もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第10話 決めたのは誰だ

 9月の教室には、夏の名残がまだ居座っていた。

 早田は窓の外から視線を戻し、国語の教科書を開いた。

 机の端には、第一志望の欄が空白の進路希望調査が挟んである。

 

「今日は、少し趣向を変えてみよう」

 

 国語教師が黒板に大きく「川柳」と書いた。

 教室のあちこちで、椅子を引く音がした。

 

「俳句と同じように五・七・五を基本とするが、季語は必ずしも要らない。人の癖や暮らしの一場面を、可笑しみや皮肉を交えて詠むことも多い。今日は身近な人を題材に、一句作ってもらう」

 

 黒板の下には、五、七、五と数字が並んだ。

 

「ただし、皮肉だからといって何を書いてもいいわけじゃないぞ。相手を傷つけたり、中傷したりするような句は作らないこと。笑いにするなら、言われた相手の気持ちも考えなさい」

 

 早田はノートの余白に線を引いた。

 意味のある言葉を、決められた音数に収める。そういう作業なら、嫌いではない。

 だが、何を題材にするかというところで手が止まった。

 

「おい、早田」

 

 隣の方から嵐が身を寄せた。

 声が少し大きく、教師に見られないよう慌てて背を戻す。

 

「できたら見せろよ」

「まだだ」

「へへっ。俺はもう決まったぜ」

 

 嵐は机に向き直り、太い字で何かを書き始めた。

 その向こうでは井出が、鉛筆を指先で回しながら考えている。

 三人は今年、同じクラスになった。部活を引退した今、休み時間の話題には模試や内申が増えている。

 

 10分ほどして、教師が「隣同士で見せ合ってもいいぞ」と言った。

 嵐が待っていたように振り返った。

 

「よし、俺からいくぜ。早田、おめえの句だ」

「俺の?」

「『もう少し、周り見渡せ、向こう見ず』。どうでえ」

 

 早田は嵐のノートを見た。

 指で音を数えるまでもなく、五・七・五に収まっている。

 言われている内容にも、覚えがあった。

 守備では打球に集中するあまり、走者の動きを見失ったことがある。

 左で投げ続けると決めたときも、嵐は何度か呆れた顔をしていた。

 

「……よくできてる」

「おっ、分かるか!」

「俺への忠告としても、正しい」

「そうそう。そこが大事なんだよ。もうちっと周りを見ろってことだ」

 

 嵐が満足げに頷く。

 井出はそれを見て、口元を緩めた。

 

「じゃあ、次は俺だね。嵐を題材にしたよ」

「おう、聞いてやらあ」

「『まぐれ打ち、あとは野となれ、山となれ』」

「誰がまぐれ打ちだ!」

 

 嵐の声に、前の席の生徒が振り向いた。

 教師も教卓から顔を上げる。

 

「嵐。声を落とせ」

「す、すんません!」

 

 教室の何人かが笑った。

 嵐は口をへの字に曲げ、井出へ顔を寄せた。

 

「おめえな、3本打ったの見てただろうが」

「もちろん。で、次の試合で3回とも三振したのも見てたけど。一発か三振のギャンブルヒッター」

「ぐっ……あれは相手の投手がよかったんでえ」

「それはそうだよ。でも、いつも全力で振るから、当たったらどこまで飛ぶか分からないし、空振りも大きいだろ。そこが嵐らしいと思って」

 

 井出はノートを指先で軽く押さえた。

 

「実はこれ、最初はもっと長かったんだ。七・五調っぽく考えていた部分を削って、川柳の五・七・五に整えたんだよ」

「何だよ、もっと長ぇのか」

「うん。『当たるを幸い振り抜いて、あとは野となれ山となれ、行方は球に聞いてくれ』」

「おい! そっちの方がひでえじゃねえか!」

「だから短くしたんだよ」

 

 井出は涼しい顔で答えた。

 嵐は反論しかけ、結局鼻を鳴らした。

 井出が嵐の長打力を認めているのは、早田にも分かっていた。

 

「ったく。早田、おめえも何か言ってやれ」

「俺もできた」

「お、誰だ?」

「井出」

 

 早田はノートの一行を、読み上げた。

 

「『打球追い、素早く捕って、肩透かし』」

 

