もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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最終話 前夜祭

 3月、九条中学校の卒業式の日。

 校門の脇には卒業を祝う立て看板が置かれ、校庭には春めいた風が吹いていた。

 早田は制服の襟を整え、体育館へ向かった。

 科特への合格が決まってから、日々は思いのほか速く過ぎた。進む先が同じになったからといって、今いる学校の時間が延びるわけではない。

 今日を最後に、この校舎へ生徒として通うこともなくなる。

 

 式は、滞りなく進んだ。

 一人ずつ名前が呼ばれ、卒業証書を受け取る。

 壇上を下りるとき、早田は客席の保護者の方を見た。

 仕事を調整して来てくれた父が、静かに拍手している。

 目が合うと、父はほんの少し頷いた。

 早田も小さく頭を下げた。

 

 教室へ戻ると、机の上には持ち帰る荷物がまとめられていた。

 担任が最後の話をする。

 冗談を言って笑わせようとした生徒も、今日ばかりは目元をこすっていた。

 早田は窓の外を見た。

 校庭の向こうに、野球部のグラウンドがある。

 

 事故の前は、そこで右腕を振っていた。

 事故のあとも、そこへ戻ろうとした。

 左で投げ始めてからは、仲間の練習を横目に、何度も別のメニューを繰り返した。

 最後の夏には、フェンスの外から試合を見ていた。

 それまで当たり前だと思っていた、仲間と同じユニフォームで試合に臨むこと。その当たり前が、自分には届かなかった。

 左で投げると決めたことに後悔はない。ただ、その決断だけで試合に出られるほど、野球は甘くなかった。

 

 左腕の守備は、試合で使える水準に届いていなかった。

 試合に出す選手を決める監督として、黒部の判断は正しかった。

 早田自身、そこに納得している。

 黒部を恨んだこともなかった。

 

 それでも、悔しかった。

 

 嵐が三塁線の打球へ横っ飛びしたとき。

 井出が塁を駆けたとき。

 自分はフェンスの外にいた。

 あの場所に立っていたかったという気持ちは、卒業証書を受け取ったからといって消えるものではなかった。

 それは黒部への不満ではなく、自分がそこまで届かなかったことへの悔しさだった。

 

「早田」

 

 廊下へ出ると、嵐が声をかけてきた。

 

「帰るか?」

「……最後に黒部先生へ挨拶してくる」

「ああ、監督のとこか」

「俺たちは校門の近くにいるよ」

 

 井出が言った。

 早田は頷き、二人と別れた。

 

 職員室へ向かう廊下には、花束を抱えた生徒や、教師と写真を撮る卒業生の姿があった。

 早田は人の流れを避けながら、黒部を探した。

 体育館脇の渡り廊下で、野球部の後輩と話している姿が見えた。

 黒部は早田に気づくと、後輩へ短く声をかけ、こちらへ向き直った。

 

「おう、早田。卒業おめでとう」

「ありがとうございます」

 

 早田は一歩近づいた。

 まだ伝えていないことがある。

 中学を卒業する今日でなければ、言いそびれる気がした。

 

「先生。3年間、お世話になりました」

 

 早田は深く頭を下げた。

 黒部はすぐには答えなかった。

 風が渡り廊下を抜け、遠くで誰かの笑い声がした。

 目の前の監督は、左投げに転向した早田に別メニューの練習を認め、最後には試合に出せないことも告げた人だった。

 

 黒部は、退院後に練習へ戻ってきた早田を知っている。

 右肩のリハビリを続け、左投げを始め、野手としての練習にもこだわったことを知っている。

 試合に出せないと伝えたとき、早田が理由を理解しながらも悔しさを隠しきれなかったことも、覚えているはずだった。

 

「早田」

「はい」

「俺から最後に贈る言葉は、前にお前に言った言葉となにひとつ変わらん」

 

 黒部はまっすぐ早田を見た。

 

「『貫いてみせろ』……それだけだ」

 

 早田は顔を上げた。

 夏の終わり、黒部が告げた言葉がよみがえる。

 

『ここまで意地を通したのなら、最後まで左投を貫いてみせろ』

 

