もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第12話 科特への挑戦

 2月の朝は、制服の襟元から入り込む風が冷たかった。

 早田は、科学特進高校の正門をくぐる前に、鞄の持ち手を握り直した。

 自宅から歩いて10分ほど。幼い頃から見慣れた道だった。

 中学の帰りにも何度か立ち寄った場所だ。今日は入試本番の日だった。

 

「おう、早田!」

 

 振り向くと、嵐が大股で歩いてきた。

 首に巻いたマフラーを外しかけ、慌てて巻き直す。

 

「おめえ、早ぇな。まだ集合時間まで余裕あるだろ」

「家が近い」

「そりゃ知ってるけどよ。……ったく、寒ぃ」

 

 嵐はそう言いながら、正門の向こうを見上げた。

 その顔から、いつもの勢いが少し引いた。

 

「……でけえ学校だな」

「前にも来ただろ」

「受験票持って来んのは初めてなんでえ」

 

 嵐は上着の内ポケットを押さえた。

 そこに受験票があるのを、家を出てから何度確かめたのだろう。

 早田はあえて聞かなかった。

 

「二人とも、ここにいたんだね」

 

 井出が自転車を押して近づいてきた。

 駐輪場へ向かう手前で足を止め、二人の顔を見比べる。

 

「嵐、受験票は?」

「ある!」

「筆記用具は?」

「あるって!」

「時計は?」

「井出ぇ! 俺を小学生扱いすんじゃねえ!」

「昨日、消しゴムを忘れそうになったのは誰だっけ」

「……おめえ、覚えてやがったのか」

 

 井出は笑った。

 それから自転車を駐輪場へ置き、二人のところへ戻ってきた。

 腕時計へ目を落とし、時間を確認する。

 

「じゃあ、入ろう。試験室の場所が違うから、中でいったん別々だね」

 

 早田は普通科の理系コースを受ける。

 嵐は普通科の文系コース。

 井出は理数科の化学物理特進コースだった。

 同じ高校でも、試験室も受験者の顔ぶれも、それぞれ違う。

 

「おい、井出」

「何?」

「おめえ、緊張してねえのか」

「してないわけじゃないよ」

「嘘つけ。いつもと同じ顔じゃねえか」

「問題を解くのは、いつもやってることだからね」

 

 井出は少し考えてから続けた。

 

「それより、確認することを決めてあるんだ。問題の条件と、計算の符号と、解答欄」

「また細けえ話を」

「前の模試で、そこを間違えたから」

 

 早田は井出の顔を見た。

 以前、井出から5月の全国模試で9位だったと聞いたことがある。そのときも井出は、順位より間違えた問題を気にしていた。早田は、そのことを思い出した。

 

「……井出らしいな」

「早田は、国語の接続語を忘れずにね」

「分かってる」

「嵐は、勘だけで選ばないこと」

「分かってらい!」

 

 三人は昇降口の前で立ち止まった。

 ここから先は、別々に進む。

 嵐が二人へ手を突き出した。

 

「じゃあよ。終わったら、またここで会おうぜ」

 

 早田はその手を見て、自分の右手を重ねた。

 井出も重ねる。

 野球部で円陣を組んだときのような、大げさな掛け声はなかった。

 ただ、嵐が小さく頷いた。

 

「……受かるぞ」

「ああ」

「そうだね」

 

 手を離し、三人はそれぞれの試験室へ向かった。

 

 

     *

 

 

 早田の最初の科目は、これまで何度も対策してきた国語だった。

 試験開始の合図とともに問題冊子を開く。

 長い説明文を見て、一瞬だけ指が止まる。

 筆者の主張を問う設問。

 以前なら、目立つ一文を答えだと決めてしまったかもしれない。

 

 早田は息を整え、冒頭の段落から読み直した。

 対立する意見を示した箇所に印をつける。

 接続語を囲み、そこから何が変わったかを確かめる。

 文章の一部だけを強く追う癖が出そうになるたび、視線を前の段落へ戻した。

 机の上には、問題冊子と答案用紙がある。

 そこから目を離す必要はなかった。

 ただし、試験時間だけは忘れてはいけない。

 早田は設問を一つ終えるごとに、時計を確かめた。

 

