11月の終わり、九条中学校のグラウンドには、冬の匂いが混じり始めていた。
放課後の野球部はすでに新しい学年のものになっている。
早田は、その練習を邪魔しないよう、校庭の端にある壁の前で足を止めた。
グラブは右手につけている。
左手には、使い慣れた軟式球があった。
足を上げ、踏み込む。
腰を回し、左腕を振る。
壁に描かれた目印へ向かった球は、少し高い位置に当たって跳ね返った。
「……上だ」
早田は拾い上げた球を左手へ戻した。
狙いが外れた原因は、だいたい分かる。
腕が先に動き、腰の回転についていけなかった。
それを直そうとすると、今度は踏み込みが遅れる。
何度も繰り返してきた失敗だった。
嵐の一言で左投げを始めてから、もうすぐ1年になる。初めは数m先へ投げることさえ難しかったが、今は投手らしいフォームで球を投げられるようになってきた。
それでも、球を離す瞬間になると、どうしても腕を自分の力で振りにいってしまう。
右で投げていた頃なら、踏み込みから腰の回転、腕の振りまでが自然につながった。左では、順番を頭で追うほど、かえって動きがぎこちなくなる。
早田はもう一度、足元を確かめた。
無意識に、右で投げていた頃と同じ位置へ左肘を持っていこうとしている。左右を入れ替えるだけでは、同じように投げられないのかもしれなかった。
「早田、そこにいたのか」
声をかけたのは嵐だった。
片手に問題集を持ち、もう一方の手をポケットへ突っ込んでいる。
後ろから井出も歩いてきた。
「図書館に来ねえから、探しに来たんだぞ」
「……もうそんな時間か」
「そんな時間か、じゃないよ。今日は国語の長文をやる約束だったでしょ」
井出は壁に残った土の跡と、早田の手元を見比べた。
「また左で投げてたの?」
「ああ。球の勢いが変わらない」
「前よりは速くなってると思うけど」
「頭打ちだ」
嵐が鼻を鳴らした。
「左で投げ始めてまだ1年だろ。そう簡単に右の頃へ追いつくかよ」
「そのとおりだ。だから、やり方を変えたい」
「やり方?」
「投げ方そのものを調べ直す」
井出が興味を示したように目を細めた。
「フォームを?」
「今は右のフォームを裏返すような投げ方をしてる。左には合っていないのかもしれない」
「なるほどね。でも、投手のフォームって一つじゃないよ」
「だから調べる」
嵐が二人の顔を交互に見た。
「おめえら、また大がかりなことを言い始めたな」
「嵐も手伝ってくれ」
「お、俺もか?」
「打者から見た感想を聞きたい。小学校じゃ捕手もやってたろう。頼む」
「……そりゃ、やってたけどよ」
早田は井出を見た。
「映像を比べるのは、井出が得意だ」
「俺を何だと思ってるのさ」
「詳しい人間だ。だから、頼りにする」
「それは否定しないけど」
井出は笑い、早田の足元に置かれたノートを拾い上げた。
ページには、投げた日付と本数、球が外れた方向、右肩の状態が細かく書き込まれている。
左投げを始めてからも、右肩のリハビリは続けていた。
「この記録、フォームを比較するのにも使えそうだね」
「何を試したかは残しておきたい」
「じゃあ、まずは調べようか。知らないものは試せないし」
嵐が大きく息を吐いた。
「図書館の前に、また宿題が増えちまったな」
「受験勉強とは別だよ」
「だから増えたって言ってんだろ!」
早田は球をバッグへしまった。
投げられる左腕を作るために始めた練習だった。
次は、左腕でどう投げるかを決めなければならない。
それは、単に回数を重ねるのとは違う問題に思えた。
*
12月に入ると、三人の放課後には新しい習慣ができた。
図書館で受験勉強を終えたあとや休日に、三人で投球フォームの映像を調べた。家庭のパソコンを使い、国外の古い試合映像も探した。
解説はよく分からなくても構わない。確かめたいのは投手の動きだった。
腕の位置や踏み込み、身体の向きが変わるタイミングを見比べる。
