい』
ハナコ「選びます」
赤い影が歓喜するように膨らむ。
ハナコは続けた。
ハナコ「私だけの先生ではなく、皆さんの先生である、この方を」
赤い光に亀裂が走る。
残滓『なぜ』
ハナコ「先生が先生でなくなれば、たとえ隣にいてくださっても、私が好きになった方ではありませんから」
ハナコの言葉へ呼応し、シッテムの箱が青い光を放った。
プラナ『記憶疎外信号の反転を確認』
アロナ『先生! 今なら上書きできます!』
二人の声は先生にしか届かない。
けれど、シッテムの箱からあふれる青い光は、ハナコたちにも見えていた。
先生「みんな、力を貸して!」
アリス「はい! 最終決戦です!」
ケイ「増幅装置、最大出力!」
アリスのレールガンが祭壇を撃ち抜く。
ケイの装置が青い光を拡張し、赤黒い花を包み込んだ。
遠隔接続されたリオの演算が術式を分解する。
リオ『認識情報の経路を特定。記憶の再接続を開始するわ』
ナギサ「トリニティの防衛部隊は、地下施設の崩壊に備えてください!」
アズサ「先生の退路を確保する!」
コハル「ハナコ! 先生を絶対に離すんじゃないわよ!」
ハナコ「ええ。言われなくても、そのつもりです」
赤い影から、無数の手が伸びる。
先生へ向かう手を、補習授業部が撃ち落とす。
祭壇が崩れ、地下全体が大きく揺れた。
残滓『また、あなたは……私から、すべてを……!』
先生「違うよ」
先生は崩れていく影へ向け、静かに告げる。
先生「奪ったんじゃない。ハナコたちが、自分で選んだんだ」
残滓『先生……!』
赤い花が砕けた。
光が地下聖堂を満たす。
ハナコは先生の手を離さなかった。
けれど、一瞬だけ怖くなった。
記憶が戻れば、この手を最初に離すのは先生かもしれない。
また誰かの名前を呼んで、自分の隣から去っていくのかもしれない。
光の中で、先生の指が強く握り返した。
先生「大丈夫。離さないよ」
ハナコ「……聞こえていたのですか?」
先生「顔に書いてあった」
ハナコ「先生は、私のことをよく見ていらっしゃるのですね」
先生「ハナコだからね」
その言葉を聞いた直後、世界が白く染まった。
ハナコが目を覚ましたとき、シャーレの医務室にいた。
隣のベッドでは先生が眠っている。
椅子にはヒフミ、アズサ、コハルが座っていた。
ハナコ「皆さん……」
ヒフミ「ハナコさん!」
ヒフミが立ち上がり、ハナコへ抱きつく。
ヒフミ「ごめんなさい! 先生のことを忘れて、知らない人だなんて……!」
ハナコ「思い出したのですか?」
アズサ「ああ。すべてではないが、主要な記憶は戻った」
コハル「先生を不審者扱いして、銃まで向けたなんて……最低……」
ハナコ「仕方がありません。皆さんの意思ではなかったのですから」
コハル「でも」
先生「ハナコの言うとおりだよ」
隣のベッドから声がした。
先生がゆっくりと身体を起こす。
ヒフミ「先生!」
アズサ「まだ動かないほうがいい」
コハル「救護騎士団を呼んでくる!」
全員が先生の周囲へ集まる。
ハナコはベッドの上から、その光景を見ていた。
先生の名前を呼ぶ声。
先生を心配する手。
戻ってきた、正しい世界。
胸の奥が温かくなる。
同時に、空席になった自分の隣が、ひどく寒く感じられた。
先生がハナコを見る。
先生「ハナコも、こっちへ来る?」
ハナコ「皆さんがいらっしゃいますから」
先生「でも、ハナコは来てくれないの?」
ヒフミたちが一斉に振り返る。
ハナコは目を瞬いた。
ハナコ「……よろしいのですか?」
先生「もちろん」
ハナコはベッドから下りた。
先生のそばへ近づくと、コハルが少しだけ場所を空ける。
コハル「変なことしたら追い出すからね」
ハナコ「善処します」
コハル「しない気でしょ!」
先生を囲む輪へ、ハナコも加わる。
独占ではない。
自分だけへ向けられる温もりではない。
それでも、確かにここは自分の居場所だった。
数日後。
記憶疎外事件は、ゲマトリア残党による大規模認識災害として処理された。
先生に関する記録も、シャーレの権限も復旧した。
朝から執務室には大勢の生徒が訪れ、先生は以前と変わらず忙しそうに働いている。