 数学では、覚えた公式をそのまま当てはめられない問題が出た。

 条件を書き出し、途中の式を組み直す。

 時間はかかったが、空欄のままにはしなかった。

 すべてに自信があったわけではない。

 それでも、知らないまま捨てた問題はほとんどなかった。

 

 一方、嵐は問題用紙の端に、小さく式を書いていた。

 四つの選択肢のうち、1番目と3番目は明らかに違う。

 以前の嵐なら、残った二つを勘で選んだだろう。

 しかし、今は違う。

 井出に教わったとおり、問題文へ戻る。

 書かれている条件を一つずつ拾う。

 

「……こっちか」

 

 声に出しかけ、口を閉じた。

 自信があるわけではなかった。

 ただ、何となく選んだのではなく、理由を持って選べた。

 次の記述問題では、途中まで書いて手が止まった。

 それでも、分かるところだけは埋める。

 図書館で井出に何度も言われたことだった。

 答えが完成しなくても、考えた過程は残せる。

 嵐は鉛筆を握り直し、もう一行書き足した。

 

 井出は、問題冊子の最後のページまで進むと、時計を見た。

 時間には余裕があった。

 難しい問題がなかったわけではない。

 けれど、考え方の分からない設問は見当たらなかった。

 ここからは、別の仕事だった。

 

 井出は答案用紙を裏返す前に、解答欄の番号を最初から追った。

 計算では、符号を一行ずつ確かめる。

 条件を読み落とした問題がないか、設問の終わりまで指でたどる。

 5月の模試で最後に符号を取り違えた一問が、ふと頭をよぎった。

 井出は最初の答案に戻り、もう一度だけ計算を始めた。

 

 最後の試験が終わったとき、廊下へ出てきた嵐は、壁にもたれかかりそうになった。

 

「終わったぁ……!」

「お疲れさん」

 

 先に待っていた井出が言った。

 早田も少し遅れて階段を下りてくる。

 

「どうだった?」

 

 井出の問いに、嵐は顔をしかめた。

 

「分かんねえ。分かった問題もあったし、分かんねえ問題もあった。とにかく、最後まで書いた」

「それなら、まずはよかったね」

「井出はどうなんだよ」

「見直しはできたよ」

「俺が聞いてんのは、そこじゃねえ!」

 

 早田が静かに口を開いた。

 

「答え合わせは、帰ってからでいい」

「……そうだな」

 

 嵐は受験票をもう一度ポケットへしまった。

 門の外へ出ると、冬の空気が頬に当たった。

 早田は一度だけ振り返った。

 同じ門を、今度は科特の生徒として通れるのか。

 まだ、答えは出ていなかった。

 

 

     *

 

 

 合格発表の日、科学特進高校の正門前には、早くから人が集まっていた。

 掲示板の前では受験票を握った生徒たちが、背伸びをしたり、何度も番号を確かめたりしている。

 喜びの声が上がる一方で、無言のまま立ち去る者もいた。

 早田はその光景を見て、胸の奥が少し固くなるのを感じた。

 

「……おい。始まってるぞ」

 

 嵐が、いつもより低い声で言った。

 井出は掲示の区分を確かめている。

 

「普通科と理数科で分かれてる。番号を取り違えないようにしよう」

「分かってる。俺のは普通科文系だ」

「うん。早田は普通科理系。俺は理数科の化学物理」

 

 三人は人の隙間から掲示板へ近づいた。

 早田は自分の受験番号を、頭の中で繰り返した。

 紙の上に並ぶ数字を、一つずつ追う。

 途中で似た番号を見つけ、思わず目が止まった。

 末尾が違う。

 早田は最初から見直した。

 

 あった。

 

 自分の番号だった。

 何度確かめても、そこにある。

 早田は小さく息を吐いた。

 

「……あった」

 

 声に出して、ようやく実感が追いついた。

 科特へ行ける。

 村松のいる野球部へ、入部を希望できる。

 しかし、すぐ隣では嵐がまだ掲示板を見つめていた。

 