井出は気になった場面で映像を止め、その前後を繰り返し再生した。
「これ、同じオーバースローでもずいぶん違うね」
「右と左をひっくり返して見りゃ、似てるのもあるだろ」
「腕の形が似ていても、そこへ持っていくまでが違うんだよ。嵐、最初から見て」
「へいへい」
小さく足を上げる投手も、大きく振りかぶる投手もいた。腕の高さが違っていても、どちらも速い球を投げている。似た結果へ至るまでの動作は、驚くほど違った。
「全部正解ってわけでもねえだろ?」
「それはもちろん。投げている本人には合っていても、早田に合うとは限らないよ」
「だったら、どうやって決めんだよ」
「試して確かめるしかない」
早田はそう言って、ノートの新しいページを開いた。
映像で見た動きを、短い言葉で書き留めていく。見ただけで分かったつもりにならないよう、実際に試して確かめる点も分けて記録した。
学校の許可を得て使える練習場所では、まず球を持たずに動きを確認した。
次に近い距離で軽く投げ、腕や肩に無理がないか確認する。
投球数は決めてあり、勢い任せに続けることはしなかった。
最初に試したのは、動作を小さくまとめた現代的なフォームだった。
足を上げる高さを抑え、踏み込みまでの時間を短くする。狙った方向へは投げやすかったが、早田は球を離すと首を振った。
「腕で投げてる感じが、もっと強い」
「俺にはまとまって見えたけどね」
「まとまってる。でも、球へ力が伝わってない」
次は腕をやや下げてみた。
ところが、踏み出した足と上体の向きが合わず、球は狙いより外へそれた。
「うおっ、危ねえ!」
捕手役の嵐がミットを伸ばして受けた。近い距離からの軽い試投だったが、球は構えた場所から大きく外れていた。
「これは無しだね、早田」
井出が言った。
「……そうだな」
早田は言い返さず、ノートに線を引いた。
合わないものを捨てることも、調べるうちの一つだった。
ある夜、井出が古い映像を止めた。
画面には、両腕を大きく上げる古い投球フォームが映っていた。
その動きは、最近見てきた投手のものよりはるかに大きい。
踏み込む前から、全身に勢いをつけているように見えた。
「ずいぶん派手だな」
嵐が感心したように言った。
「クラシックワインドアップの一種だね。この投手の独特なフォームは『ザトペック投法』と呼ばれていたらしいよ」
「ザトペック? 聞かねえ名前だな」
「元は昔の陸上選手の名前だって。その陸上選手が走る時の雰囲気と、この投手が投げる時の雰囲気が似てたから、そう呼ばれるようになったんだってさ」
早田は画面に顔を近づけた。
身体の動きに引かれるように左腕が大きく回り、振りかぶりから踏み込みまでに独特のうねりがあった。
「今まで試したものとは、身体の使い方がだいぶ違うね」
「……これだと、腕を先に振れないな」
「そうだね。むしろ身体の動きが先に来る」
「試したい」
嵐が笑った。
「言うと思ったぜ。見た目だけなら、ずいぶん大げさだぞ」
「大げさでも構わない」
「格好つけたいわけじゃねえもんな」
「ああ。速い球を投げたい」
翌日、三人はスマートフォンと三脚を持って練習場所へ向かった。
嵐は安全を確かめて捕手の位置につき、井出は投球線から離れた場所へカメラを据えた。
早田は映像を頭の中でなぞり、まず球を持たずに振りかぶった。
左腕を大きく動かすと、身体が引っ張られる。
右腕もつられて動きそうになり、早田はそこで止まった。
右肩に無理をかけないよう、反対側の腕の動きは小さく調整する。
映像を丸ごと真似するわけにはいかなかった。
「おいおい、ずいぶん回るじゃねえか」
「目が回るほどではない」
「そういう問題じゃねえよ!」
最初の試投は、嵐の手前で地面に跳ねた。
2球目は高く浮き、3球目は大きく左へ外れた。
早田は肩を落とすかわりに、靴の先を地面へ揃え直した。
「身体を回した勢いに、腕が遅れてる」
