「そろそろ、着いてもいいころですね」
竹林の奥にある古びた東屋の中で独り散文を綴っていた文は、手にしていた文花帖の表紙を静かに閉じました。
……ぽすっ。
小さな何かが、東屋の茅葺き屋根を突き破る音が聴こえました。
その刹那、建物全体を揺るがすような轟音とともに、空の上から白い塊が降ってきました。
「ああっ?! ──文、テメェ!!」
ほどなくして、崩れた土煙の中からヨロヨロと立ち上がった白い塊は、その場にいた見覚えのある顔を見つけると、今にも噛みつかんばかりの剣幕で目の前の天狗に飛びかかってゆきました。
「あら。
文は少しも動揺する様子もなくそう言うと、屋根から降ってきた顔馴染みの来訪者を澄ました顔で迎えました。
文と同じ幻想郷の「妖怪の山」で暮らしている
頭の上には大きな獣の耳が生えていて、お尻からはふさふさの白毛に包まれた長い
「アレを。──ソイツを黙らせろっ!」
ブラウスに結い付けられたリボンを引きちぎる勢いで文の胸倉を激しく揺さぶった椛は、地面の上に転がっている「アレ」を鼻先で示しました。
──ピッ。「ロクオンされたオンセイをサイセイします」
……「あーあーあー。本日は晴天なり。聴こえますか? 私です。清く正しい射命丸です!」
「な、なんだ? いきなり玉から声が! ──文さん?」
「どうやら、通信は問題なく行えるようですね。……お久しぶりです、椛。お元気そうでなによりです」
「久しぶり? この間会ったばかりじゃないですか。昼間っから、なに寝ぼけたこと言ってるんです?」
「ああそうでした。まあそれはいいとして。なにも聞かずに、そこに生えてるヤツデの葉を何枚か集めて、私のいる『こっち』まで来てくれないかしら?」
「はあ? ヤツデ? なにを藪から棒に。こっちって、仕事サボってどこで遊んでるんです? 大天狗様に言いつけちゃいますよ?」
「遊んでいるのではありません。まあちょっとした出張みたいなものですかねえ」
「そうですか。あいにく私は忙しい身なので、そんなことをしている暇はないんですよ。申し訳ないですね」
「へええ。河童と将棋をするのがそんなに忙しいことなのですかあ? 先輩である鴉天狗の私の命令は絶対なのです! 従わないなら、あなたの『こっ恥ずかしい過去』を全部、次号の『
「かあかあって、カラスみたいに。文さん、それってパワハラですからね」
「──おおっと。ここで突然ですが、第四三七回『妖怪の山大将棋 イン 玄武の沢清流戦』が今、開局いたしました!」
「──あーっと、いきなり天狗の無策攻めからスタートです! ちょっと、なんでそこで歩を打つのです? いや、そこはそれじゃなくてあれでしょう? あっ、だめだめ! この局面ではそっちの駒をあそこに……」
「うるさいな! 見えてないのになんでわかるんです? 横からごちゃごちゃ言われたら集中できないじゃないですか!」
「心眼で見ているのですよ。集中できないのは、あなたの気力のなさの表れです。……これは負けるのも時間の問題ですねえ」
「やかましい! それ以上わめいたら、背中の羽を手羽先にして喰ってやるぞ!」
「おーこわいこわい。でも、怒った顔もかわいいですよー椛ちゃん。──ほらほら。ぼっーとしてたら負けちゃいますよ?」
「……あああああ! 見ろ! 気が散ったから詰んじゃったじゃないか! 文さんのせいだからな!」
「ええっ、嘘でしょ? 本当に負けちゃったの? たったの三分で? 将棋ってそんなに早く勝負がつくものなの? ──これは、詰み将棋最短記録も同時更新か? 河童の頭脳と技術力の粹を集めた、にとりのAI将棋の前に、旧態依然のアナログ天狗の椛は、なす術もありません。『妖怪の山・天狗同盟犬走椛 四三七連敗新記録樹立! 玄武の沢・河童連合にとりに手も足も尻尾も出ず』……うふふ。これはいい見出しになりそうですねえ」
「だ、黙れえっ! この馬鹿ガラス! それ以上言うと噛みついて、そのお喋りな口を黙らせてやる!」
「ふふん。やれるものならやってみなさい」
「……コホン。あー、えー。
「……えー。哨戒天狗の犬走椛は今は昔。ちょっと気取って人里のお洒落な居酒屋に行ったとき。『マティーニ・ソーダ』を『マタニティ・ソーダ』だと思い込みドヤ顔で注文した挙句、『妊婦が入ってないじゃないか!』とわめき散らして出禁を食らった、あの自由になれた気がした十五夜の夜」
「うわあああ! やめてくれえぇ!」
