2月の朝は、制服の襟元から入り込む風が冷たかった。
早田は、科学特進高校の正門をくぐる前に、鞄の持ち手を握り直した。
自宅から歩いて10分ほど。幼い頃から見慣れた道だった。
中学の帰りにも何度か立ち寄った場所だ。今日は入試本番の日だった。
「おう、早田!」
振り向くと、嵐が大股で歩いてきた。
首に巻いたマフラーを外しかけ、慌てて巻き直す。
「おめえ、早ぇな。まだ集合時間まで余裕あるだろ」
「家が近い」
「そりゃ知ってるけどよ。……ったく、寒ぃ」
嵐はそう言いながら、正門の向こうを見上げた。
その顔から、いつもの勢いが少し引いた。
「……でけえ学校だな」
「前にも来ただろ」
「受験票持って来んのは初めてなんでえ」
嵐は上着の内ポケットを押さえた。
そこに受験票があるのを、家を出てから何度確かめたのだろう。
早田はあえて聞かなかった。
「二人とも、ここにいたんだね」
井出が自転車を押して近づいてきた。
駐輪場へ向かう手前で足を止め、二人の顔を見比べる。
「嵐、受験票は?」
「ある!」
「筆記用具は?」
「あるって!」
「時計は?」
「井出ぇ! 俺を小学生扱いすんじゃねえ!」
「昨日、消しゴムを忘れそうになったのは誰だっけ」
「……おめえ、覚えてやがったのか」
井出は笑った。
それから自転車を駐輪場へ置き、二人のところへ戻ってきた。
腕時計へ目を落とし、時間を確認する。
「じゃあ、入ろう。試験室の場所が違うから、中でいったん別々だね」
早田は普通科の理系コースを受ける。
嵐は普通科の文系コース。
井出は理数科の化学物理特進コースだった。
同じ高校でも、試験室も受験者の顔ぶれも、それぞれ違う。
「おい、井出」
「何?」
「おめえ、緊張してねえのか」
「してないわけじゃないよ」
「嘘つけ。いつもと同じ顔じゃねえか」
「問題を解くのは、いつもやってることだからね」
井出は少し考えてから続けた。
「それより、確認することを決めてあるんだ。問題の条件と、計算の符号と、解答欄」
「また細けえ話を」
「前の模試で、そこを間違えたから」
早田は井出の顔を見た。
以前、井出から5月の全国模試で9位だったと聞いたことがある。そのときも井出は、順位より間違えた問題を気にしていた。早田は、そのことを思い出した。
「……井出らしいな」
「早田は、国語の接続語を忘れずにね」
「分かってる」
「嵐は、勘だけで選ばないこと」
「分かってらい!」
三人は昇降口の前で立ち止まった。
ここから先は、別々に進む。
嵐が二人へ手を突き出した。
「じゃあよ。終わったら、またここで会おうぜ」
早田はその手を見て、自分の右手を重ねた。
井出も重ねる。
野球部で円陣を組んだときのような、大げさな掛け声はなかった。
ただ、嵐が小さく頷いた。
「……受かるぞ」
「ああ」
「そうだね」
手を離し、三人はそれぞれの試験室へ向かった。
*
早田の最初の科目は、これまで何度も対策してきた国語だった。
試験開始の合図とともに問題冊子を開く。
長い説明文を見て、一瞬だけ指が止まる。
筆者の主張を問う設問。
以前なら、目立つ一文を答えだと決めてしまったかもしれない。
早田は息を整え、冒頭の段落から読み直した。
対立する意見を示した箇所に印をつける。
接続語を囲み、そこから何が変わったかを確かめる。
文章の一部だけを強く追う癖が出そうになるたび、視線を前の段落へ戻した。
机の上には、問題冊子と答案用紙がある。
そこから目を離す必要はなかった。
ただし、試験時間だけは忘れてはいけない。
早田は設問を一つ終えるごとに、時計を確かめた。
数学では、覚えた公式をそのまま当てはめられない問題が出た。
条件を書き出し、途中の式を組み直す。
時間はかかったが、空欄のままにはしなかった。
すべてに自信があったわけではない。
それでも、知らないまま捨てた問題はほとんどなかった。
一方、嵐は問題用紙の端に、小さく式を書いていた。
四つの選択肢のうち、1番目と3番目は明らかに違う。
以前の嵐なら、残った二つを勘で選んだだろう。
しかし、今は違う。
井出に教わったとおり、問題文へ戻る。
書かれている条件を一つずつ拾う。
「……こっちか」
声に出しかけ、口を閉じた。
自信があるわけではなかった。
ただ、何となく選んだのではなく、理由を持って選べた。
