もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第4話 仲間たち出撃せよ

 2月も終わりに近づいた九条中学校のグラウンドには、まだ冬の冷たさが残っていた。

 白い息を吐く部員たちの声と打球音が、放課後の校舎に響いている。

 早田も、グラウンドの一角でボールを握っていた。ただし、左手でだ。

 昨年9月の事故から、およそ半年。右肩の傷は治っても、強く投げると重さが残り、球の勢いも戻っていない。

 一方、左腕には少しずつ投げる感覚が育っていた。

 足を踏み出し、身体を回して投げる。狙いから外れれば、向きを直してもう一球。今度は反対へ逸れることもある。

 まだ弱く、不安定な球だった。それでも、左投げはもう、嵐の冗談から始まった遊びではなかった。

 

 

     *

 

 

「早田」

「村松さん」

 

 声の方を向くと、村松がミットを片手に歩いてきた。

 3日前に高校受験を終え、久しぶりに顔を出したのだ。練習着ではなかったが、ミットをはめる手つきは以前と変わらない。

 

「ちょっと投げるか?」

「はい、お願いします」

「10mくらいからな。無理はするなよ」

「分かっています」

 

 早田は村松と向かい合い、左手でボールを握り直した。

 右で投げていた頃なら、何も考えずに返せた距離だ。今は右足を踏み出し、腰から胸、肩へと動きをつなぐ順番を意識する。

 左腕を振ると、ボールはミットの外へわずかに逸れた。村松が手を伸ばして受ける。乾いた音が冷えた空気に響いた。

 

「前よりいいな」

「そうですか?」

「ああ。身体が途中で止まらなくなってきた」

 

 早田は足元を見た。井出に教わった下半身からの動きが、ようやく腕につながり始めている。まだ、意識しなければ崩れてしまうが。

 

「もう一球いきます」

「おう」

 

 今度は踏み込んだ足がぶれず、ボールは村松の胸元へ向かった。

 ミットの音が先ほどより強く響く。

 

「うん、今のはいい」

「まだ全然です」

「それでも、最初と比べてみろよ」

 

 村松はボールを返しながら言った。

 

「間違いなく、前には進んでるさ」

 

 早田は返事の代わりに握りを確かめ、もう一度踏み込んだ。その姿を、村松は小さく笑って見守った。

 

 

     *

 

 

「おい、早田! だいぶましになったじゃねえか!」

 

 ノックを終えた嵐が、大きな声を飛ばしてきた。

 隣には井出もいる。

 

「そうか?」

「最初なんざ、どこへ飛んでくか分かんなかったからな!」

「今も、たまに分からない」

「おめえ、そこは自信持てよ!」

 

 嵐が呆れたように笑い、井出も口元を緩めた。

 

「でも、本当に安定してきてるよ。踏み込んでから腕が出るまでの流れが、前よりずっといい」

「井出も見てたのか」

「一応ね。ただ、左腕そのものの力はまだ足りないかな」

「分かってる」

「そこは急には変わらないよ。身体の使い方を覚えながら、少しずつ鍛えるしかない」

 

 早田は頷き、指先でボールを転がした。

 以前は左で投げるだけで驚いていた二人が、今では当たり前のようにフォームの長所と課題を指摘してくれる。そのことが、少し嬉しかった。

 

 休憩のあと、早田は黒部に認められている軽いトス打撃を始めた。井出が近くから投げる緩い球に、右肩への負担を抑えてバットを出す。打球は低い軌道でネットに当たった。

 もう一球。今度は少し低かったが、バットの芯で捉えた。強く振れなくても、球を捉える感覚は残っている。早田は肩の状態を確かめ、決められた回数で打撃を終えた。

 

 

     *

 

 

「今日はここまでだ! 礼!」

「ありがとうございました!」

 

 黒部の号令で練習が終わった。用具を片づけようとした早田が、背後から呼び止められる。

 

「早田、ちょっと残れ」

「はい」

 

 黒部はグラウンドの端へ歩き出した。早田もついていく。

 少し離れたところでは、嵐と井出が何か言い合いながらトンボを運んでいた。

 

「右肩はどうだ」

「動きます」

「痛みは?」

「強く投げなければ、ほとんどありません」

「左は?」

「……まだ練習中です」

「見ていた。最初よりは良くなったな」

「はい」

 

 黒部は歩みを緩めた。

 

「本格的に始めたのは、冬からか」

「はい」

「嵐にでも言われたのか?」

 

 思いがけず名前を当てられ、早田は少しだけ顔を上げた。

 

「……そうです」

「やっぱりな」

 

