もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第6話 故郷は野球

 3月も終わりに近づき、九条中学校のグラウンドにはノックバットの音が響いていた。

 この日は右翼に入った早田が、右手のグラブを開閉した。左手は送球のために空けてある。

 本格的に外野を守り始めて、まだ日が浅い。打球を追って捕ることはできるが、捕球後の動きには課題が残っていた。

 

「次は一死三塁だ。外野に飛んだら、走者はタッチアップするぞ!」

 

 黒部の指示を受け、早田は三塁へ目を向けた。走者役の部員のそばには、三塁手の嵐がいる。

 フライを捕れば走者は本塁を狙う。送球する先を頭に入れ、早田は構えた。

 

「早田、行くぞ!」

「はい!」

 

 ノックバットが鳴った。

 右中間寄りへ上がったフライが風に流れる。早田は斜め後ろへ下がり、落下地点に足を運んだ。

 打球を追ううちに、周囲の色が薄れていく。白いボールだけが、くっきりと見えた。

 風の分だけ位置を修正し、右手のグラブを差し出す。

 捕った。

 その瞬間、声が飛んだ。

 

「早田! ホームだ!」

 

 嵐の声に、早田ははっと顔を上げた。三塁走者はすでにベースを蹴り、本塁へ向かっている。

 捕球に意識が向き、走者のスタートを見失っていた。急いで左手に持ち替え、中継に入った内野手へ投げる。

 しかし、送球はカットマンの手前で弾んだ。拾い上げたときには、走者は本塁を駆け抜けていた。

 

「捕る前に見たんだろ。走者のこと」

 

 打球を戻しながら、嵐が言った。

 

「見た」

「じゃあ、捕った後も忘れんなよ」

「……分かってる」

「なら、次だ。まだいくらでも飛んでくるぜ」

 

 嵐は三塁へ戻った。早田は左手を一度開く。

 左腕の送球は弱く、捕球から持ち替え、踏み出す動作もまだ滑らかではない。それに加えて、早田には昔から一つの癖とも呼べるものがあった。

 

『過集中』

 

 打球を見失わずに捕るには役立つが、守備はそこで終わらない。

 走者の動き、味方の位置、送球先。嫌でも集中は深まってしまう。だからこそ、その前に確かめた情報を、捕球後の動作へつなげなければならなかった。

 

「もう一本、早田!」

「はい!」

 

 黒部がバットを構える。

 早田はもう一度、走者と内野手の位置を確かめた。

 今度は忘れないように、と考えながら、打球の上がる瞬間を待った。

 

 

     *

 

 

 守備練習の後は打撃だ。打撃投手がマウンドに立ち、部員たちが守備位置につく。

 早田も右肩の状態を確かめながら、軽いトス打撃から少しずつ負荷を増やしていた。まだ全力では振れないが、打撃投手の球を打つところまで進んでいる。

 最初に打席へ入った嵐が、バットを肩に担いで声を張り上げた。

 

「よっしゃ、来い!」

 

 1球目は強いゴロになり、三遊間を抜けていった。

 2球目は高々と上がったが、風に乗って左中間の奥まで伸びる。

 3球目。

 嵐は甘く入った球を見逃さず、腰を思い切り回して振り抜いた。

 乾いた音がグラウンドに響き、打球が外野手の頭上を越えていく。

 

「うおっ、飛んだ!」

 

 守備についていた部員が声を上げる。嵐は得意そうにバットを掲げた。

 

「どうだ!」

「飛距離は十分だな」

 

 黒部も頷いたが、すぐに付け加えた。

 

「ただし、いつもあんな球が来るとは思うなよ」

「分かってますって!」

 

 嵐が豪快に笑って打席を出る。

 次に立った井出は、嵐とは対照的だった。

 バットを短く持ち、投手の足元から腕の振りまで一度眺めてから構えに入る。

 打球は一、二塁間へ低く転がった。

 井出はすぐにバットを置き、一塁へ走る。打撃練習でも、打った直後のスタートを確かめているのだ。

 二塁手が回り込んで捕球したが、井出の足の方がわずかに早かった。

 