次の記述問題では、途中まで書いて手が止まった。
それでも、分かるところだけは埋める。
図書館で井出に何度も言われたことだった。
答えが完成しなくても、考えた過程は残せる。
嵐は鉛筆を握り直し、もう一行書き足した。
井出は、問題冊子の最後のページまで進むと、時計を見た。
時間には余裕があった。
難しい問題がなかったわけではない。
けれど、考え方の分からない設問は見当たらなかった。
ここからは、別の仕事だった。
井出は答案用紙を裏返す前に、解答欄の番号を最初から追った。
計算では、符号を一行ずつ確かめる。
条件を読み落とした問題がないか、設問の終わりまで指でたどる。
5月の模試で最後に符号を取り違えた一問が、ふと頭をよぎった。
井出は最初の答案に戻り、もう一度だけ計算を始めた。
最後の試験が終わったとき、廊下へ出てきた嵐は、壁にもたれかかりそうになった。
「終わったぁ……!」
「お疲れさん」
先に待っていた井出が言った。
早田も少し遅れて階段を下りてくる。
「どうだった?」
井出の問いに、嵐は顔をしかめた。
「分かんねえ。分かった問題もあったし、分かんねえ問題もあった。とにかく、最後まで書いた」
「それなら、まずはよかったね」
「井出はどうなんだよ」
「見直しはできたよ」
「俺が聞いてんのは、そこじゃねえ!」
早田が静かに口を開いた。
「答え合わせは、帰ってからでいい」
「……そうだな」
嵐は受験票をもう一度ポケットへしまった。
門の外へ出ると、冬の空気が頬に当たった。
早田は一度だけ振り返った。
同じ門を、今度は科特の生徒として通れるのか。
まだ、答えは出ていなかった。
*
合格発表の日、科学特進高校の正門前には、早くから人が集まっていた。
掲示板の前では受験票を握った生徒たちが、背伸びをしたり、何度も番号を確かめたりしている。
喜びの声が上がる一方で、無言のまま立ち去る者もいた。
早田はその光景を見て、胸の奥が少し固くなるのを感じた。
「……おい。始まってるぞ」
嵐が、いつもより低い声で言った。
井出は掲示の区分を確かめている。
「普通科と理数科で分かれてる。番号を取り違えないようにしよう」
「分かってる。俺のは普通科文系だ」
「うん。早田は普通科理系。俺は理数科の化学物理」
三人は人の隙間から掲示板へ近づいた。
早田は自分の受験番号を、頭の中で繰り返した。
紙の上に並ぶ数字を、一つずつ追う。
途中で似た番号を見つけ、思わず目が止まった。
末尾が違う。
早田は最初から見直した。
あった。
自分の番号だった。
何度確かめても、そこにある。
早田は小さく息を吐いた。
「……あった」
声に出して、ようやく実感が追いついた。
科特へ行ける。
村松のいる野球部へ、入部を希望できる。
しかし、すぐ隣では嵐がまだ掲示板を見つめていた。
「嵐?」
「待て。今、見てる」
嵐の視線は、番号の列を何度も往復していた。
早田は声をかけるのをやめた。
井出も黙って隣に立つ。
「……ん?」
嵐が指を伸ばした。
紙へ触れる寸前で止める。
「……これ」
そこに書かれた数字と、嵐の受験票にある数字は同じだった。
嵐は二枚を見比べる。
一度目は速く。
二度目はゆっくりと。
「……あるじゃねえか」
小さな声だった。
次の瞬間、嵐は顔を上げた。
「ある! 俺の番号があるぞぉ!」
周囲の視線が集まった。
井出が慌てて袖を引く。
「嵐、声!」
「うるせえ! 受かったんだぞ、俺が!」
「分かったから、落ち着いて!」
嵐は口を開けたまま早田を見た。
早田が頷くと、ようやく笑った。
いつもの豪快な笑顔だったが、その目元は少し赤い。
「……やったな」
「ああ。やったぜ」
井出も自分の番号を見つけて戻ってきた。
「俺もあったよ」
「そりゃそうだろうよ!」
「いやいや。俺だって、発表を見るまでは合格者じゃないんだよ」
三人はしばらく、その場から動かなかった。
嵐が何度も受験票を見ている。
井出は掲示板の番号をもう一度確認していた。
早田は校舎の向こうを見た。
村松がこの学校で野球をしている。
その事実が、今度は自分の進路とつながった。
*
帰宅した早田が父へ合格を伝えると、父は少しだけ目を細めた。
「そうか。おめでとう」
「ありがとう」
「村松くんにも、いい報告ができるな」
