もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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序章 中学編
第1話 大事故五秒前


 9月になっても、放課後のグラウンドには夏の暑さが残っていた。

 

 乾いた打球音と野手たちの声が、校舎の壁に響いている。

 そこから少し離れたブルペンで、早田進一郎(はやたしんいちろう)は右手のボールを握り直した。

 

「村松さん、もう一球お願いします」

「おう」

 

 マウンドの後方では、嵐徳夫(あらしとくお)がバットを杖のように地面につけていた。

 中学2年生にしては肩幅が広く、がっしりした身体つきだ。黙っていれば少々怖い顔つきだが、黙っていることはあまりなかった。

 

「今度こそ、ど真ん中に決めてみろよ」

「ど真ん中じゃ駄目だろう」

「そういう意味じゃねえって!」

 

 早田は軽く息を吐き、捕手のミットへ目を向けた。

 セットポジションから足を上げる。

 身体をひねり、左足を踏み込む。

 右肩が前へ出て、腕が遅れてついてくる。

 

「ふっ」

 

 指先を離れたボールが、真っすぐミットへ向かった。

 パシッ、とミットの乾いた音が鳴る。

 

「お、いいじゃねえか」

 

 嵐が声を上げる。

 

「そうか?」

「そうだろ。今の、いい音したぞ」

 

 早田は返球を受け取った。狙いより高く、少し外へ抜けていた。

 速さも制球も、直したいところはいくらでもある。それでも、右で投げる動作そのものに迷いはなかった。

 何年も繰り返してきた動きだ。どこで力を入れ、どこで抜くかは、身体が覚えていた。

 

「早田」

 

 ブルペンの外から別の声がした。

 

「……何、井出」

 

 井出正也(いでまさなり)が、細い身体を少しかがめるようにしてこちらを見ていた。

 背は高いが、嵐とは対照的に身のこなしが軽い。

 口元には、何か言いたげな笑みがある。

 

「今の、ちょっと外に抜けたでしょ」

「分かってる」

「なら、余計なこと言ったかな」

「もう言ってる」

「それもそうだね」

 

 井出は笑って、ノックの列へ戻っていった。

 

「離れたとこから、よく見てやがるな」

 

 嵐が感心したように言った。

 

「俺も分かったぞ」

 

 答えたのは、ミットを構えていた村松昭二(むらまつしょうじ)だった。

 中学3年生の村松は、夏の大会を終えてすでに引退している。それでも今日は練習に顔を出し、早田の球を受けてくれていた。

 キャッチャーマスクの奥の目元は穏やかで、後輩たちよりずいぶん大人びている。

 

「村松さんは捕ってるんだから、当たり前でしょうよ」

「それはそうだな」

 

 村松は笑ってボールを返した。返球は速かった。

 早田がグラブで受けると、手のひらへずしりと衝撃が伝わる。

 

「相変わらず肩、強いですね」

「早田も、まだまだ伸びるさ。次はチェンジアップを投げてみろ」

「分かりました」

 

 早田は球を右手に持ち替え、チェンジアップの握りを確かめた。握りは違っても、速球と同じように腕を振る。

 村松がミットを構える。

 早田は足を上げ、踏み込み、右腕を振った。

 指先から球が抜ける感触があった。

 ボールは直球より勢いを落とし、村松のミットへ収まった。

 

「いいな。速球と同じ腕の振りだった」

「……少し高かったです」

「そこは次の課題だな。でも、指から抜く感覚は悪くなかっただろう?」

「はい」

 

 早田は右手の指を開き、球が離れたときの感触を確かめた。

 ただ力を抜けばいいわけではない。その加減も、今の右手には自然に分かる。

 早田はグラブを握り直した。

 

「もう一球、お願いします」

「おう」

 

 村松が腰を落とす。

 早田はもう一度、右腕を振った。

 今度は低め。

 ミットが気持ちよく鳴った。

 

「うん。今のはいい」

 

 早田は小さく頷くと、次のボールに手を伸ばした。

 何も変わらない、いつもの練習だった。

 

 

     *

 

 

 グラウンド整備を終える頃には、陽が少し傾いていた。

 早田がバッグを肩にかけると、嵐が隣へやってきた。

 

「おう、早田。帰ろうぜ」

「ああ」

「……あれ、井出は?」

「先に帰ったぞ」

 

 後ろから村松が答えた。

 

「たぶん、また何か調べものでもするんだろう」

「あいつ、勉強好きだよなあ」

「学校の勉強とは限らないけどな」

 

 嵐が肩をすくめる。

 

