ポケモン協会コーディネーター 〜カントー編〜 作:11,111
セキチク南の暗礁地帯は、潮の流れが荒く、普通の船であれば一瞬で底を擦る危険地帯だ。
深い夜気の中、アルバンはラプラスの背に静かに跨がっていた。
「頼むぞ、ラプラス。警備艇のソナーを避けたい」
ラプラスは低く美しい鳴き声を海面に響かせると、吐き出す息で周囲の海面を深く青い『しろいきり』で覆い尽くした。海上警察の巡視艇が投光器の光を走らせる中、波間に消えるようにして闇の海原を滑り進む。冷たい水しぶきを浴びながら、アルバンはラプラスの首筋を優しく撫でた。厳しい訓練に耐え、あらゆる現場を共に潜り抜けてきた相棒の皮膚の冷たさが、アルバンの冴え渡る思考をさらに研ぎ澄ませていく。
上陸したグレン島は、火山灰の匂いと焦げた硫黄の臭気が漂う静かな島だった。
観光地としての表通りを抜け、島北部の崩壊した旧屋敷——かつて「ポケモン屋敷」と呼ばれた廃研究所の地下へと足を踏み入れる。地震と爆発によって半ば瓦礫と化した地下廊下は、いまにも崩落しそうだった。
「フシギバナ、出ろ」
暗闇の中で光を放ちながら現れた巨大な相棒へ、アルバンは短い視線を送った。
「天井の梁を支えろ。俺たちが中にいる間に押し潰されたら笑えない」
フシギバナは重厚な地響きとともに腰を据え、背中から太く頑丈な蔓を幾本も伸ばした。ひび割れたコンクリートの天井と柱を精密に補強し、完璧な安全圏を作り出す。アルバンの意図を完璧に察した職人技のような手際だった。
補強された廊下の奥、非常用発電機の微弱な明かりの下で、一人の老人が古びた車椅子に腰掛けていた。
白衣の袖から覗く右腕は、異様なまでに黒く変色し、壊死を起こしたように包帯で厳重に巻かれている。その傍らには、黄金色の毛並みを誇る巨大なウインディが身を伏せていた。ウインディはアルバンの姿を認めると、低い唸り声を上げ、牙の隙間から小さな炎の粉を散らした。老研究者を守るための、剥き出しの敵意と高い忠誠心だ。
「……誰だ。ここは立ち入り禁止のはずだが」
カツラがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い疲弊と正気を焼き切った男特有の陰りが宿っていた。
「挨拶は抜きにしよう、カツラ先生」
アルバンは手袋をはめた手でポケットから一冊の焦げたメモを取り出し、カツラの足元へ放り投げた。
「ハナダで残された劇物と、そのろ過廃棄物の構造式……残っていた毒のレシピを見たときに、カントーでこれができる頭脳はあなたしか思い浮かばなかった」
カツラは足元のメモを見つめ、苦笑するように息を漏らした。ウインディが主人の感情に同調するように、悲しげに喉を鳴らしてカツラの膝に大きな頭を預ける。
「……ハナダの現場を見ただけでそこまで辿り着いていたか。流石だな」
「買い被りだ、おれはただの現場コーディネーターだ」
アルバンは冷めた声で返し、サカキから託された言葉を静かに口にした。
「……サカキからの伝言だ。『細胞の拒絶反応を止める鍵は、すでに解かれたか』とな」
カツラの身体が、弾かれたように跳ね上がった。ウインディが驚いたように立ち上がり、アルバンのフシギバナに向かって威嚇の低い咆哮を上げる。だが、フシギバナは静かに蔓で天井を支えたまま、一切動じることなくウインディの鋭い視線を受け止めていた。
「……あいつは、サカキはそこまで見抜いていたか」
カツラは震える左手で壊死した右腕を抱え、絞り出すような声で吐露し始めた。
「……私とサカキは、シルフの金を使い、神の領域に手を触れた。あらゆるポケモンの遺伝子を凝縮した最強の個体……『ミュウツー』の育成だ。だが、人工の器は命の重みに耐えきれなかった。そこでロケット団がハナダやクチバで集めた大量のポケモンの生命エネルギーを抽出し、直接流し込み続けたのだ」