 あのときは、自分の左腕にまだ何ができるのか、分かっていなかった。

 今は、投げ方の基本を一つ見つけた。

 速球は以前よりまとまり始め、チェンジアップも、ときどきなら意図したように投げられる。

 だが、高校の試合で通用するかどうかは分からない。

 黒部は、その先を保証する言葉を口にしなかった。

 そのことが、早田にはありがたかった。

 左で投げ続けると決めたのは、自分だ。

 うまくいかなかったときも、投げ続けるかどうかは自分が決める。

 

「……ありがとうございました」

 

 早田は改めて頭を下げた。

 黒部も小さく頷いた。

 それ以上は何も言わず、後輩たちの方へ戻っていった。

 早田はしばらくその背中を見送り、校門へ向かった。

 

「おせえぞ、早田!」

 

 門の近くで嵐が手を振っていた。

 井出は卒業証書の筒を抱え、二人分の荷物を足元に置いている。

 

「黒部先生に会えた?」

「ああ」

「何て言われた?」

「……前と同じだ」

 

 井出はそれ以上聞かなかった。

 嵐も、一度だけ頷いた。

 

「そっか。じゃあ、帰ろうぜ」

 

 三人は校門を出た。

 背後では卒業生たちの声が続いている。

 早田は振り返らなかった。

 中学最後の夏の悔しさは、まだ消えない。けれど、それを抱えたままでも、前へは進める。

 隣には、また同じ野球をする仲間がいた。

 

 

     *

 

 

 卒業式からしばらくたった休日、三人は河川敷に集まった。

 春の近い風が川面を滑り、土手の草が細かく揺れている。

 周囲に人がいないことを確かめ、危険のない方向へ投球できる場所を選んだ。

 早田は左手でボールを握り、足元の位置を確かめた。

 

「今日は、卒業記念の投球会ってわけか?」

 

 嵐がミットをはめながら言った。

 

「最終確認だ」

「だから堅ぇんだって、おめえは」

「高校へ入る前に、今の状態を残しておきたい」

「それなら、ちゃんと記録しないとね」

 

 井出は携帯電話を固定し、撮影範囲を確かめた。

 冬のフォーム研究で使い続けたノートには、早田の文字だけでなく、井出の観察と嵐の感想が書き込まれている。

 最後のページには今日の日付があった。

 

「球数は?」

「準備を除いて、決めた分だけ」

「何だよ、俺に数えさせねえ気か」

「数えてくれ」

「任せろ」

 

 早田は右肩の状態を確かめ、十分に身体をほぐしてから距離を取った。

 嵐が捕手の位置で構える。

 井出は少し離れた場所から、正面と横の両方の映像を撮れるよう順番を決めていた。

 

「じゃあ、1球目。いつもの速球から」

 

 井出の声を聞き、早田は頷いた。

 左手に球を収める。

 左腕を大きく振り上げ、身体全体で振りかぶる。

 右腕は無理のない位置に添え、右肩への負担を減らす。

 腰が動き、踏み込み足が前へ出る。

 頭の位置を必要以上に揺らさず、目は嵐のミットへ向ける。

 左腕は身体の陰を通り、少し遅れて大きな軌道を描いた。

 全身の動きに乗せるように振り抜く。

 

 パシッ。

 

 球がミットに収まった。

 嵐は一度だけ手首を動かし、受けた感触を確かめた。

 

「……おう。前より、ちゃんと来るな」

 

 早田は返球を受けた。

 

「何が違う?」

「手前で急に速くなるってわけじゃねえ。最後まで球に勢いがある感じだ。前みてえに、途中で失速したようには見えねえ」

 

 井出は録画を止めた。

 

「腕だけで投げていた頃より、身体の動きがそろってる。頭の動きも、12月の最初の映像ほど大きくないね」

「腕の出所は?」

「完全には隠れない。でも、振りかぶりの途中からずっと球が見えていた頃よりは、打者に動きを追われにくくなったと思う」

 

 早田は頷いた。

 球速計はない。

 だから、何キロ出たかを言うことはできない。

 ただ、同じ距離から捕っている嵐の感触も、映像の動きも、以前との違いを示していた。

 

「次、少し低め」

 

 嵐がミットを下げた。

 早田は2球目を投げた。

 球は狙いより外へ寄ったが、高さは近かった。

 3球目は、ほぼ構えたところへ来た。

 4球目は高く抜けた。

 