「嵐?」

「待て。今、見てる」

 

 嵐の視線は、番号の列を何度も往復していた。

 早田は声をかけるのをやめた。

 井出も黙って隣に立つ。

 

「……ん?」

 

 嵐が指を伸ばした。

 紙へ触れる寸前で止める。

 

「……これ」

 

 そこに書かれた数字と、嵐の受験票にある数字は同じだった。

 嵐は二枚を見比べる。

 一度目は速く。

 二度目はゆっくりと。

 

「……あるじゃねえか」

 

 小さな声だった。

 次の瞬間、嵐は顔を上げた。

 

「ある! 俺の番号があるぞぉ!」

 

 周囲の視線が集まった。

 井出が慌てて袖を引く。

 

「嵐、声!」

「うるせえ! 受かったんだぞ、俺が!」

「分かったから、落ち着いて!」

 

 嵐は口を開けたまま早田を見た。

 早田が頷くと、ようやく笑った。

 いつもの豪快な笑顔だったが、その目元は少し赤い。

 

「……やったな」

「ああ。やったぜ」

 

 井出も自分の番号を見つけて戻ってきた。

 

「俺もあったよ」

「そりゃそうだろうよ!」

「いやいや。俺だって、発表を見るまでは合格者じゃないんだよ」

 

 三人はしばらく、その場から動かなかった。

 嵐が何度も受験票を見ている。

 井出は掲示板の番号をもう一度確認していた。

 早田は校舎の向こうを見た。

 村松がこの学校で野球をしている。

 その事実が、今度は自分の進路とつながった。

 

 

     *

 

 

 帰宅した早田が父へ合格を伝えると、父は少しだけ目を細めた。

 

「そうか。おめでとう」

「ありがとう」

「村松くんにも、いい報告ができるな」

「ああ」

 

 父は、早田の机に置いてあった左投げのノートをちらりと見た。

 

「勉強も野球も、続きがあるな」

「分かってる」

 

 早田は答えた。

 合格は終わりではない。

 だが、目の前にあった一つの門を通れたことは、確かだった。

 

 

     *

 

 

 同じ頃、井出は帰宅してから、両親へ合格を報告した。

 父は仕事の資料から顔を上げ、母は台所から出てきた。

 

「科特、受かったよ。化学物理特進コース」

「そうか。おめでとう、正也」

「おめでとう。よかったわね」

「ありがとう」

 

 井出は二人に頭を下げた。まだ得点も順位も分からない。だが、志望していた場所で勉強できることは決まった。

 弟の光が廊下から顔を出した。

 

「兄ちゃん、合格したの?」

「うん。春から高校生だよ」

「すごいじゃん!」

「ありがとう、光」

 

 母は夕食の支度に戻り、父は入学手続きの日程を確かめ始めた。いつもの家の時間が、少しだけ明るくなったように感じられた。

 

 

     *

 

 

 同時刻、嵐の家では、話がそう静かには収まらなかった。

 パートから戻った母が夕食の支度をしているところへ、嵐が玄関から飛び込んだ。

 

「母ちゃん! 受かったぞ!」

「お帰り。そんな大声出して、何に受かったって?」

「科特だよ! 科学特進高校!」

 

 母は持っていた菜箸を止めた。

 

「……徳夫。あんた、いま何て言った?」

「だから、科特に受かったんだって!」

「本当かい! あの難しい学校に?」

「俺が嘘ついてどうすんだよ!」

 

 声を聞きつけて、伊織と大助も居間から駆けてきた。

 

「兄ちゃん、受かったの?」

「おう!」

「やった! じゃあ早田さんたちと一緒だね!」

 

 大助が飛び跳ね、伊織も嬉しそうに笑った。母は嵐の顔を両手で挟みかけ、息子に慌てて逃げられた。

 

「ちょっと、何で逃げるのさ!」

「もう子供じゃねえんだぞ!」

「今日くらい、いいじゃないか。おめでとう、徳夫!」

 

 父親は長距離トラックの仕事で家を空けていた。嵐は休憩中の父に電話を入れた。

 

