9月の教室には、夏の名残がまだ居座っていた。
早田は窓の外から視線を戻し、国語の教科書を開いた。
机の端には、第一志望の欄が空白の進路希望調査が挟んである。
「今日は、少し趣向を変えてみよう」
国語教師が黒板に大きく「川柳」と書いた。
教室のあちこちで、椅子を引く音がした。
「俳句と同じように五・七・五を基本とするが、季語は必ずしも要らない。人の癖や暮らしの一場面を、可笑しみや皮肉を交えて詠むことも多い。今日は身近な人を題材に、一句作ってもらう」
黒板の下には、五、七、五と数字が並んだ。
「ただし、皮肉だからといって何を書いてもいいわけじゃないぞ。相手を傷つけたり、中傷したりするような句は作らないこと。笑いにするなら、言われた相手の気持ちも考えなさい」
早田はノートの余白に線を引いた。
意味のある言葉を、決められた音数に収める。そういう作業なら、嫌いではない。
だが、何を題材にするかというところで手が止まった。
「おい、早田」
隣の方から嵐が身を寄せた。
声が少し大きく、教師に見られないよう慌てて背を戻す。
「できたら見せろよ」
「まだだ」
「へへっ。俺はもう決まったぜ」
嵐は机に向き直り、太い字で何かを書き始めた。
その向こうでは井出が、鉛筆を指先で回しながら考えている。
三人は今年、同じクラスになった。部活を引退した今、休み時間の話題には模試や内申が増えている。
10分ほどして、教師が「隣同士で見せ合ってもいいぞ」と言った。
嵐が待っていたように振り返った。
「よし、俺からいくぜ。早田、おめえの句だ」
「俺の?」
「『もう少し、周り見渡せ、向こう見ず』。どうでえ」
早田は嵐のノートを見た。
指で音を数えるまでもなく、五・七・五に収まっている。
言われている内容にも、覚えがあった。
守備では打球に集中するあまり、走者の動きを見失ったことがある。
左で投げ続けると決めたときも、嵐は何度か呆れた顔をしていた。
「……よくできてる」
「おっ、分かるか!」
「俺への忠告としても、正しい」
「そうそう。そこが大事なんだよ。もうちっと周りを見ろってことだ」
嵐が満足げに頷く。
井出はそれを見て、口元を緩めた。
「じゃあ、次は俺だね。嵐を題材にしたよ」
「おう、聞いてやらあ」
「『まぐれ打ち、あとは野となれ、山となれ』」
「誰がまぐれ打ちだ!」
嵐の声に、前の席の生徒が振り向いた。
教師も教卓から顔を上げる。
「嵐。声を落とせ」
「す、すんません!」
教室の何人かが笑った。
嵐は口をへの字に曲げ、井出へ顔を寄せた。
「おめえな、3本打ったの見てただろうが」
「もちろん。で、次の試合で3回とも三振したのも見てたけど。一発か三振のギャンブルヒッター」
「ぐっ……あれは相手の投手がよかったんでえ」
「それはそうだよ。でも、いつも全力で振るから、当たったらどこまで飛ぶか分からないし、空振りも大きいだろ。そこが嵐らしいと思って」
井出はノートを指先で軽く押さえた。
「実はこれ、最初はもっと長かったんだ。七・五調っぽく考えていた部分を削って、川柳の五・七・五に整えたんだよ」
「何だよ、もっと長ぇのか」
「うん。『当たるを幸い振り抜いて、あとは野となれ山となれ、行方は球に聞いてくれ』」
「おい! そっちの方がひでえじゃねえか!」
「だから短くしたんだよ」
井出は涼しい顔で答えた。
嵐は反論しかけ、結局鼻を鳴らした。
井出が嵐の長打力を認めているのは、早田にも分かっていた。
「ったく。早田、おめえも何か言ってやれ」
「俺もできた」
「お、誰だ?」
「井出」
早田はノートの一行を、読み上げた。
「『打球追い、素早く捕って、肩透かし』」