「おっと!」

 

 嵐が立ち上がって捕球した。

 

「……悪い」

「謝るこたねえ。だけど、今のは頭が上がったぞ」

 

 井出が画面を示す。

 確かに、踏み込みの直後に顎が浮いていた。

 早田は自分の首元へ手をやり、動きを確認した。

 

「……まだ毎回同じにはならないな」

「最初から、そこまで期待してないよ。今日はできることと、できないことを確かめる日だから」

 

 井出はノートに短く記した。

 早田も同じように、失敗した原因を覚えておこうと思った。

 投げられるようになっても、まだ完成ではない。

 

「チェンジアップも、やるか?」

 

 嵐の問いに、早田はボールを右手へ持ち替えた。

 右肩を動かさないように、指先でチェンジアップの握りを作る。

 事故前に村松のミットへ投げた球の感覚を、思い出す。

 速球と腕の振りを変えない。

 球の遅さを腕で作るのではなく、握りと指先の使い方で生み出す。

 理屈は右手が知っていた。

 左手は、まだ練習の途中にある。

 

 早田はボールを左手へ戻した。

 大きなワインドアップから、速球のつもりで腕を振る。

 最初の1球は、指にかかりすぎて手前へ落ちた。

 

「……違う」

 

 早田が小さく呟く。

 井出は首を横に振った。

 

「腕の振りは悪くなかったよ。今のは、球の抜け方じゃないかな」

「そう思う」

 

 握りを確かめ直し、もう1球。

 今度は嵐のミットへ向かって、速球とよく似た動きから球が飛び出した。

 嵐は一瞬、いつもの速球だと思ってミットを出した。

 しかし、球が届くまでに、わずかに間があった。

 

 パシッ。

 

「……おっ」

 

 嵐がミットの中を見た。

 

「今のは分かりにくかったぜ。腕は速球と同じように振ってたのに、球だけ遅れて来た」

 

 早田は左手を握り直した。

 指から球が抜ける感触が、少しだけ残っている。

 右手の記憶とまったく同じではない。

 それでも、左手の中にも、ひとつの手掛かりがあった。

 

「……もう少しで、使えるようになる」

「高校で実戦に出すなら、まだ練習が要るね」

「ああ」

 

 投球数の上限になったところで、早田はボールをバッグへしまった。

 これ以上投げても、今日の確認が急に完成へ変わるわけではない。

 嵐がミットを外し、井出は撮影を止めた。

 

「で、結論は?」

 

 嵐が尋ねた。

 

「フォームの基準は変えない。制球とチェンジアップは、まだ改善する」

「投手として完成した、とは言えないね」

「分かってる」

「だけどよ、左でここまで投げられるようになったのは、たいしたもんだぜ」

 

 嵐は球を受けた左手を開閉した。

 

「最初に左で投げ始めた頃なんざ、こっちがどこへミット出しゃいいのか、さっぱりだったからな」

「今でも外す」

「そういうこと言ってんじゃねえよ!」

 

 井出が笑った。

 早田もわずかに口元を緩めた。

 

「それにしてもよ」

 

 嵐が、投球位置に残った早田の足跡を見た。

 

「この投げ方、いつまでも『新しいフォーム』じゃ締まらねえな。名前つけようぜ」

「名前なら、前に要らないって言われたけど」

「今度はちゃんと考えたんでえ」

 

 嵐は胸を張った。

 

「早田進一郎のザトペック投法だろ? だったら『進・ザトペック』でどうでえ。進一郎の『進』だ」

 

 井出が目を丸くして、それから吹き出した。

 

「それって、左投げのために新しく作ったんだから『新・ザトペック』って付けるのと大差ないよ」

「何だよ。だったら、どっちでもいいじゃねえか」

「同じ読みだしね。でも、由来は違うよ」

 

 早田は二人の顔を見比べた。

 事故前は、右腕で投げていた。

 今は左腕で、自分の身体に合う動きを一つずつ選び直してきた。

 振りかぶりの大きな形は昔の投法を参考にしたが、そのまま真似たわけではない。

 名前を付けるなら、そこまで含めて自分のものにしたかった。

 

「……両方使う」

 

 嵐が眉を上げた。

 

「両方?」

「進と新。どちらも『しん』だ」

「じゃあ、どっちの漢字を書くの?」

「書かない。カタカナにする」

 