 黒部は小さく息をついたが、嵐のことをそれ以上は聞かなかった。

 代わりに、早田の方へ向き直る。

 

「早田。お前は、この先どうしたい?」

「野球を続けたいです」

「それは分かってる」

「……投げたいです」

「右でか?」

 

 早田は答えを探して、少し黙った。

 右で投げたい気持ちは変わらない。だが、左腕を鍛える日々も、今では自分の野球の一部だった。

 

「左でも、いいです」

「そうか」

 

 黒部はしばらく早田を見ていた。

 

「じゃあ、もう一つ聞く。投げられさえすれば、それでいいのか?」

「……」

「野球は、投げるだけじゃないだろう」

「分かっています」

「だったら、今のお前がチームのために何をできるかも考えろ」

 

 早田は目を伏せた。打撃には自信があるし、野手の経験もないわけではない。

 それでも、事故以来考えていたのは、どうすれば再びマウンドに立てるかということばかりだった。

 

「お前は打てる。走るのも遅くないし、守備だって磨ける」

「はい」

「だが、投手として戻れるかどうかは、まだ分からん。右肩のことはお父さんからも聞いているし、左もこれからだ」

「……分かっています」

「なら、一度整理してみろ。今のお前にできることと、これから必要なことをな」

 

 黒部の声は、叱るような調子ではなかった。

 だからこそ、早田は聞き流せなかった。

 ――投げられさえすれば、それでいいのか。

 帰り道になっても、その問いは消えなかった。

 

 

     *

 

 

 翌日、黒部は早田の外野守備を短時間だけ確かめることにした。今すぐ野手に切り替えるのではなく、現状を見るためだった。

 早田は右手にグラブをはめ、左手を空けて外野に立った。

 緩いフライを追い、捕って、左手へ持ち替えて投げる。立ち止まって返球するだけなら、中継役の部員の近くへ届くことも増えていた。

 ところが、走者を置くと勝手が違った。

 

「早田! 二塁走者がいるぞ!」

「はい!」

 

 打球が外野へ上がった。

 早田は落下地点へ走りながら二塁走者の位置を見ようとした。打球だけでなく、走者や中継役も確認しなければならない。

 

「――!」

 

 そのとき、視界の中央で白いボールだけが妙にはっきりした。

 昔から、この感覚を早田は知っている。

 周囲の色が薄れ、部員の声が遠くなる。

 打球を追う足取りは迷わなくなり、右手のグラブにボールが収まる。

 だが、捕った瞬間、どこへ返すべきか判断が遅れた。

 顔を上げたときには、二塁でタッチアップした走者が、すでに三塁へ向かっていた。

 

「早田! カットに返せ!」

「……はい!」

 

 黒部の声で周囲を捉え直し、慌てて左腕を振った。

 送球は届いたものの、もう走者を止められるタイミングではない。

 

「もう一度だ。次は捕る前に状況を見ろ」

「はい」

 

 早田は元の位置へ戻り、今度は捕球前から走者にも注意を向けた。すると、打球への反応が一歩遅れる。

 球だけを追えば捕れる。だが捕ったあと、走者がどこにいるのか分からなくなる。送球先まで意識すると、今度は足運びがぎこちない。

 早田はグラブの中の球を見つめた。

 一つのものを見る力が、その次のプレーを妨げていた。まだ、この感覚との折り合いのつけ方が分からない。

 

 

     *

 

 

 数日後、村松が再びグラウンドを訪れた。

 早田は守備の確認を終え、左投げを練習していた。距離を10mから15mへ伸ばし、村松に受けてもらう。

 フォームが乱れないか、1球ずつ確かめながらの投球だった。

 

「今のはいい」

「そうですか?」

「ああ。もう少し強くてもよさそうだな」

 

 早田は握りを直し、足を踏み込んだ。

 次の球は村松の胸元へ、先ほどより少し速く届いた。

 

「うん、今のも良かった」

「……はい」

 

 早田の口元が、わずかに緩んだ。右で投げていた頃の強さにはほど遠い。

 それでも、今日は前より少し速く投げられた。左腕を振ること自体が、いつしか楽しみになり始めていた。

 

 

     *

 

 

 その日の帰り支度を終える前に、早田はノートを開いた。

 ページには、右肩のリハビリ、左投げ、打撃、守備という四つの項目が並んでいる。

 右肩には不安が残る。左投げは球威も制球もまだ足りない。

 打撃には手応えがある。一方、守備は捕球できても、その後の判断と送球が課題だった。

 早田はペンを止めた。

 黒部の問いが、また浮かんでくる。

 

