ポケモン協会コーディネーター 〜カントー編〜 作:11,111
セキチクシティは、湿んだ樹木と、わずかに鼻をつく薬草の不快な匂いに包まれていた。
整然としたヤマブキの都市計画とは対照的に、この街は入り組んだ路地と鬱蒼とした木々に覆われている。警察のパトロール網もどこか形骸化しており、街の本当の治安を握っているのが誰なのかは、路地裏を一歩歩けば自ずと理解できた。
アルバンは古びた薬草店の裏手、灯りの途切れた竹林の小道で足を止めた。
「……出てきたらどうだ。足音を消すのは美味いが、マタドガスの甘いガスの匂いまでは消えてないぞ」
暗闇の中から、シュシュと低い排気音が漏れた。
竹林の影が揺れ、紫色に煙る大きな球体——マタドガスを従えた男が静かに姿を現す。忍装束に身を包んだセキチクジムリーダー、キョウだ。
「……流石は噂のコーディネーターだ。鼻が効く」
キョウの配下であるマタドガスは、微小な毒胞子を放出しながらアルバンの周囲を静かに旋回している。威嚇ではなく、相手の呼吸や体調の微細な変化を探るための環境工作だ。
「誰の噂になってるのか、是非とも聞いておきたいね」
アルバンはポケットから手袋をはめた手を出し、火をつけていない煙草を指先で弄んだ。
「ナツメに聞いた。海を渡りたいなら、セキチクの毒使いに筋を通せとな」
「あの女が他人に助言とは珍しい」
キョウは冷ややかな目を細めた。
「ヤマブキの惨劇は聞いた。シルフの地下から重要なデータを丸ごと持ちさられたそうだな。警察もデータを確保しようと、各所に検問を張っている。……そんな中、お尋ね者を我の影網に乗せるメリットがどこにある?」
「メリットならここにある」
アルバンはポケットから、シルフ社地下で回収したポータブルドライブを取り出し、キョウに向かって投げて見せた。キョウは片手でそれを易々と受け止める。
「シルフとロケット団が共同開発していた『未承認の生物兵器』と『毒素の抽出レシピ』のデータだ。セキチクのジムとしても、こんなヤバい毒物が裏市場に流れて街を汚されるのは御免だろう」
「……ほう」
「それに」アルバンは淡々とした口調を崩さずに続けた。
「俺をここで警察に渡してみろ。上層部の腐った連中がそのデータを揉み消し、数ヶ月後にはセキチクの目と鼻の先で新しい実験場が作られるだけだ。……お前さんの『仕事』が増えるぞ」
キョウは数秒間、沈黙した。傍らのマタドガスが静かにガスを吸い込み、不気味な排気音を収める。プロ同士の無駄のない利害の計算が、キョウの頭の中で弾き出された瞬間だった。
「……いい度胸だ。お前のような冷めた男は嫌いではない」
キョウはドライブを懐に収め、影の中から一匹のモルフォンを呼び寄せた。
「グレン島への闇船は、セキチク南の暗礁地帯から出せるよう手配しよう。警察の検問には、うちの『身代わり』を使って別のルートへ誘導してやる。……だが、港までの足は自分で稼げ」
「十分だ。助かる」
「最後に一つ言っておく、アルバン」
キョウは去り際、竹林の闇に溶け込みながら冷ややかに言った。
「グレン島にいる『あの老人』は、ただの研究者ではない。かつて炎と試薬の中で正気を焼き切った男だ。……覚悟して行くことだな」
「……待て、キョウ」
闇に溶けかけようとしていた忍びの足が止まる。アルバンは煙草のフィルターを噛み直したまま、静かに視線を向けた。
「『炎と試薬の中で正気を焼き切った』……それだけの話なのか。シルフの地下カプセルを破って逃げ出した『あれ』は、一体何だ?」
キョウの配下であるマタドガスの排気音が、微かに低くなった。
キョウは振り返らず、竹林の暗がりの中から冷ややかな声を落とす。
「……名もなき化け物の正体まで、我ら影の網が把握していると思うか?」
「把握はしていなくとも、やつらが何を作らせようとしていたかは知っているはずだ。あんたらセキチクの毒使いだって、無償でロケット団に協力していたわけじゃないだろ」
「……フン」
キョウは短く鼻で笑った。
「向こうのオーダーは単純だ。『神の領域に触れる遺伝子』と『既存の枠組みを全て壊す破壊力』。奴が求めたのは、ジムリーダーや四天王の枠に収まらんとする完璧な『個』だ。カツラはその狂気に応え、そして制御に失敗した。……教えられるのはここまでだ」
「……十分だ。だが、追加の報酬(手数料)をもらうぞ」
「何だと?」
「警察の追手を撒くだけじゃ足りない。セキチクの圧力で捜査線上から俺の名前を完全に消しておけ。……シルフの極秘データを渡したんだ、それくらいのお釣りは当然だろう」
キョウは一瞬の沈黙の後、竹林の奥で不敵に目を細めた。
「……強欲な男だ。いいだろう、引き受けた」
忍びの気配が完全に消え、竹林には夜風の音だけが残された。
セキチク南の暗礁地帯。グレン島へ渡る小型の闇船を待つ港の陰で、アルバンのポケットの中にある通信端末が、無振動で微かに明滅した。
シルフ社占拠事件の混乱に乗じ、トキワジムから姿を消した男——サカキからの暗号回線だ。送信元の位置情報は完全に偽装されている。
『聞こえるか、アルバン』
ノイズの混じる冷徹な声が、受信スピーカーから低く響く。
『ヤマブキの地下室に、すでに「本命」がいなかったことは把握している。ガラスを破って逃げ去ったものの後始末……それが、お前に課した本来のオーダーだ』
「受諾した覚えはないな、サカキ」
アルバンは潮風にコートをなびかせながら、静かに端末へ問いかけた。
「俺の仕事はシルフの不正を暴き、処理することだ。暴走した化け物の退治屋になったつもりはない」
『奴はただの化け物ではない。……カツラに会えば、自ずと理解できるはずだ』
画面の向こうで、サカキが煙草の煙をくゆらせるような短い間があった。
『老人に会ったら、こう伝えろ。——「細胞の拒絶反応(エラー)を止める鍵は、すでに解かれたか」とな。……それを聞けば、カツラはお前に全てを打ち明ける。奴が背負った罪の全てをな』
「……おい、なぜ俺なんだ」
『プロの仕事に期待しているよ』
ブツリと通信が切れ、端末の画面は漆黒に戻った。
闇の海原の向こう、黒い影となって浮かぶグレン島の火口を見つめながら、アルバンは波止場に滑り込んできた小さな船のデッキへと足を乗せた。
終わりまでは19時ごろの投稿を予定しています