「親父。俺、科特に受かったぜ」

「……あん? おめえ、受験番号を見間違えちゃいねえだろうな」

「何回も確かめたって! 早田も井出も見てたんだよ!」

「そうかい。……なら、よくやったじゃねえか」

 

 電話の向こうで、父は一度咳払いをした。

 

「帰ったら、もう一遍聞かせろ」

「おう。任せとけ!」

 

 電話を切ると、母が腕を組んで待っていた。

 

「お父ちゃん、何だって?」

「帰ったら話せってよ」

「まったく、素直に大喜びすりゃいいのにねえ」

 

 母はそう言いながら、もう一度、嵐へ「おめでとう」と言った。

 その晩の嵐家では、合格という言葉が何度も飛び交った。何位で受かったのかは、誰もまだ知らなかった。

 

 

     *

 

 

 数日後、入学手続きと合わせて設けられた成績開示の機会に、三人はそれぞれ自分の結果を受け取った。

 科特では学科・コースごとに合格順位を示す仕組みになっている。

 希望者本人だけが受け取れる記録だったが、三人は以前から結果を見せ合う約束をしていた。

 

 放課後の図書館で、嵐が封筒を机に置く。

 

「……おめえら、先に見せろよ」

「何で?」

「心の準備ってもんがあるだろうが」

 

 井出は早田へ目を向けた。

 

「じゃあ、早田からにする?」

「構わない」

 

 早田は紙を広げた。

 普通科理系コース、合格者160人中90位。

 数字は真ん中より少し下だった。

 

「90位か。悪くねえじゃねえか」

「思ったより下だ」

「国語で苦労した分を考えれば、十分健闘したと思うよ」

 

 井出が言った。

 早田は国語の欄に目を向けた。

 以前の自分なら取り違えたかもしれない設問を、いくつか正解している。

 反対に、まだ落としている問題もあった。

 

「……入ってからも勉強は必要だな」

「それは全員同じだよ」

 

 井出が穏やかに答えた。

 

「次、俺か」

 

 嵐が封筒を開いた。

 紙を引き出した途端、眉間に皺が寄る。

 

「……159?」

「160人中?」

 

 井出が確認する。

 

「そうだよ。160人中、159位だってよ」

 

 嵐はしばらく紙を見つめていた。

 そして、短く息を吹き出した。

 

「へっ。下から2番目か」

「ブービーだね」

「分かってらい!」

 

 井出は笑いかけたが、嵐が紙を折らずに見ていることに気づいた。

 

「……どうしたの?」

「いやな。最初は、受けることさえ考えてなかったんだよな」

 

 嵐の指が、159の数字をなぞった。

 

「おめえに何度も教わって、分かんねえ問題を一つずつ潰して、それでもこれだ。上には158人もいやがる」

「そうだね」

「でも、1人は俺の下なんだろ」

「……そうだね」

「だったら、ここまで来たんだ。高校でも、上がってやらあ」

 

 井出が目を細めた。

 

「その意気なら、俺も教えがいがあるよ」

「入ってからも教わる前提かよ!」

「だって、急に全部できるようにはならないでしょ」

「ちくしょう、正論で返すな!」

 

 早田は嵐の結果を見ていた。

 合格者の最後尾に近い位置でも、嵐はそこに自分の番号を残した。

 勘だけで入試を乗り切ったわけではないことを、早田は知っている。

 図書館で、答えが出るまで鉛筆を置かなかった嵐の姿を見てきたからだった。

 

「……嵐」

「あん?」

「おめでとう。改めて」

 

 嵐は目を丸くした。

 

「何だよ、今さら」

「言っておきたかった」

「……へっ。ありがとよ」

 

 最後に井出が自分の紙を開いた。

 化学物理特進コース、合格者40人中1位。

 さらに、その横の得点欄に並んでいた数字を見て、嵐の顔から笑みが消えた。

 

「……おい。何だ、これ」

「点数だよ」

「見りゃ分かる! 何で全部、満点なんでえ!」

 

 早田も紙へ目を向けた。

 科目ごとの得点は、どれも満点だった。

 総得点の欄にも、減点はない。

 