……ひとりでに何度も繰り返される文の声に、椛は頭のてっぺんから突き出た両耳を塞いで東屋の床に突っ伏しました。
椛に乱されたブラウスのリボンを整え直した文は、床に転がっていた白い勾玉を静かに拾いあげました。
「これはね。博麗の巫女が持っている陰陽玉のレプリカなのよ。河童に依頼して作らせたの」
文は、それきりなにも言わなくなってしまった陰陽玉の片割れを、足元に這いつくばっている椛に見せました。
「……そうだ。にとりと将棋をしてたら、急に文さんの声が聴こえて、その玉に引っ張られて。気づいたら、いつのまにかここに」
「そういえば椛。お願いしたヤツデの葉は持ってきてくれた?」
「ああ、それならここに……。あれっ?」
椛は、ついさっき取ったきたばかりのヤツデの葉が、懐の中ですっかり干からびていることに気がつきました。
「そうなのよ。『ここ』は幻想郷と似ているのだけど、ちょっと違ったところもあってねえ」
文はそう言って、手首に巻きつけているアンティークな腕時計の盤面を椛に示しました。
「これは、
そうは言われても、十二時の位置からまったく動かないでいる文の時計の秒針を、椛は
「試しに、こちらの世界の時計と照らし合わせてみたら、三十分ごとに、腕時計の秒針が五秒ほどずつ動いていることがわかったの。……どうやらこの腕時計は、妖怪の山から送られてくる電波を、こっちでも正確に受信しているようね」
文は、高価なサファイアグラスで覆われた腕時計の
「どちらの世界も同じように時が過ぎていて、相対的に時間の流れだけが違うと仮定すれば。こちらの世界で丸一日過ごしても、私たちの住む幻想郷では、たったの四分ほどしか経っていないことになるのよ」
──つまり。
「幻想郷での一日が、こちらでは一年に相当するのです」
「そんな馬鹿な」椛は信じられないという目で、文の腕時計の針を見ました
「そうだ椛。ちょっとこの玉を手に持ってみてくれない?」
文は、椛を引っ張ってきた白い勾玉を彼女の手に載せました。
「いい? 落とさないようにしっかり握っているのよ」
意味もわからないまま手のひらに載せられた勾玉を見つめる椛に念を押した文は、それと対になる「赤い勾玉」を自らの右手に強く握りしめました。
──その瞬間、紅白二つの勾玉がまぶしく輝きはじめ、それぞれの玉が惹き合うように互いを吸い寄せはじめました。
「うわっ!? なんだこれ!」
「おおすごい! うれしいですよー、椛!」
「な、なにがですっ?」
「あなたが私のことを、こんなに想ってくれているなんて」
「は……あ? なにを言って、──うわあ!」
文と椛は強力な「磁力」に引き寄せられて、互いの額をひどく打ち付けました。
「あやややや……」尻餅をついた文は椛とぶつけた額をさすりながら、床に投げ出してしまった玉を拾い上げました。
二つに分割された赤と白の勾玉は合体して、もとの陰陽玉に戻っていました。
「あなたが持っていた白い勾玉と、私の持っていた赤い勾玉は、こんなふうにそれぞれが、もとは一つの『陰陽玉』だったのよ。それを陰と陽の二つに分割すれば、磁石のように引き合わせることも、逆に反発させて相手にぶつけることもできるわ」
「ああ! そうやって、あの巫女は陰陽玉を操ってるんですね」
椛は以前、妖怪の山に侵入した博麗の巫女に陰陽玉を思い切りぶつけられて、散々にやっつけられた苦い記憶を思い出しました。
「今回はぶつけるのではなくて、引き合うほうの力を使って、あなたをここに呼び寄せたの。陰と陽が引き合う力は、それぞれの玉を持つ者の霊力と、互いを想う力に比例するのよ。男と女が惹かれあうようにね。だから私はさっき、『うれしい』って言ったのよ」
「はあ? 私が文さんを想う? ──いやいやいや、そんなわけないじゃないですか! 文さんのせいでいつも面倒なことに巻き込まれてるんですよ? だいたい今度のことだって文さんが……」
「まあまあまあ。いいじゃない。……それよりご覧なさいな、この
隙間なくぴったりとくっついている陰陽玉を見て、文は満足そうに微笑みました。
「陰と陽。影と光。
鼻先に差し出された陰陽玉を、椛は訳もわからないというふうにその匂いを嗅ぎました。
「……でもねえ、この陰陽玉。資格のない者がむやみに使ったら、ただの
「どういうことです?」
