ポケモン協会コーディネーター 〜カントー編〜 作:11,111
クチバシティは、常に潮風と重油の匂いが満ちている街だ。
潮の香りに混ざって漂う、かすかな薬品の臭気。アルバンは港湾エリアの警備フェンスの前に立ち、煙草の煙を吐き出した。
目指す第三埠頭の大型コンテナターミナルは、高い鉄柵と最新鋭の監視カメラ、そして訓練された警備員たちによって厳重に封鎖されていた。警察のパトカーすら、この敷地内に入るには事前の申請と複雑な手続きを要求される。元軍人であるジムリーダー、マチスの私有地も同然の場所だからだ。
「……止まれ。ここは協会の人間がフラフラ入っていい場所じゃないぞ」
低く重みのある声とともに、大型のジープが目の前に滑り込んできた。
助手席から降りてきたのは、米軍規格の戦闘服に身を包んだ巨漢——マチスだ。その腕には鍛え上げられたライチュウが這い上がり、鋭い電気火花をバチバチと散らしている。
「クチバ港の警備責任者、マチス少佐だな」
アルバンはポケットに手を突っ込んだまま、静かに向き直った。
「用件なら手短に聞こうか、役人さん。うちは治安維持法に基づく独自の警備権限を持っている。警察の捜査差押許可状もないような泥棒猫に、見せるコンテナなんか一つもないが?」
マチスの眼光は鋭い。協会の看板など端から意に介していない態度だ。
「ハナダで摘発された密猟組織の残党を追っている。……彼らが使っていた軍用麻酔と、シルフ社の未承認薬品。その搬入ルートが、昨夜この第三埠頭に接岸した貨物船『サント・アンヌ号』のコンテナ名簿と一致した」
「だから何だ?」
マチスは鼻で笑った。
「うちは毎日何千というコンテナを扱っている。書類に不備がなければ通す、それが港のルールだ。中身に怪しい薬品が入っていようが、それは税関とシルフカンパニーの間の問題でね。うちの警備網に落ち度があったと言いたいのか?」
「落ち度を責めに来たわけじゃないさ」
アルバンは冷めた目で見つめ返す。
「あんたの自慢の警備網の『下』を潜って、ロケット団が勝手にヤバいブツを運び込んでいると言いたいんだ。軍人さんの庭が、犯罪組織に使われてる。……プライドが痛まないか?」
マチスの目つきが一変した。ライチュウの頬の電気袋から、バチッと高い放電音が鳴る。
「……口の減らない男だ。言っておくがな、協会のトラブル解決屋。ここは戦場上がりの男たちが守っている領地だ。勝手に嗅ぎ回るなら、事故に見せかけて海に沈んでも文句は言えんぞ」
「威嚇は結構。脅しに屈するくらいなら、最初からこの仕事は受けてない」
アルバンは踵を返し、港の出入口へと歩き出した。
マチスが協力を拒絶することは想定内だった。これでハッキリした。マチスが自ら裏取引に関与しているにせよ、あるいは自分のプライドから不祥事を隠蔽しようとしているにせよ——正面からの捜査は不可能だということだ。
「……行くぞ、フシギバナ。今夜は夜釣りと決め込もう」
影からアルバンに付き従う巨大な相棒が、低く喉を鳴らした。
深夜二時。クチバ港は静寂に包まれていた。時折、波が埠頭を叩く音と、遠くの巡視船のライトが海面を照らすだけだ。
アルバンは第三埠頭の西側、海に面した暗がりに潜んでいた。
マチスの警備隊が陸上の監視を固めているなら、侵入ルートは「海」しかない。
「……頼むぞ、ラプラス」
冷たい海水の中から、巨大な青い頭部が滑らかに浮上した。ラプラスの吐き出す冷気が、微かな『しろいきり』となって周囲の海面を包み込む。監視カメラの赤外線センサーと視界を物理的に遮断するための、静かな環境工作だ。
アルバンはラプラスの背に乗り、コンテナ船の陰へと滑り込んだ。
クレーンで吊り上げられようとしている特定のコンテナ——シルフカンパニーのロゴが印字された大型スチール箱。その周囲に集まっているのは、マチスの警備兵ではなく、黒い作業服を着た男たちだった。
(……やはりな。マチスの警備の目が届かない深夜のシフト狙いか)
男たちが手慣れた手つきでコンテナの封印を焼き切り、中から特殊な保温ケースを引き出そうとしたその時——
ドドン!
