10月も終わりに近づいた放課後、早田は久しぶりに九条中のグラウンドを眺めていた。
土を蹴る足音とノックの音が、いつもどおり響いている。
練習から離れていたのは1か月半ほど。それなのに、見慣れた景色が少し遠く感じられた。
9月の事故で傷めた右肩は、損傷そのものの治療を終えた。だが、強く腕を振れば違和感があり、軽く投げてもすぐに疲れる。医師からは長いリハビリが必要だと言われていた。
それでも、部に戻りたかった。
早田はグラウンドに背を向け、職員室へ向かった。
「失礼します。黒部先生はいらっしゃいますか」
「おう、早田か」
声のした方を見ると、
黒部は野球部の顧問兼監督を務めている。日に焼けた、やや恰幅のいい中年教師だ。いつものように椅子を回し、早田へ向き直った。
「今日から部に戻りたいです」
「そうか。肩はどうだ」
「損傷の治療は終わりました。でも、機能はまだ戻っていません」
「どの程度、動く?」
「軽くなら投げられます。強く振ると違和感がありますし、続けて投げると疲れます」
「病院では何て言われた」
「長期のリハビリが必要だと」
黒部は頷き、机の上の書類を閉じた。
「なら、普通の練習には入れられんな」
「はい」
「しばらくは別メニューだ。右肩のリハビリを優先しろ。部活には戻っていいが、ほかの連中と同じ練習はさせない」
「分かりました」
「痛みや違和感が出たら、そこで止める。無理して悪くしたら元も子もないからな」
「はい」
「試合に戻ることは、そのあと考えろ。まずは身体だ」
早田はもう一度頷いて、頭を下げた。
「お願いします」
「おう。明日から来い」
黒部は回復を保証も否定もせず、今できることだけを示した。早田には、その方が分かりやすかった。
*
翌日から、早田は部員たちと同じ時間にグラウンドへ出るようになった。
ただし、輪には加わらず、フェンス際でゴムチューブを引いた。肩の可動域を確かめ、決められた回数だけシャドウピッチングを行う。病院の指示に沿って黒部が組んだ別メニューだった。
「……ふう」
肩の具合を確かめていると、休憩中の嵐がやって来た。
「おい、早田。それ、一人でやんのか?」
「そうだけど」
「じゃあ、俺が押さえてやる」
「何を?」
「チューブだよ、チューブ」
嵐は早田の返事を待たず、端をつかんで立った。
「こうだろ?」
「……たぶん」
「たぶんって何だよ。おめえの練習だろうが」
口では文句を言いながらも、嵐はチューブの端をしっかり握り、手の位置を動かさずに支えた。早田がゆっくり引くと、程よい張りが生まれた。
「どうだ?」
「やりやすい」
「だろ? 休憩のときなら付き合ってやるぜ」
「自分の練習は?」
「そっちもちゃんとやるに決まってんだろ」
嵐は笑って、ノックの列へ戻っていった。
少し後には井出が顔を出した。
「早田、回数、数えようか」
「頼む」
「了解。じゃあ、始めて」
井出は横に立ち、早田の肩の動きを見ながら数え始めた。
「一、二……肩、上げすぎてない?」
「大丈夫」
「ならいい。三、四……」
10回目で早田が手を止めると、井出は傍らのノートに回数を書き込んだ。
「痛みは?」
「ない」
「疲れは?」
「少し」
「よし、そう書いておく」
井出は疲労の程度を書き添え、ペンを置いた。
「無理しないでよ。嵐が張り切ると、つい付き合っちゃいそうだから」
「しない」
「うん。その返事なら大丈夫そうだ」
井出も練習へ戻っていった。
二人とも自分の練習があり、ずっと付き添えるわけではない。それでも、休憩の合間に声をかけてくれるのがありがたかった。
早田はノートを閉じ、次のメニューに取りかかった。
*
数日後、フェンスの向こうに制服姿の村松が現れた。引退した先輩が、また様子を見に来てくれたのだ。
「早田」
「村松さん」
「戻ったんだな」
「はい」
村松の視線が、早田の右肩へ向いた。
「どうだ、肩は」
「まだですね」
「そうか」
村松はそれ以上聞かなかった。早田はチューブを置き、ふと思い出して尋ねた。
「受験勉強はいいんですか?」
「一応やってるよ」
「一応?」
「ちゃんとやってる。お前まで井出みたいなことを言うな」
早田の口元が、わずかに緩んだ。
村松も笑う。
「とはいえ、時期も時期だ。練習には加わらんけどな。たまには様子を見に来るよ」
「ありがとうございます」
