『革新』のフィロゾーフ:あるいは資本的及び啓蒙的な革命の素材、形体、及び権力 作:緑川翼
よろしくお願いします。
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二人の足音だけが響いていた。
帝都最寄りの野戦病院である。薄暗く、すえた匂いと苦しげなうめき声の充満するここは、地獄の最寄り駅。
都市の防衛、鉄道網の保護、新領土の獲得。魔獣と日々戦い、傷付いて脱落した勇士たちが運び込まれるのが、この病院であった。
数十人の負傷兵が死の淵で耐え忍び、医師や薬師もまた、自身の職務に取り組んでいる。でありながら、この病棟と病舎を繋ぐ通路には常日頃の喧噪はない。
薄汚れた患者たちと、まだ清潔な服装の職員の視線が、光源の乏しい廊下を歩く一人の女へと注がれている。
「ねえ、あの人。上から報告来てた? もしかして、また抜き打ちの風紀調査でも、やろうとしているの?」
「ええ? 勘弁してくれよ。あの人に懲罰室を規制されて以来、勇士が調子に乗りだしたのに。同期も一人、やり過ぎだって吊されたしさ⋯⋯」
「ホントにね。天下のブラッディハンド様が、こんな貧民上がりしかいない肥溜めに何の用なのよ?」
警戒、軽蔑、嫌悪。
薄暗い通路を行き交う事務員や看護師の小声は、聞き耳を立てずとも聞こえている。
機械鎧の大男が周囲を警戒している、その後ろを悠々と歩く、礼服の上から三つの指輪の商標が編み込まれた外套を羽織ったその女は、資本家であった。
この帝国において、軍需品を中心に巨大な工場群と流通網を誇る、カンディード商会。
その次期取締役が、彼女である。
金属製の左腕で高く纏められた艶やかな銀髪を掻き上げながら、女はつまらなそうにため息をつく。
「まったく、好き勝手に悪意を向けてくれるわね。彼らは私が、ここの資金の大半を融資してやってるって知ってるのかしら?」
「そりゃあ知らんでしょうよ、お嬢が勝手にやってたんですから。そも、追い求めてる『理想』を果たすまでは、そんな言葉も覚悟の上でしょうに」
「ええ、まあ、そうね……。革命を遂げるまでは、邪魔する木っ端の一切合切、吊してやりましょうか。そのために来たんだもの」
護衛の軽薄な言葉に笑って返した女は、薄暗く埃の積もった通路を笑って歩む 。その目には、『理想』を貫き通さんとする、冷酷なまでの理性が灯っている。
その目の鋭さが、護衛である機械鎧に身を包んだ大男よりも、黒色の光沢を放つ義手よりも、この女──
──ルイゼット・モンタニャールを特徴づけていた。
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⋯⋯私は、覚えている。
太陽すらも遮る分厚い雲の下、城塞都市を囲う大壁の外側で、強靭な勇士たちが剣と銃を手に恐ろしい魔獣と闘っている光景を初めて見た、あの衝撃を。
私は、覚えている。
幼いながらなまじ頭が良かったがために、あの魔獣が持つ鋭い爪や牙が一度でも擦れば大怪我では済まないだろうと理解して、大勢の護衛に囲まれた豪華な馬車の中で惨めに震えていた、情けない姿を。
私はその時、隣に座っていたお父様に尋ねたわ。どうしてあの勇士たちは、あんなにも恐ろしい魔獣と闘っていられるのかと。
お父様は答えた。それが彼らの仕事だからであり、彼らはそのために必要な訓練を積んでいるのだと。
私は覚えている。
蒙昧な私は再度尋ねたのよ。なら、あそこで倒れて魔獣にのし掛かられたあの勇士は、訓練が足りなかったのかと。
お父様は平然と答えたわ。
その通り。だからこそあの魔獣に腹を食い破られている戦士は命をもって、怠惰の代価を支払うのだと。
平穏な壁の内側で甘やかされて育った私は、戦士の命が潰える絶叫を聞いて初めて理解したのよ。
──私が考えなしに享受していた平穏は、あの戦士たちの屍の上に成り立っていたのだという、あの屈辱を。
■
悪意のこもった彼らの声を聞いていると、不意に『理想』の原点を思い出した。苦い記憶を振り返りながら歩いていれば、眼の前に一人の影。
