もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

7 / 12
第7話 無限へのパスポート

 4月の風には、まだ少し冷たさが残っていた。

 市立九条中学校のグラウンドでは、練習を終えた野球部員たちがバックネット前に並んでいる。春季大会の登録メンバーを発表すると黒部が告げてから、私語はすっかり止まっていた。

 

 黒部の足元には、背番号のついたユニフォームが重ねられていた。

 早田は列の中ほどに立ち、その白い布を見ていた。

 3年生になって間もない。事故で傷めた右肩のリハビリを続けながら、昨年の暮れには左投げを始め、3月後半からは外野守備にも取り組んでいる。

 打球を追って捕ることはできる。だが、左手への持ち替えから送球までの動作は、まだ安定しない。走者を意識すると判断が遅れることもあった。

 黒部が名簿へ目を落とした。

 

「それじゃ、春の大会のメンバーを発表する。呼ばれた者は前へ」

 

 一人目の名前が呼ばれた。

 

「はい!」

 

 返事をした選手が前へ出て、背番号を受け取る。列に戻るたび、ユニフォームの山が少しずつ低くなっていった。

 

「井出正也。4番」

「はい」

 

 井出は落ち着いた足取りで背番号4を受け取り、折り目を整えて列へ戻った。

 

「嵐徳夫。5番」

「おうっ……じゃなかった、はい!」

 

 何人かが笑った。嵐は照れくさそうに耳をかき、背番号5を受け取ると嬉しさを隠せない顔で戻ってきた。

 井出は二塁の広い範囲を守り、捕ってから投げるまでが速い。嵐には三塁線の強い打球へ飛び込む思い切りのよさと、強肩、長打力がある。

 二人が選ばれるのは当然だと、早田も思った。

 

 それでも、名前が呼ばれるたびに胸の奥が硬くなる。

 まだ、自分も呼ばれるかもしれない。

 だが、打撃で勝負できても、守備には不安が残る。代打のためだけに登録枠を使ってもらえるとは限らない。そのことは、誰よりも自分が分かっていた。

 

「……以上だ」

 

 黒部が用紙を下ろした。

 

「呼ばれた者は、明日から大会に向けた確認をする。呼ばれなかった者も、練習を休んでいいわけじゃない。チームの一員として、自分のやることをやれ」

「はい!」

 

 早田も皆と一緒に返事をした。

 背番号は、もらえなかった。

 顔には出なかった。けれど、胸の奥に残った重さは消えない。

 右投げの野手になっていれば、もっと早く試合に近づけたかもしれない。黒部からその道を示されたとき、理由は理解していた。

 それでも左で続けると決めたのは自分だ。

 自分で選んだ道だから、後悔はしたくない。

 だが、背番号が欲しかった。試合に出たかった。

 その気持ちまで、消せるわけではなかった。

 

 

     *

 

 

 解散後、部員たちが用具の片付けに散った。

 早田がボールかごを持ち上げようとすると、嵐が近づいてきた。

 

「おい、早田」

「何?」

「その……なんだ」

 

 普段の嵐には珍しく、歯切れが悪かった。

 

「おめえの打撃、悪かねえだろ。俺は、てっきり……」

「嵐」

 

 横から井出が口を挟んだ。

 

「言いたいことは分かるけど、言い方を考えなよ」

「考えてるから困ってんじゃねえか」

 

 嵐が眉を寄せる。井出も早田を見たが、いつものように軽口を続ける気にはなれないらしかった。

 

「早田。気にするな、って言うのも変だけどさ」

 

 早田はかごの持ち手を握り直した。

 

「監督の判断は自然なことだ」

 

 短く答え、それから続けた。

 

「守備がまだ足りない。打撃だけで使ってもらえるとは思ってない」

 

 嵐は口を開きかけ、黙った。井出も反論しなかった。

 早田の言うことは正しい。左腕の送球は不安定で、捕球後の判断にも遅れがある。努力しているだけで試合に出られるわけではない。

 だが、理屈が分かることと、悔しくないことは別だった。

 

