もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第11話 もう一度、投げる

 11月の終わり、九条中学校のグラウンドには、冬の匂いが混じり始めていた。

 放課後の野球部はすでに新しい学年のものになっている。

 早田は、その練習を邪魔しないよう、校庭の端にある壁の前で足を止めた。

 グラブは右手につけている。

 左手には、使い慣れた軟式球があった。

 

 足を上げ、踏み込む。

 腰を回し、左腕を振る。

 壁に描かれた目印へ向かった球は、少し高い位置に当たって跳ね返った。

 

「……上だ」

 

 早田は拾い上げた球を左手へ戻した。

 狙いが外れた原因は、だいたい分かる。

 腕が先に動き、腰の回転についていけなかった。

 それを直そうとすると、今度は踏み込みが遅れる。

 何度も繰り返してきた失敗だった。

 

 嵐の一言で左投げを始めてから、もうすぐ1年になる。初めは数m先へ投げることさえ難しかったが、今は投手らしいフォームで球を投げられるようになってきた。

 それでも、球を離す瞬間になると、どうしても腕を自分の力で振りにいってしまう。

 右で投げていた頃なら、踏み込みから腰の回転、腕の振りまでが自然につながった。左では、順番を頭で追うほど、かえって動きがぎこちなくなる。

 

 

 早田はもう一度、足元を確かめた。

 無意識に、右で投げていた頃と同じ位置へ左肘を持っていこうとしている。左右を入れ替えるだけでは、同じように投げられないのかもしれなかった。

 

「早田、そこにいたのか」

 

 声をかけたのは嵐だった。

 片手に問題集を持ち、もう一方の手をポケットへ突っ込んでいる。

 後ろから井出も歩いてきた。

 

「図書館に来ねえから、探しに来たんだぞ」

「……もうそんな時間か」

「そんな時間か、じゃないよ。今日は国語の長文をやる約束だったでしょ」

 

 井出は壁に残った土の跡と、早田の手元を見比べた。

 

「また左で投げてたの?」

「ああ。球の勢いが変わらない」

「前よりは速くなってると思うけど」

「頭打ちだ」

 

 嵐が鼻を鳴らした。

 

「左で投げ始めてまだ1年だろ。そう簡単に右の頃へ追いつくかよ」

「そのとおりだ。だから、やり方を変えたい」

「やり方?」

「投げ方そのものを調べ直す」

 

 井出が興味を示したように目を細めた。

 

「フォームを?」

「今は右のフォームを裏返すような投げ方をしてる。左には合っていないのかもしれない」

「なるほどね。でも、投手のフォームって一つじゃないよ」

「だから調べる」

 

 嵐が二人の顔を交互に見た。

 

「おめえら、また大がかりなことを言い始めたな」

「嵐も手伝ってくれ」

「お、俺もか?」

「打者から見た感想を聞きたい。小学校じゃ捕手もやってたろう。頼む」

「……そりゃ、やってたけどよ」

 

 早田は井出を見た。

 

「映像を比べるのは、井出が得意だ」

「俺を何だと思ってるのさ」

「詳しい人間だ。だから、頼りにする」

「それは否定しないけど」

 

 井出は笑い、早田の足元に置かれたノートを拾い上げた。

 ページには、投げた日付と本数、球が外れた方向、右肩の状態が細かく書き込まれている。

 左投げを始めてからも、右肩のリハビリは続けていた。

 

「この記録、フォームを比較するのにも使えそうだね」

「何を試したかは残しておきたい」

「じゃあ、まずは調べようか。知らないものは試せないし」

 

 嵐が大きく息を吐いた。

 

「図書館の前に、また宿題が増えちまったな」

「受験勉強とは別だよ」

「だから増えたって言ってんだろ!」

 

 早田は球をバッグへしまった。

 投げられる左腕を作るために始めた練習だった。

 次は、左腕でどう投げるかを決めなければならない。

 それは、単に回数を重ねるのとは違う問題に思えた。

 

 

     *

 

 

 12月に入ると、三人の放課後には新しい習慣ができた。

 図書館で受験勉強を終えたあとや休日に、三人で投球フォームの映像を調べた。家庭のパソコンを使い、国外の古い試合映像も探した。

 解説はよく分からなくても構わない。確かめたいのは投手の動きだった。

 