井出が黙った。
「……早田。君まで俺の肩をいじるの?」
「打球を追うのは速い。捕るのも速い」
「うん。そこまではいいね」
「そして、送球は弱い。肩透かしだ」
「最後を繰り返さなくても分かるよ!」
嵐が机を叩きかけ、慌てて手を止めた。
代わりに肩を震わせる。
「ははっ。うめえな、それ! 早田、おめえ案外やるじゃねえか!」
「言葉が合っただけだ」
「そういうところが、なおさら腹立つんだけど」
井出は苦笑しながら、自分のノートに早田の句を書き写した。
早田も、二人の句を見て小さく頷いた。
野球部で過ごした時間が、こんな形で教室に戻ってくるとは思わなかった。
「おい、そこの三人。真面目にやれ」
教師の声が飛んできた。
「人を傷つける句は作るなと言っただろう」
「ちゃんと課題をやってましたよ!」
嵐が慌てて答えると、教師は三人の机に目を向けた。
「なら、なおさらだ。そして静かにやるように。ほかの人も考えているんだからな」
「……はい」
嵐が声を落とし、井出は小さく肩をすくめた。早田も黙ってノートに目を戻した。
やがて授業は、長い説明文の読解へ移った。
早田は設問に目を落とし、鉛筆を止めた。
文章の内容は理解できる。だが、筆者の主張を問う設問では、似たような選択肢のうち、どれが最も適切なのか判断に迷った。
早田はもう一度、文章の最初から目を通した。
*
放課後、三人は学校の図書館に集まった。
窓際には午後の日差しが差し、ほかにも受験勉強をする3年生が何人かいた。
嵐が大きな鞄を床に置くと、井出がすぐに人差し指を口元へ立てた。
「ここ、図書館だからね」
「まだ何も言ってねえだろ」
「言う前に止めておこうと思って」
嵐は唇をとがらせたが、椅子は静かに引いた。
早田は教科書と、国語の間違いをまとめたノートを机に並べた。
「今日は何からやる?」
井出が尋ねた。
「数学だ。昨日の問題、答え見ても分かんなかった」
「どれ?」
「これだよ。何でここで文字が増えるんだ?」
嵐が問題集を開いた。
井出は式を一目見てから、自分の紙に途中の計算を書き直した。
「増えたんじゃなくて、隠れていた条件を式にしただけ。ここを先に読んで」
「……ああ、そういうことか」
「じゃあ、次は自分でやってみて」
「分かったよ」
鉛筆が紙を擦る音が続いた。
嵐が手を止めるたび、井出は答えを教えず、問題文のどこを見るべきかを示した。
そうして10分ほどかけて、嵐はようやく解を出した。
「できた!」
声が大きかった。
近くの席の生徒が顔を上げ、嵐はすぐに頭を下げた。
「……できた」
「聞こえてるよ。しかも正解」
「おう」
嵐が胸を張る。
井出は答案に丸をつけ、次の問題集を差し出した。
「じゃあ、今度は短い小テスト。四択が多いから、すぐ終わるよ」
「そいつは任せろ」
嵐は急に元気になった。
地理や理科の基礎問題が並んでいる。3問目までは順調だったが、4問目で手が止まる。
「これ、知らねえな」
「分からないときは、まず違うものを消して」
「分かってらい」
そう言いながら、嵐は鉛筆を倒しかけ、井出に睨まれてやめた。
問題文を見直し、選択肢を順に追う。
それでも判断がつかないものには、迷わず丸をつけた。
採点すると、10問中9問が正解だった。
井出は答えを見比べ、もう一度、嵐の顔を見た。
「……9問?」
「へへっ、どうでえ」
「ちょっと待って。6問目はどう考えた?」
「6問目? ああ、何となく3番だと思った」
「7問目は?」
「1番。4番は違う気がしたからな」
「それ、根拠じゃなくて感想だよ」
「当たったんだからいいじゃねえか」
井出は残りの問題も理由を確かめた。
