もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第5話 小さな左腕

 3月のグラウンドには、冬の冷たさがまだ残っていた。

 修了式を終えて春休みに入っても、早田はいつもの場所でボールを握っていた。

 右肩のリハビリを済ませ、今度は左手に持ち替える。足の位置を確かめ、10mほど先の目印へ投げた。

 ボールは目印の左を通り、地面で一度弾んだ。

 

「……外れた」

 

 早田は転がった球を拾い、元の位置へ戻った。

 もう一球。

 今度は高さが合ったが、右へ逸れる。握りと踏み出す足を直した3球目は、目印の近くを通った。

 まだ弱く、狙いも安定しない。それでも左手で初めて投げた頃とは違う。

 右肩のリハビリは、失った動きを取り戻すためのもの。左投げは、できなかったことを新しく覚える練習だった。

 早田はもう一度、足元の土をならした。

 投げることが、楽しかった。

 

 

     *

 

 

「早田」

 

 顔を上げると、黒部がバックネットの方から歩いてきた。

 

「はい」

「少し話がある。こっちへ来い」

 

 早田はボールをかごに戻し、黒部の後についてグラウンドの端へ向かった。

 部員たちの声が遠くなる。黒部は外野を見渡してから、早田に向き直った。

 

「この前、聞いたな。投げられれば、それでいいのかと」

「はい」

「考えたか」

「考えました」

「どうだ」

 

 早田はすぐには答えなかった。

 前に問われてから、右肩と左腕のことを何度も考えていた。投手に戻りたい気持ちは変わらない。だが、今の自分が試合に出るには、投手以外の役割も必要になる。

 

「野球は、続けたいです」

「ああ」

「試合にも出たいです。でも、投げることも諦めたくありません」

 

 黒部は短く頷いた。

 

「なら、俺の考えを話す」

 

 黒部の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。

 

「右肩は治療が終わっても、事故前の状態に戻ったわけじゃない。これからリハビリを続けて良くなる可能性はあるが、いつ投手として投げられるかは分からん」

「はい」

「左も、よく練習しているのは見ている。ただ、今すぐマウンドを任せられる段階ではない」

「分かっています」

 

 早田は左手を握った。10m先の目印さえ、まだ外す。その事実は自分が一番よく知っていた。

 

「だが、お前には打撃がある。野手として身につけてきたものも、全部なくなったわけじゃない」

 

 黒部は外野の方を示した。

 

「これからは野手として練習しろ。第一候補は外野、次が一塁だ」

 

 早田は、先日試しに守った外野を見た。

 打球を追って捕ることはできる。だが、走者や味方の位置まで確認しようとすると、判断が遅れる。黒部もそれを見ていた。

 

「お前は一つのものを見始めると、ほかが見えにくくなることがある。内野の細かい連係より、まず打球を追える外野で慣れる方がいい」

「……はい」

「一塁もできるようにしておきたいが、走者と接触する危険がある。今は外野を中心にする」

 

 黒部はそこで一度言葉を切った。

 

「それから、守備は右投げでやれ」

 

 早田の視線が、黒部へ戻った。

 

「右、ですか」

「ああ。投手のように全力で投げるのと、野手として必要な送球をするのとは違う。もちろん、野手でも強い送球が必要な場面はある。肩に無理はさせず、今の状態で投げられる短い距離から始めるつもりだ。右で覚えてきた捕球から送球までの動きは、お前の中に残っている」

 

 右手なら、ボールの握りも送球の動きも身体が覚えている。今の肩に負担をかけない範囲なら、右投げの野手として練習する方が試合に近づけるだろう。

 黒部の判断は合理的だった。早田にも、その理由は分かった。

 

「……分かりました」

 

 黒部が頷く。

 

「なら、今日から野手の練習を――」

「ただ」

 

 早田の声は小さかったが、黒部は言葉を止めた。

 

「何だ」

「野手になるのは、分かります」

「ああ」

「でも、俺は左で守りたいです」

 

 黒部は黙った。

 少し離れたところで、ノックバットの音がした。

 

「右投げでやれと言ったはずだが」

「はい」

「それでも左か」

「はい」

「理由を聞こう」

 