「だ・か・らあ。半分こにしたそれぞれの玉が引き合う性質を利用して、幻想郷にいたあなたをこっちまで引っ張ってきたじゃない? それがもう、できなくなるっていうことよ」
紅白二つの勾玉が密着した陰陽玉は、文がどんなに引っ張っても、二度と剥がれることはありませんでした。
「陰陽玉に認められた正当な持ち主。博麗の巫女なら、何度でもその力を使うことができるのだろうけど。ここに彼女はいないしねえ。どうしましょうか」
「どうしましょうって。それじゃあ私たち、もう幻想郷には……」
「そういうことになりますかあ」
力を失ってただの瑪瑙の塊になってしまった陰陽玉を指の間でくるくると転がしながら、文は妙に楽しげに答えました。
──いつものように、河童と将棋をさしていただけなのに。
──わけもわからないまま、突然おかしな世界に引き摺り込まれて、妙なことに巻き込まれて。
──嫌だ。
「そんなの、いやだああ!」
椛は文の懐に取りすがって叫びました。「ここはどこなんです? なんで私まで巻き添えに? 帰してくださいよ! ここから出してくださいよ! 幻想郷に帰りたい!」
「まあまあまあ、落ち着きなさい椛」
文は泣きじゃくる幼子を
「ほんの少しだけ、私といっしょにここにいて。ね? そしたら二人でお山に帰りましょう。仮にひと月の間幻想郷を留守にしたって、三十年だけ歳をとって向こうに戻るだけよ。三十年なんて、二千年も生きる天狗の私たちにとっては、
「でも、その玉はもう使えないんでしょう?」
文の胸に抱かれた椛は涙に濡れた目で訴えかけました。
ふふん。文は得意げに鼻を鳴らすと、スカートの反対側のポケットの中から、先ほどまで持っていたものとは別の真新しい赤い勾玉を取り出しました。
「じゃじゃーん! ここに取り出したりまするは、『陰の勾玉パートツー』であります! にとりには、同じ陰陽玉を二個作らせていたのよ。もう片方の陽の勾玉は幻想郷にいる『相手』が持っているので、通信機能を使って交信すれば、あなたがここに引っ張っられてきたように、いつでも向こうに戻れるという算段なのです。美容のために持っておきたかったから、本当は使いたくなかったのですけどね。……だから安心なさい、椛」
「……ふーん。そういうことだったの」
二人の背後から、不意に声が聴こえました。
「げげっ?! 博麗の巫女!」
うしろを振り向いた天狗の文は、神霊のように音もなくその場に降臨した人の子を見て
「あやややや?
「どうしてかだって?」
自身の頭ほどもある真っ赤なリボンでポニーテールの黒髪を束ねた博麗の巫女霊夢は、目元に掛かった前髪を指先で払い除けると、さも不機嫌そうに天狗の問いかけに応えました。
「結界を抜けたアンタたちを、退治しに来たのよ」
「あやや? 退治だなんてそんな物騒な。巫女のあなたに言われるような
「なにもしてない? 不正な手段で勝手に外に抜け出ておいて、よくもまあしゃあしゃあと言えるわね?」
霊夢は怒りで唇を震わせました。
「あんたらみたいな妖怪が二人も揃って幻想郷から抜け出ること自体、博麗の大結果を預かる巫女の私にとっては、十分すぎるくらいの『異変』なのよ。にとりに乗せられて、陰陽玉をちょお〜っと貸したつもりが、『これ』と同じものを裏で二つも作られていたなんてね。まったく大したものだわ」
古来の巫女装束を洋服にあつらえた
「しかし。よくここがわかりましたねー。霊夢さん」
「なんとなくよ。結界の外にうっすら気配を感じて来てみたら、偶然ここにあんたらがいたってわけ」
手にした陰陽玉をワイングラスを転がすように
「……それはそうと。あんたは最初にどうやってここへ来たの? こっちに椛を呼び寄せる前は、その陰陽玉はまだ存在しなかったはずよね? それとも私や誰かさんみたいに、次元を超えて瞬間移動でもしたのかしら?」
霊夢は、茶色の瞳で鋭く天狗の目を見据えました。
まだ十四、五歳くらいの人間の小娘にしか見えない巫女の華奢な身体からは、どんな強大な相手にも
「……答えなさい。返答次第では、例えあんたでも容赦はしない」
霊夢は毅然として文の前に立ち塞がると、長い柄の先に
「それは……」
「ちょっと失礼」
文は慌てて背を向けて、赤い勾玉を受話器のようにして右耳に押し当てました。
「──ハイ、文です。もしもし? ……あ、……さん? 今はちょっとマズいですよ。いえ、その。霊夢さんが」
「なにコソコソ二人で話してるのよ」文の背中越しに霊夢が尋ねました。
「いるんでしょ?