 ――投げられさえすれば、それでいいのか。

 

 投げたい。その気持ちは変わらない。

 だが、チームの役に立つために、何を優先するべきなのか。

 答えの出ないまま、早田はノートの端に小さく「考える」と書いた。

 

 

     *

 

 

 翌週、黒部は少し離れたところから早田の様子を見ていた。

 外野フライの落下地点には以前より早く入れる。打球を追う目もいい。

 ただ、捕ってから送球するまでに間が空き、左の送球も安定しなかった。

 

 一方で、打撃には見込みがある。野手として力になる可能性は残っていた。

 右肩は回復途上で、左腕も投手を任せられる段階ではない。

 将来、投手に戻る道まで閉ざす必要はない。しかし、今のままでは試合に出る機会さえ遠い。

 黒部は早田の送球を見つめた。もし右投げの経験を野手として生かせるなら、守備を形にする時間は短くできるかもしれない。ただし、右肩の状態は慎重に見なければならない。

 

 そろそろ、本人に話すべき時期なのかもしれない。

 

 

     *

 

 

 卒業式を数日後に控えた放課後、黒部は村松を呼び止めた。

 

「村松、少し話がある」

「はい」

 

 二人は人のいない教室の窓際に腰を下ろした。夕暮れのグラウンドから、下級生の声が聞こえる。

 

「早田のことだ」

「……はい」

「お前も、あいつの練習は見てるだろう」

「ええ」

「投げることに、ずいぶんこだわってるな」

「そうですね」

 

 黒部は窓の外へ目を向けた。

 

「右肩は事故前に戻っていない。左もまだ始めたばかりだ」

「はい」

「だが、俺が気にしているのは投げる腕のことだけじゃない。守備だ」

 

 村松は少し考えたあと、顔を上げた。

 

「……あいつの『過集中』ですか」

「そうだ、お前も知っていたか」

 

 村松は頷いた。

 

「早田から聞いています。前からそういう癖みたいなものがあると。先生もご存じだったんですね」

「ああ。前に親御さんから聞いた」

 

 黒部はゆっくりと息を吐いた。

 

「早田は一つのものに集中すると、他が見えにくくなる。打席では武器になるかもしれんが、守備では厄介な場面がある」

「走者の動きを見落とすことがあります」

「その通りだ。捕れたからといって、そこでプレーが終わるわけじゃないからな」

 

 村松にも心当たりがあった。打球を捕れても、走者の動きを見落とせばアウトを逃す。捕手として、何度も確かめてきたことだった。

 

「捕手は難しいでしょうね」

「そう思う。打者も走者も、投手の様子も見なければならん。二塁や遊撃も、状況判断を続ける場面が多い」

「……はい」

「今の早田に、いきなり任せるのは危ない」

 

 黒部はそこで言葉を切った。

 

「じゃあ、村松。お前ならどこを守らせる?」

 

 村松は窓の向こうを見た。三塁付近で嵐が声を張り上げ、その先の外野へ打球が転がっていく。

 少し考えてから答えた。

 

「……外野、でしょうか」

「俺もそう思う」

 

 黒部は椅子の背にもたれた。

 

「外野なら、まず打球を追って捕ることに集中しやすい。もちろん周りを見なくていいわけじゃないが、内野より考える時間が取れる場面も多い」

「そうですね。打球への集中は、あいつの長所でもありますから」

「ただ、外野でも捕ったあとの判断が遅れるのは見たとおりだ。走者と中継の位置を、捕る前に確かめる練習が必要だな」

 

 村松が頷くと、黒部は続けた。

 

「もうひとつ聞く。一塁はどうだ?」

「候補にはなると思います。でも、外野よりは難しいかと」

「そうだな。だから二番手だと考えてる」

 

 黒部は机の上に指で塁の位置を描くように動かした。

 

「送球を受ける機会は多いし、走者と近い。捕球だけに意識が向いたら、駆け込んでくる走者とぶつかる危険もある」

「……そうですね」

「だから、第一候補は外野。必要なら一塁も考える」

 

 村松は頷いた。外野を主に、一塁を補助的に練習させるという考えは理解できる。

 ただ、早田が望んでいるのは、どちらの守備位置でもなくマウンドだった。

 

「いずれ、本人に話す」

「コンバートを、ですか」

「ああ。まだ中学生だからな。将来投げる道まで閉ざすつもりはない」

 

 黒部は窓の外の早田を見た。

 

「ただ、今のままじゃ試合に出るのも難しい。野手としての道も作ってやりたいんだ」

「……はい」

 