 早田は左手を見下ろした。

 嵐の冗談めいた一言から始めた練習だった。最初は字も満足に書けず、投げた球がどこへ飛ぶかさえ分からなかった。

 今も未熟だ。だが、昨日できなかった動きが、今日はできることがある。少しずつ積み重ねてきたものを、ここで手放したくなかった。

 

「左投げを、やめたくないからです」

「投手に戻るためか」

「それもあります」

 

 早田は少し考え、言葉を続けた。

 

「右肩は、元どおりにしたいです。でも、左は違うんです」

「違う?」

「何もできなかったところから、できるようになっていくんです。まだ下手ですけど、投げるたびに覚えることがあります」

 

 黒部は口を挟まずに聞いていた。

 

「野手をやるなら、その練習も左でやりたいです。捕って、投げるところまで、左でできるようになりたい」

「遠回りになるぞ」

「分かっています」

「今の右肩の状態なら、右で守った方が早く試合に近づけるかもしれん。それでもか」

「……はい」

 

 そこで早田は顔を上げた。

 

「それでも、左でやりたいです」

 

 黒部はしばらく黙っていた。

 早田は指示に反発しているのではない。遠回りだと理解したうえで、左投げを選ぼうとしている。

 だが、試合で送球が乱れればチームに影響する。本人の希望だけで、出場を約束するわけにはいかなかった。

 

「早田」

「はい」

「左で練習することは認める」

 

 早田はわずかに目を上げた。

 

「ただし、条件がある」

「はい」

「野手として必要な守備を、左でできるようになれ。打球を捕るだけじゃない。持ち替えも、送球も、走者を見て判断することもだ」

「分かりました」

「練習で頑張っているからという理由だけでは、試合には出せん。ほかの部員も、同じように練習している」

「はい」

「それでもいいなら、左でやることにこれ以上は言わん」

 

 早田は、今度は迷わず頷いた。

 

「お願いします」

 

 黒部も頷いた。

 

「分かった。この後は全体ノックの時間だ。まず外野へ入れ。今日は捕球から送球まで、一通り見せてもらう」

「はい」

 

 早田は頭を下げ、グラウンドへ戻っていった。

 黒部はその背中を見送った。左で練習することは認めたが、試合で使えるかどうかは別だ。

 希望を尊重するからこそ、ほかの部員と同じ基準で判断する。そのつもりだった。

 

 

     *

 

 

 早田は左投げ用の外野グラブを右手にはめた。右投げの頃とは逆の手にグラブをはめる感覚には、まだ慣れない。

 何度か手を開閉していると、黒部の声が飛んだ。

 

「早田、そこへ入れ」

「はい」

 

 指示されたのは左翼だった。先日試した捕球だけでなく、今日は中継への送球まで続けて行う。

 

「カットの位置、見ておけよ」

「はい」

 

 中継に入る選手が内野で手を上げている。早田はその位置を確かめ、ノックを待った。

 黒部がバットを構えた。

 

「いくぞ!」

 

 打球が左翼の前へ上がった。

 早田は落下地点へ走り、右手のグラブを差し出して捕る。

 捕球はできた。だが、左手に持ち替えて足の向きを考えたところで、一拍遅れた。

 慌てて投げた球は、中継の選手へ届く前に大きく弾んだ。

 

「捕ったら次の動作だ! 送球先は分かってただろ!」

「はい!」

 

 早田は今の動きを思い返した。中継の位置は覚えていたのに、捕球した途端、送球への切り替えが遅れた。

 捕ることに集中しても、プレーはそこで終わらない。

 

「次、いくぞ」

「はい」

 

 早田は足元をならし、もう一度構えた。

 

 

     *

 

 

 2球目は、やや深い打球だった。

 早田は後ろへ下がり、身体の向きを変えて追いかけた。

 白い球だけが鮮明になり、周囲の色が薄れる。声も遠い。

 以前から知っている、あの感覚だった。

 早田は打球の落ちる場所へ入り、右手のグラブで捕球する。

 しかし、目を戻したときには、中継の選手がすでに声を上げていた。

 

「早田、こっち!」

 