「ああ」
父は、早田の机に置いてあった左投げのノートをちらりと見た。
「勉強も野球も、続きがあるな」
「分かってる」
早田は答えた。
合格は終わりではない。
だが、目の前にあった一つの門を通れたことは、確かだった。
*
同じ頃、井出は帰宅してから、両親へ合格を報告した。
父は仕事の資料から顔を上げ、母は台所から出てきた。
「科特、受かったよ。化学物理特進コース」
「そうか。おめでとう、正也」
「おめでとう。よかったわね」
「ありがとう」
井出は二人に頭を下げた。まだ得点も順位も分からない。だが、志望していた場所で勉強できることは決まった。
弟の光が廊下から顔を出した。
「兄ちゃん、合格したの?」
「うん。春から高校生だよ」
「すごいじゃん!」
「ありがとう、光」
母は夕食の支度に戻り、父は入学手続きの日程を確かめ始めた。いつもの家の時間が、少しだけ明るくなったように感じられた。
*
同時刻、嵐の家では、話がそう静かには収まらなかった。
パートから戻った母が夕食の支度をしているところへ、嵐が玄関から飛び込んだ。
「母ちゃん! 受かったぞ!」
「お帰り。そんな大声出して、何に受かったって?」
「科特だよ! 科学特進高校!」
母は持っていた菜箸を止めた。
「……徳夫。あんた、いま何て言った?」
「だから、科特に受かったんだって!」
「本当かい! あの難しい学校に?」
「俺が嘘ついてどうすんだよ!」
声を聞きつけて、伊織と大助も居間から駆けてきた。
「兄ちゃん、受かったの?」
「おう!」
「やった! じゃあ早田さんたちと一緒だね!」
大助が飛び跳ね、伊織も嬉しそうに笑った。母は嵐の顔を両手で挟みかけ、息子に慌てて逃げられた。
「ちょっと、何で逃げるのさ!」
「もう子供じゃねえんだぞ!」
「今日くらい、いいじゃないか。おめでとう、徳夫!」
父親は長距離トラックの仕事で家を空けていた。嵐は休憩中の父に電話を入れた。
「親父。俺、科特に受かったぜ」
「……あん? おめえ、受験番号を見間違えちゃいねえだろうな」
「何回も確かめたって! 早田も井出も見てたんだよ!」
「そうかい。……なら、よくやったじゃねえか」
電話の向こうで、父は一度咳払いをした。
「帰ったら、もう一遍聞かせろ」
「おう。任せとけ!」
電話を切ると、母が腕を組んで待っていた。
「お父ちゃん、何だって?」
「帰ったら話せってよ」
「まったく、素直に大喜びすりゃいいのにねえ」
母はそう言いながら、もう一度、嵐へ「おめでとう」と言った。
その晩の嵐家では、合格という言葉が何度も飛び交った。何位で受かったのかは、誰もまだ知らなかった。
*
数日後、入学手続きと合わせて設けられた成績開示の機会に、三人はそれぞれ自分の結果を受け取った。
科特では学科・コースごとに合格順位を示す仕組みになっている。
希望者本人だけが受け取れる記録だったが、三人は以前から結果を見せ合う約束をしていた。
放課後の図書館で、嵐が封筒を机に置く。
「……おめえら、先に見せろよ」
「何で?」
「心の準備ってもんがあるだろうが」
井出は早田へ目を向けた。
「じゃあ、早田からにする?」
「構わない」
早田は紙を広げた。
普通科理系コース、合格者160人中90位。
数字は真ん中より少し下だった。
「90位か。悪くねえじゃねえか」
「思ったより下だ」
「国語で苦労した分を考えれば、十分健闘したと思うよ」
井出が言った。
早田は国語の欄に目を向けた。
以前の自分なら取り違えたかもしれない設問を、いくつか正解している。
反対に、まだ落としている問題もあった。
「……入ってからも勉強は必要だな」
「それは全員同じだよ」
井出が穏やかに答えた。
「次、俺か」
嵐が封筒を開いた。
紙を引き出した途端、眉間に皺が寄る。
「……159?」
「160人中?」
井出が確認する。
「そうだよ。160人中、159位だってよ」
嵐はしばらく紙を見つめていた。
そして、短く息を吹き出した。
「へっ。下から2番目か」
「ブービーだね」
「分かってらい!」
井出は笑いかけたが、嵐が紙を折らずに見ていることに気づいた。
「……どうしたの?」
「いやな。最初は、受けることさえ考えてなかったんだよな」
嵐の指が、159の数字をなぞった。