私の護衛であるサンキュロットが、男の動きを手で制した。黒煙を吐き出す機械鎧を身に着けたこの赤髪の大男は、存在感があるわ。
「お嬢、どうしやす?」
「大丈夫よ、サンキュロット。彼から悪意は感じないわ。通してあげなさい」
「あア、その声。やっぱり、カンディードのルイゼットサマだァ⋯⋯」
私の前に現れたのは、全身に包帯を巻いた負傷兵。杖をついて足を引きずり、顎が砕けているのか、呂律が回っていない男。
典型的な、戦えなくなった勇士の姿ね。
その勇士が、私に向かって跪く。それが、戦いの中で彼らにとって一番の親愛を表す行為であることを、私は知っているわ。両手を床についたまま、負傷兵は目を動かす。
「おれァ、そのォ、学がねェもんで⋯⋯、その、ルイゼットサマに、治療費を出してもらったお礼を申し付けたいと、その、思ってやして⋯⋯」
「そう。その気持ちはとても嬉しいわ。ええ、本当に。それにしても、傷だらけじゃない。その鉤爪のあと⋯⋯。このあたりだと、グリフォンにやられたのね?」
帝都周辺の地理を思い返す。馬の身体に鳥の翼を持つ中型魔獣が、南部の森林地域にいたはず。彼は、そこの魔獣討伐に従事していたようね。
──製鉄、蒸気機関、銃。または、魔導具。
人類の技術が飛躍的に進歩したとしても、各地に点在する都市や街を囲う壁の外に凶暴な魔獣が蔓延っている以上、人間の生存圏は局地的で飛び地的な物に過ぎないわ。
政治的な中心地である帝都ですら城郭に囲まれていて、鉄道で一昼夜揺られなければ隣の都市にまでたどりつけないのだもの。
だからこそ私は、軍人であり開拓者であり、冒険者でもある彼ら、魔獣と戦う役割を担った勇士たちのことを、心から尊敬しているわ。
「あうア、ありがてえ、ありがええ⋯⋯。こンの顎も足も、グリフォンのやつに粉砕さでまして、そんときゃ、その、おれァもう終わりだと⋯⋯」
「大変だったわね⋯⋯。魔導義足は検討した?見ての通り、魔力を通せば自由に動かせるわ。もちろん、また戦うことだって」
金属製の左腕を動かして見せる。もちろんカンディード商会の義手がお勧めだけれど、金額だけで考えるなら、もっと安い義手もあるわ。
もっとも、一ヶ月の欠損保険と一年の定期検診なんかの、勇士層の顧客に向けた保証を設けているのは、我が社だけよ。
なんて、自社製品の宣伝は、流石に避けた。
「その、もちろん俺ァ、ルイゼットサマの義足をお買い上げしてえと、思っちゃいるんですが⋯⋯。なにせ、あのォ、機関車も来ねェ貧村出身でして、ああッと、負傷手当も雀の涙みてえな額なもんで⋯⋯」
気まずそうに、負傷兵が言う。正直、予想は付いていたわ。お金があればこんな所にいないで、帝都の城郭内にある、もっとまともな病院にいるはずだもの。
ここは勇士に認められた最低限の権利で、だからこそ医療施設としては、最低限の場所だから。
「帝国議会の連中は、相変わらず恩に報いないことを節約だと考えているのね。また、何人か吊るさないと。それはともかく、貴方、勇士としての勤続年数は五年を越えてるかしら?」
「あ、えぇと、はあ。ここに来るめえに、お上がそんなことを」
「あら、公的な記録も残ってるのね。なら貴方は、カンディード商会が融資向けにやってる貸付の対象内よ。いくつか審査は必要だけれど、低利子で受けられるわ。あとは、戦えなくなった後の世話とかもね」
世話とは言っても、案内できるのらカンディード商会の運営している弾薬工場か、薬草農園くらいね。どっちも地味で刺激はないけれど、安寧は約束できるわ。
⋯⋯この支援制度については、この野戦病院に搬送された負傷兵全員に伝えるようにと、ここの職員には確かに通達してある。でもこの様子じゃ、どこかの段階で忘れ去られてるわね。
まあ、いつものことだけれど。
いい加減慣れたわ。
「貴方の友人や同室の仲間にも、この話は伝えてちょうだい。大丈夫よ。もしこの病院の負傷兵たちが同時に申請したとしても、ちゃんと審査する余裕はあるわ」