 腕の位置や踏み込み、身体の向きが変わるタイミングを見比べる。

 井出は気になった場面で映像を止め、その前後を繰り返し再生した。

 

「これ、同じオーバースローでもずいぶん違うね」

「右と左をひっくり返して見りゃ、似てるのもあるだろ」

「腕の形が似ていても、そこへ持っていくまでが違うんだよ。嵐、最初から見て」

「へいへい」

 

 小さく足を上げる投手も、大きく振りかぶる投手もいた。腕の高さが違っていても、どちらも速い球を投げている。似た結果へ至るまでの動作は、驚くほど違った。

 

「全部正解ってわけでもねえだろ?」

「それはもちろん。投げている本人には合っていても、早田に合うとは限らないよ」

「だったら、どうやって決めんだよ」

「試して確かめるしかない」

 

 早田はそう言って、ノートの新しいページを開いた。

 映像で見た動きを、短い言葉で書き留めていく。見ただけで分かったつもりにならないよう、実際に試して確かめる点も分けて記録した。

 

 学校の許可を得て使える練習場所では、まず球を持たずに動きを確認した。

 次に近い距離で軽く投げ、腕や肩に無理がないか確認する。

 投球数は決めてあり、勢い任せに続けることはしなかった。

 

 最初に試したのは、動作を小さくまとめた現代的なフォームだった。

 足を上げる高さを抑え、踏み込みまでの時間を短くする。狙った方向へは投げやすかったが、早田は球を離すと首を振った。

 

「腕で投げてる感じが、もっと強い」

「俺にはまとまって見えたけどね」

「まとまってる。でも、球へ力が伝わってない」

 

 次は腕をやや下げてみた。

 ところが、踏み出した足と上体の向きが合わず、球は狙いより外へそれた。

 

「うおっ、危ねえ!」

 

 捕手役の嵐がミットを伸ばして受けた。近い距離からの軽い試投だったが、球は構えた場所から大きく外れていた。

 

「これは無しだね、早田」

 

 井出が言った。

 

「……そうだな」

 

 早田は言い返さず、ノートに線を引いた。

 合わないものを捨てることも、調べるうちの一つだった。

 

 ある夜、井出が古い映像を止めた。

 画面には、両腕を大きく上げる古い投球フォームが映っていた。

 その動きは、最近見てきた投手のものよりはるかに大きい。

 踏み込む前から、全身に勢いをつけているように見えた。

 

「ずいぶん派手だな」

 

 嵐が感心したように言った。

 

「クラシックワインドアップの一種だね。この投手の独特なフォームは『ザトペック投法』と呼ばれていたらしいよ」

「ザトペック? 聞かねえ名前だな」

「元は昔の陸上選手の名前だって。その陸上選手が走る時の雰囲気と、この投手が投げる時の雰囲気が似てたから、そう呼ばれるようになったんだってさ」

 

 早田は画面に顔を近づけた。

 身体の動きに引かれるように左腕が大きく回り、振りかぶりから踏み込みまでに独特のうねりがあった。

 

「今まで試したものとは、身体の使い方がだいぶ違うね」

「……これだと、腕を先に振れないな」

「そうだね。むしろ身体の動きが先に来る」

「試したい」

 

 嵐が笑った。

 

「言うと思ったぜ。見た目だけなら、ずいぶん大げさだぞ」

「大げさでも構わない」

「格好つけたいわけじゃねえもんな」

「ああ。速い球を投げたい」

 

 翌日、三人はスマートフォンと三脚を持って練習場所へ向かった。

 嵐は安全を確かめて捕手の位置につき、井出は投球線から離れた場所へカメラを据えた。

 早田は映像を頭の中でなぞり、まず球を持たずに振りかぶった。

 

 左腕を大きく動かすと、身体が引っ張られる。

 右腕もつられて動きそうになり、早田はそこで止まった。

 右肩に無理をかけないよう、反対側の腕の動きは小さく調整する。

 映像を丸ごと真似するわけにはいかなかった。

 

「おいおい、ずいぶん回るじゃねえか」

「目が回るほどではない」

「そういう問題じゃねえよ!」

 

 最初の試投は、嵐の手前で地面に跳ねた。

 2球目は高く浮き、3球目は大きく左へ外れた。

 早田は肩を落とすかわりに、靴の先を地面へ揃え直した。

 

「身体を回した勢いに、腕が遅れてる」

「さっきの映像より、踏み込むのが早いね」

「……もう一度、動きだけ確かめる」

 