 井出が黙った。

 

「……早田。君まで俺の肩をいじるの?」

「打球を追うのは速い。捕るのも速い」

「うん。そこまではいいね」

「そして、送球は弱い。肩透かしだ」

「最後を繰り返さなくても分かるよ!」

 

 嵐が机を叩きかけ、慌てて手を止めた。

 代わりに肩を震わせる。

 

「ははっ。うめえな、それ! 早田、おめえ案外やるじゃねえか!」

「言葉が合っただけだ」

「そういうところが、なおさら腹立つんだけど」

 

 井出は苦笑しながら、自分のノートに早田の句を書き写した。

 早田も、二人の句を見て小さく頷いた。

 野球部で過ごした時間が、こんな形で教室に戻ってくるとは思わなかった。

 

「おい、そこの三人。真面目にやれ」

 

 教師の声が飛んできた。

 

「人を傷つける句は作るなと言っただろう」

「ちゃんと課題をやってましたよ!」

 

 嵐が慌てて答えると、教師は三人の机に目を向けた。

 

「なら、なおさらだ。そして静かにやるように。ほかの人も考えているんだからな」

「……はい」

 

 嵐が声を落とし、井出は小さく肩をすくめた。早田も黙ってノートに目を戻した。

 

 やがて授業は、長い説明文の読解へ移った。

 早田は設問に目を落とし、鉛筆を止めた。

 文章の内容は理解できる。だが、筆者の主張を問う設問では、似たような選択肢のうち、どれが最も適切なのか判断に迷った。

 

 早田はもう一度、文章の最初から目を通した。

 

 

     *

 

 

 放課後、三人は学校の図書館に集まった。

 窓際には午後の日差しが差し、ほかにも受験勉強をする3年生が何人かいた。

 嵐が大きな鞄を床に置くと、井出がすぐに人差し指を口元へ立てた。

 

「ここ、図書館だからね」

「まだ何も言ってねえだろ」

「言う前に止めておこうと思って」

 

 嵐は唇をとがらせたが、椅子は静かに引いた。

 早田は教科書と、国語の間違いをまとめたノートを机に並べた。

 

「今日は何からやる?」

 

 井出が尋ねた。

 

「数学だ。昨日の問題、答え見ても分かんなかった」

「どれ?」

「これだよ。何でここで文字が増えるんだ?」

 

 嵐が問題集を開いた。

 井出は式を一目見てから、自分の紙に途中の計算を書き直した。

 

「増えたんじゃなくて、隠れていた条件を式にしただけ。ここを先に読んで」

「……ああ、そういうことか」

「じゃあ、次は自分でやってみて」

「分かったよ」

 

 鉛筆が紙を擦る音が続いた。

 嵐が手を止めるたび、井出は答えを教えず、問題文のどこを見るべきかを示した。

 そうして10分ほどかけて、嵐はようやく解を出した。

 

「できた!」

 

 声が大きかった。

 近くの席の生徒が顔を上げ、嵐はすぐに頭を下げた。

 

「……できた」

「聞こえてるよ。しかも正解」

「おう」

 

 嵐が胸を張る。

 井出は答案に丸をつけ、次の問題集を差し出した。

 

「じゃあ、今度は短い小テスト。四択が多いから、すぐ終わるよ」

「そいつは任せろ」

 

 嵐は急に元気になった。

 地理や理科の基礎問題が並んでいる。3問目までは順調だったが、4問目で手が止まる。

 

「これ、知らねえな」

「分からないときは、まず違うものを消して」

「分かってらい」

 

 そう言いながら、嵐は鉛筆を倒しかけ、井出に睨まれてやめた。

 問題文を見直し、選択肢を順に追う。

 それでも判断がつかないものには、迷わず丸をつけた。

 

 採点すると、10問中9問が正解だった。

 井出は答えを見比べ、もう一度、嵐の顔を見た。

 

「……9問?」

「へへっ、どうでえ」

「ちょっと待って。6問目はどう考えた?」

「6問目? ああ、何となく3番だと思った」

「7問目は?」

「1番。4番は違う気がしたからな」

「それ、根拠じゃなくて感想だよ」

「当たったんだからいいじゃねえか」

 