「セーフ!」

「やっぱり速えな、おめえ!」

「嵐が走らなすぎるんだよ」

「何だと!」

 

 井出は一塁で笑い、打撃練習を終えると二塁の守備位置へ入った。

 嵐が力で外野へ飛ばすなら、井出は打球の方向と走り出しの速さで勝負する。早田は二人の違いを感じていた。

 別の打者が放った打球は、二遊間の深いところへ向かっていく。

 井出は打った瞬間に動き出し、逆シングルで捕った。素早く身体の向きを整え、一塁へ送る。

 肩の強さで押す送球ではない。それでも動作に無駄がなく、狙いを外さなかった。次の一、二塁間への打球にも追いつく。

 

「井出、今のよく届いたな」

 

 早田が言うと、井出は肩をすくめた。

 

「打った瞬間に、だいたい分かったからね。肩は嵐ほど強くないし、先に動かないと間に合わないよ」

 

 肩の強さを、判断と初動で補っている。早田にも、その考え方は理解できた。

 自分に足りないものは多い。それでも打撃なら勝負できるかもしれない。早田はバットを取りに向かった。

 

 

     *

 

 

「早田、次だ」

「はい」

 

 打席に向かおうとしたところで、黒部に呼び止められた。

 

「外野じゃ、ボールに集中しすぎると走者が抜けるな」

「……はい」

「打つときはどうだ」

「打つときは、むしろ見やすいです」

 

 黒部は早田の手元のバットを見た。

 

「前からそうだったな」

「はい」

 

 早田は右投手だった頃から左打ちで、打席でも過集中を経験していた。投球を待つ間に相手の動きを確かめ、球が放たれると意識がそこへ絞られる。

 だが今は、以前のように投手として試合に出られない。左腕も守備も未熟な自分にとって、打撃はチームに貢献できる数少ない武器だった。

 

「一度、いつもどおり打ってみろ」

「はい」

 

 早田は左打席に入り、投手の立ち位置と腕の振り、野手の守備位置を順に確認した。

 投手が足を上げる。身体が前へ進み、指先からボールが離れた。

 周囲の色が薄れ、白い球だけが視界の中央に残る。

 少し高い。

 早田は踏み込み、バットを振った。低い打球が一、二塁間を抜けていく。

 

「お、いい当たり!」

 

 嵐の声がした。

 早田は振り終えた姿勢から顔を上げ、打球の行方を確かめた。

 手には、真芯に近いところで捉えた感触が残っていた。

 

「最初からボールだけを見ていたか?」

 

 黒部が尋ねる。

 

「いいえ。投手を見てからです」

「だろうな。お前は打つ前に必要なものを見ている」

「……はい」

「守備でも、捕る前に何を見ておくか、捕った後に何をするかを考えてみろ。打つときと同じようにはいかんだろうがな」

 

 早田はグラウンドを見渡した。

 打撃では打つまでに必要な情報を確かめ、球へ集中できる。だが守備では、捕った後にも判断が続く。

 同じ過集中でも、使いどころが違う。捕球の前に何を確認し、捕った後にどう動くか。それを身につける必要があった。

 

 

     *

 

 

 次の打順まで、早田は打撃投手を観察した。返球を受け取るときの癖や、足を上げる高さ、腕の出どころ。

 かつて自分も投手として繰り返していた動作だ。今は打者の側から、その一つずつを確かめている。

 次の打者が打席を出ると、黒部が手で合図した。

 

「早田、もう一回」

「はい」

 

 早田はバットを持ち直した。何球も見たことで、投手の腕の振りと球の出どころを予測しやすくなっている。

 