 井出が画面を見せた。

 早田は映像の自分が、想像より早く身体を正面へ向けていることに気づいた。

 足を上げる高さではない。身体の向きを変える順番が合っていなかった。

 

 何度かシャドウピッチングで動きを確かめ、最後に1球だけ試すことにした。

 早田は深く息を吸い、嵐のミットを見た。

 

 左腕を大きく振り上げ、右腕は無理のない位置に添える。

 身体全体で振りかぶる。

 足が前へ運ばれ、腰が回る。

 その動きに遅れて、左腕が後ろからついてきた。

 

 速く振ろうとは思わなかった。

 むしろ、腕をどう動かすか考える暇がなかった。

 身体が先へ進み、左腕がそれに引かれて出ていく。

 最後に指先から、球が離れた。

 

 バシンッ。

 

 乾いた音が、冷えた空気へ響いた。

 嵐がミットを引き寄せたまま、しばらく動かなかった。

 

「……おい」

 

 早田は左手を開いた。

 指先には、いつもの球離れとは違う感覚が残っていた。

 強引に腕を振った感じはない。

 それなのに、今までよりずっと勢いよく球が離れた気がした。

 

「今の、何だ?」

 

 嵐がミットを持ち上げた。

 

「おめえ、今までの左で、一番速かったんじゃねえのか!」

「……俺も、そう感じた」

 

 井出がカメラの方から歩いてきた。

 

「数値で測ったわけじゃないから、最高球速だと断言はできない。でも、同じ距離で受けた嵐の感覚がそれだけ違うなら、確かめる価値はあるね」

「腕を無理に振った感覚がない」

「そこが大事かもしれない。もう一度、映像を見よう」

 

 画面の早田は、見慣れた左投げより大きく動いていた。

 しかし、左腕が先に走る癖は薄れていた。踏み込んだ身体に腕が続き、球が離れるまでが一つの動きにつながっている。

 

 早田は画面から目を離さなかった。

 

「……これを基にする」

「え、もう決めんのかよ」

「完成したとは思ってない。ただ、今までにない感覚だった」

 

 嵐はミットの中の球を見た。

 

「まあ、あの1球は忘れられねえな」

 

 早田は頷いた。

 次回も同じように投げられるとは、まだ限らなかった。

 

 

     *

 

 

 案の定、翌週の練習では同じ球がなかなか出なかった。力が入りすぎれば左腕が遅れ、焦って腕を振ろうとすれば以前の手投げに戻ってしまう。

 何球かは勢いのある球になったが、狙った場所へ集まらない。

 早田は投球を終えたあと、ベンチで録画を見返した。

 

「悪いところは分かったか?」

 

 嵐が隣から尋ねる。

 

「踏み出す位置が、投げるたびに変わってる」

「それもあるけどね、俺は別に二つ気になることがある」

 

 井出が映像を巻き戻した。

 最初に見せたのは、投手の正面に近い角度から撮ったものだった。

 

「このフォーム、左腕の動きが大きいでしょ。球を持った腕が早い段階から見えてる」

「見えてると、まずいのか?」

 

 嵐が尋ねた。

 

「球の出所が追いやすい。腕がどう動いて、いつ球が来るか、打者に手掛かりを与えることになると思う」

「速い球なら、それでも打てねえんじゃねえか?」

「速ければ絶対に打てない、とは言えないよ。早田の球は、そこまで圧倒的に速いわけでもないし」

 

 早田は頷いた。

 中学最後の大会で打席に立った嵐の姿を思い出す。

 

「もう一つは?」

 

 井出は今度は横からの映像を再生した。

 振りかぶりにつられて頭が動き、踏み込む頃には上下にも揺れている。映像の後半では、視線が一度ミットから外れていた。

 

「頭がぶれてる。これだと、毎回同じ場所で球を離すのは難しいんじゃないかな」

「……確かに、目印を見失うときがある」

「勢いを使うのはいい。でも、頭まで一緒に振り回したら、狙うところが安定しない」

 

 井出はノートへ二つの項目を書いた。

 

 腕の動きが見えやすいこと。

 頭がぶれ、制球が乱れやすいこと。

 

「この二つを放っておくと、ただ速いだけで終わると思う」

 