 井出は残りの問題も理由を確かめた。

 正解した問題にも理由を説明できないものがあり、記述問題を出されると、嵐の鉛筆は止まった。

 

「……こいつは四択じゃねえのか」

「見れば分かるでしょ」

「何か選ぶもの寄越せよ」

「答えを自分で書く問題なんだってば」

 

 嵐は天井を仰いだ。

 その様子に井出は笑いかけたが、すぐに問題集を手前へ寄せた。

 

「まあ、勘が当たるのも嵐の強さかもしれない。でも、入試の全部が四択ってわけじゃない。理由が分からない問題は、次も当たるとは限らないからね」

「へいへい」

「返事が軽い」

「分かってるって。さっきの数学だって、教わりゃ解けたろ」

「そうだね。だったら、できる問題を増やそうよ」

 

 嵐は口を閉じた。

 

「……もう一問、出してくれ」

「りょーかい」

 

 嵐は改めて鉛筆を握った。

 早田は二人のやり取りを聞きながら、国語の問題へ戻っていた。

 

 説明文の中で、筆者はある意見をいったん認め、そのあとで別の考えを示している。

 早田は、最も強い言葉で書かれた一文を根拠に選択肢を選んだ。だが、その一文は、筆者が反論するために紹介した他人の意見だった。

 文章を読むだけではなく、設問がどこを問うているのかまで考えなければならない。

 それが、今の自分の弱点だった。

 

「早田、ずいぶん同じページ見てるね」

 

 井出が声を落として尋ねた。

 

「……筆者の主張を取り違えた」

「どこで?」

「ここだ。強く書かれているから、こっちが結論だと思った」

「その前に『たしかに』ってあるでしょ。で、次の段落は『しかし』で始まってる。そこで向きが変わってるんだよ」

 

 井出は二つの接続語を指先で示した。

 早田は文章を戻って読み直した。

 言われてみれば、確かにそうだった。

 

「……理解した。もう一問やる」

「いいけど、急がなくていいよ」

 

 早田は頷き、次の文章を開いた。

 問題を読み進めるうち、周囲の気配が薄れていった。

 時計を見るのを忘れ、ページの上だけに注意が集まっていく。

 井出が二度目に声をかけたときも、早田は顔を上げなかった。

 

「早田」

「……」

「早田、もう閉館時間が近いよ」

 

 肩を軽く叩かれて、ようやく顔が上がった。

 

「……何だ」

「何だ、じゃないよ。もう片づけよう」

 

 時計の針は、思っていたより進んでいた。

 早田はノートを閉じ、解いた問題の数を確かめる。

 予定より進んだが、休憩を忘れていた。

 

「集中するのはいいけど、水くらい飲みなよ」

「そうする」

 

 水筒を手にした早田の横で、嵐が問題集に顔を近づけていた。

 

「おめえ、まだやってんのか」

 

 早田が言うと、嵐は最後の一問を書き終えてから顔を上げた。

 

「さっき井出に教わったやつだ。今度は自分で解けたぜ」

「そうか」

「……おう」

 

 嵐の顔には、四択で9問当てたときとは違う、静かな満足があった。

 井出が問題集を見て、丸を一つつけた。

 

「こっちの正解の方が、俺は嬉しいな」

「俺だってそうだよ」

 

 三人は本を元の棚へ戻し、夕方の廊下へ出た。

 まだ明るい窓の外に、野球部の練習する声が聞こえた。

 嵐は一度そちらを見たが、足を止めなかった。

 それぞれが、今は別の練習をしていた。

 

 

     *

 

 

 翌日の夕方、早田は科学特進高校の正門前に立っていた。

 科学特進高校は、自宅から歩いて10分ほどの場所にある。

 門扉の向こうに校舎が見える。

 県内の公立高校で最も入るのが難しいと言われる学校。

 けれど今は、入試の難しさだけを表す名前ではなくなっていた。

 

 村松昭二が、ここにいる。

 

 早田は校舎の奥へ目を向けた。

 野球部の姿は見えず、グラウンドがどこにあるのかも、まだ知らなかった。

 入学できても、すぐに投手として使ってもらえるわけではない。左で野手として守る技術も、まだ十分とは言えなかった。

 早田はそこを、都合よく忘れたくなかった。

 