「……全教科満点か」

「うん。今回は取りこぼさずに済んだみたいだね」

「『済んだみたい』じゃねえよ! おめえ、何をやらかしてんだ!」

 

 嵐が机を叩きかけ、図書館だと思い出して手を止めた。

 井出は、その手元を見て小さく笑った。

 

「特別な受験勉強をしたわけじゃないよ。いつものことをしていただけ」

「いつもので満点取れる奴に言われたくねえ!」

「でも、見直しだけはちゃんとやったんだ。前の模試で、最後の符号を間違えたことがあったから」

 

 井出は成績票の得点欄を指さした。

 

「難しい問題を解くのと、解けた問題を間違えずに出すのは別だからね」

「……おめえ、それが一番難しいんじゃねえのか」

「かもしれないね」

 

 早田は井出の結果をもう一度見た。

 井出は全国9位だったときでさえ、間違えた一問を気にしていた。

 今日はその一問を残さなかった。

 それが井出のいう「いつも」の中身なのだろう。

 

「……井出。おめでとう」

「ありがとう。二人もね」

 

 三枚の紙には、90位、159位、1位と、それぞれ違う数字が並んでいた。

 比較する学科やコースも同じではない。

 けれど、三人が春から通う学校の名前だけは同じだった。

 

 嵐が椅子の背へもたれた。

 

「……村松さん、驚くだろうな」

「俺たちが三人そろって入ること?」

「そりゃそうだ。特に俺が受かったことにな」

 

 早田は頷いた。

 

「……今度は同じチームだ」

 

 嵐が笑い、井出も静かに頷いた。

 入学して何ができるのかは、まだ分からない。

 それでも、三人は再び同じ場所を目指せるようになった。

 

 

     *

 

 

 その夜、早田は帰宅した父に、成績開示の紙を見せた。

 父は仕事鞄を脇へ置いてから、数字を確かめた。

 

「160人中90位か」

「ああ。思っていたより下だった」

「それでも、あの学校に合格したんだ。よく頑張ったな」

「国語は、まだ取りこぼしがある。数学も応用問題の対策が要る」

 

 父は紙を返さず、息子の顔を見た。

 

「入学する前から、もう次の勉強の話か」

「入ってから困らないようにしたい」

「そうだろうな。でも、今日は合格したことを喜んでもいいんだぞ」

 

 早田はしばらく考えた。

 

「……嬉しいよ。父さんが応援してくれたから、受けられた」

「受験したのも、答案を書いたのも、お前だよ」

「それでも、ありがとう」

 

 父は少し目を細め、ようやく成績票を返した。

 机の端には、左投げの記録ノートが重ねてある。勉強も野球も、まだ先が長い。だが今夜だけは、その二つの間に置いた合格通知が、ひときわ確かなものに見えた。

 

 

     *

 

 

 井出の家では、夕食後の食卓に成績開示の紙が広げられていた。

 理数科化学物理特進コース、40人中1位。どの科目の得点欄にも満点の数字が並んでいる。

 

「正也、これ……全部満点なの?」

「うん。今回は、見直しがうまくいったみたい」

「見直しで満点になるなら、みんな苦労しないぞ」

 

 父は感心したように言い、母も笑った。光は横から紙をのぞき込み、同じ数字が並ぶ得点欄を目で追っている。

 

「兄ちゃん、間違いが一つもないの?」

「今回はね。いつもそうとは限らないよ」

「でも、すごいなあ」

 

 その言葉に、井出は笑って頷いた。

 父は成績票を丁寧に畳むと、改めて息子へ向き直った。

 

「科特で勉強したかったんだろう。希望どおりになって、よかったな」

「うん。ありがとう、父さん」

「いや、礼を言われるようなことは何もしてないさ」

「母さんも、ありがとう」

「どうしたの、正也。合格したときにも聞いたわよ」

 

 井出は少し困ったように笑った。

 

「高校を自分で選ばせてくれたことも、その先の勉強を応援してくれていることも、ちゃんとお礼を言っておきたかったんだ」

「もちろん応援するわよ。でも、今日はずいぶん改まってるのね」

「そうかな」

 