 村松は静かに頷いた。監督の考えを、早田はどう受け止めるだろう。

 

 

     *

 

 

 帰り道、村松は早田のことを考えていた。

 右腕を負傷しても投げることを諦めず、今度は左で練習を始めた。できないことにぶつかれば、別の方法を探す。早田らしい頑固さだった。

 だからといって、監督が本人の希望だけで起用を決められないことも分かる。限られた試合の機会を、チーム全体で考えなければならない。

 村松は夕焼けの残る空を見上げた。

 早田なら転向の理由は理解するだろう。けれど、理解しても投手を諦めるとは限らない。

 その違いだけは、黒部に伝えたかった。

 

 翌日、村松はもう一度黒部を訪ねた。

 

「先生、昨日の早田のことなんですが」

「ああ」

「たぶん、先生の考えには納得すると思います」

「そうか」

「理由も、分かるはずです」

「だろうな」

 

 村松はそこで少しためらった。

 言うべきことは、もう決まっていた。

 

「でも、あいつは投手を諦めないと思います」

 

 黒部はしばらく黙っていた。

 村松も、それ以上は付け加えない。

 やがて黒部が頷いた。

 

「分かった。だが、村松」

「はい」

「それでも俺は、早田にコンバートを命じるよ」

 

 黒部の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。

 

「右投げの野手としてな」

「……はい」

 

 村松は反論しなかった。早田がどう答えるかは、本人にしか決められない。

 

 

     *

 

 

 卒業式の日は、朝からよく晴れていた。

 体育館に卒業生と保護者たちが集まり、村松は自分の名前が呼ばれるのを待った。

 壇上で卒業証書を受け取るときは、試合とは違う緊張があった。

 式を終え、最後のホームルームが済んだあと、村松は窓の外を見た。

 グラウンドには、捕手として座った場所も、仲間と声を掛け合ったベンチもある。もう九条中の部員として、あそこに立つことはない。

 寂しさはあった。それでも、顔を上げると不思議と気持ちは軽かった。

 

 

     *

 

 

 校門の近くへ向かうと、見慣れた三人が立っていた。

 早田、嵐、井出だった。

 

「村松さん」

「おう、待ってたのか」

「卒業おめでとうございます」

「おめでとうございます!」

「お世話になりました」

「ありがとな」

 

 早田が頭を下げ、嵐が元気よく声を張り、井出はいつもどおり穏やかに笑っていた。

 村松は三人を見回した。

 中学で一緒に野球をし、早田が事故に遭ってからも、それぞれのやり方で支えてきた。

 卒業すれば顔を合わせる機会は減る。それでも、目の前にいるのはいつもの三人だった。

 

「早田」

「はい」

「左投げ、続けろよ」

「……はい」

「まだ始めたばかりなんだからな。これからだぞ」

「分かっています」

 

 早田は短く答えて、少しだけ口元を緩めた。

 

「村松さんも、高校で野球を続けるんですよね?」

「ああ、そのつもりだ」

「頑張ってください」

「もちろん」

 

 村松が笑うと、横から嵐が口を出した。

 

「またキャッチャーやるんでしょ、しっかりレギュラー取ってくださいよ!」

「それはいいが、これでお前らは受験生になるんだ。これからみっちり勉強しないとな」

「げっ、今その話します?」

 

 井出が吹き出し、早田も小さく笑った。

 四人の間には、いつもの空気が戻っていた。

 

 

     *

 

 

 四人は校門の脇で、これからの野球や高校のことを話した。嵐が騒ぎ、井出が突っ込み、早田が短く答える。

 村松は、いつものやり取りを笑って聞いていた。

 ただ、黒部から聞いた右投げの野手への転向方針は、口にしなかった。

 早田自身が、監督から直接聞くべき話だった。

 

「じゃあ、そろそろ行くか」

 

 村松が言うと、嵐が大きく手を上げた。

 

「高校でも頑張ってくださいよ!」

「お前らもな」

 

 村松は三人に手を振り、校門を出た。

 背中に聞こえる声は、いつもと変わらなかった。

 

 

     *

 

 

 卒業式の翌日も、九条中のグラウンドにはボールの音が響いていた。

 村松が去っても、嵐は三塁で声を張り、井出は二塁で打球を追っていた。

 早田もグラウンドの端で左腕を振る。球が外れると、村松と練習したときの足運びを思い出し、もう一球投げた。

 黒部は少し離れたところから見ていた。

 右で守る野手への転向を、近いうちに本人へ伝える。

 それを聞いて早田がどう答えるかは、まだ分からない。

 

 春は、もうすぐそこまで来ていた。

 

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