ポケモン協会コーディネーター 〜カントー編〜 作:11,111
ヤマブキシティは、死んだように静まり返っていた。
中央にそびえ立つシルフカンパニー本社ビルは、ロケット団によって完全に封鎖されている。ビルを取り囲む警察の規制線と、装甲車から漏れる赤い警光灯が、濡れたアスファルトを禍々しく照らしていた。
「……ここから先は協会の管轄外だ。引っ込んでいろ、アルバン」
ヤマブキジムの門前に立っていたのは、冷ややかな瞳をした女——ナツメだった。
その肩元には、細い体を浮遊させたフーディンが静かに佇んでいる。指先に握られたスプーンが不気味に捻じ曲がり、周囲の空間そのものが歪むような圧力が漂っていた。アルバンが数歩近づくだけで、フーディンの髭がわずかに揺れ、目に見えないサイコキネシスの壁がアルバンの肌を刺す。言葉を介さずとも、「これ以上寄れば弾き飛ばす」という意思の現れだ。
「ジムの防衛で手一杯のようだな、ナツメ」
「シルフの内部で何が起きていようと、私の知ったことではないわ。警察も協会も、あのビルを巨大な墓場にする気よ。……あなた一人が入ったところで、ただの無謀な捨て駒になるだけ」
「捨て駒で結構。お前たちが正面で指を咥えている間に、俺は俺の仕事を片付けるだけだ」
「……好きにすればいいわ。生きて戻れるとは思わないけれど」
ナツメは一瞥をくれると、フーディンとともに空間に溶け込むようにジムの闇奥へと消えていった。
クチバ港で入手した地下アクセスコードは本物だった。これであのメッセージを送信した人物はシルフかロケット団の中でも一定の役職を得ている人物だろう。
アルバンは非常用搬入口の分厚い耐火扉を静かに解除し、シルフ社地下の配管ダクトへ潜り込んだ。
ビル内は異様だった。上層階からは断続的に激しい爆音と振動が響いてくる。スプリンクラーから放出された水が天井から滴り、焦げ臭い煙がダクト内を充満していた。
アルバンは手袋をはめ直し、フシギバナを呼び出した。
「フシギバナ、蔓で配管の振動を感じ取れ。敵の増援のルートを避ける」
フシギバナは静かに巨躯を伏せ、壁面に這わせた蔓の先から微細な振動を読み取り、安全なルートをアルバンに提示する。長年の現場で培われた連携だ。
研究エリアへと続く暗い階段踊り場に差し掛かった、その時だった。
——ドゴォン!!
頭上のシャッターが吹き飛び、炎とともに一人の男が転がり落ちてきた。黒い作業服——ロケット団の戦闘員だ。完全に失神している。
煙の向こうから、重い靴音が静かに階段を下りてきた。
赤い帽子を深めにかぶった少年——レッドだった。
その傍らには、爪から煙を上げたリザードンが、鋭い黄色い瞳でアルバンを睨みつけている。アルバンが一動きでも怪しい素振りを見せれば、一瞬で蒸発させられるような殺気が立ち込めていた。
アルバンは手にしていた煙草をポケットに仕舞い、両手をゆっくりと上げた。敵意がないことを示す動作だ。
「……派手にやってるな」
レッドは足を止め、帽子の庇の下から鋭い視線をアルバンに向けた。言葉を発することなく、ただアルバンの胸元にある「協会のID」と、傍らに控えるフシギバナの構えを凝視している。
「上の連中(ロケット団幹部)は、お前が全部叩きのめせ。正面突破はお前の仕事だ」
アルバンは顎で地下奥の研究室を指し示した。
「俺は裏でこいつらが隠そうとしている『書類』と『毒』を回収する。……お前がどれだけ暴れても、紙切れ一枚残されたら奴らは何度でも湧いてくるからな」
レッドは数秒間、黙ってアルバンの目を見つめていた。
やがて、小さく一度だけ頷く。
「……頼んだ」
短くそれだけ言い残すと、レッドはリザードンとともに凄まじい脚力で階段を駆け上がり、再び上層の爆音の中へと消えていった。
「……言葉の少ないやつは嫌いじゃない」
アルバンはフシギバナに目配せをし、地下最深部の極秘研究室へと足を速めた。
上層階から響く破壊音が、地下特有の重い地鳴りとなって足元を揺らしていた。
非常用電源の赤黒いランプだけが点滅する廊下を抜け、最奥のセキュリティ扉を開けた。重厚な油圧音が響き、密閉された室内の冷気が顔を撫でる。
そこは、通常のシルフ社の社内マップには存在しない研究室だった。
部屋の中央に鎮座していたのは、砕け散った巨大な強化ガラスの培養カプセル。床一面に飛散した謎の培養液が、非常灯の光を反射して粘ついて光っている。千切れた太いケーブル、異常数値を表示したままフリーズしているモニター群。