 左の守備が、試合に出せるところまで届かなかったからだ。

 黒部の判断は理解している。

 それでも、悔しかった。

 あの悔しさを繰り返さないためには、進学先を決めるだけでは足りない。

 

 早田は門の前から離れ、帰り道を歩いた。

 

 夜、父が帰宅したときには、食卓の上に夕食が並んでいた。

 早田は鍋の火を止め、手を洗う父に声をかけた。

 

「父さん。進路の話がある」

「ん? どうした」

「第一志望を決めたい」

 

 父は手を拭き、椅子へ座った。

 仕事帰りで疲れているはずだが、父は急かさなかった。

 

「どこにするんだ」

「科学特進高校」

 

 父は少し目を見開いた。

 

「あそこか。近いけど、ずいぶん難しい学校だぞ」

「分かってる」

「理由は?」

「勉強する環境がいい。通学時間も短い。それに……村松さんがいる」

 

 父は、そこで頷いた。

 村松は、早田が入院していた頃から再起を支えてくれた先輩だった。

 

「野球か」

「うん」

「高校でも左で投げるつもりなんだな」

「そのつもりだ」

 

 父は食卓の箸を持ち上げかけ、また置いた。

 

「進学先を野球だけで決めるな、とは言いたい。でも、お前は学校のことも調べたんだろう?」

「調べてる。授業についていくのも簡単じゃない。国語は特に対策が要る」

「そうか」

 

 父はしばらく考え、息を吐いた。

 

「じゃあ、頑張ってみろ。どこを受けるにしても、最後まで自分で考えて決めなさい」

「分かった」

 

 それだけの会話だった。

 父は必要以上に褒めたり、反対したりしなかった。

 早田にとっては、その方がありがたかった。

 

 食後、早田は自室で学校の案内と成績表を並べた。

 英語と社会は今の得点を維持する。数学と理科は、公式を覚えるだけでなく応用問題にも対応しなければならない。

 国語は、図書館で解いた説明文をもう一度見直す必要があった。

 得意なことだけで勝負できる高校ではない。

 

 左腕も同じだった。

 腕の振りを覚え、球を投げられるようになったところで、投手になれたとは言えない。

 どちらも、一つずつできることを増やすしかない。

 

 机の引き出しから、進路希望調査の用紙を出す。

 第一志望の欄には、まだ何も書いていない。

 早田はペンを持ち、ゆっくり学校名を記した。

 

『科学特進高校』

 

 書き終えてから、しばらくその文字を見つめた。

 村松のミットを思い浮かべる。

 右で投げていた頃も、左で投げ始めてからも、あのミットが球を受け止めてくれた。

 もう一度、あの人に受けてもらいたい。

 ただし、今度はそれだけでは終わらせたくない。

 

 早田は進路希望調査を机の端へ置き、国語の問題集を開いた。

 第一志望と書くのは、一瞬で済んだ。

 そこへ届くために必要な時間は、まだ始まったばかりだった。

 

 翌日の休み時間、早田は井出に報告した。

 

「科学特進高校に決めた。第一志望だ」

「そう。じゃあ、今度は本当に同じ学校を受けるんだね」

「うん」

「村松さんのためにも、国語を何とかしないと」

「それは分かってる」

 

 井出は少し笑い、問題集のページを開いて見せた。

 

「じゃあ、今日も放課後、図書館ね」

「分かった」

 

 離れた席にいた嵐が、二人の方を振り向いた。

 

「おう、俺も行くぜ」

 

 嵐の第一志望は、まだ別の私立高校だった。

 ただ、早田が決めたという話は、嵐の胸に小さく残った。

 

 

     *

 

 

 その晩、嵐は居間の床に座り、学校案内の紙を広げていた。

 夕食の片づけが終わり、テレビでは野球中継が流れている。画面の中で打者が思い切り振り、鋭いファウルを打った。

 嵐の手が、ついスイングの形に動く。

 

「兄ちゃん、また野球?」

 

 先に口を開いたのは、妹の伊織(いおり)だった。

 伊織はソファの端に座り、徳夫の手元をのぞいていた。

 弟の大助(だいすけ)も、その隣から顔を出す。

 