 左手へ持ち替える。

 踏み出す。

 投げる。

 ボールは高く浮き、中継の選手が腕を伸ばしてようやく捕った。

 

「捕球はいい。だが、次を見るのが遅い!」

「はい!」

 

 早田は守備位置へ戻りながら考えた。打球はよく見えるのに、捕ったあとの状況が抜け落ちる。以前の守備練習でも走者への反応が遅れた。

 今はさらに、慣れない左手への持ち替えと送球がある。判断と動作の両方が、間に合っていなかった。

 

「もう一球!」

 

 黒部がノックを上げる。

 今度は浅いフライだった。

 早田は前へ走って捕り、中継の位置へ向き直った。

 投げる前に足の向きを整える。

 先ほどより時間はかかったが、球は相手の近くへ飛んだ。

 

「今の方がいい。だが、試合なら走者は待ってくれんぞ」

「はい!」

 

 早田は頷いた。

 捕球、持ち替え、送球。一つずつならできるようになっている。だが、試合では全部を続けて行わなければならない。

 

 途中からは走者役の部員も加わり、捕球後の判断まで確かめる練習になった。黒部が何球も打ち、早田は走って捕り、投げた。送球は低く弾むことも高く逸れることもあった。走者役の動きを見失う場面も残った。

 問題は一つではない。それでも早田は、次の打球を待つ前に必ず送球先を確かめた。

 

 

     *

 

 

 練習を終えて用具を戻したあとも、早田は外野の端に立っていた。左手には、まだボールの感触が残っている。

 

 送球先を知っていても、捕球に意識を奪われると身体がついてこない。慣れない左腕では、足を出す順番まで考える必要があった。

 黒部が右投げを勧めた理由は、練習をしてみていっそうよく分かった。右なら、送球までの動作をもっと自然につなげられるだろう。

 それでも早田は、左を選んだ。

 

「……遠いな」

 

 中継までの送球も、公式戦に出ることも、まだ遠い。

 早田はグラブを外し、右手を開いた。事故前、この手で投げるのに考え込むことはなかった。今は右手にグラブをはめ、左手で投げようとしている。

 投手としての復帰も、まだ先が見えない。

 

 だが、野球を続けると決めている。試合に出るための守備も、いつかマウンドへ戻るための左投げも、どちらも練習しなければならない。

 

 早田は鞄からノートを取り出した。

 これまで右肩のリハビリと左投げの練習を書き分けてきたページに、今日は新しい項目を加える。

 

『外野守備』

 

 その下に、短く書いた。

 

『捕球後、送球までが遅い』

『中継の位置を先に確認する』

『左手への持ち替え、足の向き』

 

 もう一行書こうとして、早田はペンを止めた。

 黒部が認めたのは、左で練習することまでだ。試合に出るには、守れるところを見せなければならない。

 早田はノートを閉じた。

 

 前よりも、やることが増えた。

 それを嫌だとは思わなかった。

 

 

     *

 

 

 翌日、早田は少し早くグラウンドへ来た。外野から中継までの位置を確かめ、右手にグラブをはめる。

 持ち替えも送球も、まだぎこちない。だが、何を直すべきかは昨日よりはっきりしていた。

 

「早田、早えな!」

 

 振り返ると、嵐が大きな声を上げながら歩いてきた。

 少し遅れて井出も来る。

 

「今日から外野の練習、本格的に始めるんだって?」

「うん」

「左でか?」

「左で」

 

 嵐がにやりと笑った。

 

「おめえ、ほんと頑固だな」

「知ってる」

「開き直んなよ!」

 

 井出が二人の横からグラウンドを見た。

 

「じゃあ、まず中継までの送球を安定させないとね」

「そう思ってる」

「数、記録しようか?」

「頼む」

 

 嵐が肩を回した。

 

「よし、なら俺は打球を拾ってやる」

「自分の練習は?」

「そっちもちゃんとやるっての!」

 

 早田は小さく頷いた。

 黒部の合図で部員たちが守備位置へ散り、早田も左翼へ走った。

 まだ弱く、不安定な左腕。それでも、野手として覚えるべきことがある。投手へ戻る道も、ここから先に続いている。

 早田はグラブを構え、最初の打球を待った。

 

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