突如として、港の反対側(第一埠頭)で激しい爆発音が響き渡った。夜空が真紅に染まり、けたたましいサイレンが鳴り響く。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
「第一埠頭の燃料庫が爆破されたぞ! 警備隊が全員そっちへ向かってる!」
ロケット団の作業員たちがパニックに陥る。
アルバンは遠くの炎を見つめながら、頭を抱えた。
「……カメックスの『ハイドロポンプ』と、リザードンの『かえんほうしゃ』か。あいつら、今度はクチバで鉢合わせたのか」
グリーンが港の闇ルートを追い詰め、そこにレッドが突っ込んで派手な戦闘に発展したのだろう。結果として、クチバ港の警備網全体がパニックに陥り、マチス以下の警備隊も全員が第一埠頭の火災現場へ急行していく。
「……台風の巻き起こす混乱を利用させてもらうとするか」
アルバンはラプラスから降り立ち、フシギバナを呼び出した。
「フシギバナ、『ねむりごな』。蔓で男たちを固定しろ。音を立てるな」
暗闇から伸びた太い蔓が、パニックになる作業員たちの首と手足を一瞬で捕縛。間髪入れずに放たれた青白い胞子が、男たちの意識を静かに刈り取った。銃声一発、悲鳴一つ上げさせない完璧な現場制圧。
アルバンは倒れた男たちの間を通り抜け、開け放たれたコンテナの奥へと足を踏み入れた。
保温ケースの中に整然と並べられていたのは、怪しい薬品だけではない。
黒いアタッシュケースの中に、厳重にロックされた「通信端末」と「暗号化ディスク」が入っていた。
端末の画面を操作すると、受信トレイに一通の未読メッセージが残されていた。
『送信者:不明(暗号化回線)』
『件名:処理の代行について』
『本文:協会コーディネーター・アルバンへ。ハナダの件は見事だった。クチバのコンテナ内にあるデータは持ち去ることを許可する。ただし、そこに記載されているヤマブキの地下アクセスコードは、速やかに利用されたし。我々の「不要な実験体」が暴走する前に。』
アルバンは画面を見つめたまま、苦い煙草を噛み潰した。
「これは……サカキなのか」
トキワジムのリーダー。その傍らでロケット団にも関与しているという話は実しやかに囁かれている。
誰にしろアルバンがここに辿り着くことを知っていた。そして自分たちの手に負えなくなりつつある「シルフとの共同研究」の不始末を、いちコーディネーターに処理させようと裏で糸を引いているのだ。
「毒と知りながら、乗るしかないか……」
アルバンはディスクを回収し、暗闇の中に消えていくラプラスとフシギバナをボールに戻した。
遠くでマチスの怒号と火災の爆発音が響く中、アルバンは未承認薬物など証拠品の回収を進めていく。
爆煙と警報が遠ざかるクチバの旧街道沿い。潮風に混ざる焦げ臭さを背に受けながら、アルバンは暗がりの中で足をとめた。
街灯の途切れた資材置き場の陰。冷えたコンクリートの壁に背を預け、荒い息を吐いている男がいた。
逆立った髪。グリーンだ。
その足元には、彼が強襲したロケット団の男から奪い取ったであろう、小型のアルミケースが転がっていた。留め具が外れ、中から見えているのは——シルフ社が密造した未承認の神経拡張剤と、ポケモンの潜在能力を強引に引き出す高濃度のドーピング製剤。
グリーンの右手が、わずかに震えながらそのアンプルへと伸びていた。
「……そいつは、お前のプライドと引き換えにするほどの価値はないぞ」