 以前、台所から漏れ聞こえた両親の会話を思い出す。

 大学で学びたい自分のこと。いずれ進学する光のこと。学費や暮らしのことを、二人は井出の知らないところでも考えていた。

 決して家計が苦しいという話ではなかった。それでも、家族の将来に備えるために考え続けてくれていることを、井出は知っている。

 偶然聞いてしまったあの会話を、今ここで打ち明けるつもりはなかった。

 

「何か欲しいものでもできたの?」

「今のところは、ないよ」

「本当に?」

「ホント。……ありがとう」

 

 母は父と顔を見合わせた。父も首を傾げたが、追及はしなかった。

 光が、二人の顔を見比べて小さく笑う。

 井出は成績票を受け取ると、折り目を整えて封筒へ戻した。自分が目指す大学はまだ先にある。そのために、この家で受け取ってきたものを無駄にしたくなかった。

 

 

     *

 

 

 数日後、長距離の仕事を終えた父が帰ってきた晩、嵐家の居間には家族全員がそろっていた。

 食卓には、母がパートから帰って用意した夕食が並んでいる。嵐が成績票を取り出したのは、食事が一段落したところだった。

 

「で、結果はどうだったんだい」

「そりゃ、合格したって言ったろ」

「そうじゃないよ。何番だったのさ」

 

 母に促され、嵐はしぶしぶ紙を広げた。

 

「……160人中、159位だ」

「えっ?」

 

 伊織が身を乗り出す。大助は指を折ってから、目を丸くした。

 

「兄ちゃん、下から2番目?」

「ブービーじゃん!」

「うるせえ! 声がでけえんだよ!」

 

 伊織と大助が顔を見合わせ、とうとう笑い出した。

 父も紙をのぞき込んだまま、口元を引きつらせている。

 

「おめえ……よく滑り込んだな」

「親父まで笑うんじゃねえよ!」

「いや、笑っちゃいねえ。大したもんだって言ってんだ」

「その顔で言っても説得力がねえ!」

 

 母はとうとう吹き出し、それから手を叩いた。

 

「はいはい、そこまで! あんたたち、笑いすぎだよ」

「母ちゃんだって笑ってんじゃねえか!」

「そりゃ、159位って聞いたら驚くさ。でも合格者160人の中に、ちゃんと徳夫がいるんだろ。上等じゃないか」

 

 母は成績票を指先で押さえた。

 

「前は受けるつもりもなかった学校だよ。自分で受けるって決めて、あれだけ机に向かって、受かったんだ。胸を張りな」

 

 嵐が言い返す前に、父も口を開いた。

 

「……まあ、そうだな。最初から無理だって逃げずに受けたんだ。そこは褒めてやる」

「親父……」

「ただし、上には158人もいるんだろ? 入ってからが大変だぞ」

「分かってらい! 俺だって上がるつもりでいるんだよ!」

 

 父はにやりとした。

 

「なら、やることが山ほどあって、退屈しねえじゃねえか」

「そういう言い方しかできねえのかよ!」

 

 伊織はまだ笑っていたが、やがて成績票から顔を上げた。

 

「……でもさ、兄ちゃん。本当におめでとう」

「うん。早田さんや井出さんたちと、また野球できるんでしょ? よかったね!」

 

 大助も続ける。

 徳夫は二人を見た。兄をからかう声と、今の祝福の声は、どちらも同じ家族のものだった。

 

「……おう。ありがとよ」

 

 母が満足そうに頷き、父は湯呑みを持ち上げた。

 成績票は、まだ食卓の真ん中にある。

 

「で、兄ちゃん。高校でも井出さんに勉強教わるの?」

「……そうなるだろうな」

「やっぱり!」

「そこは笑うとこじゃねえだろ!」

 

 また居間に笑い声が響いた。

 嵐もとうとう笑ってしまった。159位という数字は変わらない。だが、これからどこを目指すかまで、その数字が決めるわけではない。

 春になれば、早田と井出と、そして村松と、また同じグラウンドに立てる。嵐はその日を思い浮かべながら、もう一度だけ成績票を見た。

 

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