「成績はいいし、あんなに勉強しなくても困らねえだろ」

「好きでやってるなら、別にいいんじゃないか?」

 

 早田が言うと、嵐は目を丸くした。

 

「おめえがそれ言うか。帰ったら自分も勉強すんだろ?」

「するぞ」

「ほらな」

 

 村松が小さく笑った。

 三人は校門へ向かった。途中で村松と嵐が別の道へ曲がり、早田は一人になった。

 帰ったら宿題を済ませ、夕飯の支度をする。父の帰りが遅い日は、いつもそうだった。

 

 母を幼い頃に亡くし、早田には自分のことを自分でする習慣がついていた。

 明日もまた練習がある。嵐はきっと騒がしいだろうし、井出は細かいところに気づくだろう。村松に球を受けてもらえるかもしれない。

 そんな当たり前の明日を思いながら、早田は帰り道を歩いていた。

 

 

     *

 

 

 夕方の道路には、まだ昼間の熱が残っていた。街路樹からは、ときおり蝉の声が聞こえてくる。

 早田はバッグの肩紐を直し、歩道の端を歩いた。

 家までは、あと少しだった。

 

 後ろでエンジンが鳴った。

 大きな音が、急速に近づいてくる。

 だが、道路を車やバイクが走るのは珍しくない。

 早田は振り返らず、そのまま前へ進んだ。

 音が、急に大きくなった。

 背後で、何かが縁石にぶつかるような硬い音がした。

 次の瞬間、背中を殴られたような衝撃が走った。

 

「――っ!?」

 

 足が地面から離れた。何かにぶつかったと理解するより先に、身体が前へ飛んでいた。

 空が見えた。

 道路が傾き、建物が横へ流れる。

 街路樹の幹が視界に飛び込んできた。避ける暇もなく、右肩から叩きつけられた。

 鈍い音とともに、肩の奥を焼くような痛みが走った。

 

「……っ!」

 

 声が出なかった。

 地面に落ちた拍子に肺の空気が押し出され、息を吸おうとしても吸えない。

 膝も背中も痛んだが、右肩だけは違った。何かが刺さったままのように、痛みが抜けない。

 

「……何、だ……」

 

 早田は顔を上げようとした。

 道路の向こうに、大型バイクが倒れていた。周囲に人が駆け寄っている。

 さっきのエンジン音が、耳の奥に残っていた。

 後ろから、あれに追突されたのか。

 早田は自分の右腕を見た。

 動かそうとした。

 

「……ぐっ!」

 

 肩に激痛が走る。

 指は動く。手も握れる。だが、腕を持ち上げようとすると、痛みで身体が止まった。

 

「……動け」

 

 もう一度。

 

「動けよ……」

 

 痛みが増しただけだった。

 早田は歯を食いしばる。涙がにじんだのは、痛みのせいだと思いたかった。

 ついさっきまで、何も考えずに右腕を振っていたのに。

 

「大丈夫か!」

 

 誰かが近づいてきた。

 

「救急車! 誰か呼んで!」

「動かさない方がいい!」

 

 いくつもの声が重なる。

 早田は返事をしようとした。

 

「……大丈夫、です」

「大丈夫じゃないだろ。もう動くな、いいな!」

「……はい」

 

 言われるまでもなく、動けそうになかった。

 近くの大人が何か話しかけている。聞こえてはいるのに、言葉が頭に入らない。

 右肩が痛い。それ以上に、腕が上がらないことばかりが気になった。

 

 やがて、遠くからサイレンが聞こえてきた。

 

 

     *

 

 

 救急隊員が到着すると、周囲の声に代わって、落ち着いた問いかけが聞こえた。

 

「名前、言えますか」

「早田……進一郎です」

「何歳?」

「14です」

「一番痛いのは、どこ?」

「右肩……です」

 

 ほかにも膝や背中が痛んだ。早田が訴える場所を、救急隊員は一つずつ確かめた。

 

「右腕は無理に動かさないでください。こちらで支えますからね」

「……分かりました」

 

 担架へ移されるとき、身体が少し揺れた。

 肩に響く痛みに、早田は息を止めた。

 救急車の扉が閉まる。

 サイレンが鳴り、車体が動き出した。

 

 早田は救急車の天井を見つめ、村松のミットへ決まった一球を思い出した。

 低めへ決まって、いい音がした。次はもう少し速い球を投げようと思っていた。

 あれが今日の最後の一球だった。

 いや、明日にはまた投げられるかもしれない。そう思い直した途端、右肩の痛みが意識を引き戻した。

 

「……野球」

「え?」

 