 早田はしばらく文字を見つめていた。

 嵐なら、早く投げられたことをまず喜ぶ。

 井出はその後に残る問題を見つける。

 どちらも、自分にとって必要な反応だった。

 

「……直せるか?」

「全部なくせるかは分からないね。でも、試すことはできる」

「俺にも分かるようにやれよ。数字だらけは勘弁だぜ」

「嵐には打席から見てもらうよ。捕手の位置からじゃ、出所の見え方は確かめられないから」

「そういうことなら任せろ」

 

 次の休日、三人は投球位置と撮影する場所を決め直した。

 嵐は捕手役を終えると、危険のない位置から打席側の見え方を確かめた。

 このときは球を投げず、早田の動きだけを観察した。大きな振りかぶりは残し、左腕が身体の後ろ側を通るタイミングを探る。

 

「今のは、腕が早く見えたぞ」

「これはどうだ?」

「ちっと遅い。だけど、最後にぐるっと出てくるのが分かるな」

 

 何度も動きを変えた。

 腕を隠そうとするあまり動きを小さくすると、早田はすぐに首を振った。

 

「……駄目だ。また腕だけで投げようとしてる」

「じゃあ、大きさを消すんじゃなくて、見える時間を短くする方だね」

 

 井出は横からの映像と打者側からの映像を並べて見せた。

 早田は左腕を早く外へ開く癖を見直した。腰の回転が始まるまでは、腕が身体の陰に残る。

 そこから先は、身体の動きに任せて大きく振る。

 

 見た目は、まだ古い映像の投手に似ていた。

 ただし、腕の通り道は少し違っていた。

 

「お、今の方が、球が急に出てくる感じだぜ」

 

 嵐が言った。

 

「全部隠せるわけじゃないけどね」

「全部隠せなくてもいい」

 

 早田は左手を開閉した。

 投げる腕を見せないことだけが目的ではない。球の勢いを失えば、そもそもこのフォームを選んだ意味がなかった。

 

 次は頭のぶれだった。

 井出は撮影した画面で早田の帽子の位置を見比べ、足を踏み出すたびに頭が左右へ流れていることを示した。

 

「身体を大きく動かしても、最後にミットを見る位置はそろえたいね」

「頭を動かさないようにすると、身体まで止まる」

「首を固定するんじゃなくて、動き方をそろえるんだと思う。腕と同じで、無理に押さえ込むのは違うんじゃないかな」

 

 早田は球を持たずに、何度も足を上げた。

 振りかぶるときに上体を反らしすぎない。

 踏み込む足の向きを一定にする。

 身体の回転は止めず、顔が向く先をできるだけ早く定める。

 

「おい、また右へ流れてんぞ」

「見えてる」

「だったら直せ!」

「直してる」

 

 嵐の声に、井出が吹き出した。

 早田もわずかに口元を緩めた。野球部を引退してから久しぶりに、三人で同じ一球を追いかけていた。

 

 年が明ける頃には、試した動作がノートに何ページも積み重なった。

 井出が映像を見返しやすいように日付を付け、嵐が打者側からの感想を書き足した。

 早田の字だけで埋まっていたノートに、二人の文字が増えていく。

 

 ある日の練習で、早田は6球だけを続けて投げた。

 大きく振りかぶり、身体を前へ運ぶ。

 左腕が遅れて走り、球が嵐のミットへ向かう。

 1球は高く外れ、もう1球は内側へそれた。

 残りの球は、おおむね狙った範囲に収まった。

 どれも最初の1球ほど鋭いとは限らなかったが、身体が動く順番は大きく崩れなかった。

 

「……どうだ」

 

 早田が尋ねた。

 

「全部同じってわけじゃねえ。でも、前みたいにどこへ行くか分かんねえ球は減ったな」

 

 井出が画面を確認した。

 

「頭の動きも前よりそろってる。左腕が打者から見える時間も少し短くなったと思う」

「球の勢いは?」

「落ちてねえよ。俺のミットに聞け」

 

 嵐が左手のミットを叩いた。

 早田は球を受け取り、指で縫い目を確かめた。

 最初に見つけた大きな動きは残してある。

 しかし、あの映像の投手と同じ形ではない。右肩へ無理をかけず、左腕の通り道や頭の動きを、自分の身体に合うよう調整してきた。

 

「……これでいく」

 

 井出が目を上げた。

 

「完成ってこと?」

「違う。基準を決める。これから直すにしても、この形からだ」

 