正解した問題にも理由を説明できないものがあり、記述問題を出されると、嵐の鉛筆は止まった。
「……こいつは四択じゃねえのか」
「見れば分かるでしょ」
「何か選ぶもの寄越せよ」
「答えを自分で書く問題なんだってば」
嵐は天井を仰いだ。
その様子に井出は笑いかけたが、すぐに問題集を手前へ寄せた。
「まあ、勘が当たるのも嵐の強さかもしれない。でも、入試の全部が四択ってわけじゃない。理由が分からない問題は、次も当たるとは限らないからね」
「へいへい」
「返事が軽い」
「分かってるって。さっきの数学だって、教わりゃ解けたろ」
「そうだね。だったら、できる問題を増やそうよ」
嵐は口を閉じた。
「……もう一問、出してくれ」
「りょーかい」
嵐は改めて鉛筆を握った。
早田は二人のやり取りを聞きながら、国語の問題へ戻っていた。
説明文の中で、筆者はある意見をいったん認め、そのあとで別の考えを示している。
早田は、最も強い言葉で書かれた一文を根拠に選択肢を選んだ。だが、その一文は、筆者が反論するために紹介した他人の意見だった。
文章を読むだけではなく、設問がどこを問うているのかまで考えなければならない。
それが、今の自分の弱点だった。
「早田、ずいぶん同じページ見てるね」
井出が声を落として尋ねた。
「……筆者の主張を取り違えた」
「どこで?」
「ここだ。強く書かれているから、こっちが結論だと思った」
「その前に『たしかに』ってあるでしょ。で、次の段落は『しかし』で始まってる。そこで向きが変わってるんだよ」
井出は二つの接続語を指先で示した。
早田は文章を戻って読み直した。
言われてみれば、確かにそうだった。
「……理解した。もう一問やる」
「いいけど、急がなくていいよ」
早田は頷き、次の文章を開いた。
問題を読み進めるうち、周囲の気配が薄れていった。
時計を見るのを忘れ、ページの上だけに注意が集まっていく。
井出が二度目に声をかけたときも、早田は顔を上げなかった。
「早田」
「……」
「早田、もう閉館時間が近いよ」
肩を軽く叩かれて、ようやく顔が上がった。
「……何だ」
「何だ、じゃないよ。もう片づけよう」
時計の針は、思っていたより進んでいた。
早田はノートを閉じ、解いた問題の数を確かめる。
予定より進んだが、休憩を忘れていた。
「集中するのはいいけど、水くらい飲みなよ」
「そうする」
水筒を手にした早田の横で、嵐が問題集に顔を近づけていた。
「おめえ、まだやってんのか」
早田が言うと、嵐は最後の一問を書き終えてから顔を上げた。
「さっき井出に教わったやつだ。今度は自分で解けたぜ」
「そうか」
「……おう」
嵐の顔には、四択で9問当てたときとは違う、静かな満足があった。
井出が問題集を見て、丸を一つつけた。
「こっちの正解の方が、俺は嬉しいな」
「俺だってそうだよ」
三人は本を元の棚へ戻し、夕方の廊下へ出た。
まだ明るい窓の外に、野球部の練習する声が聞こえた。
嵐は一度そちらを見たが、足を止めなかった。
それぞれが、今は別の練習をしていた。
*
翌日の夕方、早田は科学特進高校の正門前に立っていた。
科学特進高校は、自宅から歩いて10分ほどの場所にある。
門扉の向こうに校舎が見える。
県内の公立高校で最も入るのが難しいと言われる学校。
けれど今は、入試の難しさだけを表す名前ではなくなっていた。
村松昭二が、ここにいる。
早田は校舎の奥へ目を向けた。
野球部の姿は見えず、グラウンドがどこにあるのかも、まだ知らなかった。
入学できても、すぐに投手として使ってもらえるわけではない。左で野手として守る技術も、まだ十分とは言えなかった。
