3月も終わりに近づき、九条中学校のグラウンドにはノックバットの音が響いていた。
この日は右翼に入った早田が、右手のグラブを開閉した。左手は送球のために空けてある。
本格的に外野を守り始めて、まだ日が浅い。打球を追って捕ることはできるが、捕球後の動きには課題が残っていた。
「次は一死三塁だ。外野に飛んだら、走者はタッチアップするぞ!」
黒部の指示を受け、早田は三塁へ目を向けた。走者役の部員のそばには、三塁手の嵐がいる。
フライを捕れば走者は本塁を狙う。送球する先を頭に入れ、早田は構えた。
「早田、行くぞ!」
「はい!」
ノックバットが鳴った。
右中間寄りへ上がったフライが風に流れる。早田は斜め後ろへ下がり、落下地点に足を運んだ。
打球を追ううちに、周囲の色が薄れていく。白いボールだけが、くっきりと見えた。
風の分だけ位置を修正し、右手のグラブを差し出す。
捕った。
その瞬間、声が飛んだ。
「早田! ホームだ!」
嵐の声に、早田ははっと顔を上げた。三塁走者はすでにベースを蹴り、本塁へ向かっている。
捕球に意識が向き、走者のスタートを見失っていた。急いで左手に持ち替え、中継に入った内野手へ投げる。
しかし、送球はカットマンの手前で弾んだ。拾い上げたときには、走者は本塁を駆け抜けていた。
「捕る前に見たんだろ。走者のこと」
打球を戻しながら、嵐が言った。
「見た」
「じゃあ、捕った後も忘れんなよ」
「……分かってる」
「なら、次だ。まだいくらでも飛んでくるぜ」
嵐は三塁へ戻った。早田は左手を一度開く。
左腕の送球は弱く、捕球から持ち替え、踏み出す動作もまだ滑らかではない。それに加えて、早田には昔から一つの癖とも呼べるものがあった。
『過集中』
打球を見失わずに捕るには役立つが、守備はそこで終わらない。
走者の動き、味方の位置、送球先。嫌でも集中は深まってしまう。だからこそ、その前に確かめた情報を、捕球後の動作へつなげなければならなかった。
「もう一本、早田!」
「はい!」
黒部がバットを構える。
早田はもう一度、走者と内野手の位置を確かめた。
今度は忘れないように、と考えながら、打球の上がる瞬間を待った。
*
守備練習の後は打撃だ。打撃投手がマウンドに立ち、部員たちが守備位置につく。
早田も右肩の状態を確かめながら、軽いトス打撃から少しずつ負荷を増やしていた。まだ全力では振れないが、打撃投手の球を打つところまで進んでいる。
最初に打席へ入った嵐が、バットを肩に担いで声を張り上げた。
「よっしゃ、来い!」
1球目は強いゴロになり、三遊間を抜けていった。
2球目は高々と上がったが、風に乗って左中間の奥まで伸びる。
3球目。
嵐は甘く入った球を見逃さず、腰を思い切り回して振り抜いた。
乾いた音がグラウンドに響き、打球が外野手の頭上を越えていく。
「うおっ、飛んだ!」
守備についていた部員が声を上げる。嵐は得意そうにバットを掲げた。
「どうだ!」
「飛距離は十分だな」
黒部も頷いたが、すぐに付け加えた。
「ただし、いつもあんな球が来るとは思うなよ」
「分かってますって!」
嵐が豪快に笑って打席を出る。
次に立った井出は、嵐とは対照的だった。
バットを短く持ち、投手の足元から腕の振りまで一度眺めてから構えに入る。
打球は一、二塁間へ低く転がった。
井出はすぐにバットを置き、一塁へ走る。打撃練習でも、打った直後のスタートを確かめているのだ。
二塁手が回り込んで捕球したが、井出の足の方がわずかに早かった。
「セーフ!」
「やっぱり速えな、おめえ!」
「嵐が走らなすぎるんだよ」
「何だと!」
井出は一塁で笑い、打撃練習を終えると二塁の守備位置へ入った。
嵐が力で外野へ飛ばすなら、井出は打球の方向と走り出しの速さで勝負する。早田は二人の違いを感じていた。
別の打者が放った打球は、二遊間の深いところへ向かっていく。
井出は打った瞬間に動き出し、逆シングルで捕った。素早く身体の向きを整え、一塁へ送る。
肩の強さで押す送球ではない。それでも動作に無駄がなく、狙いを外さなかった。次の一、二塁間への打球にも追いつく。
「井出、今のよく届いたな」
早田が言うと、井出は肩をすくめた。
「打った瞬間に、だいたい分かったからね。肩は嵐ほど強くないし、先に動かないと間に合わないよ」
肩の強さを、判断と初動で補っている。早田にも、その考え方は理解できた。
自分に足りないものは多い。それでも打撃なら勝負できるかもしれない。早田はバットを取りに向かった。
*
「早田、次だ」
「はい」
打席に向かおうとしたところで、黒部に呼び止められた。
「外野じゃ、ボールに集中しすぎると走者が抜けるな」
「……はい」
「打つときはどうだ」
「打つときは、むしろ見やすいです」
黒部は早田の手元のバットを見た。
「前からそうだったな」
「はい」
早田は右投手だった頃から左打ちで、打席でも過集中を経験していた。投球を待つ間に相手の動きを確かめ、球が放たれると意識がそこへ絞られる。
だが今は、以前のように投手として試合に出られない。左腕も守備も未熟な自分にとって、打撃はチームに貢献できる数少ない武器だった。