 嵐がにやりと笑った。

 

「ザトペック投法ってやつか?」

「参考にした。だが、同じじゃない」

「じゃあ、早田投法だな!」

「名前は要らない」

「つれねえなあ」

 

 井出はノートの見出しを考え、最後にこう書いた。

 

 クラシックワインドアップ――早田・左投用。

 

 あくまで仮の名前だった。

 初めて、自分なりのフォームに一つの形ができた。

 

 

     *

 

 

 1月の終わり、早田は新しいフォームで速球を投げたあと、嵐から返された球をしばらく見つめていた。

 井出と嵐がその様子に気づく。

 

「どうしたの?」

「……もう一つ、試したい球がある」

「まだフォームを変えんのか?」

「いや。球種だ」

 

 早田はボールを右手へ持ち替えた。右肩を動かさないように、指先で縫い目を探した。

 握りは、右で投げていた頃から知っているものだった。

 

「チェンジアップ?」

 

 井出が尋ねた。

 

「ああ」

「右では投げてたよな。村松さんが捕ってたのも見たことあるぜ」

「左では、まだ思うように投げられない」

 

 早田は右手の中の球をゆっくり回した。

 事故前の9月、村松がブルペンで言ったことを思い出す。

 

『いいな。速球と同じ腕の振りだった』

 

 続けて、球の抜け方を確かめるように聞かれた。

 

『指から抜く感覚は悪くなかっただろう?』

 

 あのときは、当たり前のように返事をした。

 右手はチェンジアップの握りと感覚を覚えていた。

 右肩を傷めても、その知識まで消えたわけではない。

 ただし、右手の感覚がそのまま左手へ移るわけでもなかった。

 

 早田はボールを左手へ持ち替えた。

 右手で作った握りを見ながら、左手でも指の置き方を確かめる。

 同じ球を握っているのに、指に当たる縫い目の感覚が違った。

 

「右では、腕を緩めずに投げてた。左でも同じようにできるはずだ」

「理屈は分かる。でも、その握りで左の指が思ったように動くかは別だね」

「分かってる。だから試す」

 

 最初の1球は、速球とほとんど変わらない勢いで嵐のミットへ飛んだ。握りを変えたはずなのに、球速差が感じられない。

 

「……今の、真っすぐか?」

「チェンジアップのつもりだ」

「じゃあ失敗だな」

 

 2球目は遅い球にしようと意識しすぎて、腕の振りまで鈍くなった。嵐は受ける前から首を傾げていた。

 

「そいつは打席でも分かるぜ。投げる前から、遅いのが来るって教えてるようなもんだ」

「……そうだな」

 

 井出がカメラの映像を確認した。

 

「新しいフォームで速球を投げるときは、身体が先に動いて、腕があとから出る。でも今のは、腕を遅くしようとして全身まで止まってる」

「右で投げたときは、そんなことはしていなかった」

「なら、速球と同じ動きでいいんじゃない?」

 

 早田は頷いた。

 右手で球を握った感触を、もう一度確かめる。

 速球より遅くするために、身体の勢いを殺す必要はない。

 指から球が離れるときの感触を、左手でも探せばいい。

 

 次の球では、新しいワインドアップを崩さなかった。

 大きく振りかぶり、踏み込み、腰を回す。

 左腕が遅れて出てきた。

 途中までは、速球と変わらない動きだった。

 

 ただ、球は高く抜け、嵐のミットの上を通った。

 

「惜しい!」

「いや。今のは狙いより高すぎる」

「でも、腕はさっきより速く振れてたよ」

 

 井出は画面を止めて見せた。

 早田は自分の左手を見た。

 指先に、ほんの少しだけ懐かしい感触があった。

 右で投げていた頃の球離れに似ている。

 その一方で、ボールが離れる位置はまだ安定していなかった。

 

 球数を決めた練習の最後、早田はもう一度だけ握りを確かめた。

 右手で覚えている感覚を、左手へそのまま写そうとはしない。

 左手の指に合う形を探す。

 腕は速球と同じように振る。

 球が放たれた。

 

 パシッ。

 

「……おお?」

 

 嵐がミットを開いた。

 

「今の、腕の振りは真っすぐと同じだったぞ。なのに、球が遅れて来やがった」

 