「あァ⋯⋯、ありがてぇ、ありがてえ!おれらのことを見てぬださるのは、ルイゼットサマだけだァ⋯⋯!」
「大袈裟よ、もう。仕事には誠意を、成果には報酬を。それだけのことよ。貴方たちの仕事に、返しているだけなのよ」
それだけのことが、いまの帝国ではできていない。
床に手を付けたまま拝み倒す負傷兵と別れて、掃除が行き届いていないのか、埃っぽくて嫌な音を立てる木造の廊下を再び歩く。
私の横を歩くサンキュロットが、茶化すように口を開いた。
「相変わらず布教がうまいですな。いまの奴も、お嬢の言葉を神託を受けたみてぇに広めますぜ。これでまた、お嬢の思うがままに動く戦力が増えるわけだ」
「言い方が悪いわよ、サンキュロット。私はただ、制度に基づいて支援を申し出ただけよ。⋯⋯ええ、そう。私にも打算があるだけで、彼らへの敬意は本物よ」
サンキュロットが、呆れたようなわざとらしい仕草で首を振るう。
私も女性としては背が高い方だけれど、彼とは拳三つ分は差があるわ。だからサンキュロットと話す時には自然と、上を向く形になる。
いつも首がこるのは、コイツのせいな気がしてきたわね。
「今となっちゃ、お嬢は勇士の武力を背景に帝国議会への発言力まで高めたんですぜ。『理想』のためとはいえ、急ぎすぎじゃあないんですかい?」
「ああ、それを聞きたくなったの?でも、この程度じゃあ満足できないわ。議会の法衣貴族どもが、私に忖度するようになった程度じゃ、ね」
「クハッ!人を吊るしても裁かれない程度じゃ、足りやせんか!」
サンキュロットが再び笑う。
私は時折⋯⋯、そう、ブラッディハンドなんて異名が付く程度の頻度で、裏切り者や敵対者を処刑してきたわ。
帝国における司法を扱う連中の弱みを握っているから、大義名分さえ用意しておけば、そんな無理でも押し通すこともできるのよね。
流石に、乱用はしないけれど。
なんて、愚にもつかないことを考えていた、その時、なにか大きなものが建物に衝突した音と衝撃が、病院中に響いた。
「お嬢、止まってくだせぇ。今のは──⋯」
明らかな、異音。
サンキュロットが面倒くさそうに警戒を露わにして、病室の勇士たちも興奮してざわめきだす。嫌な予感に息を潜めて耳を澄ませば、病院の中庭から、無差別にまき散らされた悪意を感知した。
「はぐれ者だ! はぐれの中型魔獣が出たぞ、ワイバーンだ!!」
「なんだと!? ここは勇士の巡回地域だぞ、魔獣が襲撃するなんて⋯⋯。いや、そもそも施設の防壁はどうした!?」
「突破されてる! 例のひび割れに衝突したんだ! クソッ、だからさっさと修復するべきだとあれ程⋯⋯ッ!!」
「いいから早く鐘を鳴らして患者を避難させるんだ! 駐在の勇士も呼べ、早くしろ!!」
──はぐれ者。
強い縄張り意識を持つ魔獣の中で、群れから逸れて単独行動をする魔獣。
はぐれ者は人間の生存領域にも平気で入り込んで暴れるから、討伐の優先度は高い。基本的に群れを形成する魔獣よりは弱いのが、せめてもの救いかしら。
もっとも、そんなはぐれ者にしたって警備の厳戒な帝都付近に現れるのは、滅多にない異常事態ではあるのだけれど。
「何にしても放置はできないわよね。被害が出る前に止めるわよ。サンキュロット、ついてきなさい」
「へいへい。何度でも言いますが、俺としちゃアお嬢にはあんまり危険な場所に首を突っ込んでほしくないんですがね」
「その台詞は耳にたこができるほど聞いたわよ。でもここで動かなきゃ、何のために鍛えたのか分からないでしょう?」
中庭へと走りながら、後をついてくるサンキュロットへと笑いかける。
それで、彼は苦笑いしながらも追従してくれる。装備する機械鎧に反して言動は軽いけれど、腕は立つし忠誠心は本物。
かつて貧民街の孤児だった彼を拾ってから十数年。義手と同じく、私の左腕として重宝しているわ。
「誰だ、こんな所に地雷を展開したのは! 避難の邪魔になるだろうが!」
「待て、第二病棟には動かせない重症患者がいるんだぞ!? ワイバーンがそっちに行ったらどうする! 警備兵は駐在の勇士が来るまでコイツを引き付けろ!!」