早田はそこを、都合よく忘れたくなかった。
左の守備が、試合に出せるところまで届かなかったからだ。
黒部の判断は理解している。
それでも、悔しかった。
あの悔しさを繰り返さないためには、進学先を決めるだけでは足りない。
早田は門の前から離れ、帰り道を歩いた。
夜、父が帰宅したときには、食卓の上に夕食が並んでいた。
早田は鍋の火を止め、手を洗う父に声をかけた。
「父さん。進路の話がある」
「ん? どうした」
「第一志望を決めたい」
父は手を拭き、椅子へ座った。
仕事帰りで疲れているはずだが、父は急かさなかった。
「どこにするんだ」
「科学特進高校」
父は少し目を見開いた。
「あそこか。近いけど、ずいぶん難しい学校だぞ」
「分かってる」
「理由は?」
「勉強する環境がいい。通学時間も短い。それに……村松さんがいる」
父は、そこで頷いた。
村松は、早田が入院していた頃から再起を支えてくれた先輩だった。
「野球か」
「うん」
「高校でも左で投げるつもりなんだな」
「そのつもりだ」
父は食卓の箸を持ち上げかけ、また置いた。
「進学先を野球だけで決めるな、とは言いたい。でも、お前は学校のことも調べたんだろう?」
「調べてる。授業についていくのも簡単じゃない。国語は特に対策が要る」
「そうか」
父はしばらく考え、息を吐いた。
「じゃあ、頑張ってみろ。どこを受けるにしても、最後まで自分で考えて決めなさい」
「分かった」
それだけの会話だった。
父は必要以上に褒めたり、反対したりしなかった。
早田にとっては、その方がありがたかった。
食後、早田は自室で学校の案内と成績表を並べた。
英語と社会は今の得点を維持する。数学と理科は、公式を覚えるだけでなく応用問題にも対応しなければならない。
国語は、図書館で解いた説明文をもう一度見直す必要があった。
得意なことだけで勝負できる高校ではない。
左腕も同じだった。
腕の振りを覚え、球を投げられるようになったところで、投手になれたとは言えない。
どちらも、一つずつできることを増やすしかない。
机の引き出しから、進路希望調査の用紙を出す。
第一志望の欄には、まだ何も書いていない。
早田はペンを持ち、ゆっくり学校名を記した。
『科学特進高校』
書き終えてから、しばらくその文字を見つめた。
村松のミットを思い浮かべる。
右で投げていた頃も、左で投げ始めてからも、あのミットが球を受け止めてくれた。
もう一度、あの人に受けてもらいたい。
ただし、今度はそれだけでは終わらせたくない。
早田は進路希望調査を机の端へ置き、国語の問題集を開いた。
第一志望と書くのは、一瞬で済んだ。
そこへ届くために必要な時間は、まだ始まったばかりだった。
翌日の休み時間、早田は井出に報告した。
「科学特進高校に決めた。第一志望だ」
「そう。じゃあ、今度は本当に同じ学校を受けるんだね」
「うん」
「村松さんのためにも、国語を何とかしないと」
「それは分かってる」
井出は少し笑い、問題集のページを開いて見せた。
「じゃあ、今日も放課後、図書館ね」
「分かった」
離れた席にいた嵐が、二人の方を振り向いた。
「おう、俺も行くぜ」
嵐の第一志望は、まだ別の私立高校だった。
ただ、早田が決めたという話は、嵐の胸に小さく残った。
*
その晩、嵐は居間の床に座り、学校案内の紙を広げていた。
夕食の片づけが終わり、テレビでは野球中継が流れている。画面の中で打者が思い切り振り、鋭いファウルを打った。
嵐の手が、ついスイングの形に動く。
「兄ちゃん、また野球?」
先に口を開いたのは、妹の
伊織はソファの端に座り、徳夫の手元をのぞいていた。
弟の