「さっきの映像より、踏み込むのが早いね」
「……もう一度、動きだけ確かめる」
井出が画面を見せた。
早田は映像の自分が、想像より早く身体を正面へ向けていることに気づいた。
足を上げる高さではない。身体の向きを変える順番が合っていなかった。
何度かシャドウピッチングで動きを確かめ、最後に1球だけ試すことにした。
早田は深く息を吸い、嵐のミットを見た。
左腕を大きく振り上げ、右腕は無理のない位置に添える。
身体全体で振りかぶる。
足が前へ運ばれ、腰が回る。
その動きに遅れて、左腕が後ろからついてきた。
速く振ろうとは思わなかった。
むしろ、腕をどう動かすか考える暇がなかった。
身体が先へ進み、左腕がそれに引かれて出ていく。
最後に指先から、球が離れた。
バシンッ。
乾いた音が、冷えた空気へ響いた。
嵐がミットを引き寄せたまま、しばらく動かなかった。
「……おい」
早田は左手を開いた。
指先には、いつもの球離れとは違う感覚が残っていた。
強引に腕を振った感じはない。
それなのに、今までよりずっと勢いよく球が離れた気がした。
「今の、何だ?」
嵐がミットを持ち上げた。
「おめえ、今までの左で、一番速かったんじゃねえのか!」
「……俺も、そう感じた」
井出がカメラの方から歩いてきた。
「数値で測ったわけじゃないから、最高球速だと断言はできない。でも、同じ距離で受けた嵐の感覚がそれだけ違うなら、確かめる価値はあるね」
「腕を無理に振った感覚がない」
「そこが大事かもしれない。もう一度、映像を見よう」
画面の早田は、見慣れた左投げより大きく動いていた。
しかし、左腕が先に走る癖は薄れていた。踏み込んだ身体に腕が続き、球が離れるまでが一つの動きにつながっている。
早田は画面から目を離さなかった。
「……これを基にする」
「え、もう決めんのかよ」
「完成したとは思ってない。ただ、今までにない感覚だった」
嵐はミットの中の球を見た。
「まあ、あの1球は忘れられねえな」
早田は頷いた。
次回も同じように投げられるとは、まだ限らなかった。
*
案の定、翌週の練習では同じ球がなかなか出なかった。力が入りすぎれば左腕が遅れ、焦って腕を振ろうとすれば以前の手投げに戻ってしまう。
何球かは勢いのある球になったが、狙った場所へ集まらない。
早田は投球を終えたあと、ベンチで録画を見返した。
「悪いところは分かったか?」
嵐が隣から尋ねる。
「踏み出す位置が、投げるたびに変わってる」
「それもあるけどね、俺は別に二つ気になることがある」
井出が映像を巻き戻した。
最初に見せたのは、投手の正面に近い角度から撮ったものだった。
「このフォーム、左腕の動きが大きいでしょ。球を持った腕が早い段階から見えてる」
「見えてると、まずいのか?」
嵐が尋ねた。
「球の出所が追いやすい。腕がどう動いて、いつ球が来るか、打者に手掛かりを与えることになると思う」
「速い球なら、それでも打てねえんじゃねえか?」
「速ければ絶対に打てない、とは言えないよ。早田の球は、そこまで圧倒的に速いわけでもないし」
早田は頷いた。
中学最後の大会で打席に立った嵐の姿を思い出す。
「もう一つは?」
井出は今度は横からの映像を再生した。
振りかぶりにつられて頭が動き、踏み込む頃には上下にも揺れている。映像の後半では、視線が一度ミットから外れていた。
「頭がぶれてる。これだと、毎回同じ場所で球を離すのは難しいんじゃないかな」
「……確かに、目印を見失うときがある」
「勢いを使うのはいい。でも、頭まで一緒に振り回したら、狙うところが安定しない」
井出はノートへ二つの項目を書いた。
腕の動きが見えやすいこと。
頭がぶれ、制球が乱れやすいこと。
「この二つを放っておくと、ただ速いだけで終わると思う」
早田はしばらく文字を見つめていた。
嵐なら、早く投げられたことをまず喜ぶ。