「その勇士はいつ来るんだッ! 俺たちの仕事は施設警備だぞ!? いつも銃剣を振り回してる癖に、肝心な時に役立たない愚図どもめ!!」
帝都のように魔獣をはね除ける大壁を備えた城塞都市は別にして、この手の居住地には必ず、魔獣を退ける防御柵と大型の重火器が備えられているのが相場よ。
この病院にも防壁と機関銃が設置されていたけれど、はぐれ者の侵入に伴って、破壊されたようね。
帝都最寄りの驕りもあってか、どうにも警備員たちの判断が鈍いわ。魔獣を前に右往左往してばかりだし、これは事が済んだら警備責任者に活を入れないと。
「まったく、指揮系統が混乱しているようね。さっさと行くわよ!」
そんな事を考えながら、私は義手から鉤爪を射出して窓枠へ引っ掛ける。そのまま魔獣によって壊された壁から中庭へと飛び降りた。
鉤爪と義手を結ぶ魔力の縄が命綱となって、無事に着地。この魔導義手は私の意志のままに動かせるだけじゃなく、こんな懸垂下降も可能にするわ。
一歩遅れて、鎧から黒煙を排出しながらサンキュロットが中庭へと着地した。カンディード商会の作成した機械鎧と彼自身の地力が合わされば、自由落下すら不可能じゃない。
中庭に降りた私たちの姿を見て、病棟から野次馬していた勇士たちが沸き立つ。
「情けねぇぞ警備員ども! 俺らにやらせろ、武器を寄越せッ! ちゃっちゃと始末してやんからよ!」
「テメエラにゃそのエモノはもったいねェよ! ルイゼットサマも来てんだ、オレラがイイトコ見せんだよ!!」
「黙ってろ腕なしに足なしの傷病兵どもが! 内臓の溶け落ちた身体でどう戦うつもりだ! 大人しく避難してろ!」
一匹の中型魔獣に対して大勢の警備員が取り囲みながらも、なお劣勢。血と砂塵の舞う中庭を見渡して、現状を把握する。
中庭で暴れているのは、帝都近隣の草原に分布する、ワイバーンと呼ばれる亜竜の一種。鉄鎧を噛み千切る鋭い牙と銃弾すら弾く強固な鱗を持っていて、しかも翼で飛行する厄介な魔獣ね。
でも中庭で暴れる個体は、狩りに失敗したのか首領争いに敗れたのかは分からないけれど、翼を負傷していて、飛べそうにはないわ。だから、はぐれ者になったのね。
「そこの貴方、警備責任者ね? ここからは私たちが受け持つわ。被害が拡大する前に、警備兵は撤退しなさいな」
「だ、誰だ?! こんな忙しい時に!!」
「あら、この病院の経営者に対して、随分な物言いね」
「な、貴方は──、モンタニャール様ッ?!」
警備員を取りまとめている鎧姿の男が散弾銃を手にもったまま、何故私がここにいるのかと驚きを露わにする。仕方ない反応。来賓である私が、魔獣の前に現れるとは思わないわよね。
「ワイバーンは強靭な牙と鱗を持つ、単純ながら強力な中型魔獣だけれど、さて、サンキュロット。コイツにはどれくらいの人手が適切だと思う?」
「そうですなァ。国の定めた規定に則れば、勇士が三人、いや、群れの規模によっては五人⋯⋯」
「だから、それは群れに対する基準でしょう? 手負いのはぐれ者なら、商人の令嬢一人とその護衛だけで十分よ」
「なッ! お待ち下さい、モンタニャール様! ここは我々が勇士の到着まで持ちこたえます! もし貴賓である貴方に何かあれば、私たちの首が⋯⋯!!」
「別に私が死んだところで、貴方に責任は発生しないわよ。第二病棟の負傷者とやらに集中していなさいな。重傷患者は逃げられないのでしょう?」
私の言葉に後ろでサンキュロットがため息をついたけれど、これは私の趣味と実利を兼ねているのだから許してほしい。
指揮官は少しの逡巡の末に、部下の警備員を率いて第二病棟の警護へと向かってくれたわ。これで、やりやすくなったわね。
横を見れば、サンキュロットも既に背負っていた大盾を両手で構えている。私の背丈よりも大きなその盾は、何度も私の命を救ってくれた。今日も頼もしいわね。
黒く光沢を放つ義手を回して、笑う。
「目標は死人なし。損害もこれ以上は出させないわよ。どうせ被害は私たちカンディード商会が補填する事になるんだから」