 早田は左手を開き、ゆっくり握った。

 いつもより球が指に残り、最後に抜けるような感覚があった。嵐も速球のつもりで構え、途中でミットをわずかに動かしていた。

 完全に同じではない。

 それでも、右手が知っていた感覚に、少しだけ近づいた。

 

「……これだ」

「やったじゃねえか!」

「まだ1球だ」

 

 早田が即座に言うと、井出が笑った。

 

「そのとおり。次も同じように投げられるか、速球と動きが違わないか、確かめることはまだあるね」

「分かってる」

 

 それからもチェンジアップの出来は一定しなかった。

 球が落ちなかったり、引っかかって外れたりしたが、何球かは意図して遅くできた。

 早田は、その成功と失敗をどちらもノートに書き残した。

 

 2月になると、練習時間はさらに短くなった。

 科特高校の入試が近づき、放課後は受験勉強が優先になった。

 新フォームとチェンジアップの確認は、決めた本数だけ。

 投げる日より、問題集を開く日の方が多くなった。

 

 図書館の机には、三人それぞれ別の過去問題が並んでいた。

 井出が受けるのは、科特の理数科・化学物理特進コース。

 早田は普通科の理系コース、嵐は普通科の文系コースを目指す。

 同じ学校でも、進む先は少しずつ違っていた。

 

「……この設問、また筆者の意図か」

 

 早田は国語の問題集を開き直した。

 接続語に線を引き、意見が切り替わるところを探す。

 以前までなら、強く書かれた一文をそのまま答えに選んでいた。

 今は、前後の段落へ戻って確かめる習慣が少しずつついていた。

 それでも、答え合わせで間違いが消えたわけではない。

 

「早田、そこは前の段落を見た方がいいよ」

「……そうする」

 

 嵐は隣で数学の問題を解いていた。

 今は、選んだ理由を自分の言葉で書き出そうとしている。

 途中で手が止まり、何度も消しゴムを使った。

 

「くそっ。何で昨日できた問題が、今日はできねえんだよ」

「昨日は俺の説明を聞きながら解いたからね」

「覚えたつもりだったんだがな」

「じゃあ、覚えたつもりの場所を探そう」

 

 井出は答えを告げず、問題文の条件を一つ指さした。

 嵐は唸りながら、また鉛筆を動かした。

 

 嵐の成績は急に上がらなかったが、勘任せにはしなくなった。

 科特の普通科は、依然として高い壁だった。

 本人もそれは承知している。

 

「……井出」

「何?」

「おめえ、本当に同じ高校に行くつもりで教えてんだな」

「今さら何を言ってるのさ」

「いや、別に。ありがとな」

 

 井出は鉛筆を止めた。

 

「合格するかどうかは、まだ分からないよ。でも、できる問題を増やすことなら、今からでもできる」

「へっ。そうこなくっちゃな」

 

 早田は二人の会話を聞きながら、次の文章を開いた。

 左投げと同じだった。

 目標を決めても、届くかどうかは別の話だ。

 途中でやり方を変えることもある。

 それでも、一つずつできることを増やしていくしかない。

 

 入試が目前に迫った日の夕方、三人は図書館を出た。

 校庭には後輩たちの練習する声が響いている。

 嵐がそれを聞いて、肩を回しかけた。

 

「早く思いっきり野球がしてえなあ」

「先に試験だよ」

「分かってらい。井出、おめえもたまには夢のあること言えよ」

「三人で同じ高校へ入る、っていうのは?」

 

 嵐が一瞬黙った。

 そして、照れ隠しのように笑った。

 

「……それなら、文句ねえや」

 

 早田はバッグの持ち手を握り直した。

 中には問題集と、投球の記録をつけたノートが入っている。

 新しいクラシックワインドアップも、まだ完全には身についていない。

 チェンジアップも、思うように投げられない日の方が多い。

 高校で投手として使ってもらえる保証など、どこにもなかった。

 

 それでも、以前とは違う。

 左で投げるための形を、自分で選んだ。

 右手で知っていた球の感覚を、左手でも少しだけつかんだ。

 そのどちらも、一人ではたどり着けなかったことだった。

 

「早田、行くぞ!」

 

 嵐の声がした。

 早田は校庭から目を離した。

 

「ああ」

 

 まずは、目の前の試験に向かう。

 その先に、また投げる場所がある。

 早田は二人の後を追って、まだ冷たい夕方の道を歩き始めた。

 

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