井出はその後に残る問題を見つける。
どちらも、自分にとって必要な反応だった。
「……直せるか?」
「全部なくせるかは分からないね。でも、試すことはできる」
「俺にも分かるようにやれよ。数字だらけは勘弁だぜ」
「嵐には打席から見てもらうよ。捕手の位置からじゃ、出所の見え方は確かめられないから」
「そういうことなら任せろ」
次の休日、三人は投球位置と撮影する場所を決め直した。
嵐は捕手役を終えると、危険のない位置から打席側の見え方を確かめた。
このときは球を投げず、早田の動きだけを観察した。大きな振りかぶりは残し、左腕が身体の後ろ側を通るタイミングを探る。
「今のは、腕が早く見えたぞ」
「これはどうだ?」
「ちっと遅い。だけど、最後にぐるっと出てくるのが分かるな」
何度も動きを変えた。
腕を隠そうとするあまり動きを小さくすると、早田はすぐに首を振った。
「……駄目だ。また腕だけで投げようとしてる」
「じゃあ、大きさを消すんじゃなくて、見える時間を短くする方だね」
井出は横からの映像と打者側からの映像を並べて見せた。
早田は左腕を早く外へ開く癖を見直した。腰の回転が始まるまでは、腕が身体の陰に残る。
そこから先は、身体の動きに任せて大きく振る。
見た目は、まだ古い映像の投手に似ていた。
ただし、腕の通り道は少し違っていた。
「お、今の方が、球が急に出てくる感じだぜ」
嵐が言った。
「全部隠せるわけじゃないけどね」
「全部隠せなくてもいい」
早田は左手を開閉した。
投げる腕を見せないことだけが目的ではない。球の勢いを失えば、そもそもこのフォームを選んだ意味がなかった。
次は頭のぶれだった。
井出は撮影した画面で早田の帽子の位置を見比べ、足を踏み出すたびに頭が左右へ流れていることを示した。
「身体を大きく動かしても、最後にミットを見る位置はそろえたいね」
「頭を動かさないようにすると、身体まで止まる」
「首を固定するんじゃなくて、動き方をそろえるんだと思う。腕と同じで、無理に押さえ込むのは違うんじゃないかな」
早田は球を持たずに、何度も足を上げた。
振りかぶるときに上体を反らしすぎない。
踏み込む足の向きを一定にする。
身体の回転は止めず、顔が向く先をできるだけ早く定める。
「おい、また右へ流れてんぞ」
「見えてる」
「だったら直せ!」
「直してる」
嵐の声に、井出が吹き出した。
早田もわずかに口元を緩めた。野球部を引退してから久しぶりに、三人で同じ一球を追いかけていた。
年が明ける頃には、試した動作がノートに何ページも積み重なった。
井出が映像を見返しやすいように日付を付け、嵐が打者側からの感想を書き足した。
早田の字だけで埋まっていたノートに、二人の文字が増えていく。
ある日の練習で、早田は6球だけを続けて投げた。
大きく振りかぶり、身体を前へ運ぶ。
左腕が遅れて走り、球が嵐のミットへ向かう。
1球は高く外れ、もう1球は内側へそれた。
残りの球は、おおむね狙った範囲に収まった。
どれも最初の1球ほど鋭いとは限らなかったが、身体が動く順番は大きく崩れなかった。
「……どうだ」
早田が尋ねた。
「全部同じってわけじゃねえ。でも、前みたいにどこへ行くか分かんねえ球は減ったな」
井出が画面を確認した。
「頭の動きも前よりそろってる。左腕が打者から見える時間も少し短くなったと思う」
「球の勢いは?」
「落ちてねえよ。俺のミットに聞け」
嵐が左手のミットを叩いた。
早田は球を受け取り、指で縫い目を確かめた。
最初に見つけた大きな動きは残してある。
しかし、あの映像の投手と同じ形ではない。右肩へ無理をかけず、左腕の通り道や頭の動きを、自分の身体に合うよう調整してきた。
「……これでいく」
井出が目を上げた。
「完成ってこと?」
「違う。基準を決める。これから直すにしても、この形からだ」
嵐がにやりと笑った。
「ザトペック投法ってやつか?」