「……そうか」

 

 嵐がようやく言った。

 

「でもよ、練習には付き合うぜ」

「俺も。送球の記録くらいなら取れるしね」

 

 井出が続ける。

 

「ありがとう」

 

 早田が答えると、嵐は少し安心したように笑い、井出は肩をすくめた。

 

「じゃあ、まずそのボールかごを運ぼう。背番号をもらったからって、片付けが免除になるわけでもないし」

「おう。そりゃそうだ」

 

 三人で用具置き場へ向かう。

 早田はふと、嵐の腕にかかったユニフォームを見た。白い生地に縫い付けられた背番号5が、夕日に照らされている。

 少しだけ視線を留め、それから前を向いた。

 春季大会は、一週間後に迫っていた。

 

 

     *

 

 

 春季大会の初戦。九条中は先攻で、初回から点を取っては取られる乱打戦になった。

 1番二塁手の井出は、初回に中前安打で出塁し、後続の安打で生還した。九条中が先に点を取っても、その裏には相手が取り返す。なかなか流れをつかめない。

 6番三塁手の嵐は、3回に走者を一人置いて2点本塁打を放ち、5回にもソロ本塁打をたたき込んだ。2本で3打点。ただし、ほかの打席はすべて三振だった。井出も6回に右前安打を放ち、後続の打撃でこの日二度目の生還を果たした。二人の活躍もあって、九条中は6回終了時点で8対7とリードしていた。

 7回表は無得点。あと3つアウトを取れば、勝てる。

 だが、7回裏にこの回から登板した3番目の投手が捕まり、一死二、三塁のピンチを招いた。打席には相手の4番。甘く入った速球を振り抜かれると、打球は左中間を深々と破った。

 三塁走者が同点の本塁を踏み、続いて二塁走者も生還する。8対9。九条中は7回裏、2点タイムリーによる逆転サヨナラ負けを喫した。

 早田は背番号のないまま、フェンスの外から見ていた。嵐が2本の本塁打を放つのも、井出が2本の安打で得点に絡むのも見ていた。だが、自分は打席にも守備位置にも立てなかった。

 試合後、嵐はユニフォームの裾を握りしめた。

 

「くそっ! 2本打っても負けちまうのかよ! ……ほかは三振ばっかだ。夏までに直してやる!」

「8点取っても勝てなかったんだ」

 

 井出がスコアボードを見上げた。

 

「守備で防げた進塁がなかったか、もう一度確かめよう。夏は、こういう負け方をしたくないね」

 

 早田も悔しかった。だが、二人とは違い、悔やむべき自分のプレーさえなかった。

 

 春大会が終わると、練習は夏の中体連へ向けて実戦的になった。走者を置いた守備や、得点差を想定した打撃が増えていく。

 早田も外野で打球を追い、左腕で送球した。打撃練習では投手の球を見続け、右肩のリハビリも欠かさなかった。

 

 そんなある週末、夏に向けて選手の状態を確かめる練習試合が組まれた。

 

 

     *

 

 

 6回裏。九条中は3対4で、二死二塁だった。

 二塁走者がリードを取り、ベンチからは安打1本で同点だと声が飛ぶ。

 黒部は打順表を見た。次の打者はここまで無安打。相手投手は速球に緩い球を交え、打者のタイミングを外している。

 黒部は控え選手たちを見回した。

 

「早田」

「はい」

「代打だ。準備しろ」

「はい」

 

 早田が立ち上がると、隣の嵐が振り向いた。

 

「お、出番じゃねえか」

「うん」

「一発頼むぜ!」

「一発は、無理だと思う」

「そこは景気よく行こうぜ!」

 

 井出が小さく笑った。

 

「嵐の言う一発は、だいたい外野まで飛ばせって意味だから。早田は自分の打撃をすればいい」

「分かってる」

 

 早田はバットを手に取った。黒部が短く声をかける。

 