ハナコが扉を開けると、先生は山積みの書類から顔を上げた。
先生「おはよう、ハナコ」
ハナコ「おはようございます、先生」
先生「今日は補習授業部の活動日だっけ?」
ハナコ「いいえ。本日は個人的な訪問です」
先生「何か相談?」
ハナコ「先生の肩が、再び凝っていらっしゃるのではないかと思いまして」
先生「また目隠しから始めるの?」
ハナコ「お望みですか?」
先生「普通の肩揉みでお願いしたいかな」
ハナコは先生の背後へ回る。
目隠しはせず、肩へ両手を置いた。
ハナコ「先生」
先生「うん?」
ハナコ「皆さんに忘れられていた間のことは、どこまで覚えていらっしゃいますか?」
先生「全部だと思う」
ハナコ「私が申し上げたことも?」
先生「全部」
ハナコの指が止まる。
ハナコ「忘れていただけませんか?」
先生「忘れないよ」
ハナコ「私が先生を独占したいと願ったことも?」
先生「うん」
ハナコ「最低なことを考えたことも?」
先生「それも含めて、忘れない」
先生は椅子に座ったまま、ハナコを見上げた。
先生「ハナコだけが私を覚えていてくれた」
ハナコ「偶然です」
先生「それでも、ハナコが私を先生でいさせてくれた」
先生は机の引き出しから、写真を一枚取り出す。
事件のあと、ゲーム開発部と補習授業部で撮影した集合写真だった。
中央に先生。
周囲にはヒフミ、アズサ、コハル、アリス、ケイ、モモイ、ミドリ、ユズ。
少し離れたところにリオとナギサまで写っている。
ハナコは先生のすぐ隣に立っていた。
先生「みんなが私を思い出したことは嬉しい」
ハナコ「はい」
先生「でも、誰も覚えていない世界を一緒に歩いたのは、ハナコだけだ」
先生は写真の裏側を見せる。
そこには、先生の字で一文が書かれていた。
『この世界で、もう一度私を先生にしてくれた人へ』
先生「これは、ハナコだけの記憶だよ」
独占ではない。
先生はこれからも、すべての生徒の先生であり続ける。
それでも、誰にも分けられない時間がある。
先生とハナコだけが知っている、失われなかった記憶。
ハナコは写真を胸元へ抱いた。
ハナコ「先生」
先生「うん」
ハナコ「以前、寂しいときは寂しいと言うように、とおっしゃいましたね」
先生「言ったね」
ハナコ「今、とても寂しいです」
先生「そうだったんだね」
ハナコ「先生を独占したいです」
先生「うん」
ハナコ「私だけを見ていただきたいです」
先生「うん」
ハナコ「そこまで聞いたのなら、少しは慌ててくださらないと困ります」
先生「ちゃんと慌ててるよ」
ハナコ「表情に出ていません」
先生「ハナコみたいに上手く隠せるようになったのかも」
ハナコ「まあ。私の悪いところまで覚えてくださったのですね」
先生「忘れないって約束したから」
先生はハナコへ手を差し出した。
先生「今日の仕事が終わったら、一緒に帰ろうか」
ハナコ「二人きりで?」
先生「途中まではね」
ハナコ「途中からは?」
先生「補習授業部のみんなと合流する予定なんだ」
ハナコは一瞬だけ頬を膨らませた。
ハナコ「減点です」
先生「厳しいね」
ハナコ「ですが、仕方ありません」
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
ハナコ「先生が皆さんの先生であることを、私は好きになってしまいましたから」
先生「ありがとう」
ハナコ「ただし」
ハナコは身を屈め、先生の耳元へ唇を寄せた。
あの日と同じ距離。
今度は転んだわけでも、信号から逃れるためでもない。
ハナコ「誰にも忘れられないくらい、先生の中を私でいっぱいにすることは諦めていませんよ」
先生「それは少し困るかな」
ハナコ「少し、ですか?」
先生「少しだけね」
ハナコは満足そうに微笑んだ。
色ボケた冗談で本心を隠していたハナコ。
先生を守るため、誰より真剣になったハナコ。
自分だけの幸福を望み、その願いに曇ったハナコ。
そして今は。
ハナコ「でしたら、覚悟してくださいね」
願うことを恥じず、言葉にすることを恐れない。
少しだけ、わがままなハナコだった。