 隣の救急隊員が顔を寄せる。

 

「何か言いました?」

「……いえ」

 

 早田は目を閉じた。

 怪我がどの程度なのか、まだ分からない。病院で診てもらえば何か分かるはずだ。

 今は、それを待つしかなかった。

 

 

     *

 

 

 病院に着くと、すぐに検査が始まった。

 

 診察台へ移され、痛む場所を確かめられ、画像検査も受けた。何度も名前を呼ばれ、そのたびに返事をした。

 どれくらい時間が経ったのか分からなかった。

 全身に擦り傷や打撲があり、何か所かは捻挫もしていた。骨折は見つからなかったが、右肩の状態は軽くなかった。

 仕事を抜けて駆けつけた父親が、ベッドのそばに座っている。

 いつも帰りの遅い父が、まだ明るいうちにここにいる。

 そのことが妙に落ち着かなかった。

 

「右肩の腱に、重い損傷があります」

 

 医師が検査の結果を説明した。

 

「まずは傷めた部分を治療して、しばらく経過を見る必要があります。入院もしてもらいます」

 

 父親が身を乗り出した。

 

「治るんでしょうか」

「回復の程度は、今の段階でははっきり言えません。治療を進めながら判断します」

 

 早田は黙って聞いていた。

 右肩の腱。ついさっきまで当たり前に使っていた場所が、傷ついている。

 

「……野球は?」

 

 口を挟んだのは、早田だった。

 医師は少し表情を改めた。

 

「野球をやっているんですね」

「はい。投手です」

「そうですか。今は投げることを考えず、まず肩を治しましょう。無理をすると、回復に時間がかかることもあります」

「いつ頃、投げられますか」

「そこは、まだ約束できません」

 

 早田は唇を結んだ。

 いつから練習できるのか。元どおり投げられるのか。知りたかったことには、まだ答えがなかった。

 

「……分かりました」

 

 早田はそれ以上、尋ねなかった。

 父親が何か言いかけたが、結局、黙って早田の右肩へ目を向けた。

 医師が席を外すと、早田は父親の足元に置かれた仕事用の鞄を見た。

 

「……仕事は、大丈夫なのか」

「大丈夫だ。気にするな」

「……分かった」

 

 父親はそれ以上何も尋ねず、早田の右肩に触れないよう、掛け布団の端をそっと直した。

 

 

     *

 

 

 その夜、病室の明かりが落とされても、早田はなかなか眠れなかった。

 

 寝返りを打つだけで右肩が痛んだ。楽な姿勢を探しているうちに、また目が冴える。

 窓の外に街の明かりが並んでいた。早田は天井を見ながら、夕方のブルペンを思い返した。

 

 足を上げ、踏み込む。右腕を振る。ミットが鳴る。

 何年も当たり前だった動作が、今はできない。

 もし、このまま投げられなかったら。

 

 医師にも、まだ分からない。ならば今は治療を受けるしかない。それは理解していた。

 だが、目を閉じれば、嵐の声や井出の指摘、村松のミットが浮かんだ。

 明日もグラウンドでは練習が続く。自分がいなくても、ボールは飛び、誰かが声を上げる。

 それが悔しかった。

 早田は左手を布団から出し、右手の指先に触れた。まだ温かい。自分の手だ。

 治療を受ければ、また動くようになる。そう信じたかった。

 

 目を閉じても、なかなか眠りは来なかった。

 

 

     *

 

 

 翌朝、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。

 早田は身体を起こそうとして、右肩の痛みに顔をしかめた。

 

「……くっ」

 

 膝も背中も痛む。右肩は、やはり思うように動かない。

 窓の外は晴れていた。今日は学校がある。いつもなら、制服に着替え、授業へ向かう支度をしている時間だ。

 その当たり前の動作さえ、今の右肩では思うようにできない。

 

 早田は視線を右手へ落とした。指をゆっくり曲げると、握ることはできた。

 だが、肩を動かせば痛む。早田は無理に腕を上げず、右手をそっと握り直した。

 

「……戻す」

 

 小さな声が病室に落ちた。

 

「右腕を」

 

 いつ、どこまで元に戻るかは分からない。

 それでも治療を受け、リハビリを続け、もう一度投げる。早田には、今はそれしか考えられなかった。

 

 

     *

 

 

 その朝の早田は、まだ知らなかった。

 治療を終えても右肩が以前のようには動かず、再びマウンドに立つまでに、思いもしなかった遠回りをすることを。

 病室の朝の光の中で、早田は右手を握っていた。

 

 もう一度、投げるために。

 

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