「相手の球をよく見ろ。自分の打てる球を打てばいい」

「はい」

 

 早田は左打席へ向かった。踏み荒らされた土を足でならし、立つ位置を決める。

 春の公式戦では、背番号をもらえなかった。今は練習試合だが、こうして打席に立てる。相手だって手を抜いてはくれない。

 投手がセットポジションに入った。

 1球目。外角への速球を見送る。

 

「ストライク!」

 

 捕手からの返球を受ける投手を見ながら、早田は腕の振りと球の出どころを確かめた。二塁走者の動きも、ベンチの声も分かる。

 まだ、意識をボールだけに絞ってはいない。

 2球目は低めの速球だった。

 早田は見送る。

 

「ボール!」

 

 1ボール1ストライク。

 投手がロジンバッグに触れてから、またセットに入る。

 早田はゆっくり息を吐いた。腕の振りは見た。速球の勢いも、つかめている。

 次は、球が指先を離れるところを見逃さない。

 

 相手投手が足を上げた。

 3球目。腕が振られ、ボールが指先を離れた瞬間、早田の意識が視界の中央へ集まっていく。

 

 周囲の色が薄れる。

 ベンチの声も遠くなった。

 白い球だけが、妙にはっきりしている。

 速球より遅い。高い位置から曲がりながら落ちてくる。

 カーブだ。

 早田は軌道を追い、踏み込んでバットを振り抜いた。

 

 カンッ。

 

 真芯で捉えた感触が両手に伝わった。鋭い打球が投手の横を抜け、二塁手と遊撃手の間を破っていく。

 

「センター!」

 

 声が飛ぶ。打球は芝の上を滑り、センター前で弾んだ。

 

「回れ、回れ!」

 

 二塁走者が三塁を蹴った。センターは前へ出て捕球したが、走者はすでに本塁へ向かっている。

 早田が一塁を駆け抜けた直後、走者が本塁へ滑り込んだ。

 

「セーフ!」

 

 4対4。同点だった。

 

「よっしゃあ!」

 

 ベンチから嵐の声が響く。

 

「早田、ナイスバッティング!」

 

 井出も立ち上がっていた。

 早田は一塁ベースへ戻り、センターの方を見た。遠ざかっていた声が聞こえる。グラウンドの色も、いつもどおりだった。

 両手には、打球の感触が残っている。

 たまたま当たったのではない。投手の動きを見て、球筋を捉え、自分で振った。その結果、真芯に当たった。

 早田は大きく息を吐いた。表情はいつもと変わらない。

 だが、胸の奥には、春のメンバー発表の日とは違う熱があった。

 自分にも、試合でできることがある。

 

 

     *

 

 

 後続が倒れ、同点のまま攻撃を終えてベンチに戻ると、嵐が勢いよく迎えた。

 

「見たぜ、今の! 真芯じゃねえか!」

「カーブだった」

「球種を聞いてんじゃねえ! 当たりの話だよ!」

 

 井出が笑う。

 

「嵐、褒め方が雑なんだよ」

「うるせえな!」

 

 早田は二人を見て、小さく頷いた。

 

「ありがとう」

 

 黒部は次の守備位置を確認してから、早田へ声をかけた。

 

「早田、よく打った」

「はい」

「次の守備は交代だ。ベンチで見ていろ」

「はい」

 

 早田はヘルメットを外し、所定の場所へ置いた。

 打撃を評価されたのは嬉しかった。だが、同点打を放ったからといって左腕の送球が安定するわけではない。

 黒部が代打に起用し、守備では交代させる理由は理解していた。

 早田はベンチに腰を下ろし、次の守備につく仲間たちを見送った。

 手のひらには、まだあの一打の感触があった。

 

 

     *

 

 

 それからしばらく経った放課後。九条中のグラウンドでは、夏の大会へ向けた守備練習が続いていた。

 早田は右手にグラブをはめ、外野の守備位置についている。

 黒部がノックバットを構えた。

 