「……あらあ? バレちゃったら仕方ないですわね」
言葉とともに、赤黒い割れ目の「スキマ」が宙に開きました。
その中から、派手なリボンと幾つものフリルのぶら下がったピンクの日傘を差した、
「出ましたあ。
八雲と名乗った「スキマ妖怪」の紫は、愛用のシルクの日傘を閉じると、純白のオペラグローブをはめた両手で、紫色のドレスの裾をふわりと優雅に持ち上げました。
「やっぱり。アンタが裏で糸を引いていたのね? 紫」
「糸を引いてただなんて。人をそんな納豆みたいに言わないでいただけるかしら? 霊夢。……まあ、納豆は嫌いではありませんけれど」
ルージュの塗られた紅い唇を薄桃色の扇で隠しながら、紫は華やかな声で笑いました。
「アンタが絡むと、いつもロクなことがないのよ」
霊夢は悪態をついて、空中で脚を組んでいる紫を見上げました。
「……それで? 幻想郷の仙人様と妖怪の山の天狗は、ここでコソコソとなにを企んでいたわけ? 博麗大結界となにか関係があるのかしらね? 全部話してもらおうじゃないの」
霊夢は手にしていた祓串の紙垂を、紫の眼前にさわさわと揺らしました。
「さすがは、陰陽玉が見込んだ『永遠の巫女』といったところかしら。……いいでしょう。博麗の巫女であるあなたにも、それを知る権利がありますもの」
空間のスキマを閉じた紫は、ゆらりと優雅に地に足をつけました。
「でもどうせなら、おいしいお茶でも飲みながら、ゆっくりとお話ししたいものですわね」
「ああ、それなら!」文が
「この辺りに、ちょうどいい神社があるのです。みなさんごいっしょにお酒でも飲みながら、そちらでお話ししましょう!」
「またそんなうまいこと言って」
悲観に暮れていた椛は、文以外の幻想郷の住人、それも一番頼りになる霊夢と紫の二人が揃って現れてくれたことにすっかり安心して、いつもの落ち着いた口調で言いました。
「私、知ってるんですからね。文さんが持ってる文花帖に、幻想郷の間欠泉で盗撮した妖怪たちの『お肌も露わなムフフな写真』が、い〜っぱい貼られてることを。新年号特別袋とじ! とかなんとか言って、文々。新聞の勧誘に使う気でしょう?」
文のミニスカートから伸びた白い素足が、地面にアヒル座りをしている椛の顔のすぐ真横にありました。
「だいたい、文さんのそのスカートも短すぎるんですよ。純朴な人里の男たちを色仕掛けで惑わそうったってダメですからね?」
「はあ……。あなたといい、にとりといい」
文は呆れたように溜め息をつきました。
「このスカートとブラウスその他のコスチュームは、幻想郷最速の鴉天狗の私が永きに渡りファッション性と機能性の両立を極限まで追求した、『|和洋折衷超速修験装束《わようせっちゅうちょうそくしゅげんしょうぞく》すぺしゃる』なのです! それに私の高尚な新聞を、そのへんの『薄い本』といっしょにしないでくれますかあ?」
「あんたのスカート云々はともかく、温泉で盗撮とは聞き捨てならないわね」
椛の話を聞いた霊夢は、「ブン屋」の鴉天狗を睨みつけました。「まさかあんた。その中に私も含まれてるんじゃないでしょうね?」
「あややややや! 盗撮だなんてとんでもない! これを見てください。取材ですよ、取材!」
文の右腕には、崩れた字体で「取材中」と記されているオレンジ色の腕章が着けられていました。
「ネタと読者は自分の『脚』で見つけるものなのです。清く正しい射命丸! 心配しなくても、みなさんの玉肌はこれで堂々と撮りますから」
文はスカートの裾を捲り上げて、レッグストラップで太腿に固定している愛用のカメラといっしょに、自慢の脚線美を魅せつけました。
「さあさあ、おいしいお酒がみなさんを待っていますよ。──いざ鎌倉へ!」
「……やっぱりアイツ。退治するべきだわ」
黒い翼を太陽に広げて飛び立った鴉天狗のあとを、霊夢と少女たちは、冷たい秋の朝風に乗って空の中へと舞い上がってゆきました。