「何だよ。テレビくらい見るだろ」

「見てるだけじゃなくて、今、腕動かしてた」

「癖だよ、癖」

 

 大助が笑い、床に広げられた学校案内を一枚持ち上げた。

 

「これ、高校の?」

「そうだ。折るなよ」

「兄ちゃん、ここ行くの?」

「今んとこ、そこを一番に考えてる。俺の成績なら、無茶しなくて済むしな」

 

 嵐が示したのは、私立高校の案内だった。

 専願で受験するつもりで、以前から資料を集めている。

 野球部もあり、通学できる。成績を考えても現実的な選択だった。

 変える理由は、これまで特になかった。

 伊織は別の資料へ手を伸ばした。

 

「こっちもあるじゃない。科学特進高校」

「そいつは、まあ……候補だ」

「ふうん」

 

 伊織は紙の上に書かれた学校名を見て、顔を上げた。

 

「早田さんと井出さんが行きたいところ?」

「何で知ってんだよ」

「兄ちゃんが話してたでしょ。この前」

 

 嵐は口を開けかけて、閉じた。

 そういえば、井出の進路の話を家でした覚えはあった。

 

「それにさ、兄ちゃん、学校の話っていうと、いつもあの二人の名前が出るよね」

「はあ? そんなことねえだろ」

「出るよ」

 

 大助が間髪入れずに言った。

 

「早田さんが左で投げたとか、井出さんに何か言われたとか」

「そりゃ、一緒に野球やってたんだから話すだろ」

「村松さんがいたときは、村松さんの話もしてたよね」

 

 伊織の一言に、嵐は少し黙った。

 

「……まあな」

「兄ちゃんが一番楽しそうに話すの、そういうときだよ」

 

 伊織は特にからかうでもなく、そう言った。

 大助が頷く。

 

「夏の大会でホームラン3本打ったって話も、最後には早田さんと井出さんの話になってた」

「3本は俺が打ったんだぞ」

「知ってるよ。何回も聞いたもん」

 

 嵐は言い返せなかった。

 あの大会の話を、何度家で繰り返しただろう。

 1回戦で3本塁打を放ち、2回戦では3打席連続三振。それでも、三塁線の打球に飛び込んで捕った。

 背番号をもらえず、フェンスの外から見ていた早田のことも、よく話した。

 

 勝った試合の話も、負けた試合の話も、三人が揃って出てきた。

 去年までは、そこへ村松も加わっていた。

 

「……兄ちゃん、野球は高校でもやるんでしょ?」

 

 大助が聞いた。

 

「当たり前でえ」

「じゃあ、またあの人たちとやればいいのに」

 

 嵐は笑おうとして、笑えなかった。

 子供の言うことだ。高校選びの難しさまでは考えていない。

 大助には、科特がどれほど難しい学校なのか、まだ実感がないのだろう。

 それだけに、その一言は妙にまっすぐだった。

 

「そんな簡単にいきゃ、苦労しねえよ」

 

 嵐は学校案内を畳みかけ、途中で手を止めた。

 

 今まで考えていた私立高校は、悪い学校ではない。

 模試の偏差値はおおむね50~55。時には高得点も取れたが、それが毎回続くわけではない。

 四択で分からない問題を当てられたことは、何度もある。

 だが、図書館で井出に出された記述問題は、勘では一行も埋まらなかった。

 それを、嵐自身が一番よく知っている。

 

 科学特進高校を受ける。

 受験するなら、今よりずっと勉強しなければならない。

 部活の仲間が行くからというだけで、簡単に入れるところではない。

 

 それでも。

 

 入学式で、早田と井出にまた会う。

 野球部へ行けば、村松がいる。

 村松が早田の左腕からの球を受け、井出が二塁に入り、自分が三塁を守る。

 かつて当たり前だった光景が、もう一度戻ってくるかもしれない。

 

 別々の高校へ進めば、あの四人でプレーする機会はなくなるかもしれない。

 それは、嫌だった。

 

「兄ちゃん?」

 

 伊織が呼んだ。

 嵐は顔を上げる。

 

「……おう。何でもねえ」

「難しい顔してる」

「考え事だよ」

 

 伊織と大助は顔を見合わせた。

 普段なら冗談で返す徳夫が、今日は学校案内から目を離せずにいた。

 いつになく真剣な顔だった。

 