「何だよ。テレビくらい見るだろ」
「見てるだけじゃなくて、今、腕動かしてた」
「癖だよ、癖」
大助が笑い、床に広げられた学校案内を一枚持ち上げた。
「これ、高校の?」
「そうだ。折るなよ」
「兄ちゃん、ここ行くの?」
「今んとこ、そこを一番に考えてる。俺の成績なら、無茶しなくて済むしな」
嵐が示したのは、私立高校の案内だった。
専願で受験するつもりで、以前から資料を集めている。
野球部もあり、通学できる。成績を考えても現実的な選択だった。
変える理由は、これまで特になかった。
伊織は別の資料へ手を伸ばした。
「こっちもあるじゃない。科学特進高校」
「そいつは、まあ……候補だ」
「ふうん」
伊織は紙の上に書かれた学校名を見て、顔を上げた。
「早田さんと井出さんが行きたいところ?」
「何で知ってんだよ」
「兄ちゃんが話してたでしょ。この前」
嵐は口を開けかけて、閉じた。
そういえば、井出の進路の話を家でした覚えはあった。
「それにさ、兄ちゃん、学校の話っていうと、いつもあの二人の名前が出るよね」
「はあ? そんなことねえだろ」
「出るよ」
大助が間髪入れずに言った。
「早田さんが左で投げたとか、井出さんに何か言われたとか」
「そりゃ、一緒に野球やってたんだから話すだろ」
「村松さんがいたときは、村松さんの話もしてたよね」
伊織の一言に、嵐は少し黙った。
「……まあな」
「兄ちゃんが一番楽しそうに話すの、そういうときだよ」
伊織は特にからかうでもなく、そう言った。
大助が頷く。
「夏の大会でホームラン3本打ったって話も、最後には早田さんと井出さんの話になってた」
「3本は俺が打ったんだぞ」
「知ってるよ。何回も聞いたもん」
嵐は言い返せなかった。
あの大会の話を、何度家で繰り返しただろう。
1回戦で3本塁打を放ち、2回戦では3打席連続三振。それでも、三塁線の打球に飛び込んで捕った。
背番号をもらえず、フェンスの外から見ていた早田のことも、よく話した。
勝った試合の話も、負けた試合の話も、三人が揃って出てきた。
去年までは、そこへ村松も加わっていた。
「……兄ちゃん、野球は高校でもやるんでしょ?」
大助が聞いた。
「当たり前でえ」
「じゃあ、またあの人たちとやればいいのに」
嵐は笑おうとして、笑えなかった。
子供の言うことだ。高校選びの難しさまでは考えていない。
大助には、科特がどれほど難しい学校なのか、まだ実感がないのだろう。
それだけに、その一言は妙にまっすぐだった。
「そんな簡単にいきゃ、苦労しねえよ」
嵐は学校案内を畳みかけ、途中で手を止めた。
今まで考えていた私立高校は、悪い学校ではない。
模試の偏差値はおおむね50~55。時には高得点も取れたが、それが毎回続くわけではない。
四択で分からない問題を当てられたことは、何度もある。
だが、図書館で井出に出された記述問題は、勘では一行も埋まらなかった。
それを、嵐自身が一番よく知っている。
科学特進高校を受ける。
受験するなら、今よりずっと勉強しなければならない。
部活の仲間が行くからというだけで、簡単に入れるところではない。
それでも。
入学式で、早田と井出にまた会う。
野球部へ行けば、村松がいる。
村松が早田の左腕からの球を受け、井出が二塁に入り、自分が三塁を守る。
かつて当たり前だった光景が、もう一度戻ってくるかもしれない。
別々の高校へ進めば、あの四人でプレーする機会はなくなるかもしれない。
それは、嫌だった。
「兄ちゃん?」
伊織が呼んだ。
嵐は顔を上げる。
「……おう。何でもねえ」
「難しい顔してる」
「考え事だよ」
伊織と大助は顔を見合わせた。