「……ここが、元か」
アルバンはゴム手袋をはめた手で、壊れた端末のメインフレームにUSB型の解析デバイスを突き刺した。クチバ港に入手した暗号ディスクを読み込ませると、無機質な電子音とともに、大量の極秘ログがスクロールを始める。
画面に浮かび上がったのは、遺伝子操作による人工ポケモンの製造記録。
そして、そのプロジェクトの責任者欄に記された——『カツラ』の名。
「……やはり、あのじいさんか」
アルバンは吐き捨てるように呟き、端末からデータをポータブルドライブへ転送した。
ガラスの破片が敷き詰められた床に、巨大な三本指の足跡が、血のような赤黒い液体で残されている。壁はまるで内側から巨大な圧力で吹き飛ばされたように歪んでいた。人間でも、通常のポケモンでもあり得ない破壊の痕跡。
フシギバナが背中の花をわずかに震わせ、低く鼻を鳴らした。普段ならどんな修羅場でも動じない相棒が、この空間に残された「異形」の気配に警戒を強めている。アルバンは言葉をかけず、そっと手元でモンスターボールの金属面に触れ、静かに相棒の緊張を受け止めた。
「怖がらなくていい。もうここには居ない」
培養液の中から引き揚げられた手記の焦げ残りを拾い上げる。そこには手書きで、狂気と悔恨の混ざり合った文字が残されていた。
『制御不能。抑止装置の稼働に失敗。怪物は西の旧研究所の痕跡を求めて移動を開始した——』
「……後始末の押し付けかよ、ご苦労なこどだ」
アルバンはデータをポケットに仕舞い込み、足早に部屋を後にした。
シルフ社がひた隠しにしてきた暴走の真相、そしてグレン島の元研究員・カツラの過去。すべての線が一本に繋がった。
上層階からの爆音と振動が、潮が引くように止んだ。
煙が漂うシルフ社ビルの裏口から、アルバンが静かに姿を現した。コートの裾に煤をつけ、手首のゴム手袋を外してポケットへ仕舞い込む。
規制線の向こうで立ち往生していたハナダやヤマブキの制服組が、正面玄関から雪崩れ込んでいく怒号が遠く聞こえる。
「……生き延びたようね」
影の中から、ナツメが歩み出てきた。
傍らのフーディンが、手に握られた金属スプーンをカチリと鳴らす。その鋭い眼光は、アルバンが抱えて戻ってきた「生還」という結果そのものを測りかねているようだった。ナツメの無機質な表情の裏に、かすかな揺らぎが走る。
「協会の役人は、自分の保身と書類の辻褄合わせで真っ先に死ぬものだと思っていたわ。……あなたは、私が見てきた『大人たち』とは違う」
「死に損ねただけさ。命を張るほどの給料はもらってない」
アルバンはポケットから火をつけていない煙草を取り出し、フィルターを軽く噛んだ。ナツメはしばらく黙ってアルバンの佇まいを見つめていたが、そっと視線を南の空へ向けた。
「……セキチクへ行きなさい」
「何?」
「言ったはずよ。シルフの内部で何が起きていようと、私には関係ない。……ただの気まぐれ。あそこには、あなたのような男の扱いに慣れた『毒使い』がいるわ。海を渡りたいなら、あいつの足元を通るのが一番手っ取り早い」
ナツメはそれ以上語らず、フーディンのサイコキネシスによって歪む空間の中へと静かに姿を消した。自分の感情や興味を一切口にしない、彼女なりの歪んだアドバイスだった。
煙と破壊痕に塗れたシルフ社本社の正面エントランス。
ロケット団の最高幹部たちを叩きのめし、階段のステップに腰を下ろしていたレッドの耳に、遅れてなだれ込んできたハナダ警察の警部たちの会話が飛び込んできた。
「おい、地下の極秘研究室のロックが解除されているぞ!」
「ロケット団のパソコンから、シルフ社との不正取引の通信ログが丸ごと保全されている! 証拠の改ざんも不可能な状態だ!」
「誰がやったんだ? 正面突破のガキは上層階にいただろ……?」
ポリゴンや端末のデータすら破壊し、闇に葬ろうとしていたロケット団の計略は、すでに封じられていた。
レッドは無言のまま、手にしていたモンスターボールの金属面を見つめた。
正面からどれだけ力でねじ伏せようと、奴らは書類一枚、データ一つ残して逃げ延びる。それを完璧な手際で摘み取り、言い逃れのできないよう息の根を止めた男。
(……アルバン)
レッドは帽子を深めにかぶり直し、立ち上がった。
暴れ回るだけでは届かない「現場の後始末」を完璧にやり遂げる大人の背中を、その瞳は確かに捉えていた。