「次、早田!」

「はい」

 

 高く上がった打球が、風に押されて右へ流れる。

 早田は一歩目を踏み出し、落下地点に合わせて足を運び直した。

 ボールを追ううちに、空の色が薄れ、周囲の声が遠くなる。白い球だけが鮮明になった。

 最後の一歩を合わせ、右手のグラブで捕った。

 早田は捕球前に確かめておいた中継位置へ顔を向けた。カットマンがそこに入っている。

 グラブからボールを左手へ持ち替え、右足を踏み出して腕を振った。

 その瞬間、指から球が離れる位置が少し早いと感じた。

 

「あっ!」

 

 送球は大きく左へ逸れ、カットマンの横を抜けて土の上を転がった。

 

「早田!」

 

 黒部の声が飛ぶ。

 

「捕って終わりじゃないぞ! カットまで、きっちり返せ!」

「はい!」

「今のは腕だけで投げてる! 足の向きからやり直しだ!」

「はい!」

 

 内野手が拾ったボールを返してくれた。

 早田は左手に持ち替え、先ほどの動きを振り返る。

 捕球後に身体を送球方向へ向ける。その姿勢が少し崩れただけで、腕の振りも指の離れ方も変わってしまう。

 今の失敗は、打球へ集中しすぎて走者を見失ったからではない。捕球から送球までを続けて行う技術が、まだ足りないのだ。

 

「もう一球!」

 

 黒部がノックバットを構えた。

 

「はい!」

 

 次は少し低いフライだった。早田は追いかけて捕ると、いったん中継位置を確かめ、足を送球方向へ向けた。

 今度は先ほどよりまっすぐ飛んだが、カットマンの胸元へ届く前に弾んでしまった。

 

「まだ低い! もう一度!」

 

 早田は頷いた。

 落下地点へ入る動きは、前より自然になっている。捕球にも自信がついてきた。

 だが、捕ってから左手で正確に返すところまでは、まだ一つの動作になっていない。

 右腕で何年もかけて身につけたことを、左腕で積み直さなければならなかった。

 

 

     *

 

 

 練習後、早田はグラウンドの端に座り、土のついた左手を開いた。

 練習試合でカーブを捉えたとき、バットは思ったところを通った。左腕で投げるときにも、あれほど自然に身体が動けばいい。

 だが、今はまだ難しい。

 早田は鞄からノートを取り出した。右肩のリハビリ、左投げの距離、送球の本数、打撃で確かめたことが書き込まれている。

 新しいページを開いた。

 

『外野フライ 捕球は安定』

 

 その下に、今日の失敗を記した。

 

『捕球後の送球 方向がばらつく』

『踏み出す足の向き』

『腕の振りと指を離す位置』

 

 少し考え、さらに書き足した。

 

『捕ってから投げるまでを、一つの練習にする』

 

 止まった状態で投げるだけなら、できることは増えてきた。

 しかし試合では、走って捕り、持ち替え、投げなければならない。しかも、走者の動きや送球先を確かめながらだ。

 早田は左手を握り、開いた。

 初めて左で投げた頃に比べれば、ずいぶん進んだ。だからこそ、足りないものも具体的に分かるようになっている。

 遠くから、嵐と井出の声が聞こえた。

 

「だからよ、あの打球は取れると思ったんだって!」

「取れると思ったのと、取れたのは違うでしょ」

「結果論を言うんじゃねえ!」

 

 早田は顔を上げた。

 嵐の思い切りのよさと強肩。井出の素早い判断と確かな守備。どちらも今の自分にはないものだった。

 春には背番号をもらえなかった。練習試合では安打を放ったが、守備では今日も送球を失敗した。

 それでも、次に取り組むべきことは見えている。

 夏の大会までに、どこまでできるようになるだろう。

 

 早田は立ち上がって土を払い、ノートを鞄へしまった。

 明日は、今日より少しでも正確に投げる。

 そう考えながら、グラウンドを後にした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。