「お嬢ならそう言うと思いましたがね。ここで無茶しておっ死なないで下さいよ?」
「ええ、もちろん。死ぬのはいつでも、貴方が先よ。さ、行くわよ」
「へいへい。最期までついていきますよ。仕事なんでね」
サンキュロットと軽口を叩き合いながら、私も右手で細剣を抜く。
華麗な装飾も大層な由来もないこの剣は、カンディード商会の叡智を集結して発明した対魔獣用兵器。決して自惚れた貴族の無意味な儀礼品でも、子どもの真似事みたいな決闘用の玩具でもないわ。
そんな細剣を構えて突撃すれば、当然はぐれの魔獣も反応する。私に合わせたように、傷付いた翼を引きずって突進するワイバーン。
「アハッ! 手負いとは思えない速度ね! 流石は魔獣!!」
体重と速度の乗った体当たりに直撃すれば、私の脆い身体なんて簡単に肉塊になるでしょう。でも私は、その攻撃に余裕を持って対応できる。
突進するワイバーンを目の前にして、再び義手から鉤爪を射出、荒らされた中庭に残る枯れ木に引っ掛ける。
私の意思で自由自在に伸縮する魔力の縄に耐えられるだけの強度が、見立て通り枯れ木にはあるわ。
義手に体重を預けて縄を巻き取れば、質量差によって私の身体が枯れ木へと引き寄せられる。瞬間、その横をワイバーンの巨体が通り過ぎた。
「ああッ! 今のは危なかった、緊張したわ! でも、物足りないわね!」
「たっく。興奮し過ぎて変な失敗をせんでくださいよ! どうせ守るのは俺なんだからよ! おらはぐれモン、こっちだぞ!!」
盾を叩く音。
サンキュロットの怒声によって気を惹きつけられたワイバーンが、苛立ちげに吠える。
流石は私の最も信頼する護衛。ワイバーンが繰り出した尻尾によるなぎ払いを、彼は自分の体格並に大きな盾によって受け止めている。体重差を物ともしないサンキュロットの防御力は、私が体勢を立て直すには十分な隙を稼いでくれたわ。
「良いわ! これでこそ、本物の魔獣と本物の戦いねッ!」
つい、笑ってしまう。
こうでなくては、わざわざ警備員を退けてまではぐれ者に喧嘩を売った意味が無いもの。金で用意した傭兵や闘技場の魔獣が相手では味わえない興奮が、私に生きている実感を与えてくれるわ。
ワイバーンの行動範囲の外側では、私たちの戦闘に魅せられた患者たちが俺たちも混ぜろと騒いでいる。
「クソがッ! 俺も戦わせろ、モンタニャールの娘と一緒に! 助けられた分の恩を返すんだよッ!!」
「傷病兵でも兵は兵だろうが! あそこの鎧男だけがなんで戦える!? 俺にもアイツのために命を賭けさせろ!!」
「ルイゼットさんよッ、狙うなら首筋だぜェ! そいつの頭蓋は脆いからよおォ!!」
「もちろん、そのつもりよ。──さァ、これはどうかしら!?」
サンキュロットが囮役を引き受けてくれたから、ワイバーンの意識から私は完全に外れている。不意打ちの刺突は私の意思に違うことなく、ワイバーンの首を貫いた。
矢弾を弾くほどに硬い鱗があっても、私の細剣は防げないわ。首を二度、三度と突き刺す。
絶叫。
人間が相手であれば、それだけで致命になりえるだけの傷だけれど、それでもまだ、人類の敵である魔獣を仕留めるには至らない。
ワイバーンは痛みから更に激怒して、今まで夢中になって襲っていたサンキュロットすら放置して私に牙を向けてくる。先ほどよりも速い動き。義手の鉤爪で回避するだけの余裕はなさそうね。
ワイバーンの牙が迫る中で、そんな呑気なことを考える。でもそれは、観念した訳でも現実から逃避している訳でもないわ。
どうでも良い事に思考を回すだけの余裕が、私にはあるというだけ。
「───だあクソがッ、相変わらず自力で避けてくんねぇんだよなお嬢は!『懸命』のシュバリエ!!」
ワイバーンの顎が私を噛みつぶす、その直前。私の目の前に、大盾を構えるサンキュロットが転移した。
アーキタイプ。
そう称される異能力は、人類もまた現実を超越する力である魔力を持つ証であり、明確な自意識とたゆまぬ鍛錬の贈物である緻密な魔力制御の末に覚醒する資格を得る、『理想』を実現する力。