普段なら冗談で返す徳夫が、今日は学校案内から目を離せずにいた。
いつになく真剣な顔だった。
「そこ、難しいんでしょ?」
伊織が科学特進高校の紙を指した。
「……ああ。俺にゃ、むちゃくちゃ高い壁だ」
「だったら、どうするの?」
「どうするって……」
嵐は紙の学校名を見つめた。
井出は最初からそこを目指していた。
早田も、昨日、第一志望に決めた。
自分だけは、行きたいと思う気持ちに、まだ名前をつけていなかった。
科特に行けるかもしれない。
そんなふうに考えたことはあった。
だが、それは、当たるかもしれない四択を選ぶような気分だった。
今は違う。
受かるかどうか分からなくても、そこへ行きたい。
そう思っている自分がいた。
「……うっし、決めた」
嵐が小さく言った。
「何を?」
「第一志望だ。科学特進高校にする」
大助が目を輝かせた。
「じゃあ、早田さんたちとまた野球できる?」
「受かればな」
「受かるよ、兄ちゃんなら!」
「簡単に言ってくれるぜ」
嵐は笑った。
今度は、自然に笑えた。
「でもよ。受けもしねえで諦めるのは、性に合わねえんだ」
伊織が少し首を傾げた。
「じゃあ、今までの私立は?」
「そっちは、併願にできるか学校で聞いてみる。駄目なら別の受け方も考えなきゃなんねえ。科特が落ちたらどうすんだって話もあるからな」
「ちゃんと考えてるんだ」
「当たり前だろうが。俺を何だと思ってんだ」
「いつも勢いで決める兄ちゃん」
「うるせえ!」
嵐の声が響き、大助が笑った。
伊織も笑いながら学校案内を返した。
嵐は2枚の資料を机の上へ重ねなかった。
私立の案内を脇へ寄せ、公立の案内を正面に置く。
それだけのことなのに、見える景色が違っていた。
翌朝、教室へ入るなり嵐は二人の机の前に立った。
「おい、聞けよ」
井出が顔を上げた。
「どうしたの、朝から」
「俺も科学特進高校を第一志望にする」
井出は一瞬、目を丸くした。
早田も手を止めた。
「……本気?」
「当たり前だろ。俺はいつだって本気だ」
「昨日まで私立専願のつもりだったでしょ」
「だから、併願に変えられるか先生に相談する。滑り止めをなくすつもりはねえよ」
井出は嵐の顔を確かめた。
いつもの冗談めいた調子はなかった。
だが、今日は目をそらさない。
「……そうか。じゃあ、やることが増えたね」
「分かってらい。数学も国語も、今まで以上にやるぜ」
「よし。それなら、まず昨日の問題をもう一回」
「今かよ!」
「後回しにすると忘れるからね」
井出が問題集を差し出す。
嵐は顔をしかめながらも、受け取った。
「おめえはどう思う、早田」
早田は二人を見た。
井出はずっと前から科特を目指していた。
自分はようやく第一志望に決めた。
そして嵐も、簡単ではないと分かったうえで、そこへ挑もうとしている。
「……一緒に行けたら、いいと思う」
嵐は一瞬黙ったあと、にやりと笑った。
「おう。そうこなくっちゃな」
井出が問題集を開いた。
「じゃあ、一緒に行くためにも勉強しないと。嵐、ここから解いて」
「だから今かって!」
また嵐の声が大きくなり、教室の向こうから担任に注意された。
早田は静かにノートを開いた。
そこには昨日、国語の文章から抜き出した接続語が並んでいる。
隣で嵐が計算を始め、井出が途中の式を覗き込んだ。
三人が同じ高校に行けると、まだ決まったわけではない。
特に嵐にとっては、高い壁が目の前にある。
それでも、昨日まで別々だった第一志望の欄には、同じ学校の名前が並ぶことになった。
野球部の練習は、もう終わっている。
けれど、三人で机を囲む時間は続いていた。
教室の窓の外から、秋の風が入ってきた。