幻想文花帖 夕暮れは雲のはたてに   作:ウィルカ

1 / 1
夕暮れは雲のはたてに

夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふ 

 天つ空なる人を恋ふとて  

詠み人しらず『古今和歌集』巻十一、恋一。四八四。

 

「天狗攫い(てんぐさらい)」

江戸時代において、子供が消息を絶つ原因は天狗とされていた。天狗が子供をさらい、数ヶ月から数年の後に元の家へ帰しておくのである。

天狗攫いから戻って来た子供は、天狗と一緒に空を飛んで日本各地の名所を見物させてもらった、などと話す。また、天狗から様々な知識や術を教わったとする子供もいたという。

『Wikipedia』より

 

             *

 

 天から舞い降りた一陣の風が、晩秋の夕闇に濡れた楓の枝を寒々と震わせました。

 ちぎり絵のように地面に貼られた椛(もみじ)の葉が、小さな旋風(つむじ)の渦に巻かれて、残照に染まった茜の空に幾ひらと舞い上がるのが見えました。

 

 風の中から現れた細い手が、枯れ葉の合間に紛れていた一匹の玉虫の亡骸を、そっと掬い上げました。

 

「あれから八百年。……ですか」

 

 闇に生まれた命の燈(ともしび)が、世を照らし、つぎの命を紡いで死んでゆく。

 

 これほど愛おしく、尊いものがあるだろうか。

 あと幾ばくの百夜(ももよ)を繰り返せば、現世(うつしよ)に縛られた命の楔を断ち切れるのだろう。

 

 風が去ったあと、東の空から昇ってきた錆鉄色の待宵(まつよい)の月が、地面に残された玉虫の身体を、ひとり虹色に輝かせていました。

 

             *

 

 ……忘れられたように里山の竹藪に残されている古びた東屋の中で、ひとりの天狗がぶつぶつと呟きながら、古めかしい手帖に何やら書き記していました。

 

 椿の香油を馴染ませた艶やかな黒髪は肩のあたりまで散切りに伸び、おかっぱ頭のてっぺんには、ふさふさの梵天(ぼんてん)飾りの組紐のついた赤い頭襟(ときん)が載せられていました。

 

「うーん。どうも仰々(ぎょうぎょう)しいですねえ」

 

 天狗は言うと、手帖に綴られた高価な楮(こうぞ)の和紙に惜しみなく赤いインクを重ねました。

 

 天狗は、もうずいぶんと永い刻(とき)を生きているようにも見えましたが、背中に鴉(からす)の羽が生えている以外は、人間の若い婦人となにも変わらない姿かたちをしていました。

 

「やっぱり無理に飾って書くのはね。ちゃんと自分の言葉で語らないと」

 

 天狗はほうと息を吐くと、フリルのついた短いスカートから覗かせた華奢な脚を組み替えて、上質な絹糸で編まれた真珠色のブラウスの胸ポケットに、愛用の万年筆をしまいました。

 

 それから手帖を静かに閉じて、海棠(かいどう)の花の色に似た桜貝のような滑らかな爪で、その表面を柔らかくなぞりました。

 

 椛の意匠の上級な綾織物(あやおりもの)で装丁された手帖の表紙には、『文花帖』と墨書きされた短冊が貼られていました。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。