 1球目は外角に外れ、早田は見送った。

 2球目は緩いカーブ。高めから曲がりながら落ちる軌道を追う。周囲の音が遠ざかり、白い球が鮮明になる。

 早田は少し間を取って振り抜いた。カン、と軽い音がして、打球が左中間へ上がる。

 外野手が追いかけ、落ちる寸前で捕球した。

 

「惜しい!」

 

 近くの部員が声を上げた。早田は打球を見送り、静かに息を吐く。

 安打にはならなかったが、変化に合わせてバットを出せた感触は残っていた。

 

「早田」

「はい」

「今の、どうだった」

「捕られました」

「それは見てりゃ分かる」

 

 黒部が思わず苦笑した。

 

「打った感触だ」

「……悪くないです」

「ならいい。結果だけでなく、そこも覚えておけ」

 

 早田は頷いた。球がよく見えても、打球を思いどおりに運べるとは限らない。技術を磨く必要がある。

 黒部が次の打者を呼ぶと、早田はバットを置いて外野へ向かった。

 

 

     *

 

 

 守備のノックが再開した。早田は外野の端から、ほかの選手の動きを見た。

 嵐が三塁線への強い打球に飛び込み、グラブの先で押さえる。起き上がりざまの送球は低く、鋭かった。

 一塁手のミットが鳴る。

 

「おっしゃ!」

 

 嵐が声を上げる。強い打球へためらわず飛び込めることも、あの肩の強さも、早田にはまだない。

 続いて井出の左右へ打球が飛ぶ。井出は打球に合わせて最初の一歩を変え、深い位置でも捕球して素早く一塁へ送った。

 肩に頼らずアウトを取るための動きだった。

 

「何見てんだ、早田」

 

 嵐が近づいてきた。

 

「守備」

「そりゃ見りゃ分かるっての」

「……二人とも、上手いなと思って」

「へえ。珍しく褒めるじゃねえか」

 

 嵐が笑う。

 井出も近くまで歩いてきた。

 

「早田だって打つ方はいいでしょ。さっきも、いい当たりだったし」

「まだ、守れない」

「それは、左で始めたばかりなんだから仕方ないよ」

「仕方なくても、試合では困る」

 

 井出は少しだけ黙り、それから頷いた。

 

「そうだね。だから練習してるんだろ」

「うん」

「だったら、まず送球かな。捕る方は結構できてるんだから」

「分かってる」

「分かってるなら、回数を記録しよう。前に言っただろ」

「頼む」

 

 嵐が両手を腰に当てる。

 

「じゃあ俺は、変なところ飛んだ球でも拾ってやるよ」

「……助かる」

「なんだ、素直じゃねえか!」

 

 嵐には強い肩があり、井出には判断と身のこなしがある。早田は自分の左手を見た。

 二人と同じ選手になる必要はない。今ある武器を生かしながら、足りないものを練習すればいい。

 

 

     *

 

 

 帰る前、早田はいつものノートを開いた。左手でペンを持ち、右肩のリハビリ、左投げの球数と距離、外野での捕球と送球を記録する。

 そして、新しい項目を書き加えた。

 

『過集中』

 

 その下へ、短く記した。

 

『守備――捕球の前に走者と送球先を確認する。捕った後も見る』

『打撃――投手を見る。球が来たら意識を絞る』

 

 少し考えて、別の欄を作った。

 

『嵐――打球の強さ、肩』

『井出――一歩目、守備範囲、走塁』

『自分――ボールを捉える目』

 

 早田は最後の一行を見つめた。左腕の送球はまだ安定しない。だが、打撃では自分に使える感覚がある。

 長所も課題も、今日の練習ではっきりした。

 

 早田はノートを閉じた。グラウンドではまだボールが飛び、嵐と井出の声が聞こえている。

 事故のあと、野球が遠ざかっていくように感じたこともあった。けれど今は、左で投げる練習も、野手として覚えることも、打撃で磨くことも残っている。

 鞄にノートをしまい、グラウンドを見渡した。

 野球は、まだここにある。自分も、まだここにいる。

 なら、もう一度、ここから始めればいい。

 

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