村松はしばらく見守っていた。以前なら、先輩のミットを目がけて投げ込んでいた時間だ。今は、チューブで肩をゆっくり動かしている。
「焦るなよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……たぶん」
「そこは『はい』だろう」
二人で小さく笑った。
「じゃあ、俺は戻る。勉強しないと井出に何を言われるか分からん」
「はい」
「また来るよ」
「分かりました」
村松の背中を見送ってから、早田はチューブを握り直した。今日も急には変わらない。それでも、続けるしかない。
11月に入っても、早田は別メニューを続けていた。右肩は少しずつ動くようになったが、力を込めて投げれば違和感が残る。
仲間と同じグラウンドにいられるのはうれしかった。だが、全力で投げる姿を見ると、自分も試したくなる。そのたびに黒部の言葉を思い出した。
今は、肩の回復が先だ。
「……まだ、か」
呟いたところで、右肩の状態は変わらなかった。
早田は右肩をゆっくり回し、次の動作へ移った。
*
12月も半ばを過ぎたある日。早田がチューブを引いていると、端を押さえていた嵐が唐突に言った。
「なあ、早田。おめえ、左でも投げてみたらどうだ?」
早田の手が止まった。
「……左?」
「そう。右が思うようにいかねえんなら、左もあるだろ」
「冗談だろう」
「半分な」
嵐はあっさり笑い、チューブを持ち直した。
「ほら、続き。あと何回だ?」
「5回」
「おう、来い」
話はそこで終わった。
何年も右で投げてきた早田にとって、左で投げるという発想は突飛だった。まして今は、右肩を元に戻すための練習をしている。
嵐も半分冗談だと言っていた。その場では、早田も気に留めなかった。
*
翌日、帰宅した早田は、いつもの右肩のリハビリを済ませた。決められた回数のシャドウピッチングを終え、ノートに疲労の程度を書き込む。
肩は事故直後よりずっと動く。それでも、思うようには振れなかった。
「……昨日と同じか」
ペンを置いたところで、嵐の声がふと頭に浮かんだ。
『左でも投げてみたらどうだ?』
早田は、自分の左手に目を落とした。
右手なら、ボールの握り方も腕の振り方も分かる。左ではどうだろう。考えても、投げる感覚は浮かばなかった。
机の上にシャープペンシルが置いてあった。
早田は少し迷ってから、それを左手で持った。
*
「……やっぱり、駄目か」
紙に線を引いてみたが、思った方向へ進まない。
強く握ればペン先が引っかかり、力を抜けば線が薄くなる。右手なら意識もしないことだった。
早田は持ち方を直して、もう一度ペンを動かした。
「は……や……た」
自分の名前を、ひらがなで書いてみる。
ようやく三文字を書き終えたものの、線は曲がり、大きさも揃っていなかった。
「ひどいな」
もう一度書く。今度は最初より少し小さくなったが、最後の「た」が潰れた。
さらに繰り返すうちに、ペン先が動く方向を少しだけ予想できるようになった。
早田はページの端に日付を書き、その下に『左手で文字を書く』と記した。
右手の字とは比べものにならない。それでも、書けなかったわけではない。
*
翌朝の食卓で、早田は左手に箸を持った。
向かいに座っていた父親が顔を上げる。
「左で食べるのか?」
「試してる」
「……そうか」
父親はそれ以上聞かず、食事を続けた。
米をつまもうとしても、箸先から逃げてしまう。ようやく一粒持ち上げたが、口へ運ぶ途中で落とした。
「……」
拾い直して、また挑戦する。
何度か繰り返し、ようやく二粒を口へ運べた。
「遅いな」
早田が呟くと、父親がちらりとこちらを見た。
「冷めるぞ」
「分かってる」
右手に持ち替えればすぐ食べられる。それでも、最後まで左手を使ってみた。
ほとんど思いどおりにならない。けれど、さっきよりは箸の先を動かせた。
*
それから数日、早田はペンや箸を持つだけでなく、ドアを開けたり鞄を持ったりする動作も左手で試した。
最初は力が入りすぎたが、繰り返すうちに指や手首の扱い方が少しずつ分かってくる。右と左では、同じ動作にも別の練習が必要だった。
早田は左手を開き、指を一本ずつ曲げてみた。
この手には、この手の動かし方がある。
そう考えると、もう少し試してみたくなった。
*