「おめえに何度も教わって、分かんねえ問題を一つずつ潰して、それでもこれだ。上には158人もいやがる」
「そうだね」
「でも、1人は俺の下なんだろ」
「……そうだね」
「だったら、ここまで来たんだ。高校でも、上がってやらあ」
井出が目を細めた。
「その意気なら、俺も教えがいがあるよ」
「入ってからも教わる前提かよ!」
「だって、急に全部できるようにはならないでしょ」
「ちくしょう、正論で返すな!」
早田は嵐の結果を見ていた。
合格者の最後尾に近い位置でも、嵐はそこに自分の番号を残した。
勘だけで入試を乗り切ったわけではないことを、早田は知っている。
図書館で、答えが出るまで鉛筆を置かなかった嵐の姿を見てきたからだった。
「……嵐」
「あん?」
「おめでとう。改めて」
嵐は目を丸くした。
「何だよ、今さら」
「言っておきたかった」
「……へっ。ありがとよ」
最後に井出が自分の紙を開いた。
化学物理特進コース、合格者40人中1位。
さらに、その横の得点欄に並んでいた数字を見て、嵐の顔から笑みが消えた。
「……おい。何だ、これ」
「点数だよ」
「見りゃ分かる! 何で全部、満点なんでえ!」
早田も紙へ目を向けた。
科目ごとの得点は、どれも満点だった。
総得点の欄にも、減点はない。
「……全教科満点か」
「うん。今回は取りこぼさずに済んだみたいだね」
「『済んだみたい』じゃねえよ! おめえ、何をやらかしてんだ!」
嵐が机を叩きかけ、図書館だと思い出して手を止めた。
井出は、その手元を見て小さく笑った。
「特別な受験勉強をしたわけじゃないよ。いつものことをしていただけ」
「いつもので満点取れる奴に言われたくねえ!」
「でも、見直しだけはちゃんとやったんだ。前の模試で、最後の符号を間違えたことがあったから」
井出は成績票の得点欄を指さした。
「難しい問題を解くのと、解けた問題を間違えずに出すのは別だからね」
「……おめえ、それが一番難しいんじゃねえのか」
「かもしれないね」
早田は井出の結果をもう一度見た。
井出は全国9位だったときでさえ、間違えた一問を気にしていた。
今日はその一問を残さなかった。
それが井出のいう「いつも」の中身なのだろう。
「……井出。おめでとう」
「ありがとう。二人もね」
三枚の紙には、90位、159位、1位と、それぞれ違う数字が並んでいた。
比較する学科やコースも同じではない。
けれど、三人が春から通う学校の名前だけは同じだった。
嵐が椅子の背へもたれた。
「……村松さん、驚くだろうな」
「俺たちが三人そろって入ること?」
「そりゃそうだ。特に俺が受かったことにな」
早田は頷いた。
「……今度は同じチームだ」
嵐が笑い、井出も静かに頷いた。
入学して何ができるのかは、まだ分からない。
それでも、三人は再び同じ場所を目指せるようになった。
*
その夜、早田は帰宅した父に、成績開示の紙を見せた。
父は仕事鞄を脇へ置いてから、数字を確かめた。
「160人中90位か」
「ああ。思っていたより下だった」
「それでも、あの学校に合格したんだ。よく頑張ったな」
「国語は、まだ取りこぼしがある。数学も応用問題の対策が要る」
父は紙を返さず、息子の顔を見た。
「入学する前から、もう次の勉強の話か」
「入ってから困らないようにしたい」
「そうだろうな。でも、今日は合格したことを喜んでもいいんだぞ」
早田はしばらく考えた。
「……嬉しいよ。父さんが応援してくれたから、受けられた」
「受験したのも、答案を書いたのも、お前だよ」
「それでも、ありがとう」
父は少し目を細め、ようやく成績票を返した。
机の端には、左投げの記録ノートが重ねてある。勉強も野球も、まだ先が長い。だが今夜だけは、その二つの間に置いた合格通知が、ひときわ確かなものに見えた。
*
井出の家では、夕食後の食卓に成績開示の紙が広げられていた。
理数科化学物理特進コース、40人中1位。どの科目の得点欄にも満点の数字が並んでいる。
「正也、これ……全部満点なの?」
「うん。今回は、見直しがうまくいったみたい」
「見直しで満点になるなら、みんな苦労しないぞ」
父は感心したように言い、母も笑った。光は横から紙をのぞき込み、同じ数字が並ぶ得点欄を目で追っている。
「兄ちゃん、間違いが一つもないの?」
「今回はね。いつもそうとは限らないよ」