一握りの人間が持つそんな能力を、サンキュロットは持っている。
まだ成人もしていない頃、私が魔獣に左腕を食い千切られた際に発現したサンキュロットの能力は、私の元への物理的座標を無視した瞬間移動。
アーキタイプを得てまで私の身代わりになろうだなんて、まったく見上げた護衛根性だわ。
「何ほくそ笑んでんだか知りませんがねッ! 流石に中型魔獣との力比べはキツいんですよ!そろそろ何とかしてくれませんか!!」
「あら、御免なさいね。気付かなかったわ。折角だし、もう少し貴方の勇姿を見物してようかしら」
「ちょっとお嬢、勘弁してくださいやッ!? まとめてコイツの昼飯になっちまいますって!」
ワイバーンの顎に大盾を差し込んで、突撃を受け止めるサンキュロット。対してワイバーンは盾ごと噛み砕こうと、力を籠めている。
機械鎧から黒煙を吐き出すサンキュロットと、ワイバーンの力が拮抗しているわ。サンキュロットとは私より頭二つは背だけが高いといっても、流石に押されているわね。
その内サンキュロットが押し負けるでしょうけれど、ここには、私がいる。
サンキュロットとワイバーンの両者が動けないのであれば、余分に動ける私が有利なのは自明の理。私は踏ん張るサンキュロットを踏み台として、跳躍した。
サンキュロットほどとはいえずとも、一介の商人としては過激な鍛錬を重ねた私もまた、それなりの身体能力を有しているわ。
野戦病院の二階を越えるほどの跳躍。その速度と質量を、細剣に乗せる。
「さァこれで、お終いよ!!」
その一撃はワイバーンの首、私が付けた刺し傷に、寸分の狂いもなく突き刺さった。
再び、絶叫。
私を乗せたまま、ワイバーンは足掻くかのように野戦病院へと衝突して、ついに倒れる。そのまま塵と化すワイバーン。
人や動植物と違い、魔獣の身体は魔力で構成されている。だからこそ常識外れな身体能力を持ち、熱線を吐いたり電撃を纏ったりといった超常現象を引き起こせるのね。
でもその反面、魔獣が死ねば魔力は分散して、後には何も残さない。その魔力を吸収して強くなれると勇士たちは信じているみたいだけれど、肉や皮など直接的に人の役に立つ物を残さないんだから、魔獣は本当に人類の天敵だわ。
──なんて。勝利の余韻に酔って、そんな愚にも付かない事を考えていたのは失敗だったわ。
「お嬢避けろ! 病棟が崩れてるぞ!!」
「え⋯⋯? ──⋯ッ!? しまッ───!!」
まさしくあれは最後の足掻きだったのか、ワイバーンの衝突により、ただでさえ古びた野戦病院の外壁がついに崩れた。
よりによって、私の頭上へ。
鉤爪──⋯、駄目、不慮の事態に反応が遅れた。どう考えても間に合わない。転がって回避──、無理、避けきれない。考えて、迫る外壁。なんで気づかな⋯⋯、外壁に悪意があるわけない。余計な事を考えないで、思考を回して。
「───だァァから気を付けろって言ってんだよアホお嬢! そこ動くなよ、『懸命』のシュバリエ!!」
直撃寸前。
目の前に現れたサンキュロットが私を抱きかかえて、その場から飛び退いた。
抱き締められながら、彼の必死な風貌を、ついじっくりと眺めてしまう。
硬派な顔立ちに、短く刈り上げられた赤髪。見慣れた横顔は、私の目線に気付いていない。
幼少期に貧民街でコイツを拾って以降、護衛としての訓練時以外は一緒に過ごしてきたのに、真面目な様子に何だか珍しい物を見た気分になる。
「⋯⋯なんです? そんな不満げに見られたって、救助が遅れた事は謝りませんぜ。そもそもお嬢が油断しなきゃ済む話だってんだから」
「別に? 助かったわ、ありがとう。危機は脱したんだから、もう下ろしてちょうだい」
サンキュロットの筋肉質な腕から降りても、それ以上は彼の顔を見ることなく先へ進む。
はぐれ者退治の為とは言え、時間を使い過ぎたわ。約束の相手を待たせるのも悪いし、急がないと。
ああそう言えば、最後まで駐在の勇士は現れなかったわね。野次馬していた傷病兵と警備兵の歓声と賞賛に手を振って応えながら、そんなことを考えた。