ある日の放課後。黒部に指定されたリハビリを終えた早田は、グラウンドの端で軟式球を左手に載せていた。
まだ誰かに投げるつもりはない。まずは、左手で握ってみるだけだ。
黒部には左投げのことを話していなかった。右肩が戻る可能性はまだあるし、左で投げるなど無謀な賭けだということも分かっている。何ができるかさえ確かめていない段階で、監督に相談するつもりはなかった。
「……でかい」
同じボールなのに、右手で握るときより大きく感じる。人差し指と中指を縫い目に置いても、親指をどこへ添えるかで収まりが変わった。
何度か持ち替えたあと、早田は投球動作だけを試してみた。
左腕を後ろへ送り、身体をひねって、前へ振る。
しかし、途中で動きが詰まる。
右足をどの幅で踏み出し、腰と肩をどう連動させるのか。右投げなら無意識にできることが、左では一つずつ分からなかった。
「……違うな」
右投げの動きを鏡写しにしてみても、しっくりこない。左腕だけでなく、足も腰も、投げる順番を知らないようだった。
早田はボールを握り直した。
どうすればいいのか、まだ分からない。
*
数日後、村松が久しぶりにグラウンドへ顔を出した。
早田はチューブを片付けたところで、左手に持ったボールを見せた。
「左で投げる練習を始めました」
「……そうか。左か」
村松は少し目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「どうだ?」
「難しいです。右の動きを反対にしても、うまく合わなくて」
「だろうな」
村松は早田の左手を見て、少し考えた。
「お前、右で投げられるようになるまで何年かかった?」
「……何年もです」
「そうだろ。だったら左も同じじゃないか?」
「時間がかかる、と」
「ああ。最初から右と同じ球が投げられる方がおかしい」
早田は黙って聞いた。
「右で覚えてきたことは無駄にはならないと思う。けど、それをそのまま左へ移せるとは限らんよ。左で投げたいなら、左で投げるための身体の使い方を覚えないとな」
早田は左右の手を見比べた。同じ身体についている腕でも、積み重ねてきた時間が違う。
「……分かりました」
「気長にやれよ。右肩の方もあるんだから」
「はい」
村松は軽く頷いた。
早田はもう一度、左手のボールを握った。
右投げのコピーではなく、左投げを覚える。それなら、始め方も変わってくる。
*
翌日から、早田は左投げの練習を組み直した。まず握りを確かめ、足の踏み出しや腰の向きを合わせていく。右投げをそのまま裏返すのではなく、動きを一つずつ覚えるためだった。
右肩のリハビリは、できなくなった動きを戻すためのもの。左では、初めての動きを身につけようとしている。
ノートのページも二つの欄に分けた。右には右肩の状態とリハビリの内容、左には新しく試した投球動作を記す。
左の欄には、まだ「握る」「踏み出す」「振る」といった短い言葉しか並ばなかった。
*
数日後、早田は初めて左腕でボールを投げることにした。
グラウンドの隅に村松が立っている。受験勉強の合間に来たところを、少しだけ相手になってもらったのだ。
距離は、わずか数m。
「無理するなよ」
「分かってます」
「軽くな。こっちへ来ればそれでいい」
「はい」
早田はボールを左手に収め、足の位置を確かめた。
足の置き場が定まらない。肩の向きも肘の位置も、まだ決まった形がなかった。
早田は息を整え、左腕を振った。
「ふっ」
ボールはゆるい弧を描き、村松の少し横へ飛んだ。
村松が一歩動いて捕る。ミットが鳴った。
「……どうでした?」
「正直、俺にも分からん」
思わず早田が村松を見ると、村松は小さく笑った。
「でも届いたぞ。次だ」
2球目は手前で落ち、3球目は高く抜けて村松が腕を伸ばした。
4球目。早田は踏み出す足の位置を確かめてから投げた。
今度は村松の胸元へ向かい、ミットに収まった。
「お、今のはいいな」
「……はい」
右なら何でもない距離だった。球の強さも方向も、比べものにならない。
それなのに、少し面白かった。思いどおりに飛ばないからこそ、次は踏み出す位置を変えてみようと思える。
早田は返球を左手に収めた。まだ、試すことはいくらでもあった。