「そこ、難しいんでしょ?」

 

 伊織が科学特進高校の紙を指した。

 

「……ああ。俺にゃ、むちゃくちゃ高い壁だ」

「だったら、どうするの?」

「どうするって……」

 

 嵐は紙の学校名を見つめた。

 井出は最初からそこを目指していた。

 早田も、昨日、第一志望に決めた。

 自分だけは、行きたいと思う気持ちに、まだ名前をつけていなかった。

 

 科特に行けるかもしれない。

 そんなふうに考えたことはあった。

 だが、それは、当たるかもしれない四択を選ぶような気分だった。

 今は違う。

 受かるかどうか分からなくても、そこへ行きたい。

 そう思っている自分がいた。

 

「……うっし、決めた」

 

 嵐が小さく言った。

 

「何を?」

「第一志望だ。科学特進高校にする」

 

 大助が目を輝かせた。

 

「じゃあ、早田さんたちとまた野球できる?」

「受かればな」

「受かるよ、兄ちゃんなら!」

「簡単に言ってくれるぜ」

 

 嵐は笑った。

 今度は、自然に笑えた。

 

「でもよ。受けもしねえで諦めるのは、性に合わねえんだ」

 

 伊織が少し首を傾げた。

 

「じゃあ、今までの私立は?」

「そっちは、併願にできるか学校で聞いてみる。駄目なら別の受け方も考えなきゃなんねえ。科特が落ちたらどうすんだって話もあるからな」

「ちゃんと考えてるんだ」

「当たり前だろうが。俺を何だと思ってんだ」

「いつも勢いで決める兄ちゃん」

「うるせえ!」

 

 嵐の声が響き、大助が笑った。

 伊織も笑いながら学校案内を返した。

 嵐は2枚の資料を机の上へ重ねなかった。

 私立の案内を脇へ寄せ、公立の案内を正面に置く。

 それだけのことなのに、見える景色が違っていた。

 

 翌朝、教室へ入るなり嵐は二人の机の前に立った。

 

「おい、聞けよ」

 

 井出が顔を上げた。

 

「どうしたの、朝から」

「俺も科学特進高校を第一志望にする」

 

 井出は一瞬、目を丸くした。

 早田も手を止めた。

 

「……本気?」

「当たり前だろ。俺はいつだって本気だ」

「昨日まで私立専願のつもりだったでしょ」

「だから、併願に変えられるか先生に相談する。滑り止めをなくすつもりはねえよ」

 

 井出は嵐の顔を確かめた。

 いつもの冗談めいた調子はなかった。

 だが、今日は目をそらさない。

 

「……そうか。じゃあ、やることが増えたね」

「分かってらい。数学も国語も、今まで以上にやるぜ」

「よし。それなら、まず昨日の問題をもう一回」

「今かよ!」

「後回しにすると忘れるからね」

 

 井出が問題集を差し出す。

 嵐は顔をしかめながらも、受け取った。

 

「おめえはどう思う、早田」

 

 早田は二人を見た。

 井出はずっと前から科特を目指していた。

 自分はようやく第一志望に決めた。

 そして嵐も、簡単ではないと分かったうえで、そこへ挑もうとしている。

 

「……一緒に行けたら、いいと思う」

 

 嵐は一瞬黙ったあと、にやりと笑った。

 

「おう。そうこなくっちゃな」

 

 井出が問題集を開いた。

 

「じゃあ、一緒に行くためにも勉強しないと。嵐、ここから解いて」

「だから今かって!」

 

 また嵐の声が大きくなり、教室の向こうから担任に注意された。

 早田は静かにノートを開いた。

 そこには昨日、国語の文章から抜き出した接続語が並んでいる。

 隣で嵐が計算を始め、井出が途中の式を覗き込んだ。

 三人が同じ高校に行けると、まだ決まったわけではない。

 特に嵐にとっては、高い壁が目の前にある。

 それでも、昨日まで別々だった第一志望の欄には、同じ学校の名前が並ぶことになった。

 

 野球部の練習は、もう終わっている。

 けれど、三人で机を囲む時間は続いていた。

 教室の窓の外から、秋の風が入ってきた。

 

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