「参考にした。だが、同じじゃない」
「じゃあ、早田投法だな!」
「名前は要らない」
「つれねえなあ」
井出はノートの見出しを考え、最後にこう書いた。
クラシックワインドアップ――早田・左投用。
あくまで仮の名前だった。
初めて、自分なりのフォームに一つの形ができた。
*
1月の終わり、早田は新しいフォームで速球を投げたあと、嵐から返された球をしばらく見つめていた。
井出と嵐がその様子に気づく。
「どうしたの?」
「……もう一つ、試したい球がある」
「まだフォームを変えんのか?」
「いや。球種だ」
早田はボールを右手へ持ち替えた。右肩を動かさないように、指先で縫い目を探した。
握りは、右で投げていた頃から知っているものだった。
「チェンジアップ?」
井出が尋ねた。
「ああ」
「右では投げてたよな。村松さんが捕ってたのも見たことあるぜ」
「左では、まだ思うように投げられない」
早田は右手の中の球をゆっくり回した。
事故前の9月、村松がブルペンで言ったことを思い出す。
『いいな。速球と同じ腕の振りだった』
続けて、球の抜け方を確かめるように聞かれた。
『指から抜く感覚は悪くなかっただろう?』
あのときは、当たり前のように返事をした。
右手はチェンジアップの握りと感覚を覚えていた。
右肩を傷めても、その知識まで消えたわけではない。
ただし、右手の感覚がそのまま左手へ移るわけでもなかった。
早田はボールを左手へ持ち替えた。
右手で作った握りを見ながら、左手でも指の置き方を確かめる。
同じ球を握っているのに、指に当たる縫い目の感覚が違った。
「右では、腕を緩めずに投げてた。左でも同じようにできるはずだ」
「理屈は分かる。でも、その握りで左の指が思ったように動くかは別だね」
「分かってる。だから試す」
最初の1球は、速球とほとんど変わらない勢いで嵐のミットへ飛んだ。握りを変えたはずなのに、球速差が感じられない。
「……今の、真っすぐか?」
「チェンジアップのつもりだ」
「じゃあ失敗だな」
2球目は遅い球にしようと意識しすぎて、腕の振りまで鈍くなった。嵐は受ける前から首を傾げていた。
「そいつは打席でも分かるぜ。投げる前から、遅いのが来るって教えてるようなもんだ」
「……そうだな」
井出がカメラの映像を確認した。
「新しいフォームで速球を投げるときは、身体が先に動いて、腕があとから出る。でも今のは、腕を遅くしようとして全身まで止まってる」
「右で投げたときは、そんなことはしていなかった」
「なら、速球と同じ動きでいいんじゃない?」
早田は頷いた。
右手で球を握った感触を、もう一度確かめる。
速球より遅くするために、身体の勢いを殺す必要はない。
指から球が離れるときの感触を、左手でも探せばいい。
次の球では、新しいワインドアップを崩さなかった。
大きく振りかぶり、踏み込み、腰を回す。
左腕が遅れて出てきた。
途中までは、速球と変わらない動きだった。
ただ、球は高く抜け、嵐のミットの上を通った。
「惜しい!」
「いや。今のは狙いより高すぎる」
「でも、腕はさっきより速く振れてたよ」
井出は画面を止めて見せた。
早田は自分の左手を見た。
指先に、ほんの少しだけ懐かしい感触があった。
右で投げていた頃の球離れに似ている。
その一方で、ボールが離れる位置はまだ安定していなかった。
球数を決めた練習の最後、早田はもう一度だけ握りを確かめた。
右手で覚えている感覚を、左手へそのまま写そうとはしない。
左手の指に合う形を探す。
腕は速球と同じように振る。
球が放たれた。
パシッ。
「……おお?」
嵐がミットを開いた。
「今の、腕の振りは真っすぐと同じだったぞ。なのに、球が遅れて来やがった」
早田は左手を開き、ゆっくり握った。
いつもより球が指に残り、最後に抜けるような感覚があった。嵐も速球のつもりで構え、途中でミットをわずかに動かしていた。