暗闇からのアルバンの声に、グリーンが弾かれたように跳ね起き、腰のボールに手を伸ばした。鋭い目つき。だが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥と、過酷な連戦による疲労が色濃く影を落としていた。
「……誰だ。すっこんでろ、協会のオッサン。俺の邪魔をするな」
「邪魔をしに来たんじゃない。……ただ、目の前で自爆しようとしている若者を見過ごすほど、俺も焼きが回っちゃいないだけだ」
アルバンは歩み寄ると、ポケットから手袋をはめた手で、地面のアンプルを静かに拾い上げた。グリーンが威嚇するように身構えるが、アルバンは構わずそれを指先で転がす。
「さっきの第一埠頭のバトルを遠目で見ていた。お前は計算して動いている。無駄なく相手のアジトを追い詰め、最短で崩壊させているな。……見事な手腕だ」
「……だったら口出しするな。あいつは——レッドは、そんな計算すら跳ね返して先に進んでいくんだよ! どんなに俺が完璧な陣形を組もうが、あいつの規格外の力一つで全部ぶち壊される! 理屈じゃ追いつかねえんだよ!」
夜の静寂に、グリーンの吐き捨てるような叫びが響いた。
己の知性と戦略が、ただの「圧倒的な天賦の才」に踏み躙られる恐怖。勝ち続けてきた天才だからこそ、初めてぶつかった不条理な壁に苦しんでいた。
アルバンは煙草を口に咥え、火をつけずに静かに吐き捨てた。
「……昔な。勝つことだけが自分の存在証明だと思い込んでいた男がいた」
グリーンが不審そうにアルバンを睨みつける。アルバンは遠い目をして、冷たい海風に視線を投げた。
「己の技術と戦略を過信し、さらなる強さを求めて『禁手』に手を伸ばしかけた。……だがな、力に呑まれた瞬間に、ポケモンの呼吸が見えなくなる。自分の足元がどれほど脆い氷の上にあったのか、叩き潰されてからじゃ遅いんだ」
「……何が言いたい」
「その薬を使えば、一時的にはあいつに追いつけるかもしれん。だがな、一度でもショートカットを使えば、お前がこれまで積み上げてきた本物の強さまで全部偽物になる。……あの男に、永遠に勝てなくなるぞ」
アルバンは静かにアンプルを掴み直すと、そのまま掌の中で握り潰した。小さなガラスの砕ける音が響き、不快な薬品の匂いが爆煙の臭いに混ざって消えていく。
グリーンは拳を固く握りしめ、潰されたアンプルとアルバンの顔を交互に見つめた。悔しさと、どこか憑き物が落ちたような複雑な表情が、その若き天才の顔に浮かぶ。
「……勝手な真似すんじゃねえよ。オッサンに俺の何が分かる」
「何も分からんさ。……だが、お前がここで終わる器じゃないことくらいは分かる」
アルバンはアタッシュケースを拾い上げ、顎で街道の先をしゃくった。
「行け。マチスの警備隊が第一埠頭の火災処理でてんてこ舞いになっている間に、この街を出ろ。港の『後処理』と、この危険な玩具の回収は……俺がうまく揉み消しておく」
「……ふん。余計なお世話だ」
グリーンは背を向け、一度も振り返ることなく暗闇の街道へと歩き出した。その足取りは、先ほどまでの焦燥が消え、いつもの冷徹な勝負師のそれに戻っていた。
アルバンはその背中が見えなくなるまで見送り、ひとつ大きな溜息をついた。
「……やれやれ。大人の役目ってのは、いつだって損な役回りばかりだな」
アルバンはヤマブキシティ行きの始発列車に乗るべく、静まり返った駅の方角へ歩き出した。