「でも、すごいなあ」
その言葉に、井出は笑って頷いた。
父は成績票を丁寧に畳むと、改めて息子へ向き直った。
「科特で勉強したかったんだろう。希望どおりになって、よかったな」
「うん。ありがとう、父さん」
「いや、礼を言われるようなことは何もしてないさ」
「母さんも、ありがとう」
「どうしたの、正也。合格したときにも聞いたわよ」
井出は少し困ったように笑った。
「高校を自分で選ばせてくれたことも、その先の勉強を応援してくれていることも、ちゃんとお礼を言っておきたかったんだ」
「もちろん応援するわよ。でも、今日はずいぶん改まってるのね」
「そうかな」
以前、台所から漏れ聞こえた両親の会話を思い出す。
大学で学びたい自分のこと。いずれ進学する光のこと。学費や暮らしのことを、二人は井出の知らないところでも考えていた。
決して家計が苦しいという話ではなかった。それでも、家族の将来に備えるために考え続けてくれていることを、井出は知っている。
偶然聞いてしまったあの会話を、今ここで打ち明けるつもりはなかった。
「何か欲しいものでもできたの?」
「今のところは、ないよ」
「本当に?」
「ホント。……ありがとう」
母は父と顔を見合わせた。父も首を傾げたが、追及はしなかった。
光が、二人の顔を見比べて小さく笑う。
井出は成績票を受け取ると、折り目を整えて封筒へ戻した。自分が目指す大学はまだ先にある。そのために、この家で受け取ってきたものを無駄にしたくなかった。
*
数日後、長距離の仕事を終えた父が帰ってきた晩、嵐家の居間には家族全員がそろっていた。
食卓には、母がパートから帰って用意した夕食が並んでいる。嵐が成績票を取り出したのは、食事が一段落したところだった。
「で、結果はどうだったんだい」
「そりゃ、合格したって言ったろ」
「そうじゃないよ。何番だったのさ」
母に促され、嵐はしぶしぶ紙を広げた。
「……160人中、159位だ」
「えっ?」
伊織が身を乗り出す。大助は指を折ってから、目を丸くした。
「兄ちゃん、下から2番目?」
「ブービーじゃん!」
「うるせえ! 声がでけえんだよ!」
伊織と大助が顔を見合わせ、とうとう笑い出した。
父も紙をのぞき込んだまま、口元を引きつらせている。
「おめえ……よく滑り込んだな」
「親父まで笑うんじゃねえよ!」
「いや、笑っちゃいねえ。大したもんだって言ってんだ」
「その顔で言っても説得力がねえ!」
母はとうとう吹き出し、それから手を叩いた。
「はいはい、そこまで! あんたたち、笑いすぎだよ」
「母ちゃんだって笑ってんじゃねえか!」
「そりゃ、159位って聞いたら驚くさ。でも合格者160人の中に、ちゃんと徳夫がいるんだろ。上等じゃないか」
母は成績票を指先で押さえた。
「前は受けるつもりもなかった学校だよ。自分で受けるって決めて、あれだけ机に向かって、受かったんだ。胸を張りな」
嵐が言い返す前に、父も口を開いた。
「……まあ、そうだな。最初から無理だって逃げずに受けたんだ。そこは褒めてやる」
「親父……」
「ただし、上には158人もいるんだろ? 入ってからが大変だぞ」
「分かってらい! 俺だって上がるつもりでいるんだよ!」
父はにやりとした。
「なら、やることが山ほどあって、退屈しねえじゃねえか」
「そういう言い方しかできねえのかよ!」
伊織はまだ笑っていたが、やがて成績票から顔を上げた。
「……でもさ、兄ちゃん。本当におめでとう」
「うん。早田さんや井出さんたちと、また野球できるんでしょ? よかったね!」
大助も続ける。
徳夫は二人を見た。兄をからかう声と、今の祝福の声は、どちらも同じ家族のものだった。
「……おう。ありがとよ」
母が満足そうに頷き、父は湯呑みを持ち上げた。
成績票は、まだ食卓の真ん中にある。
「で、兄ちゃん。高校でも井出さんに勉強教わるの?」
「……そうなるだろうな」
「やっぱり!」
「そこは笑うとこじゃねえだろ!」
また居間に笑い声が響いた。
嵐もとうとう笑ってしまった。159位という数字は変わらない。だが、これからどこを目指すかまで、その数字が決めるわけではない。
春になれば、早田と井出と、そして村松と、また同じグラウンドに立てる。嵐はその日を思い浮かべながら、もう一度だけ成績票を見た。