完全に同じではない。
それでも、右手が知っていた感覚に、少しだけ近づいた。
「……これだ」
「やったじゃねえか!」
「まだ1球だ」
早田が即座に言うと、井出が笑った。
「そのとおり。次も同じように投げられるか、速球と動きが違わないか、確かめることはまだあるね」
「分かってる」
それからもチェンジアップの出来は一定しなかった。
球が落ちなかったり、引っかかって外れたりしたが、何球かは意図して遅くできた。
早田は、その成功と失敗をどちらもノートに書き残した。
2月になると、練習時間はさらに短くなった。
科特高校の入試が近づき、放課後は受験勉強が優先になった。
新フォームとチェンジアップの確認は、決めた本数だけ。
投げる日より、問題集を開く日の方が多くなった。
図書館の机には、三人それぞれ別の過去問題が並んでいた。
井出が受けるのは、科特の理数科・化学物理特進コース。
早田は普通科の理系コース、嵐は普通科の文系コースを目指す。
同じ学校でも、進む先は少しずつ違っていた。
「……この設問、また筆者の意図か」
早田は国語の問題集を開き直した。
接続語に線を引き、意見が切り替わるところを探す。
以前までなら、強く書かれた一文をそのまま答えに選んでいた。
今は、前後の段落へ戻って確かめる習慣が少しずつついていた。
それでも、答え合わせで間違いが消えたわけではない。
「早田、そこは前の段落を見た方がいいよ」
「……そうする」
嵐は隣で数学の問題を解いていた。
今は、選んだ理由を自分の言葉で書き出そうとしている。
途中で手が止まり、何度も消しゴムを使った。
「くそっ。何で昨日できた問題が、今日はできねえんだよ」
「昨日は俺の説明を聞きながら解いたからね」
「覚えたつもりだったんだがな」
「じゃあ、覚えたつもりの場所を探そう」
井出は答えを告げず、問題文の条件を一つ指さした。
嵐は唸りながら、また鉛筆を動かした。
嵐の成績は急に上がらなかったが、勘任せにはしなくなった。
科特の普通科は、依然として高い壁だった。
本人もそれは承知している。
「……井出」
「何?」
「おめえ、本当に同じ高校に行くつもりで教えてんだな」
「今さら何を言ってるのさ」
「いや、別に。ありがとな」
井出は鉛筆を止めた。
「合格するかどうかは、まだ分からないよ。でも、できる問題を増やすことなら、今からでもできる」
「へっ。そうこなくっちゃな」
早田は二人の会話を聞きながら、次の文章を開いた。
左投げと同じだった。
目標を決めても、届くかどうかは別の話だ。
途中でやり方を変えることもある。
それでも、一つずつできることを増やしていくしかない。
入試が目前に迫った日の夕方、三人は図書館を出た。
校庭には後輩たちの練習する声が響いている。
嵐がそれを聞いて、肩を回しかけた。
「早く思いっきり野球がしてえなあ」
「先に試験だよ」
「分かってらい。井出、おめえもたまには夢のあること言えよ」
「三人で同じ高校へ入る、っていうのは?」
嵐が一瞬黙った。
そして、照れ隠しのように笑った。
「……それなら、文句ねえや」
早田はバッグの持ち手を握り直した。
中には問題集と、投球の記録をつけたノートが入っている。
新しいクラシックワインドアップも、まだ完全には身についていない。
チェンジアップも、思うように投げられない日の方が多い。
高校で投手として使ってもらえる保証など、どこにもなかった。
それでも、以前とは違う。
左で投げるための形を、自分で選んだ。
右手で知っていた球の感覚を、左手でも少しだけつかんだ。
そのどちらも、一人ではたどり着けなかったことだった。
「早田、行くぞ!」
嵐の声がした。
早田は校庭から目を離した。
「ああ」
まずは、目の前の試験に向かう。
その先に、また投げる場所がある。
早田は二人の後を追って、まだ冷たい夕方の道を歩き始めた。