 早田ははっきりと言った。

 

「『シン・ザトペック投法』だ」

 

 井出が少し考え、頷いた。

 

「なるほど。進一郎の『進』と、新しい投げ方の『新』。両方ということだね」

「そうだ」

 

 嵐が、にやりと笑った。

 

「おう! シン・ザトペック! なかなかいいじゃねえか!」

「正式には、投法まで付ける」

「細けえなあ。じゃあ普段はシン・ザトペックでいいだろ」

「それでいい」

 

 井出はノートを開き、これまでの仮の見出しを見つめた。

 その下へ、新しい名前を書き足す。

 

『シン・ザトペック投法』

 

「知らない人には、ただのザトペック投法って呼ばれるかもしれないね。見た目は昔の大きなワインドアップに近いから」

「構わない。元にしたのは、それだ」

「でも、俺たちは区別できるね」

「ああ」

 

 早田はノートに書かれた名前を見た。

 その字は、右投げ時代に取り戻せなかったものの代わりではなかった。

 左で投げ続けた時間に、三人で試した動きに、ようやく付けられた名前だった。

 黒部の声が、ふと頭をよぎる。

 

『貫いてみせろ』

 

 早田は左手を一度握り、開いた。

 球を投げる場所は、もう目の前にある。

 だが、そこで投げられるかどうかは、これから決まることだった。

 

 

     *

 

 

 入学式を翌日に控え、早田の部屋には科特から届いた教科書や書類が積まれていた。

 父と一緒に確認した入学案内には、集合時刻や持ち物、最初の登校日に必要なものが並んでいる。

 早田は一つずつ確かめ、鞄へ収めていった。

 

「忘れ物はなさそうか」

 

 仕事から帰った父が、部屋の入口で尋ねた。

 

「確認した。受験票はもう要らないが、必要書類はある」

「そりゃそうだな」

 

 父が笑った。

 机の端には、左投げの記録ノートも置かれている。

 

「高校でも野球を続けるんだろう?」

「ああ」

「村松くんと、また一緒だな」

「……そうなればいいと思っていた」

「なったじゃないか」

「まだ、試合で投げたわけじゃない」

 

 父は少しだけ笑みを深くした。

 

「お前らしいな。入学する前から、もうその先を見てる」

「先を見ないと、準備ができない」

「そうだな。ただ、無理はするなよ」

「分かってる」

 

 早田は頷いた。

 左腕の練習は、まだ終わらない。

 右肩の状態にも気を配り続けなければならない。

 投げることができるようになったからといって、疲れや痛みを無視してよいわけではない。

 そのことは、これまでの遠回りで嫌というほど知っていた。

 

 夜、明日の準備を終えた早田は、机のノートを開いた。

 最初のページには、左手で球を投げ始めた頃の短い記録がある。

 狙いから大きく外れたこと。

 数メートル先へ返すだけで苦労したこと。

 右肩を動かすたび、どのくらい痛んだかを確かめていたこと。

 ページをめくると、練習の記録に井出の文字が混じり、嵐の乱暴な筆跡が現れた。

 最後の方には、右手で覚えていたチェンジアップの感覚についてのメモがある。

 そして、一番新しいページには、三人で決めた名前があった。

 

『シン・ザトペック投法』

 

 早田はそこに指を置いた。

 中学最後の夏、グラウンドの外にいたことを思い出す。

 あの悔しさは、まだ残っている。

 しかし、今度はフェンスの外から眺めるだけで終わりたくない。

 村松のミットへ、左腕で球を投げる。

 そこから先は、まだ何も決まっていなかった。

 

 ノートを閉じ、早田は窓の外を見た。

 科学特進高校は、ここから歩いて10分ほどのところにある。

 明日、その門をくぐる。

 嵐も井出も同じ学校へ来る。

 村松も、そこにいる。

 新しい教室で誰と隣り合うのかも、高校の野球部でどんな練習をするのかも、まだ知らない。

 けれど、左腕で投げ続けるということだけは、決めていた。

 早田は明日の鞄を玄関へ運んだ。

 靴をそろえ、部屋の明かりを消す。

 明日は入学式だった。

 

 そして、その先には、もう一度投げるための新しい時間が待っていた。

 

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