カツラは右腕の包帯を痛々しそうに撫でた。
「だが、生命の歪みは強烈な『バイオ拒絶反応』を引き起こした。不完全な抽出液は狂気となり、ミュウツーの肉体と精神を汚染した。……事故の際、その高濃度毒素を浴びた私の右腕がこのザマだ。そして奴は狂気の中でヤマブキの地下を破壊し、逃げ出した……」
「……胸くそ悪くなる話だな」
アルバンは煙草を口に咥え、火をつけずに言った。
「一つ聞かせろ。なぜサカキは、俺のような協会の人間をここまで誘導した? 奴なら自分の部下に隠蔽させることもできたはずだ」
カツラは悲しげに首を振った。
「お前には分からないか、アルバン。サカキは警察の無能も、協会上層部の欲深さも知っている。奴らが動けば、ミュウツーの隠蔽か奪い合いで現場は破滅する。……サカキが信用したのは、組織の面子や正義感ではなく、『現場の事実だけを見て、誰も殺さずに不祥事の後始末を完遂するプロ』としてのお前だけだったのだよ」
アルバンは苦い顔で煙草を噛み潰した。
「……不愉快な買いかぶりだな」
「だが事実だ」
カツラはウインディの背を静かに撫でながら、胸のポケットから小さな光ディスクを取り出した。
「これがサカキの言う『鍵』……拒絶反応を抑え込む生体安定化コードだ。これがあれば、あの狂った生命の激痛を和らげることができる。私はこれを持ったまま、この館ごと自分を燃やし尽くすつもりだった」
「死んで逃げるつもりなら甘いぞ、老人」
アルバンは一歩足を踏み出し、ディスクを指先で奪い取った。
「あんたがやるべきは自爆じゃない。このデータで事件の後始末をつけさせてもらう。そしてあんたは……ジムリーダーとしてこの島に残り、一生をかけて自分が撒き散らした事の責任を果たし続けろ」
カツラは言葉を失い、静かにアルバンの目を見つめ返した。
カツラは奪われたディスクを見つめ、力なく垂れていた肩を微かに震わせた。ウインディがその足元によりそい、すがるように低い声を漏らす。
「……アルバン、頼む。一つだけ私からの我䤉を聞いてくれ」
「俺はあんたの雇い人じゃない」
「仕事としてで構わん……! 報酬なら私が個人的に支払う」
カツラは絞り出すような声で、アルバンのコートの裾を掴む勢いで身を乗り出した。その瞳には、かつて狂気に走った研究者ではなく、自分の手で歪めてしまった生命への痛切な悔恨が滲んでいた。
「その生体安定化コードは、ただの制御データではない。絶え間ない細胞の崩壊とバイオ拒絶反応の激痛に苦しむあの個体……『ミュウツー』の苦痛を和らげる唯一の鎮痛剤なのだ」
「……」
「奴はヤマブキを逃亡した後、自らの生まれた原点……暗く静かな『ハナダの洞窟』へと潜伏した気配がある。あの場所なら、人間の余計なノイズを断ち切れるからだ。……だが、あの激痛が続けば、いずれ精神が崩壊し、カントー全域を巻き込む破滅的な暴走を起こす」
カツラは深く頭を下げ、壊死した右腕を強く噛みしめた。
「頼む、あの哀れな生命にそのコードを届けてやってくれ。奴を破壊するためではなく……人間の身勝手なエゴが生み出した狂気の苦しみから、解放するために」
アルバンは火のついていない煙草を口から外し、足元の瓦礫に吐き捨てた。
天井を太い蔓で支え続けるフシギバナが、ゆっくりと重い鼻息を吐き出す。相棒のその動作は、「受けてやるべきだ」と静かに語っているようでもあった。
「……ハナダの洞窟か。どのみち、ハナダの現場で始まった話だ。ハナダで片をつけるのが筋というものか」
アルバンはディスクをジャケットの内ポケットへ深く仕舞い込んだ。
「勘違いするなよ、老人。俺はあんたの贖罪を手伝うつもりはない。現場に放置された危険物を処理する……ただそれだけだ」
「……感謝する、アルバン」
崩落しかけた地下室をあとにし、アルバンはグレンの冷たい潮風の中へと戻った。
第9話で終了予定です。