少し離れた場所で、黒部は部員たちの練習を見ながら、早田にも目を向けていた。左手にボールを持っていることには、薄々気づいていた。嵐や井出とのやり取りも、リハビリを決められた回数で切り上げる様子も見ている。今のところ無理をしているようには見えず、あえて声はかけなかった。
試せることを試すのと、試合で投手として起用できるかどうかは別の話だった。
*
翌日、嵐が早田の左投げを見つけて目を丸くした。
「おお、本当にやってんのか!」
「やってる」
「どうだ?」
「全然」
「そりゃそうだろうな」
嵐は大声で笑った。
「言っとくけどよ、俺が言ったの、半分冗談だからな」
「知ってる」
「ならいい。けど、やるって決めたんなら、とことんやってみりゃいいじゃねえか」
「……」
「駄目ならそのとき考えりゃいい。投げられるようになったら、そりゃ面白えだろ」
早田はボールを指先で転がした。嵐の言葉は思いつきのようでも、妙に背中を押すことがあった。
「左で投げるなら、下半身から作った方がいいかもね」
近くで二人の話を聞いていた井出が、しゃがみこんだ。
「下半身?」
「足の踏み出し、骨盤、体幹、それから肩と腕。右の動きをそのまま反対にするより、力が伝わる順番を覚えた方がいいと思う」
井出は指先で土に簡単な図を描いた。足から身体の中心へ、そして腕へと線をつないでいく。
「腕だけ動かしても、安定しないんじゃないかな」
「どう練習する?」
「まず足だけ。それから身体を回す動き。最後に腕を合わせる……まあ、俺も左投げの経験はないから、理屈だけだけど」
「十分だ」
早田は図をじっと見つめた。
右で投げるときには意識しなかった動きの順番だった。
嵐が横から覗き込み、首をかしげた。
「難しいこと考えてんなあ。俺なら、とりあえず投げてみるけどよ」
「嵐はそうだろうね」
「何だと?」
嵐が眉を寄せる横で、早田は土に描かれた図を見つめていた。
*
年が明けても、早田は右肩のリハビリと左投げの練習を続けた。
右腕は事故直後より動くが、強く振ったあとの違和感は消えない。以前の球に戻ったわけではなく、回復を諦めたわけでもなかった。
右肩の状態は毎日記録し、できる範囲を守った。
右が戻るなら、それがいい。
ただ、もし戻らなかったら。
そのとき自分には、もう一つ試せる腕がある。
そう考えられるようになっていた。
練習を終えたある日、早田は最初に左手で字を書いたページを開いた。
最初の「はやた」は、線も大きさもばらばらだった。新しいページへ同じ文字を書いてみると、まだ不揃いながら、今度はひと目で読める。
箸で米をつまむときも、以前ほど苦労しない。左手でボールを握るときの迷いも減っていた。
早田は二つの「はやた」を見比べた。
大きな変化ではない。
それでも、この違いは自分の手で作ったものだった。
*
1月が終わり、2月に入った。左手の動きは、少しずつ日常になっていた。無理なく試せることは左で行い、必要なら右も使う。
宿題やノートも、時間に余裕があるときは左手で書くようになっていた。右手ほど速くはないが、書き直す回数は少しずつ減っている。
ある日の定期試験。早田は答案用紙に名前を書く前に、シャープペンシルを左手へ持ち替えた。
隣の席では井出が、いつものように迷いなく問題を解いている。
早田は左手で名前を書いた。
線はまだ不揃いだが、前のように紙へ引っかからない。問題を読み、答えを書いている途中、ふと手元を見る。
左手を使っていることを、少しの間忘れていた。
早田はすぐに問題へ視線を戻した。
右と同じにはならない。それでも、左はもう、何もできない手ではなかった。
*
嵐の何気ない一言は、もう冗談ではなくなっていた。
『左でも投げてみたらどうだ?』
初めて左で投げた球は弱く、狙いも定まらなかった。それでも、練習すれば昨日と違う球が投げられることがある。
右肩のリハビリはこれからも続ける。だが、左腕にも投手になるための時間を積み重ねられる。
早田は机に向かい、ノートの新しいページを開いた。
今度は左手にペンを持つ。
『左投』
そう書いて、しばらく文字を眺めた。
それから、その下にもう一言書き足す。
『続ける』
字はまだ少し曲がっていた。
早田はペンを置き、ページを閉じた。
明日も、右肩のリハビリと左投げの練習を続ける。今の早田にとっては、それだけのことだった。
その積み重ねが、やがて早田の野球を大きく変えていくことになる。