「一度、いつもどおり打ってみろ」
「はい」
早田は左打席に入り、投手の立ち位置と腕の振り、野手の守備位置を順に確認した。
投手が足を上げる。身体が前へ進み、指先からボールが離れた。
周囲の色が薄れ、白い球だけが視界の中央に残る。
少し高い。
早田は踏み込み、バットを振った。低い打球が一、二塁間を抜けていく。
「お、いい当たり!」
嵐の声がした。
早田は振り終えた姿勢から顔を上げ、打球の行方を確かめた。
手には、真芯に近いところで捉えた感触が残っていた。
「最初からボールだけを見ていたか?」
黒部が尋ねる。
「いいえ。投手を見てからです」
「だろうな。お前は打つ前に必要なものを見ている」
「……はい」
「守備でも、捕る前に何を見ておくか、捕った後に何をするかを考えてみろ。打つときと同じようにはいかんだろうがな」
早田はグラウンドを見渡した。
打撃では打つまでに必要な情報を確かめ、球へ集中できる。だが守備では、捕った後にも判断が続く。
同じ過集中でも、使いどころが違う。捕球の前に何を確認し、捕った後にどう動くか。それを身につける必要があった。
*
次の打順まで、早田は打撃投手を観察した。返球を受け取るときの癖や、足を上げる高さ、腕の出どころ。
かつて自分も投手として繰り返していた動作だ。今は打者の側から、その一つずつを確かめている。
次の打者が打席を出ると、黒部が手で合図した。
「早田、もう一回」
「はい」
早田はバットを持ち直した。何球も見たことで、投手の腕の振りと球の出どころを予測しやすくなっている。
1球目は外角に外れ、早田は見送った。
2球目は緩いカーブ。高めから曲がりながら落ちる軌道を追う。周囲の音が遠ざかり、白い球が鮮明になる。
早田は少し間を取って振り抜いた。カン、と軽い音がして、打球が左中間へ上がる。
外野手が追いかけ、落ちる寸前で捕球した。
「惜しい!」
近くの部員が声を上げた。早田は打球を見送り、静かに息を吐く。
安打にはならなかったが、変化に合わせてバットを出せた感触は残っていた。
「早田」
「はい」
「今の、どうだった」
「捕られました」
「それは見てりゃ分かる」
黒部が思わず苦笑した。
「打った感触だ」
「……悪くないです」
「ならいい。結果だけでなく、そこも覚えておけ」
早田は頷いた。球がよく見えても、打球を思いどおりに運べるとは限らない。技術を磨く必要がある。
黒部が次の打者を呼ぶと、早田はバットを置いて外野へ向かった。
*
守備のノックが再開した。早田は外野の端から、ほかの選手の動きを見た。
嵐が三塁線への強い打球に飛び込み、グラブの先で押さえる。起き上がりざまの送球は低く、鋭かった。
一塁手のミットが鳴る。
「おっしゃ!」
嵐が声を上げる。強い打球へためらわず飛び込めることも、あの肩の強さも、早田にはまだない。
続いて井出の左右へ打球が飛ぶ。井出は打球に合わせて最初の一歩を変え、深い位置でも捕球して素早く一塁へ送った。
肩に頼らずアウトを取るための動きだった。
「何見てんだ、早田」
嵐が近づいてきた。
「守備」
「そりゃ見りゃ分かるっての」
「……二人とも、上手いなと思って」
「へえ。珍しく褒めるじゃねえか」
嵐が笑う。
井出も近くまで歩いてきた。
「早田だって打つ方はいいでしょ。さっきも、いい当たりだったし」
「まだ、守れない」
「それは、左で始めたばかりなんだから仕方ないよ」
「仕方なくても、試合では困る」
井出は少しだけ黙り、それから頷いた。
「そうだね。だから練習してるんだろ」
「うん」
「だったら、まず送球かな。捕る方は結構できてるんだから」
「分かってる」
「分かってるなら、回数を記録しよう。前に言っただろ」
「頼む」
嵐が両手を腰に当てる。
「じゃあ俺は、変なところ飛んだ球でも拾ってやるよ」
「……助かる」
「なんだ、素直じゃねえか!」
嵐には強い肩があり、井出には判断と身のこなしがある。早田は自分の左手を見た。
二人と同じ選手になる必要はない。今ある武器を生かしながら、足りないものを練習すればいい。
*
帰る前、早田はいつものノートを開いた。左手でペンを持ち、右肩のリハビリ、左投げの球数と距離、外野での捕球と送球を記録する。
そして、新しい項目を書き加えた。
『過集中』
その下へ、短く記した。
『守備――捕球の前に走者と送球先を確認する。捕った後も見る』
『打撃――投手を見る。球が来たら意識を絞る』
少し考えて、別の欄を作った。
『嵐――打球の強さ、肩』
『井出――一歩目、守備範囲、走塁』
『自分――ボールを捉える目』
早田は最後の一行を見つめた。左腕の送球はまだ安定しない。だが、打撃では自分に使える感覚がある。
長所も課題も、今日の練習ではっきりした。
早田はノートを閉じた。グラウンドではまだボールが飛び、嵐と井出の声が聞こえている。
事故のあと、野球が遠ざかっていくように感じたこともあった。けれど今は、左で投げる練習も、野手として覚えることも、打撃で磨くことも残っている。
鞄にノートをしまい、グラウンドを見渡した。
野球は、まだここにある。自分も、まだここにいる。
なら、もう一度、ここから始めればいい。